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[98572] 2019年 11月 16日(土)19:22:01hmt さん
ヤルタからマルタへ(7)ハンガリー 30年前と現在と
20世紀後半の大部分、1945年から1989年までの44年間続いた東西冷戦。
その端緒と終結の地名を名乗る「ヤルタからマルタへ」シリーズは、ハンガリーが関与した「ヨーロッパ・ピクニック」事件の30周年から始めました。
1993/12/19に放送された NHKスペシャルは、ユーチューブで見ることもできます。

約90minの大作の前半には、当時のハンガリーやオットー・ハプスブルグの動きなど事前工作。
1989/8/12 ベルリンの東独政府内部では国民の逃亡問題対策を検討していたが(43min)、ホーネッカー議長はこれを無視。その後 持病悪化で入院し、独裁者不在状態になりました。

数百人がオーストリア側に出国した 1989/8/19当日の映像は 番組の中頃(45m)から始まり、出国の合法化作業(53m)へと続きます。ハンガリー政府からはネーメト・ミクローシュ首相【注】らが西独を訪れて首脳会談(62m)。
通告を受けた東独は 1989/10/7に建国40年を迎えましたが(70m)、ソ連に見捨てられたホーネッカー大統領は10/12辞任。ベルリンの壁崩壊は その翌月でした。[98523]の年表参照。

Webを探った結果、時事通信社の地球コラムを知りました。
最初の3回がネーメト元首相訪問記です。
元首相と元難民が語る冷戦終結30年

1 国境開放を決めたハンガリー元首相
2 ゴルバチョフ氏との面会 > 汎(はん)ヨーロッパ・ピクニック、そして国境開放
3 新たに出現した「壁」 > メルケル氏に「多大な感謝」
4 ワルシャワ大使館の壁乗り越え「難民」に
5 「難民としての地位悪用は許せない」

第3回で紹介されている”新たに出現した「壁」”とは、ハンガリーの 現オルバン政権が建設したフェンス のことです。
このフェンスは、最近の NW9(2019/11/12)でも紹介されていました。

2015年に中東・北アフリカから欧州に100万人もの難民が殺到した際、難民の通過ルートにあたるセルビア、クロアチアとハンガリーとの国境を閉鎖しているものです。
高圧電流が流れる鉄条網付きのフェンスは、EU各国から批判されています。

現首相のオルバン・ビクトル【注】は、難民受け入れの態度をとるドイツのメルケル首相を激しく批判し、自国民に支持されているが、ネーメト氏は多大な感謝に値すると強調。
彼女は東独で育ち、難民がどういうものかを分かっていた。もし難民を受け入れなかったら、ここハンガリーで、人道的な危機が起きていた。(メルケル氏は)今度はドイツがハンガリーを助ける番だと考えたのだ。
【注】
ハンガリーの人名は東洋と同じ、姓名の順です。

EUの理念と対立しながら、EUマネーによる経済効果で GDP成長率 4%の恩恵を受けているハンガリー。
30年前の民主化運動の闘士が強権的な支配者に変節? 
いや、変ったのは自分ではなく、内政に過度に介入するEUだと主張しているようです。

国境が開かれた結果、ハンガリーからも西を目指す人々が出て、人口は6%も減少。
移民によってこれを補うと、伝統的なキリスト教と 異なる価値観との衝突が発生。
そこで、国粋主義的、排他的になり、手厚い子育て支援により、元からのハンガリー人国家の維持を図る。
難民問題を「欧州の911」と呼び、自国を難民に乗っ取られる危険を断固拒否する。

イスラム圏に近い大陸国だけに、私達の島国では考えられない危機感があるようです。
かつて東欧の優等生と言われたハンガリー。
そこに”新たに出現した「壁」”が姿を現し、国民から支持されている現状。

ヨーロッパの歩む道も、なかなか平坦ではないようですが、他人事ではない。
一国主義という対外的な「壁」を取り除き、共生を可能にする国際規範は如何にあるべきか。
異なる価値観をもつ人々の存在を認める寛容さを持ち、包含性のある社会づくりに動きだす時。
それが到来しているのかもしれません。
[98565] 2019年 11月 9日(土)15:47:16hmt さん
ヤルタからマルタへ(6)壁崩30年 旧東ドイツに残る影
七夕でもない季節。3万人が思いを寄せた短冊の波。場所はベルリン。朝日1面に掲載されていた写真です。

今日は 30年前に世界を驚かせた「ベルリンの壁崩壊」から30年。
かなりの準備期間が必要と思われていた 東西ドイツ統合が、1年足らずで実現したのにも 驚いたものでした。

しかし、今回は 20周年の記念日を祝った関係4国首脳は集まらず、欧米の貿易関係も変化しています。
新聞は、30年を回顧する特集記事で、1999年ユーゴ空爆を伏線とする米中対立、2001/9/11に米国を襲った同時多発テロと共に、ロシアによるクリミア併合(2014/4/1)[98211]を挙げていました。

そして、旧東ドイツの現状。その見出しは「発展と失望」でした。
かつての国民車「トラバント」の産地に進出した VW が、最先端の EV製造拠点になる など西側企業による投資も盛ん。統合当時に西独の43%であったGDP/人が75%に向上。失業率も下った。
それでも見えない格差が残り、旧東独地域の人たちの57%が自らを「二級市民」とみなし、「統一成功」は 38%との政府調査結果。
変化を求める若く知的な層が東を去り、指導者は西から来た人という指摘も。
連邦政府の大臣で東の出身者はメルケル首相の他は1人だけとか。
[98552] 2019年 11月 3日(日)18:43:15【1】hmt さん
地名を名乗る企業
[98550] グリグリさん
石川県や富山県はコマツやYKKと言いたいところですが本社がいずれも東京に移転したのは残念です。

建設機械・鉱山機械のメーカーである 小松製作所 は、呼称として カタカナ表記の コマツ を用いていますが、企業名は「株式会社小松製作所」であり、もちろん石川県の地名「小松」由来です。

沿革の一部
1921年5月 小松鉄工所を竹内鉱業(株)より分離独立して設立した(株)小松製作所
1931年10月 農耕用トラクターの国産第1号を完成
1951年8月 本社を小松から東京(千代田区丸の内)へ移転
出典

[98550]で紹介されている ヒローキさんの5年前ののツイートでは、
『本社』『本店』『登記上の本社』を都合よく解釈してます。
となっています。

【追記修正】
しかし こちらのサイトでは、商法上の登記された本店所在地にこだわらず、世間に広く知られている「企業名称に使われた地名」も許容して、地名と企業との関係を もっと自由に考えてみたらどうでしょうか。

既に 企業由来町名コレクションがありますが、今回の提案は 前からあった地名を使った企業名であり、地名コレクションの対象外と思われます。

…ということで 紹介された「代表企業による地図」から趣旨が変るので、この記事のタイトルも変更して「地名を名乗る企業」としました。【追記終】

このテーマで、小松製作所と共に すぐに思いついたのが 日立製作所[67480] でした。
茨城県の地名を名乗っていますが、創業後間もなく、本社は東京に移っています。

小坂鉱山の基礎を築いた久原房之助が独立して選び、日本有数の銅山に仕立てた「日立鉱山」。
小坂鉱山で電気技師だった 小平(おだいら)浪平 を 1906年に日立鉱山に招き、自家水力発電所を建設。小平浪平は、鉱山機械修理工場で 1910年に5馬力誘導電動機を製作。
これに自信を得た小平は、久原に電気機械製造事業への進出を申し出て許可されました。
日立マークも作られた この 1910年が 日立製作所の実質的な創業とされます。

1918年 久原鉱業佃島製作所を合併して亀戸工場としましたが、東京進出を機に電機部門の本社機能を東京亀戸に移したようです。
久原鉱業所日立製作所も含めて 株式会社日立製作所 として完全独立したのは 1920年でした。

日立は、早くも1921年には 譲り受けた笠戸造船所の施設を 笠戸工場として鉄道車両に進出し、全国規模の会社になりました。現・笠戸事業所(山口県下松市 笠戸島の対岸) 

日立製作所の 本社所在地に戻ると、(創業後の変遷は不明ですが)私の古い記憶では、日立製作所本社があったのは、東京駅正面・丸ビル隣接地の 新丸の内ビルヂングでした。作られたのは 1952年。
駿河台に建てられた神田駿河台の日立本社ビルは 18階建てで、1983年竣工。(2010年解体)
現在の本社は、2004年から再び東京駅前になりました。元国鉄本社跡地に建設された日本生命丸の内ビルの中です。
[98551] 2019年 11月 3日(日)14:16:05hmt さん
三十六歌仙絵 補足
[98549] 伊豆之国 さん
その「事件」と「再会」にまつわる話が、今晩のTV東京でも放映されていました。

『美の巨人たち』。時折見ていた程度ですが、今年度からの変更は不評を呼んでいる模様です。
旅番組的な作りになり、小林薫のナレーションでなくなった影響も大きいようです。
それはさておき 伝統ある美術番組です。NHKと違う情報も期待して見ました。

『新・美の巨人たち』では、絵巻の作者は 藤原信実 と伝えていました。
鎌倉前期に写実的な肖像画の画法を大成した歌人・絵師です。
「似絵(にせえ)」と呼ばれ、国宝『後鳥羽院像』など多くの作品を残す。文永2年没とすると89歳の長命。

絵巻の行方:下鴨神社神庫→大正時代に佐竹家から画商の扱う対象になり、船成金を経て財界の美術愛好家・益田鈍翁の決断で切断され、1919年に総額約60万円の分売価格が付きました。

これだけでも現在価値に換算すると 60億円相当ですが、分売された37枚【特別展出品一覧表 51番 住吉大明神を含む】には、新たな所有者の判断により、画題にふさわしい高価な資材を用いた掛軸用の表装が施されています。

Art Travelerは、籤引分売会場の応挙館(品川御殿山から移築された上野の博物館構内)を訪問。このあたりは、旅番組ならではの説明が加えられていたようです。
瀬戸内海・生口島の耕三寺は NHKと重複していましたが、旅人は ここも訪問。
行方不明の「斎王女御」は番組に現れなかったので、小田原・箱根方面への訪問は、放送されずに終りました。
[98547] 2019年 10月 25日(金)18:08:07【1】hmt さん
離散した三十六歌仙絵が百年ぶりに京都で再会
残念ながら天候不順の秋ですが、枕草子の「秋は夕暮れ」をテーマに そうだ 京都、行こう の JR東海。
紅葉の名所ではないが、京都国立博物館で開かれている 特別展も紹介されています。

タイトルに記したように、離散した名画の大部分【36点中31点】が百年ぶりに集合とか。

離散のきっかけは、百年前におきた美術史上の大事件「絵巻切断」でした。
画材は、柿本人麻呂や小野小町など、36人の「歌仙」を描いた絵で、鎌倉時代の絵巻物でした。
秋田藩主佐竹家で所蔵されていましたが、第一次大戦の景気時代に、船成金の山本唯三郎の手に渡っていました。
だが 戦後の不景気により、たちまち手放す羽目に。

しかし、何十万円【現在の何十億円】という高額の絵巻を一人で買い取れる人は現れません。
そのままでは、海外に流出する危険がありました。
画商に相談されたのが三井物産の益田孝(鈍翁)。彼が決断したのが、「絵巻切断」でした。

切断というと乱暴に聞こえますが、絵巻は36枚の絵を貼り合わせた作品です。
熟練した職人が剥がせば、元の36枚に分離することができます。
36枚の絵を、新たな表装を施した掛け軸に仕立てれば、買い手を国内の集め、分売可能になる。

切断と言われているが、その実体は「分離+α」による 「美術品としての再出発」でした。
# 直接関係はないが、ここで 自治体の分離(分立・分割)のことを連想。

百年前の大正8年(1919)12/20。財界人や美術商などが集まり、籤引きで配分を決めました。
人気が高く、最高値を付けた『斎王女御』の絵は4万円。籤では外れた益田でしたが、画商から譲ってもらい 目出度く入手しました。

凝った装飾を施され「掛け軸」に生まれ変わった歌仙絵。茶室に掲げられ、展覧会に供され、大正、昭和、平成に幾度も所有者を流転した作品も。戦後設立の美術館で公開されている絵も多数。

【追記により修正】
益田の邸宅は小田原でした。彼は 戦争が近づいた 1937年に作った横穴式の地下収蔵庫で、所蔵する秘宝を空襲から守る決意でした。しかし結果を見届けることなく、翌年に91歳で死去。
そこで、「そうだ 京都、行こう」ではなく、益田が見届けられなかった結果の調査に出発。

小田原は、1945/8/15の未明に空襲を受けました。正午に玉音放送が行なわれた終戦の日です。
米軍の計画では、同日の熊谷と伊勢崎とが最後の空襲とされているようですが、余剰弾は帰還前に海上投棄するルール。この焼夷弾が、相模湾ならぬ小田原の市街地に落下し、実質的に空襲を受けた国内最後の都市になりました。出典

このことを知り、特別展の 出品一覧表 を確認したところ、なんと『斎王女御』を発見できず。
Webの中を探してみましたが、この絵の現状の手がかりになる情報は得られませんでした。
三十六歌仙プロフィールにも「展示なし」。

空襲で焼失したという情報もない。しかし、終戦直前の不幸な偶然により、『斎王女御』は 行方不明状態のままである。このように考えざるを得ないという結末でした。【追記終】

「絵巻切断」百年を機会に、NHKも歴史秘話ヒストリアで放送しました【10/29再放送予定】。
NHKは 1983年にも「絵巻切断」の物語を放送したようで、その翌年出版の記録本があります。
[98544] 2019年 10月 22日(火)14:06:11【1】hmt さん
即位式/戴冠式
[97342] hmtの年初書込み
2019/5/1(即位の日)と 2019/10/22(即位を国内外に正式に示す戴冠式の日)とを祝日扱いとする 特別法(平成30年法律第99号)

2019/10/22 臨時祝日の根拠になった行事は「即位礼正殿の儀」であり、「戴冠式」は不正確でした。
「戴冠式」という言葉を使ってしまったのは、60年以上前に 世界的に大きな話題になった「女王戴冠」【1953/6/2 イギリス・エリザベス2世】を記録映画で見た記憶からでしょう。

ウェストミンスター寺院で行われた エリザベス2世の戴冠式は、史上初のテレビ中継。
日本からは、昭和天皇の名代で当時の皇太子が列席していたが、もちろん日本のテレビで同時に見ることはできない時代でした。

「戴冠式」というからには、カンタベリー大主教の手により戴く王冠。純金製で重さ約2kgとか。
さすがに重すぎるので、戴冠式以外の使用機会はないようです。

ヨーロッパ大陸では、聖職者から授けられる「冠と聖油」とが 権威のしるし とされる伝統があるようです。
その代表例は、800年に「ローマ帝国再興」を果たした フランク王 シャルルマーニュ【カール大帝】が、ローマ教皇から受けた「帝冠」です。
しかし、中国では 易姓革命思想に基づく異なる伝統があります。

【追記】
日本の即位関係行事は また様子が違い、三種の神器の承継と並んで重視されるのが、大嘗祭です。
これは 新嘗祭(毎年11月23日)の初年版なのですが、即位後最初である大嘗祭は、特に大規模に行われます。
今回の大嘗祭スケジュールなど

万世一系の日本で大切なこと。
それは、内外の人々に対して 支配者の変更を告知する 戴冠式よりも、祖先神に対する報告である。
西洋と日本における式典の違いを このように理解しました。【追記終】

日本でも冠位十二階など身分を表す「冠」の制度はありました。
しかし、「帝冠」としての使用は聞きません。
ハード的にも貴金属と宝石から作られる王冠と異なり、繊維製品系の帽子です。
戦後の日本製「冠」で世界に冠たる地位を築いたのが、クラウン・コロナ・カローラ・ティアラなどのトヨタ車。

頭は目立つので、性別や身分を表す目的には、冠だけでなく髪型も利用されます。
未婚者の髪型「総角(あげまき)」は『源氏物語』第47帖の名ですが、朝鮮語読みの「チョンガー」は、独身者に対する蔑称として使われました。…話が脱線してきたのでやめます。

新しい君主の即位を人々に知らせる即位式にあたり、西洋の「帝冠」「王冠」との違いを感じ、落書き帳に書き留めた雑文でした。
[98543] 2019年 10月 19日(土)18:14:07【1】hmt さん
真夜中に半鐘の音を聞いて逃げた
台風19号で堤防が決壊した千曲川。(私は視聴していなかったのですが、)昨夜の NHKニュースウォッチ9が伝えた体験談を、信州 News Webと、産経に掲載されたハザードマップとを使って紹介します。

最初に、報道とハザードマップとを、マピオンと対照させて得た予備知識。
報道された地域の自治協議会、すなわち千曲川左岸の穂保(ほやす)地区は、下流(北)から赤沼、津野、穂保、大町の4大字です。

「長沼」という総称もあり、【追記】これは 明治合併から昭和合併まで 62年間の村名でした。

長野市大字穂保と大字津野との境界付近の 決壊地点付近には、長野市長沼支所【大字穂保941】があります。北陸新幹線車両基地は、それより北の赤沼。

この地域は、江戸時代から繰り返し水害の被害があった地域で、当時の浸水の水位を示す「水位標」も残され、長沼・赤沼という地名と共に水害の記憶は深く刻まれていました。

市が避難準備の情報も出していなかった 2019/10/12の17時前から、自治会では1人暮らしの高齢者や障害者など支援が必要な住民の避難を呼びかけ。
この後、2019/10/13 深夜0:20頃から水が堤防を越え始め、4時頃に堤防決壊に至ったとのことです。

深夜の午前1時ごろに消防団分団長の指示で、地域内の火の見やぐらに設置されている4つの半鐘が鳴らされました。半鐘を鳴らすことは近年あまりなかったが、見たことのない高さまで水位が上がっていたため、本気で避難をしてもらおうと、とっさの判断で半鐘を鳴らすことにしたとのこと。

津野の消防団員・山田さんは、班長から言われていたそうです。
とにかく5分間、目いっぱい連打して、すぐ逃げてくれ。

赤沼の小滝さんも「半鐘が鳴る状況は普通じゃないと感じて避難した」と語っていました。

参考までに長野県内での水害死者は3人(長野市2名)になったようです。【追記

広く普及している防災無線は、市内全域のような広範囲に知らせるのに威力を発揮するのでしょうが、間延びした口調では緊迫感が伝わりません。
「狼少年」の話のように 「またか」と受け取られるかもしれません。
激しい雨音の中では、内容が聞き取れない虞(おそ)れもあります。

めったに聞かない半鐘の連打。ローテクですが、切迫した災害を確実に予告する手段として威力を発揮したのでした。

12年ぶりに書いた 半鐘の記事でした。
[98540] 2019年 10月 16日(水)17:54:30hmt さん
海と島(36)歯舞群島
[98539]で記した国土面積は、もちろん国の機関である国土地理院が用いる公称面積です。
例えば根室市の面積は 506.25km2 と記されていますが、下記の注釈により、第二次大戦後に日本の実効支配が及ばなくなった「北方地域」(5003.05km2)との関係が示されています。
★歯舞群島の面積94.84km2を含む

…というわけで、歯舞という地名、歯舞村、群島の名。この3つについて記します。

「はぼまい」の語源は、アイヌ語の「アプ・オマ・イ」で、意味は“流氷のあるところ”という意味とか。日本の島へ行こう

本来の歯舞は 離島ではなく、 根室半島先端近くの漁港集落です。
昆布などの 海産物輸送を目的を目的として、昭和4年(1929)に、根室との間 約15kmに 根室拓殖鉄道【ナローの軌道>1945年鉄道に変更】が開通しました。自動車用の道路が整備されていない時代のことです。

歯舞駅は 日本最東端の駅でしたが、路線の環境は過酷でした。
1959/4/1 歯舞村が根室市に編入された約半年後、自動車輸送に敗れた鉄道は廃止されました。

次に「歯舞村」について… 
鉄道より前の時代に遡りますが、Wikipediaの歯舞村には 【もちろん町村制ではないが】1897年に発足し、1915年(大正4年)に5村を合併して二級町村になったと記されています。
変遷情報では、1915年の花咲郡歯舞村新設の記録が、「歯舞」のデビュー記事になります。

この時に合併した一員に「珸瑤瑁村」がありました。
「ごようまい」と読みますが、この村が 根室半島と色丹島との間に連なる離島【珸瑤瑁諸島】です。
歯舞村になった後に「歯舞諸島」が使われるようになり、国土地理院の地図にも使われていました。
そして、根室市からの変更要望により、歯舞群島に変更(2008/3/21)。

昭和十年全国市町村別面積調によると、1935/3/31 歯舞村面積は 165.00km2です。
歯舞群島の最新面積は前記のように94.84km2ですが、Webで遡れる1988年面積調には「歯舞諸島 101.60km2」と記されています。出典の8コマ

約100km2の離島部は、歯舞村役場のあった本体、つまり半島部(約65km2)よりも 明らかに面積が大きかったことがわかります。
[98539] 2019年 10月 15日(火)15:08:01【1】hmt さん
令和最初の面積発表
[98538]の変更を受け、早くも 令和最初の国土面積が発表されています。国土地理院

令和元年7月1日時点の 国土面積は、377,974.92km2
都道府県市区町村面積
[98536] 2019年 10月 13日(日)16:33:17【4】hmt さん
相模・武蔵国境の地名「鶴間」
[98529] 伊豆之国 さん が 町田市民から相模原市民となって最初の書き込み
私の新居も、その昔は「上鶴間村」の一部だったらしいようで

鶴は千年、亀は万年。目出度いツルは、鎌倉の鶴岡八幡宮など全国の地名・名所にも使われてます。

でも、首を伸ばして飛ぶコウノトリの姿は、タンチョウヅルとよく似ており、首を縮めて飛ぶサギとは区別されます。コウノトリは 漢字では「鸛」と書き、「鸛鶴」こうづる とも呼ばれるそうです。出典

決定的な違いは脚の指。コウノトリは前3本・後1本の指で木の枝を挟み、樹上に巣を作る。
ツルは後指が短くて枝を掴めないので、産卵用の巣を地上に作らざるを得ない。天敵の危険があるので、孵化後に早々と巣を放棄して、親子で放浪生活をする。

人家の近くに巣作りをして、村人に親しまれ、「つる」と呼ばれて地名に使われた鳥は、コウノトリであったのではないか と言われているようです。
「鶴の一声」を発することはなく、嘴をカチカチ鳴らすクラッタリング。いきもの通信
尾上の松に飛来するとされ、縁起のよい図柄になっている「鶴」の実像に コウノトリ疑惑。 

鶴間は私の現住地の近くにもあるが、出身地・相模の地名でもあります。
落書き帳では、初期 Issieさんの記事[844]で、川を挟んだ境界地名、そして相模と武蔵との国境地名として 取り上げられています。

その記事によると、鎌倉時代頃の相模/武蔵国境は 現在の境川ではなく、その北側の多摩川・鶴見川水系との分水界であったようです。
江戸時代になってからの国境確定で、高座川が相模国と武蔵国との「境川」になりました。
だから今の町田市の西部から南部一体は「相模国高座郡」。
「鶴間」の場合はさらに相模国に残った側が「上鶴間村」と「下鶴間村」に分かれ,その後の曲折を経て現在は「町田市鶴間」「相模原市上鶴間」「大和市下鶴間」となっているわけです。

町村制施行直前の神奈川県廃置分合等で確認。
#79 南多摩郡鶴間村など5村→南多摩郡南村【1893年東京府→1954年町田町と合併→1958年町田市】
#152 高座郡上鶴間村など5村→高座郡大野村【1941年相模原町→1954年相模原市→2010南区設置】
#153 高座郡下鶴間村など4村他→高座郡鶴見村【1891年改称大和村→1943大和町→1959年大和市】

3村を色分けした図があったのでリンクしておきます。出典Wikipedia


「自治体越えの地名」コレクションは、吉崎を例示した [75229]グリグリさんの記事を契機とした 2010年6月初旬の大ブレイク後、【自治体を越える地名】から【自治体越えの地名】に改称され、[75298][75331]で詳細な定義も示されて 1245件の大コレクションに発展しています。

相模と武蔵、更に2都県・3市へと分属する結果となった「鶴間」の記事[844]は、[36145]以降の吉崎の記事[36220][75229]よりも古く、このコレクションの歴史を語る上で、特筆に値するものと思われるので、この機会に紹介した次第です。

ところで、この記事を書きながら気が付いたのが、町田市鶴間という地名の近年の変化です。

地名コレクションの参照記事欄に記載されている[75235]に従い、Mapionで3市境を表示させると、町田市側は鶴間にならず、コレクションの下記記載が正しいことがわかります。
[75270]町田市鶴間と南区上鶴間は非隣接

Wikipediaの3色図を現在の Mapionとを比較すると、南町田駅付近の「鶴間」が現在の「鶴間1丁目~3丁目」になり、3色図「町田市大字鶴間」の南半分は「鶴間4丁目~8丁目」に、北半分は「南町田1丁目~5丁目」に変ったことがわかります。
推測ですが、現在金森5~6丁目になっっている3市境界の町田側も大字鶴間の時期があり、3市の「鶴間」が接していたのかもしれません。[75235]の記事は その当時の状態を記憶?

【追記】
鶴間関係3市境界の町田市側に現在の金森5~6丁目が誕生した 2012/10/8実施の町田市住所変更の旧住所には、鶴間が含まれていました。
しかし、住居表示新旧対象では鶴間からの変更を確認できず。
遡れば「3市の鶴間隣接」時代が存在したかもしれず、都県/3市の境界を越えた3鶴間[75235]の可能性は否定できませんが、追跡はここで断念。【追記終】

町田市内では、町字変更だけでなく、駅名変更もありました。

これまで「南町田駅」と書いてきましたが、東急田園都市線の南町田駅は、2019/10/1に「南町田グランベリーパーク駅」という長い名に改称されていました。地理院地図は長い名前に修正済。関係記事

南町田駅の「南」は、方角による便宜的な接頭語ではありません。
1954年に町田町と合併する前の村名です。
1893年の三多摩移管前の「神奈川県南多摩郡南村」時代から使われていた地域名「南」の駅を表していました。
その「南」が、長い新駅名称の中で希釈されてしまった。これは残念なことです。


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