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hmtさんの記事が5件見つかりました

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[101319] 2021年 1月 16日(土)16:31:53hmt さん
小字地名
[101316] 勿来丸さん
たぶんNG:各務原市(丑ヶ橋【各務原市の小字図(旧川島町を除く)】)
参考ページ【地名に見る各務原台地の開拓史】※恐らく旧地名、現在の各務原市蘇原申子町あたり?

【括弧内】は hmtによる補足説明です。

平成16年の合併で、旧・川島町の住所表記は変更されました。参考
しかし、「住所」に使われていない「小字地名」については、合併の前後を通じて 変更がなかったものと思われます。

従って、リンクしていただいた【各務原市の小字図(旧川島町を除く)】【岐阜市域が突出した四角形から南に進み、川を越えた先に、丑ヶ橋の存在を確認】は、現在も有効な資料であると思われます。

もっと新しい資料の【地名に見る各務原台地の開拓史】(2016)の 1.各務原市の地名 (3)地名の実例:最終行 にも「丑ヶ橋」が 明記されており、小字地名は 合併後も健在 であるようです。

現在の住所表記は 「各務原市蘇原…」 が使われており、小字地名の出番は少なくなっていると思いますが、
※恐らく旧地名
と決めつけて、 NG扱い にするのは 「やりすぎ」 ではないでしょうか?
[101287] 2021年 1月 12日(火)15:38:42hmt さん
Re:新潟を含む北陸
[101163] グリグリ さん
NHKの雪の予報のニュースを見ていたら、アナウンサーが「新潟を含む北陸」と表現していました。(中略)
私としては「新潟県を含む北陸」と言って欲しいのですが、それはまた別の論点。

遅いレスになりましたが、「別の論点」の類似例として、5年前の記事 [90577] を提示しておきます。
「青森県」を省略して「青森」と表記すると…
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NHK NEWS WEB の見出し表記が気になりました。
>青森 八戸が中核市に 来年1月1日から移行

「その道に詳しい人」ならば 青森市は10年前に中核市に指定済みなので、正規の表記「青森県八戸市が中核市に」を省略したものであると理解するでしょう。
しかし、「青森」の本来の意味は都市名です。
(中略)現在では県名と市名の両方に使われているので、自明でなければ正規の「青森県」又は「青森市」という表記で区別すべきです。
区別することなしに「青森 八戸が中核市に」と並べられたら、「普通の人」ならば「青森市と八戸市とが中核市に移行する」と理解してしまうのではないでしょうか。
(中略)新聞見出しでの「必要悪」とも言える 省略表記の存在意義は 薄れているはずです。
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[84067]と 同じ意見の繰り返し と記してあり、マスコミへの同様の希望は、今回で 少なくとも三回目になります。
要するに、「誰のための省略表記なのか?」ということ考えましょう ということです。
[100892] 2020年 12月 14日(月)10:09:03hmt さん
土佐国「沖の島」関連で 三浦大介義明
[100891] ekinenpyouさん
地域おこし協力隊の方が作成したページを 興味深く拝見しました。

後半部にあった「両藩の主張する沖の島の国境の図」。
これまで、南北に分断されていたものと思っていましたが、どちらかというと、東西分断状態の沖の島 であったことを知りました。

終り近くの◆三浦家一族の墓と題する画像に「三浦大介義明孫」とあり、過去記事[41805]を思い出しました。
hmtの出身地・津久井の先祖であり、89歳まで活躍した人物です。
彼が 後世まで「三浦大介(みうらのおおすけ)百六つ」と賞賛された理由は、過去記事を御覧ください。
【記事終】
[100886] 2020年 12月 9日(水)13:21:42hmt さん
海と島(41)「沖の島」情報に感謝
[100882] ekinenpyou さん
(北部の母島は)複数回訪れたことがあるのでコメントします。

伊予国宇和郡のまま 明治7年に愛媛県から高知県に移管され、2年後に土佐国幡多郡になった「沖の島」北部の 母島部落。
その地を 何回も訪れた ekinenpyouさん から、思いがけず、貴重な情報をいただき有難うございます。

hmtマガジン 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探るで記したように、現代人は「広域地名としての県」を常用。
江戸時代の 土佐国(高知藩)・伊予国(宇和島藩)から、高知県・宇和島県→神山県→愛媛県へと変化した時期を区別して考えることに馴染まず、行政庁【県】の所管変更と、地名国郡の変更についての混乱が生じていました。

人口は減少したが、島に残っている子供たちも居ます。僻地教育問題は避けられません。
そしてイノシシなど特定鳥獣との付き合い。

過疎地の無人化問題とは違い、「人口が激減した有人島」特有の問題があることを 改めて実感しました。
[100875] 2020年 12月 6日(日)13:10:12【3】hmt さん
海と島(40)土佐と伊予とに分断されていた 沖の島
東西南北端コレクションに 「愛媛県旧南端」として、備考の記載があります。
明治7年までは 沖の島【現在は全島高知県宿毛市】に県境があった

玄界灘の沖ノ島[86161]、西彼諸島の沖之島[30575]、琵琶湖の沖島[84080]、日本最南端の沖ノ鳥島[99957]
「沖の島」と書くと普通名称を連想する故か、地名として使用される例は少ないようです。

自治体名となると、居住者数なども問われるため、町村制施行時に誕生した 高知県幡多郡沖ノ島村 が唯一の例と思われます。
「沖ノ島村」は昭和合併の際に 宿毛市新設の一部として消滅し、現在の地名「沖の島」になりました。

現在の愛媛・高知県境から かなり離れた位置にある 面積約 10km2の離島。そんな島に県境が存在した理由は?

別名・妹背島の伝説はさておき、島の南西部にある 弘瀬部落の言い伝え によれば、鎌倉幕府の権力闘争に敗れた 三浦一族の開拓・統治の歴史がありました。これが土佐勢力支配の起源。
ところが室町時代になると 伊予宇和島勢力が 島の北部を支配し、文化の伝統が異なる土佐勢力との分断が定着。

江戸時代、宇和島藩領との国境争いは 幕府の裁定を仰ぐことになったが、土佐藩の主張(野中兼山)が優位。
明治4年7月の廃藩置県で、宇和島藩→宇和島県、高知藩→高知県となり、県名改称はありながらも、その後も県境が存在したようです。

日本にもあった分断統治の島 というページには、
沖の島の愛媛県管轄区域が高知県に移管されたのは、明治9年という記載がありました。
【追記】
太政官布告明治9年21号 M9/2/25 で確認
高知県管下伊予国宇和郡沖ノ島姫島鵜来島の儀 土佐国幡多郡へ編入候条此旨布告候事

昔のことはさておき、現代の沖の島が 高知県所属ということで 有利な立場を得たのは、高知県の漁業関係でしょうか。
大戦中は四国防衛の要衝として 沖の島区域の軍事基地化が進められ、島民への強制疎開命令も。
戦時中と言えば、沖ノ島村弘瀬を誕生地とする幼児。幼児期に 高知本土>堺に移住したが、後の 横山やすし です。

現在、孤島・沖の島の陸上では 過疎化が進行しています。
戦後の一時期に最大人口千数百人を数えた弘瀬部落は、2016年時点で 100人を切っているとか。Wikipedia
「島の宝 100景」で「石垣・石段とともにある暮らし」を選定するなど、観光事業に活を求めるも、苦しいところです。


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