[90530] k-aceさん
埼玉県日高市で高麗郡建郡1300年記念祭が行われている
1300年前、716年というと奈良時代初期の遠い昔のことなのですが、そこに至った経過を調べてみると、現代世界に影を落すトラブルの前例となるような歴史が見えてくるような気がしたので、少し記してみます。
先ず、「こま」という地名について。
市区町村変遷情報・埼玉県を見ると、1896/4/1「入間郡, 高麗郡, 比企郡の一部 の区域をもって入間郡を設置」とあり、更に1955/2/11には入間郡 高麗村, 高麗川村の合体により日高町が発足しています。これが1991年には日高市になり、現在に至っています。
東京都
狛江市、山梨県南巨摩郡など「こま」という地名は他にもあります。甲斐国は昔の4郡のうち西部が巨麻郡でした。
その他、河内国大県郡や若江郡にも巨麻郷があり、山城国相楽郡に大狛郷、下狛郷があります。
「高麗」は朝鮮半島の国名ですが、4~7世紀・三国時代の「こま」と 10~14世紀の王氏「こうらい」とは読み方で区別されます。高句麗と書けば前者のことであり、以下慣習に従って 高句麗(こうくり)の表記を用いますが、高麗の自称は 6世紀には 中国からも正式名と認められていたようです。
高麗神社(後出)本殿の扁額には小さく「句」の字が彫り込まれており、高句麗を示しているそうです。
高句麗は半島南部の百済・新羅と共に朝鮮の三国時代を作りました。
最盛期だった5世紀における高句麗の版図は 半島の主要部から満州南部に及ぶ大国でした。
その満州南部(現在の中国・吉林省)に広開土王碑という巨大な石碑があり、現物は 2004年にユネスコ世界文化遺産に登録されています。
文字の記録がなかった時代の日本を伝える記録として比較的信頼できるのは中国の歴史書ですが、卑弥呼が登場する『魏志』倭人伝の3世紀と 倭の五王が登場する『宋書』倭国伝の5世紀の間が欠けています。
「倭」が何回も出てくるこの石碑は、4世紀の倭国の動きを伝える重要な同時代遺物として重視され、研究が進められているようです。
拓本1、
拓本2、
拓本3
391年に即位した高句麗広開土王は 中国北朝と戦って遼東に勢力を伸ばし、南は百済の首都漢城近くに迫り、百済王を臣従させるなどの事蹟を挙げました。同じ391年には倭国による朝鮮進出が始まり、新羅や百済を服属させるなどしたが、404年高句麗領に攻め込んだ倭軍を高句麗軍が撃退した等のことも記されているようです。
中国南朝の『宋書』等にも5世紀以後に「任那」が登場し、倭国が半島南部に持った拠点もこの頃からと思われます。戦前の日本が 大陸進出の歴史的根拠にしようと意図した 神功皇后の
三韓征伐伝説 との結びつきはともかくとして、朝鮮と日本との間には 長期間にわたり、戦争・外交・文物伝来・移民など、種々のの関係があったようです。
高句麗と日本が敵対関係にあった5世紀までは戦争捕虜、友好的になった6世紀以降は文化的交流、高句麗滅亡後は難民・亡命者といったところでしょうか。百済・新羅とはそれぞれ違いますが、これも文化交流・難民などその時々での動きがあったわけで、仏教や書物・文字だけでなく、農業や職人の技や医薬など、生活に欠かすことのできない多くの文化が朝鮮から伝えられたと思います。
一例として、高麗駅前に立っている
将軍標の写真を示しておきます。
『続日本紀』には、今年から 1300年前の 霊亀2年(716年)に 武蔵国に高麗郡が置かれ、東国7ヶ国に住む高麗人1799人が当地に移住した と記されています。この時代になると、日本も歴史時代に入っており、「変遷情報」が残されているわけです。
入間郡を分断する形で設置された高麗郡について播磨坂さんが投げかけてた疑問に始まるスレッドについては、
hmtマガジンを御覧ください。
その入間郡と高麗郡とは、郡制施行に先立つ明治29年に統合されました。
この時のリーダー・高麗王若光を祭神とする
高麗神社は、出世明神として知られているようです。
若光の名は、その50年前の 666年に来日した高句麗国の使節の名「玄武若光」としても記録されています。高句麗滅亡で帰国できなくなった難民集団なのか? はじめ相模国に渡来して大陸の先進文化を広めたという技術集団なのか? 両者は同一なのかもしれず、よくわかりません。
参考
高句麗は5世紀の最盛期を過ぎると百済・新羅に南部の領土を奪われ始め、中国北朝を牽制するための外交政策も必要になってきました。しかし、南朝の陳は北朝の隋に滅ぼされ、高句麗は 北方の強国である突厥(トルコ)と結びながら、隋の攻撃を防ぐ立場になりました。
隋は高句麗遠征に失敗して滅びたものの、今度は後継の唐が新羅と組んで百済を滅ぼし(660)、白村江の戦い(663)では百済の残存勢力を援助した倭国軍も撃破。
この敗戦により 唐からの侵攻を受ける可能性のある 危ない状態に陥った倭国。首都の内陸移転(近江京)を含む防衛体制の整備をなんとか完成。壬申の乱(672)を経て倭国から日本国への転換を進めることになりました。
唐は引き続き 高句麗に出兵し、668年には遂に高句麗滅亡。
戦後処理の間には新羅と対峙する場面もあったが和睦が成立。新羅による半島統一が実現しました。
新羅と言えば、新座市や志木市になっている旧・新座郡の前身である
新羅(しらぎ)郡は、高麗郡設置から48年後の 758年(天平宝字2年)に設置された武蔵国で最後の郡でした。
高麗郡1300年を機会に、高句麗国の歴史を振り返ってみました。
現在ここには世界中でも異彩を放つ政治体制の国があります。穏やかなプロセスで「普通の国」になってくれることを希望するのですが、下手をすると世界秩序に混乱をもたらすことになります。
戦争はもちろんですが、経済崩壊による難民発生も困ります。
中国や韓国が恐れるのも、ヨーロッパを目指すシリア難民の群れが極東で再現することでしょう。
渡航手段の乏しい時代でも、高句麗や百済の滅亡後には多数の難民が海を渡ってきました。
高麗郡の事例は昔話で済まないように思われ、こんな記事を書いてしまったのでした。