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伊豆之国さんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[105185]2022年7月30日
伊豆之国
[105121]2022年7月28日
伊豆之国
[104914]2022年7月8日
伊豆之国
[104824]2022年6月12日
伊豆之国
[104802]2022年6月7日
伊豆之国

[105185] 2022年 7月 30日(土)21:47:23伊豆之国 さん
第二回チャレンジトライアル・問六と問七について
第二回チャレンジトライアルでは、問六と問七を出題させていただきました。

問六の共通項は、「春・夏の全国高校野球の優勝校がある市」。
全国高校野球選手権大会歴代優勝校
選抜高校野球全国大会歴代優勝校
それぞれ青色で表示された学校名をclickすると、学校の歴史、所在地などの項目に飛びます。
大東市は、今春の「選抜」の優勝校・大阪桐蔭、和歌山市は、昨夏の優勝校・智辯和歌山の、それぞれ所在地。記憶に新しいところから。三好市は池田高校(当時は池田町)、現在の市域にあればOKとして例示。
駒大苫小牧の全国制覇は「夏」のみ、さいたま市は、大宮工業(当時の所在地は大宮市)と浦和学院、いずれも「春」のみ。少なくとも春・夏いずれか優勝していればOKという共通項を示しています。
ヒントのSVは「日本一」の表示を示したものです。地図はズバリ甲子園。
該当する区として例示した板橋区は、帝京高校が全国制覇経験あり。
非該当の茨木市は、浪商(→大体大浪商)のキャンパスがあった時期がありましたが、浪商が優勝したのは全て大阪市にあった時代。最後に優勝したのは昭和36年(1961)の夏の大会で、その2年後の茨木市への移転(更に平成元年に熊取町に移転、現在の校名となる)以降は、全国制覇はありません。彦根市は、今春と平成13年(2001)夏の近江高校の準優勝が最高成績。
落書き帳の過去ログ[70864]に「参考元」としてリンクしている記事を見ると、都道府県別の歴代出場校一覧はもとより、個人成績や過去の名勝負など、あらゆる記録を網羅している大変貴重なデータベースですが、残念なことに6年ほど前より更新が止まっています。
この問六の想定解に関する関連記事は、後日書き込む予定にします。

問七の共通項は「読み仮名が『ら』で終わる市」。
データベース検索
さくら市、佐倉市をお題に入れ、桜井市をNGとしたのはちょっとした「仕掛け」の「妙」。
SVと地図リンクをどうするか、うまく行けそうなのがなかなか見つからず苦労しました。
SVは「ヨドバシカメラ」→「ら」で終わる
地図はズバリ、お題に入れた「相模原」のひらがな表記
…ですが、解答のペースが比較的早かったもあり、全然ヒントになっていないようなものだった…
実は、この問七を作成するにあたって、ある「細工」を使っています。大ベテランの方の中には、もしかしたらこのことに気づいた人もいるかもしれません。これについても、後で記事を書き込む予定にしています。

また、他のお三方の作成された問題についての感想も、後ほどコメントしたいと思います。
[105121] 2022年 7月 28日(木)21:29:29伊豆之国 さん
業務連絡
採点漏れ・採点ミス(採点すべき解答の記事番号・問題番号の誤り等、解答自体の正誤判定以外のミス)のチェック役に専ら徹している出題者「伊豆之国」からの業務連絡です。

>[105119]さざ波さんへ
[105095] はしもつさんの問四「輪島市」と、[105096] かりないさんの問九「姫路市」が採点されていません。
[104914] 2022年 7月 8日(金)21:40:50【1】訂正年月日
【1】2022年 7月 9日(土)22:16:45
伊豆之国 さん
Re:クイズここはどこでしょう
[104905]千本桜さん
もう今となっては完全に出遅れですが、既に皆さんのコメント通りということであれば…
Q温泉は後に、テレビドラマ「R日記」のロケ地として脚光をあびるのだが、当時はそんなことになろうとは知る由もなかった
このテレビドラマは、毎回必ず見ていました。そして映画化されたときには、映画館に通って見に行ったものでした。あれから十余年を経て、E県からS県へ二泊三日の旅路。道中で、当時誕生したばかりだった、最近市の名前が変わった城下町に寄り道した後、そのQ温泉に念願の一泊。河原の湯壺で名物の温泉卵を温める風景、近くにはそのRの銅像も建てられていました。その翌日は、列車を乗り継いで、S県のほぼ中央にある湖畔の宿で一泊し、翌朝は観光バスでA丘へ。最後は、開業して間もない第三セクター路線経由の特急に…。

国鉄H本線のF駅からは I 線が分岐し、美しいお城のあるJ駅までのびている
[104909] メークインさん
J駅近くにあるお城へも行っています
最初はJ駅からお城が良く見える展望台まで"徒歩"で移動。雲海の上あるお城が見えました
おっしゃっているお城とは、F駅を出て次の駅が最寄の、近年有名になった○空の城のことでしょうが、F駅から出て向かう路線の行き先(というよりその線の起点。今では特急以外はほぼ途中で乗り換えになってしまいましたが)にあるのは、駅からも間近に仰ぎ見る、威容を誇る白亜の天守閣を初め豪勢な櫓や土塀・石垣・堀などが織りなす、世界に誇る日本の城郭建築の不動の王者…。

[104912] 今川焼さん
「R日記」の中で何度もその歌を紹介された地元M郡出身の夭折の歌人です。この歌人のことを知ったのは「R日記」を見てからですが
この歌人の詠んだ歌は、そのテレビドラマの中でたびたび紹介されていたので、その名を覚えたのでした。

…そういえば、ドラマの中でも、そして映画でも、最初のシーンで紹介されていた餘部の鉄橋を列車が渡る風景。映画化されて間もないころに列車転落事故が起こり、それからしばらく徐行運転となり、強風時の運休もよくあったそうで、最近になって新しい橋に架け替えられたようですが、私がQ温泉を訪れた時は、当時の鉄橋が健在で、エアコンもなかった旧式ディーゼル車では、窓から身を乗り出して景色を眺めていた観光客も見かけたものでした。このところのコロナ禍の中、Q温泉でも老舗旅館が廃業に追い込まれたとかで、私が泊った宿も、数年前に既に格安リゾートの系列に入ったというらしいです…。
[104824] 2022年 6月 12日(日)22:55:36伊豆之国 さん
大河ドラマの舞台を訪ねて(3年ぶりの本格旅行です)
[104735]
道中記は後日書き込みます
と書き込んだものの、なんだか忘れかけたようになってしまい、「何を今更」といった感ですが…
4月29日から2泊三日で伊豆~駿河~甲斐と、三国を股にかけて回った旅日記を。ようやく書き込むことにします。

思えば、引っ越しのドタバタ、そしてコロナ…と、旅行どころではない日々が続き、やっと宿泊を伴った「旅行らしい旅行」に出られたのは、実に3年ぶり、「平成から令和へ」の伊勢~尾張の道中以来。相模原市民になってからは初の遠出になったのでした。
今回の道中、とにかく天気が不安定という予報があり、空模様に振り回されることになるのは覚悟の上と承知していたところ。初日は。小田急で小田原に出て、熱海で伊豆急直通電車で伊豆急下田へ。伊豆急線に乗るのも気が付けば相当久しぶり。車両のラインアップもほとんど入れ替わり、親会社の東急で役目を終えた銀色の電車がほとんど。乗り合わせた電車もそうで、内部は観光電車らしく海側座席が向かい合わせになったりしていましたが、外観はまさについ2年余り前までの地元で顔なじみだった電車そのもの(もっとも今では消滅寸前ですが…映像)。でも、観光地も疫病禍からようやく回復の兆しが出てきたとはいえ、大型連休の初日なのに、生憎の天気も手伝って、昔のような混雑どころか、空席ばかり目立って寂しい車内風景、海辺を走る区間に出ても伊豆大島などの島影も見えないまま。終点の伊豆急下田駅まで乗りとおし、改札を出ましたが、駅舎の中はすっかり模様替えされたようで戸惑いも。外に出てみると、バスターミナルも駅の横にある食堂や土産物屋などが入ったレトロ風の建物も以前の面影を残していたのには少しほっとしたのでした。そして堂ヶ島方面へのバスに乗り込むのですが、中はガラガラ、気が付いたら車内独り占め状態。雨が降り出す空模様の中とはいえ、こんな様子ではその先が思いやられる状況になったのが心配になります…。
そうしているうちに終点・堂ヶ島に到着。マイカーで来ていた観光客もちらほら見かけましたが、往時の賑わいを知るものとしては寂しい限り。雨が降り出し、遊覧船に乗るのは諦め、洞窟を上から眺められるスポットに出ただけで、旧道廻りのバスに。今度は部活帰りらしい中高生と見られる一団で車内は賑やかでした。向かったのは親父の実家があった田子地区。かつて遠洋漁業と鰹節作りでにぎわったのも今は昔、取り壊された家の跡が空き地になっていたり、空き家になった民家も目立つといった今の光景でしたが、空き家になっていた家の中に、確かに親父の実家だった家に間違いなさそうなのを見つけ、なんだかほっとしたのでした。それから実家の菩提寺([89119])に行きましたが、住職さんも不在らしく、墓の場所もわからなかったので、雨の中ということもあり、本堂を拝んだだけで引き返し、港のほうにも行くのをやめて次のバスを待つことに。雨は一層激しくなり、源氏ゆかりの修禅寺参りは諦め、旧賀茂村の黄金崎クリスタルパークへ。訪れた日は「万華鏡」の特別展示があって、ハンドルを回して中の模様の変化を見ることができ、童心に帰ったような懐かしい思い出に浸ることもできたのでした。
修善寺駅から駿豆線で伊豆長岡駅で降り、少し早めではありましたが、タクシーで伊豆長岡温泉の宿へ。「温泉旅館」に泊まるのは、4年前の夏の津軽([96355])以来のこと。割と小ぢんまりした宿でしたが、かけ流しの湯でじっくり温泉を楽しむことができました。
夜中に雨は上がり、翌朝の散歩で狩野川の土手へ。好天に恵まれ、白雪に覆われた富士山の姿が見事でした。タクシーで伊豆長岡駅に出て、大河ドラマ関係の施設をめぐるバスの一日乗車券を買い、伊豆の国市内に点在する史跡巡りに出たのですが、持ち歩くのに必要でない、重いバッグに入った荷物を伊豆長岡駅のロッカーに預ける際、「仕分け」に手間がかかり、5年前の飛鳥巡り([93764])の時と同様、バスが先に出てしまうという失態。でも元々一日がかりで回る計画を立てていたので、まだ余裕は十分あり、1時間に3~4本と運転本数が多い駿豆線で、隣の韮山駅で降り、駅の反対側にある大河ドラマ館でまず「予習」。そのあと展望デッキに上るとここでも富士山の雄姿が…。
ここでようやくバスに乗って、まず願成就院にお参り。ドラマの主人公・北條義時と姉・政子の父で、鎌倉幕府初代執権の北條時政が建立した寺院で、ご本尊・阿弥陀如来を初め、運慶の作による5体の仏像は、国宝に指定されており、本堂で間近に拝むことができ、境内には時政の墓も建っていました。それから「堀越御所」([90008] hmtさん)の跡へ。今では何もない芝生になっていますが、入り口に説明が書かれた表示板がありました。道を挟んで反対側を少し奥に入ると、「北條政子産湯の井戸」も。河原に出たところにある公園は、「北條氏の館跡」とされる場所で、今では建物などは全く残っていないのですが、往時の様子などが描かれた案内板がいくつか建っていました。
降りたバス停に戻って、ひとまず伊豆長岡駅前に戻ることに。この日は好天に恵まれ、マイカーで訪れた観光客も多かったようで、渋滞でバスも少し遅れ気味でした。昼食を済ませて、今度は狩野川を越えて西側へ。まず北條義時夫妻が眠る「北條寺」にお参り。それから北に向かってしばらく歩いて、北條義時の館跡と伝わる「江間公園」へ。ここで見逃せない珍しい記念物が、「館跡」の石碑の横、敷地の北東隅にある「北伊豆地震の震災遺跡」、ガラスケースの中に保護されている魚雷の表面に残った地震による表面の傷跡。この公園の場所にあった小学校に海軍から譲り受けられた魚雷が、地震の揺れで傷ついたもので、関東大震災から7年後の昭和5年(1930)に起こった「北伊豆地震」([64043])の被害状況を知る貴重な遺跡となっています。
それからさらに少し歩くと、「いちご街道」という愛称を持つ、やや広い通りに出ます。そこを左折してしばらく行くと「豆塚神社」という神社があり、その境内には今回の大河ドラマに関係する「ミニ資料館」のようなものもありました。この辺りの道筋と風景は、[64043]で紹介した「木造の家は地震に強いか」(杉山英男氏著・昭和60年初刊)という本の中で「北伊豆地震と被害状況」について詳しく書かれた記事があり、その中にかつて「江間村」と呼ばれたこの地域の中心部の概略の地図と当時の写真があって、この辺りの地理は十分頭に入っていたので道に迷うことがなく、さすがに「木造~」が著された時より30数年ほど経過しているので沿道の建物などは大きく変化していましたが、先ほど曲がった四つ角(「木造~」にある地図では「中央四辻」と書かれている場所)の写真に写っている、北西側のスーパーと南西側のガソリンスタンドは当時のままの姿を残していました。
ここからは直接行くバスの便もなく、次のスポット「江川邸」までの間は、狩野川を渡ってひたすら歩くことになります。史跡めぐりのバスと言っても本数は少なく出発時刻も不規則で、昨年末に訪れた深谷市の渋沢栄一関連の史跡巡りのバス([103328])と同様、意外と使いにくいダイヤのように思えました。駿豆線の線路を越えたあたりは、旧韮山町の中心だったのでしょうが、これといった商店街は見られず、やはり「伊豆の国市」の中心市街は温泉街がある旧伊豆長岡町だということになるのでしょう。
江川邸」と、後述する「韮山反射炉」は、40年ほどの前に入った記憶がありますが、今となっては当時の記憶は既にあいまいになっていったので、改めて訪問するといった感じで見学することに。内部には、幕末の国土防衛に尽力し、反射炉や東京湾の「お台場」の築造などにかかわった幕末の代官・江川英龍の功績に関する資料などが展示されていましたが、室町時代に建てられたという母屋の豪勢さには圧倒されるものがありました。それからバスで、源頼朝が流された「蛭が小島」(近年は「蛭が島」とも言うようです)へ。今は田んぼの真ん中といった感じですが、昔は狩野川がこの辺りを流れていて中洲のような地形だったのでしょうか。もう最終のバスもなく、この日最後の目的地・反射炉へはまたまた歩き。反射炉の入場時間がこの時期は午後5時まであり、時間の余裕はまだ十分ありましたが、そこまでの道路には歩道が整備されていないところも多く、自動車が近づいてくると少しはらはらしたものでした。反射炉の周りは、昔行ったときには敷地に柵も無く無料で入れたようにおぼろげながら記憶があったのですが、世界遺産に登録され、資料館もできてしっかり入場券を払わされたのにはやはり仕方ないのでしょうか。反射炉の前後左右には詳しい説明が書かれた案内板もあり、その仕組みがしっかり理解できたのでした。余談ですが、毎週日曜日に放映されている「鉄腕DASH」では、以前「無人島に(ミニ)反射炉を作る」という場面があって、韮山の反射炉の映像が出ていたシーンもありました。
反射炉から最寄りの伊豆長岡駅までは、タクシーもあったのですが呼んでもいつ来るのかわからないので、今度も歩き。この一帯には温室が立ち並んでいて、どうやら「旬」も終わって片付けに入っていた「苺」を栽培している温室のようでした。伊豆長岡駅に戻ってロッカーから荷物を取り出し、三島・沼津と乗り換えて、2日目の宿泊地・御殿場へ。ホテルに着いた頃にはすっかり日が暮れていて、チェックインを済ませ、近くの拉麺屋で夕飯を。
3日目の朝はどんよりとした曇り空。朝飯前に町のほうまで少し歩きましたが、晴れていれば間近に見える富士山も、上の方は厚い雲に覆われ、かろうじて中腹から下の一部が見え、裾野のなだらかな曲線から何とか富士山に違いない、と思っただけでした。御殿場駅の広い構内は、かつて東海道本線だった「過去の栄光」の名残を残しているように見えました。3日目の計画は、出発前から「天気予報とにらめっこ」といった形で、「忍野村~富士吉田方面か、アウトレットを見てから箱根方面か」と、ホテルを出る直前まで迷いに迷ったのでした。結局、河口湖方面のバスの出発時間が近かったことから、前者の方を選択。もう富士山はすっかり雲に覆われて見えなくなり、やがてバスは籠坂峠を越えて甲斐の国へ。山中湖は14年前と同様、車窓から湖を見ただけで素通り、バスを降りたのは「忍野八海」の入り口。この「忍野八海」を「行った、見た」という記憶がはっきりせず、バスを降りて観光客が進んで行く方向を見て、「やはりここは初めてだった…」と分かったのでした。中央高速から近いこともあり、マイカーで訪れる客が多く、結構混雑していて、「どこがなんという名の湧き水(池)なのか、どこがどう違うのかいまいちわからず、また8つ全部がここにあるわけでなく、少し離れた場所にあるのもあることも知りました。降り出した雨が本降りになっており、富士吉田市に入って「北口本宮浅間大社」にお参り、そのあと14年前にも見てきていた「御師の家 外川家住宅」に向かおうとしたのですが、もう14年前の記憶が薄れていたのに加え、降りしきる雨の中で方向感覚もわからず、案内板も整備されておらず、中心市街の近くまで来て「道を一本間違えていた」とようやく気付くことに。やっと「御師の家」を見学。そしてやっと富士吉田改め富士山駅に到着。名物の「吉田のうどん」は、結局駅ビルの地下で召し上がることになり、次の列車まで時間が空いたため、近くの喫茶店で珈琲を飲んで時間つぶし。ここから富士急で大月へ。下吉田駅では、今では絶滅危惧種の「鐘が鳴る旧式踏切」の音も聞こえました。大月からは、高尾・八王子・町田と乗り換えて、やっと我が家に帰還。大河ドラマの開始時刻には十分間に合いました。

♯長文お許しください。(「ご当地」絡みなので…)
[104802] 2022年 6月 7日(火)00:26:13【1】訂正年月日
【1】2022年 6月 7日(火)15:26:24
伊豆之国 さん
武蔵国・相模国・下総国・伊豆国
[104793][104800] あきごんさん
[104799] 鳴子こけしさん
「武蔵国」と「相模国」の境界と人口の話題が賑やかですが…
ここ40年来、武蔵国と相模国の間を無意識のうちに日常的に行き来していて、「県境(=旧国境)越え移動はやめましょう」なんていっていたのがどうにも現実にそぐわない地域に住み続けている私からも、この話題に乗らせていただきます…。

[104793] あきごんさん
神奈川県イコール相模と思っている人が意外に多い。実は川崎市の全域と横浜市の四分の三は武蔵国の領域なのである
JR南武線の川崎市内には「武蔵小杉・武蔵中原・武蔵新城・武蔵溝ノ口」と、「武蔵」の付く駅が4駅連続しているので(他に鶴見線「武蔵白石」駅も)、川崎市が「武蔵国」であることは早くから知っていましたが、横浜市の大半が「武蔵国」であったというのを知ったのは、もう少し後になってからのことでした。中でも、「金沢文庫」が「武蔵」の金沢(昔は「かねざわ」と呼んでいた)に建てられた、というのを知ったとき、そこが鎌倉や横須賀と隣接する地域だったこともあり、ある意味強烈な「違和感」を持ったものでした。
保土ヶ谷~戸塚宿のところを読んでいて、自分が今まで大きな勘違いをしていたことに気付きました。この間にある「権太坂」のお話で、今ではここが国境であったことを意識しないせいか
「権太坂」のことは、今から13年前、[70632]で書き込んだことがあり
「保土ケ谷」と言えば、東海道の最初の難所として知られた「権太坂」。「箱根駅伝」では往路の2区・復路の9区、復路では最後の難所として、逆転劇など数々のドラマを生んでいる場所です
このあと、東京・赤坂にある「権田(原)坂」(「安鎮坂」の別名)と、かつてこの地にあった「誉田(こんだorほんだ)坂」、その由来に関係あるという大阪府羽曳野市の「誉田(こんだ)八幡」、それと赤坂の「誉田坂」と保土ヶ谷の権太坂との「不思議な符合」についても書き込んでいました。

[104799] 鳴子こけしさん
川崎市と、島嶼を除いた東京都は問題ないでしょう。埼玉県も前述の通り全域……ではなく、平成22年(2010年)に太田市(群馬県)から深谷市に編入された部分(変遷情報)がありますので、深谷市前小屋の96人は上野国の住人ということになります
「重箱の隅」ですが、地元の話なので…
[100806][100809] ekinenpyouさん
相模原市と町田市でしばしば発生している境界変更については過去ログでもしばしば取り上げられていますが、要約したものとして東京・町田市と神奈川・相模原市で一部地域を交換! なぜ“トレード”するのか聞いてみたも別途参考になるものと思われます。
[100811] 拙稿
NHKBSプレミアムで放映されていた、「故郷ざわつきリサーチ・相模原の逆襲」という番組。この番組の中で、[100809]の記事にリンクされていたのとほぼ同じ内容の「町田市と相模原市の『領土交換』」と、「都県境が境川を挟んでお互いに入り組んでいる地域の住民の声」が出ていました
かつては蛇行が多く、氾濫も多発していた境川の流路が改修工事で直線化し、元は同じ地域であったのが、川筋が直線化した結果、お互いに川の反対側に取り残されて「飛び地」化した
都県境変更による人口移動は、相模原市民から町田市民になったほうがその逆よりも断然多い
あまり見せたくない資料だが、(境界変更で)相模原市民から町田市民になった人のほうが圧倒的に多く、『収支』としては差し引き数十人のマイナス」という資料も出ていました
ということで、人口異動としては数十人程度ですが、「武蔵」の町田市の中に「相模」の地域があり、「相模」の相模原市に「武蔵」の地域があるというのは明らかな事実といえるでしょう。

一方、埼玉県を見ると、「国境の変更」が(公式には)なくなってから後の昭和5年に茨城県との県境変更があります。現在の埼玉県加須市伊賀袋地区は、当時の茨城県猿島郡新郷村(現・古河市)から埼玉県川辺村(現・加須市)に編入された地域でした([78789] hmtさん)。
昭和5年7月に現在の渡良瀬川が茨城・埼玉の県境となり,右岸の伊賀袋の大部分と立崎の一部が埼玉県北埼玉郡川辺村へ合併され,大字伊賀袋となる
猿島郡(明治29年以前は西葛飾郡)新郷村は「下総国」であり、埼玉県には、旧「下総国中葛飾郡」の地域が「武蔵国北葛飾郡」に編入されてからも、新たに「下総国」だった地域が入り、こちらは現在まで「埼玉県にある下総国」として現在も残っていることになります。
「ご破算」に終わった五霞町の埼玉県幸手市との合併が実現していたら、こちらも「埼玉県にある下総国」になっていたのでした…。

更にもう一つ、「相模国と伊豆国の境界はどこにあるのか?」について、「模擬天守」もある「虚構の世界の水軍の根城?」熱海城七万石城主より一言。
[104799] 鳴子こけしさん
相模国人口ではあきごんさんが「山間部なので無視」された熱海市泉にも2,439の人口があります
通称「伊豆湯河原温泉」と呼ばれる、静岡県熱海市泉地区の帰属と越県合併騒動について、hmtさんが[100236]で関連記事をまとめて紹介しています。その中から、「泉地区は伊豆か、相模か」について、その経緯が[79754]で述べられています。
伊豆と相模の国境を決めたのは、結局のところ伊豆山権現の勢力だったと思われます。秀吉の小田原攻めに敗れたため、泉地区が一時的に相模国になったこともあるようですが(保善院朱印状)、結局は元禄の境界争いで千歳川以南(泉地区)を確保。
天保国絵図 伊豆国を見ても、千歳川に「此川中央国境」と記されています。そして、伊豆国内に「和泉」など4集落が描かれていますが、何故か「相模国宮上村之内」という文字を冠しています。地理上は千歳川を境界とする伊豆国の側にあるが、村の実体は相模国宮上村の一部として機能していたという両属的な性格だったのでしょうか
泉は、明治11年に制定された「郡区町村編制法」に基づき、神奈川県足柄下郡宮上村飛地字泉を静岡県賀茂郡泉村とし、明治22年に熱海、伊豆山などと合併し、熱海村となっている。
しかし、明治13年の『郡区町村一覧』 を見ても、静岡県伊豆国賀茂郡には「泉村」の記載がありません。
もちろん28コマ(神奈川県足柄下郡)にも記載なし。
尾根の北側の神社領「泉」は、おそらく尾根南側を占める「伊豆山村」の一部になったと推察します
これだけ見ると、泉地区は「伊豆」と「相模」の間を行ったり来たりした、とか、「形式上は伊豆国に属するが、実質的な支配権は相模国側が持っていた」とか、あいまいなように見えますが、「市町村制施行・明治の大合併」の3年前の明治19年に編纂された「地方行政区画便覧」を見ると、伊豆国賀茂郡(現在の熱海市・伊東市一帯は当時は賀茂郡に属しており、明治29年の郡再編成により田方郡になった)の最初のところに、「戸長役場所在地 熱海村」とあり、その下に(管轄する)村として、「熱海村・伊豆山村・泉村・初島」とあります。この4村は明治22年4月の市町村制施行に先立つ1か月前に新設合併して「熱海村」になっています。
したがって、泉地区は明治19年の時点で「伊豆国」に属しており、旧国境の変更が明治35年を最後に停止([75973] hmtさん)され、事実上旧国の境界が確定した時点において「伊豆国」だったことは間違いないと思われます。

[104800] あきごんさん
計算していて二番目に人口の多い「国」はどこだろう、とか一番人口の少ない「国」はどこだろうとか思いましたが、境界の確定が大変そうなので、これはそのうち気が向いたらという事にしようと思います
"You Tube"の動画に、「令制国がそのまま都道府県になっていたら」というのがありました。
旧国の範囲(属する市町村)など、誤りや見落としもいくつかあるようですが…。人口が最多の「武蔵」は約2600万人、2位は「摂津」で約740万人、3位は「下総」の約570万人となつていました。一方、ブービーは「隠岐」で約1万9000人、最少は…わかりますね?

♯連休の連休の旅日記、原稿は途中までできているのですが…

【1】「伊豆湯河原温泉」をめぐる「相模と伊豆の境界争い」について追記し、タイトルも変更しました。


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