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hmtさんの記事が5件見つかりました

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[88875] 2015年 10月 9日(金)20:23:41hmt さん
東京駅の改札口 (3)新幹線・地下新線の駅
これで、東京駅の本格的な駅舎は西側の丸の内と東側の八重洲とに出揃いました。
しかし、両側の北口・中央口・南口を数えても改札口は6ヶ所です。

東京駅改札口を一気に増加させたのは 1964/10/1に開業した「東海道新幹線」です。
全部の改札口・乗換口が当初から存在したわけではなく、名称も変化していますが、現在のJR東海による改札口番号で数えると、1番から5番の5改札口。他に6~9番の4乗換口があります。

その次に出てきたのは「五方面作戦」の一つとして新設された 総武快速線の「東京地下駅」です。
これは、15両編成の電車を丸の内口駅前広場地下5階に乗り入れるものです。
関東大震災後の1925年から行なわれてきた東京の地下鉄工事の中でも、前例のない規模でした。

総武快速線開業は 1972/7/15。
改札口番号 19, 20, 21が関係する この地下駅は、品川への地下線も延長され(1976)、1980年から横須賀線・総武線直通運転となっています。

これも東京駅か と言いたくなるほど離れているのですが、成田新幹線のターミナルとして計画された駅を転用した京葉線の東京駅が、平成2年(1990/3/10)に開業しています。
改札口番号で言うと、鍛冶橋近くの22番と東京国際フォーラム付近の23番。

ここまでの改札口を累計すると、3+3+5+3+2 = 16 です。あと2ヶ所。

東北新幹線の日本橋口(改札口番号10番)は2003年開業。【既に数えている東海道新幹線の1番も同時】
[88859] グリグリ さん
※在来線改札を通らずにJR東の新幹線に直接行ける改札はこの一箇所のみ

最後に、今回も数え落とした八重洲地下中央口。
これは1975年から順次着手された中央通路拡幅工事の一環で、地下八重洲側にありますが、4代目銀の鈴と共に2007/10/25に設けられたのではないかと思います。
[88874] 2015年 10月 9日(金)20:02:10【1】hmt さん
東京駅の改札口 (2)東京駅東口から八重洲口へ
東京駅は、大日本帝国の威光を示すように 宮城【注】の正面に作られました。1914年のことです。
そのため、千代田城に面した西側が表で、中央区【35区時代は日本橋区と京橋区】に面した東が裏側になっています。
【注】宮城
江戸城(千代田城)は明治維新後に東京城や皇城になった後、1888年 明治宮殿落成後は「宮城」と呼ばれました。
言わずもがなですが、読みは「きゅうじょう」です。「みやぎ」と読まないでください。
戦後の1948/7/1からは「皇居」と呼ばれるようになっています。

東京駅の所在地は「千代田区丸の内一丁目」ですが、丸の内側の駅前には丸の内二丁目があり、更に鍛冶橋通りの南【新宿に移転する前の都庁所在地】に 丸の内三丁目があります。3つを合わせた「丸の内」の範囲は、西の日比谷通りと東の外堀通りとの間にあり、元々は 千代田城の内壕と外壕とに囲まれた 大名屋敷地帯でした。

明治になってから付けられた町名は、北側が東京府麹町区永楽町、その南が八重洲町で、東京府庁・東京市役所の所在地は有楽町の一部でした。
その後東京市麹町区時代の1929年に「丸ノ内」になりました。現在は「丸の内」です。千代田区 町名由来板

丸の内二丁目の昔の町名が「麹町区八重洲町」だったと聞くと、現在の東京駅八重洲口前にある「中央区八重洲」との関係が気になります。
「八重洲」という地名が、東京駅を挟んで北東に約1km離れた、別の区に引っ越してしまったのは何故か?

実はこの件、[35062]でちょっと触れたのですが【北東を北西と誤記】、八重洲口を記す機会に 新たな材料を加えて再論します。

中央区の町名由来にあるように、ヤン・ヨーステンの邸は内壕沿い【千代田区】でした。では、外壕沿い【中央区】に「八重洲」という地名が生まれた「きっかけ」は?

それは、明治17年に外壕に架けられた 初代 八重洲橋 でした。
日本橋・京橋の市街地から、内壕沿い丸の内にある「麹町区八重洲町」に行くための橋という意味だったのですね。
日本橋から出発して京都に通じる東海道の最初の橋は「京橋」、次の橋は芝への入り口なので「芝口橋」【後に新橋[74436]】と命名されていました。八重洲という地名を内壕から外壕に移動させた そもそもの原因は、行先の地名を付ける流儀で命名された橋の名だったのでした。

それはさておき、明治の中央停車場計画には裏口がなく、駅の東側は車両基地として使われることになりました。
こうなると、八重洲橋は撤去して部外者の立ち入りを防ぐ方がよい。…当局はそう考えたのでしょう。
人文社の資料により明治の地図を調べると、『明治41年調査 麹町区全図』に描かれていた【初代】八重洲橋は、明治45年の『最新番地入り 東京市全図』では消えています。

外壕沿いの八重洲【麹町区・日本橋区・京橋区の境界地帯】が動き出すのは、関東大震災後の復興事業です。
日本橋区と京橋区の境界に広い八重洲通が作られ、外壕には面目を一新した【2代目】八重洲橋が新設されて、日本橋・京橋と東京駅とを直結することになりました。

東京駅南側の乗車通路から 長い木造跨線橋を仮設して 「東京駅東口」が開設されたのは1929/12/16でした。
もっとも、東口で発売する切符は電車区間のみというローカル駅で、いわば東京駅開業前に存在した呉服橋駅[35062]復活の形ですから、今日の姿とは比べものになりません。
東口跨線橋は 1939年から北口通路接続に変更された後も仮設の木造で、1952年まで使用されました。

「東京駅東口」という名は、牛込に住んでいた頃[41218]に 青バスの行先表示で覚えた記憶があります。
1952年に大学生として上京した時には、既に「八重洲口」の名が使われていたように記憶していました。
しかし、鉄道歴史地図 都電土橋線を用いて 駅前の停留所名を調べたら、1952年までは東京駅東口で、1953年から東京駅八重洲口となっていました。

戦後になると、戦災瓦礫処理により呉服橋の外壕が埋め立てられ、1951年に戦後初の高層ビルである第一鉄鋼ビルが完成するなど、新たな動きが出てきました。
それより前、1948年には東京駅八重洲口新駅舎ができて、木造2階建ながら好評を得たいたのですが、失火により半年で焼失しています。

1952年は鉄道創業80周年で、その記念事業として 高層ビルによる八重洲口新駅舎が推進されることになりました。
百尺という高さ制限の存在した時代ですが、規制緩和を見越して計画されたのが 地上12階の鉄道会館です。
1954年に6階までが完成し、上層階には大丸百貨店などが入居しました。
駅施設と民間施設とが同居する民衆駅の「はしり」になりました。
第2期工事で12階になったのは1966年です。
このビルは、八重洲口の再開発に伴って2008年に解体されました。
[88873] 2015年 10月 9日(金)19:47:15hmt さん
東京駅の改札口 (1)百年前、開業間もない頃の東京駅に入る改札口の数はいくつ?
[88863] にまん さん
東京駅の改札口ですが、在来線があと4つあります。
ということは、合計で改札口が24か所、はっきり言って迷路ですね。

JR東海の東京駅構内図には番号が付けられているので、このシリーズでは、この番号を利用します。
1番から23番まで。一つ少ないので調べたら、銀の鈴広場に通じる「八重洲地下中央口」が落ちていました。
専門家でも見落とすくらいの複雑さなのでした。

JR東日本サイトの全体図でも地下中央通路一帯が隠れていますが、地下一階平面図には示されています。

24ヶ所には新幹線乗換口6ヶ所含まれます。在来線と東海道新幹線の間が中央の7番と南の9番、東北新幹線と東海道新幹線の間が6番と8番、在来線と東北新幹線の間が11番と12番です。従って改札口は18ヶ所。内訳は在来線改札が12【13~24番】、東海道新幹線改札5【1~5番】、東北新幹線改札1【10番】。
改札で分離された3種類の鉄道の複合駅であり、在来線も地上駅に加えて地下駅と京葉線があるため複雑さを増しています。

ここで 100年前、開業(1914/12/20)間もない頃の東京駅に思いを馳せます。
中央停車場という名で準備が進められていたこの駅の名が、正式に「東京」になったのは開業直前の大正3年12月5日で、開業式典は「京浜線」と呼ばれた電車線[39140]の開業を兼ねて 12/18に約1500人の招待者を相手に行なわれました。
つまり、新たに東海道本線の起点になった東京駅に乗り入れていた鉄道路線は、蒸気機関車牽引の本線列車の他に、電車線を使った京浜線電車と品川から乗り入れていた山手線電車があるだけでした。

これら3路線の乗客が入場した改札口は何箇所設けられていたのでしょうか?
驚くことに1ヶ所だけです。その名もズバリ「乗車口」。現在の「丸の内南口」です。

東京駅構内は、一方通行の動線で設計されていたのでした。対応する「降車口」が今の「丸の内北口」。
皇室用や郵便用・手荷物用は別として、改札口はこの2つだけ? と思ったら、「電車降車口」がありました。
2~3両の編成だった電車ホームは短いので 降車口通路に届かず、中央の皇室口の北側に電車降車口を設け、1919年からは乗降兼用の「電車口」になったとか。
戦後の1948年には、現在のように いずれの改札口からも乗降できるようになりましたが、「乗車口」・「降車口」という名は 1959年まで使われ続けたので、学生時代には馴染んでいました。

次は、新幹線の時代になってから東京駅の表のような顔になった八重洲口の来歴を探ります。
[88852] 2015年 10月 5日(月)18:06:40hmt さん
「~改札」と「~口」との使い分け
[88850] グリグリ さん
新橋駅の改札口名称です。正式には烏森改札、汐留改札、銀座改札、日比谷改札です。

5年前に[74436]を書いた当時の駅構内図では烏森口、汐留口、銀座口、日比谷口となっていたので、次のように記しました。
「新橋駅○○口」というのは、駅構内への出入口ではなく、改札口の名として使われており、自由通路に面した南側唯一の地上改札口が「烏森口」で、「汐留口」は1976年 横須賀線の地下移設時にできた東側の地下改札口でした。

同じURLを参照したのですが、その後「~口」から「~改札」へと呼び名が変ったようです。

新橋駅烏森口を出て、自由通路を西の烏森方面に出ても、東の汐留方面に出ても「新橋烏森口駅前」?
そんなバカな。 やはり、この表記はおかしいのかもしれません。

こんな「つぶやき」がJRに届いたのか、「南側自由通路の西側が烏森口、東側が汐留口……と思っていた」人が多数いたせいなのか、南側の改札口は「烏森改札」という名称に改められ、「~改札」と「~口」とを使い分けることにしたものと推察します。

「~口の改札を出たところ」と言うように指定しないと、改札付近なのか駅構内出口付近なのか紛らわしい

汐留改札と言えば地下、汐留口と言えば烏森口を出て東に出た地上。待ち合わせするなら、きちんと指定しないと…

新橋駅よりも複雑な上野駅でも「~改札」と「~口」とを使い分けているようです。
上野駅は、中央改札、不忍改札、公園改札、入谷改札の4か所でちょっと惜しい

上野駅構内図を見ると、「~改札」は4ヶ所でも、「~口」は9ヶ所?あるようです。
中央改札に通じるのが正面玄関口と左右の広小路口・浅草口、更に東上野口。不忍改札に通じるのが山下口と不忍口。マピオンには西郷口というのも記されていました。公園改札の前には公園口。入谷改札の近くにはパンダ橋口があり、それと別に 長~い 入谷通路を隔てて入谷口。
[88851] 2015年 10月 5日(月)16:06:17hmt さん
時刻表
[88848] グリグリ さん
Googleロゴが、時刻表発行121周年を記念した仮想の時刻表画像になっています。

鉄道時刻表そのものは、もちろん明治5年の開業時から存在しました。[80065]汽車運転之時限並賃金表
冊子形式としては、1889/7/1の東海道本線全通の翌月、明治22年8月に大阪の忠雅堂が刊行した 日本全国汽車時間表 があります。
今日121周年を迎えたのは、月刊時刻表の元祖『汽車汽船旅行案内』(庚寅新誌社)です。[23129]

『汽車汽船旅行案内』は大正4年(1915)に庚寅新誌社・交益社・博文館3社の合同事業となり、創刊号は前身の号数を引き継いだ第244号から始まりました。筑波山オフ会のページを開き、オフ会企画の中の『公認汽車汽船旅行案内』の部分をクリックすると、3社を象徴する三本松の新しい表紙【245号】の画像が出ます。

時刻表と言えば思い出すのが 中央公論社の編集者というよりも退職後の鉄道エッセイの分野で知られた宮脇俊三さん[88004]です。
『時刻表昭和史』の中で父が愛用していたポケット版時間表の表紙にも触れています。
私の記憶にある最初の「時間表」の表紙には、そんな色刷りの絵が載っていた。護岸も路盤もなく、自然のままのやわらかい砂の上を汽車が走っているように見えるのはおかしいが、旅心をそそる絵ではある。

付言すると、小学生だった宮脇さん本人は 丹那トンネル開通を機に 母にせがんで自分用を買ってもらいました。
それはポケット版ではなく、現在のJTB時刻表の前身である『鉄道省編纂・汽車時間表』【1925年創刊】でした。
絵本のように大きな時刻表であった。こんな立派な「汽車の時間表」があったのかと私は思った。算用数字で組まれ、左開きであることも、父のよりよほど上等な時刻表に見えた。【時刻表昭和史】

ところで、Googleロゴとして使われた仮想時刻表画像。
NAVERまとめ を見たら、画像クリックで拡大できるようになっていました。
参考までに駅名を列挙 足柄山 しょうじょう寺 かっぱ石 稲穂? かちかち山 ある山里 鬼ヶ島 竜宮城 丹後の国 大江山 八郎潟 イーハトーブ 月の都

列車名は特急ぶんぶく2号に始まり、かめ(6号 12号)うさぎ(14 16 18号)まで。
色分けは列車種別ではなく、GOOGLEの文字になっています。

足柄山から月の都まで「かめ」の所要時間約2時間に対して「うさぎ」は約1時間半と俊足で、かめ12号の後で発車した うさぎ14号が月の都に先着。これは順当です。
ところが、月の都から先、終着駅の隠れ里までの所要時間を見ると、面白いことに気がつきます。
かめ12号は2h20mと、特急に劣らないスピードを出しているのに、うさぎ14号は3時間近くを要しています。
自分の俊足におごった うさぎ14号は、どこかで40分も停車し、かめ12号より30分も遅れて終着駅に到着。
ちゃんと物語の筋書き通りの結末になっていました。


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