[11293]でるでる さん
小学時代の社会科の授業で、利根川の流路変遷(東遷事業)について教っておりました。確かその時に「会ノ川(会の川?)」という川が(行田市か羽生市あたり?)元々は利根川の本流であったとよく聞いた記憶もあります。
私も小学生の時に、江戸幕府による利根川の東遷事業を知った時は、そのスケールの大きさに強い衝撃を受けています。この掲示板でも、
[1639]、
[11153]等でIssieさんが記述されていますが、会の川については触れられていませんでしたので、ネットで調査して見ました。
利根川・荒川の変遷の概要については、以下のHPがわかり易いですね。古代の河川流路予想図も載っています。
http://www.pref.saitama.jp/A06/BI00/nouson/suiri/1.htm
このHP中の河川の流路変遷の年表によれば、
「1594年 忍城主松平下野守忠吉は、川俣の下流で二派に分かれていた利根川の流れの一方(会の川)を締め切り、本線を浅間川筋とした。」
16世紀末、利根川は川俣(現羽生市)で二派に分かれた後、下流で合流し、現在の古利根川の流路で南に流れ、「(元)荒川や入間川と合流し、現在の隅田川を通って江戸湾(東京湾)へ」流れ込んでいたようですね。
しかし、1594年といえば、徳川幕府開幕の9年前、徳川家康の江戸入府は、1590年の小田原征伐直後ですから、徳川家康は江戸に入って直ぐに利根川の治水工事に着手していたことになります。
地図で見ると、現在の会の川は、羽生市の西部を南に流れ、その後、流れを東に変えて羽生市・加須市の境界となり、更に、加須市街を通り、東北縦貫道の加須インターの真下を抜けたすぐ後で葛西用水路に合流して終わっています。
余談ですが、年表中の忍城主松平下野守忠吉は、徳川家康の4男ですが、1580年生まれなので、会の川締め切り工事当時は満で13歳か14歳。とても本人が工事を仕切ったとは思えませんよね。しかし、その後の関ヶ原合戦では活躍し、兄の秀忠に代わって徳川2代将軍となる可能性もあったそうです。