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利根川東遷−利根川の流路の変遷について−

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記事数=8件/更新日:2005年5月2日/編集者:YSK

利根川は江戸期以降、断続的に付け替えられながら、現在の流路へと移り変わっていきました。このことについて、メッセージをまとめました。

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[1639]2002年5月26日
Issie
[1643]2002年5月27日
Issie
[3702]2002年10月8日
らるふ
[11153]2003年3月13日
Issie
[11293]2003年3月16日
でるでる
[11323]2003年3月16日
KMKZ
[11453]2003年3月19日
KMKZ
[13516]2003年4月20日
KMKZ

[1639] 2002年 5月 26日(日)20:44:30Issie さん
利根川東遷
> 鹿島神社や香取神宮は彼方此方に存在しますね。

人気のある神様なんでしょうね。
特に「香取」(かとり←かんどり)は「舵取り」(→かんどり)に通じますから,「戦の神様」だけでなく水運関係にも人気があるようです。

> 平将門と藤原純友の仲

この2人が本当にツルんでいれば面白かったかもしれませんが,「東西相呼応して」というのは都の貴族連中の妄想だったというのが実際のところのようです。坂東の戦乱と西海の反乱とでは性格も目的もだいぶ違っているようですからね。2人が同時に都にいた可能性は十分ありえるのですが,お互いにお友達だった証拠はないのですよね。

> 関宿の分流点から常磐道橋梁付近の鬼怒川との
> 合流点迄が該当するのかな?

今の地図を見ているとそのように思ってしまうのですが,実際に全く新しく開削したのは栗橋や関宿のあたりのごく短い区間だけで,特に関宿以東は以前からあった水路を拡幅して少しばかり手を加えただけです。

(前にも書いたかもしれませんが,)実は関東平野の中で一番低くなっているのは栗橋のあたりで(ここがどんどん沈んでいるのです。逆に南部の東京湾岸地域はどんどん持ち上がっている),そこを荒川・利根川・渡良瀬川の3大河川が寄ってたかって埋めている最中です。
そのせいで特に埼玉県北部から群馬県南東部にかけては3つの河川の大乱流地帯となっていて,昔から流路が安定していない地域でした。
たとえば,荒川は現在では熊谷から南へ流れて川越で入間川と合流するルートをとっていますが,「元荒川」という東へ流れるルートもあるし,足立郡と埼玉郡の境界が綾瀬川であることはかつてはこれが荒川の主なルートの1つであったことを示唆しています。
これは利根川や渡良瀬川でも同じで,つまり今の北埼玉郡一帯には利根川の流路が無数にあった。それを戦国末期以来,あちこちの区間で堤防を築きながら固定されて成立したのが現在の流路なのです。
「利根川東遷」と呼ばれる大土木事業は,単に「江戸を洪水から守るための放水路」を建設するための1回かぎりの事業ではなくて,こうしたたびかさなる治水事業の総仕上げとして行われたもので,同時に房総沖の難所を避けて銚子と江戸を結ぶ内陸水路を開くための事業でもありました。
最終的に,今の地図にあるような流路が確定するのは,カスリン台風を経験した後の戦後になってからのことです。明治・大正期には,あちこちの区間で今とは違うルートが本流とされていました。
一方で,県境の方は府県制と郡制が実際に施行された明治半ば,世紀の変わり目で固定されてしまいます。流路の変更はその後も続いたわけで,そのせいでお互いのズレが大きくなってしまいました。

なお利根川が鬼怒川とつながるまでの常総地域で一番分かりやすい境界線は鬼怒川だったわけで,したがってこれが国境となっているのです(途中で国境は小貝川に移るけど,これはかつてはこちら本流だったことを示唆するのでしょうね)。古河を含む現在の猿島郡西部は旧(西)葛飾郡。後に武蔵に編入された江戸川右岸(西岸)の区域も含めて「葛飾郡」というのは,(古)利根川左岸の下総国北西境を限るたいへん広大な郡だったのです。

> 佐原付近で県境が利根川本流から北に外れて居る

実は小貝川合流点以東の区間では常総国境,そして両県の境も当初は利根川本流筋よりも北にありました。現在の稲敷郡河内町と東町の利根川沿いの区域は1899年に当時の村ごと千葉県香取郡から茨城県稲敷郡に移管された地域です。このときに利根川本流→横利根川→常陸利根川というのが県境として確定したのです。

関宿以東の現在の利根川筋は,平将門の時代はもちろん中世末期まで陸地だか水辺だか分からないような湿地帯でした。海音寺潮五郎の『平将門』で一度劣勢に陥った将門がこのあたりの芦辺に身を隠す場面がありますが,それは『水滸伝』の梁山泊や「芦の陰から漕ぎ出す船…」で始まるロシア民謡の「ステンカ・ラージン」を連想させます。そんな場所だったのですね。
当然,下総と常陸の境も曖昧だったわけで,ある程度確定する頃には少し北寄りのラインとなった。

江戸時代初めの東遷事業でそうした水路の1つが利根川筋として固定され,沿岸の排水と新田開発が進められます。
この新田開発には南岸の下総側の村も利根川本流筋を越えて積極的に参加します。現在「水郷」と呼ばれている与田浦一帯の地域は佐原周辺の村からの新田でした。そんなこともあって,このあたりは明治の大合併の時には利根川本流をまたいで「佐原町」や「津宮村」などの一部となります。潮来は常陸の行方郡だけど川(後に常陸利根川となる)の対岸は下総の香取郡。
結局は,これがそのまま現在の県境になったのですね。
このあたりに頑丈な堤防が作られて陸地と河川敷を完全に分離する事業が始まるのは大正から昭和初期,ちょうど「船頭小唄」が流行した頃。事業が完成するのは,ようやく戦後になってからです。「潮来花嫁さん」が流行した頃かな。

今のすっきりしてしまった川筋からはなかなか想像しにくいけれど,戦前までのこのあたりの様子は今とはだいぶ違っていたのですね。
[1643] 2002年 5月 27日(月)19:02:41Issie さん
利根川水運
>関宿経由の水運が盛んだったと云う訳ですね

その通りです。
銚子は単なる漁港としてだけでなく,東北方面からの外洋船から利根川を遡上する川舟への積み替え港として発展しました。
銚子や野田の醤油,流山の味醂,佐原の酒はこうした物資の流れを背景に発展したものだし,佐原の伊能忠敬が隠居してから測量を学んで全国を歩き回れたのも,「笹川の繁蔵」のような侠客が活動できたのも,水運がもたらす豊かさのおかげでした。
「潮来の伊太郎」もそうでしょうね。
関宿に譜代大名が配置されたのも,ここが軍事だけでなく経済的にも要衝に当たるからでしょう。

とは言え,関宿経由はやはり遠回り。
鮮度が要求される魚については,銚子から木下(きおろし:印西市)や布佐(我孫子市)まで舟で運ばれた後,陸路で北総台地を横断して行徳(市川市)から再び舟に積まれて,新川(江戸川区葛西)→小名木川を経て日本橋へ,というルートで運ばれました。
そのようなわけで,利根川・江戸川沿いにはそのような河港が並んでいたのです。

明治に入っても利根川水運は活況を呈していましたから,関宿経由を少しでもショートカットしようと,現在の野田市南境に沿って利根運河が開削されました。しかし,その頃からようやく水運は鉄道に押されて衰退を始めます。「船頭小唄」は,こうした水運終末期の歌なのですね。

実は河川を水運の交通路として使うための治水政策と,洪水を防ぎ増水した水を速やかに排水するための治水政策とでは根本的に思想と技術が違っています。利根川水運が衰退して交通路としての役割が期待されなくなって初めて,現在のような高く頑丈な堤防の中に川を封じ込めてしまうような治水事業が可能になりました。

>現在でも房総半島の迂回だけで、相当の時間ロスらしいし

戦時中,かなり本気で利根川と東京湾を直結する水路を開削する計画が進められました。
そもそも江戸時代以来の印旛沼干拓事業の目的の1つは,このようなルートの開削にあったのですが(だから花見川が拡幅・整備された),戦時中の計画では船橋市と習志野市(当時は津田沼町)の境界付近で東京湾に注ぐ,というものでした。
もちろんこれは戦争の激化で中止されるのですが,部分的には着工もされていて10年ほど前まではこの水路を越えるために京成電鉄が途中まで作りかけた橋の跡が残っていました。
これは京葉道路の船橋インターへの取り付け道路の拡幅工事で撤去されてしまったのですが,この取り付け道路こそ,かつての水路予定地だったようです。

>春日部市の「古利根川」も同様でしょうか?

これが利根川の本流と認識されていたからこそ,武蔵と下総のもともとの国境とされたのです。この川の左岸(東岸)が下総国葛飾郡,右岸(西岸)が武蔵国埼玉郡。江戸時代になって,かつての渡良瀬川の下流部が利根川分流の江戸川として整備されてから,江戸川以西の葛飾郡が武蔵に所属替えされ,それが明治になって東京・埼玉・千葉・茨城の4府県に“5つの葛飾郡”が分かれて所属することにつながったのです。
[3702] 2002年 10月 8日(火)19:21:31らるふ さん
千葉県の県境河川
利根川が関宿で江戸川と枝分かれして、そのふたつの川の間に千葉県があります。
でも、実は千葉県と茨城県の県境は利根川ではありませんでした。
江戸幕府の治水事業で付け替えられ、まあ概ね今の形になりました。
江戸川の少し西に「古利根川」という川があり、その流れが本来の利根川の下流で、東京湾に流れていました。その利根川を現在の栃木・群馬・埼玉の県境近辺で渡良瀬川につなげ、茨城・埼玉・千葉の県境から東へ掘り進み鬼怒川の支流の常陸川に流れを変え、鬼怒川の河口の銚子まで利根川を通しました。
ちなみに現在の江戸川は渡良瀬川の下流でした。
利根川の付け替え事業は、水害対策、交通水路、伊達家対策などが目的と言われているようです。
[11153] 2003年 3月 13日(木)19:04:06【1】Issie さん
権現堂川
私,ずっと以前(まだ書き込み番号が2桁か3桁の頃)に,埼玉県内で「古利根川」と呼ばれる川が東京都に入って「中川」と呼ばれている,という趣旨の書き込みをしたことがあるですが,これは間違いでしたね。
「古利根川」は吉川市・越谷市・松伏町の境界の交点付近で「中川」に合流しているけど,中川そのものはずっとさかのぼって,春日部市と庄和町の境界や,五霞町と幸手市の境界(つまり埼玉・茨城県境),幸手市と栗橋町の境界などを構成しつつ,少なくとも加須市の樋遣川(ひやりかわ)地区のあたりまでたどることができます。現在の中川はこのあたりの湧き水や,水田からの落ち水,農業用水の余り水などを集めて流れ出しているようですね。

このあたりは,かつての利根川・渡良瀬川・荒川水系の乱流地帯で,人手が加わる以前にはおそらくかなり自由に流路を替えていたと思われます。
現在では細い細い単なる用水路にしか見えない流れでも,かつては利根川の本流(の1つ)であったものも少なくありません。地形的に「自然堤防」と呼ばれる細長く屈曲しながら連なるわずかな高まり(2列が並行していることが多い)の分布は,かつてそこが川の主たる流路であったことを示唆します。

逆に今は立派な本流にみえる川筋が人工的に開削されたものであることも少なくありません。
たとえば,現在は利根川の本流とされている五霞町と総和町・境町の間の流路は17世紀初めの「利根川東遷事業」事業といわれる一連の治水事業(必ずしも全体的な構想に基づいて体系的に行われたものではないらしい)の一環として人工的に開削されたもので,「赤堀川」と呼ばれます。
それまでは権現堂川が利根川の本流でした。
赤堀川が開削された後も20世紀初めまでは権現堂川の方が本流的な存在であったようで,1909年の地形図でも明らかに権現堂川の方が大きな流れになっています。

この川の両側はもともと「下総国葛飾郡」でしたが,江戸時代の初めに「権現堂川~中川中流部~現松伏町金杉地区と吉川市の境界を構成する小水路~江戸川下流部」というラインを境に「葛飾郡」の西半分が「武蔵国」に所属替えとなりました。
明治に入り,権現堂川の南側が(最終的に)「埼玉県」,北側が「茨城県」に所属することとなり,それぞれ「北葛飾郡」「西葛飾郡」を経て,現在の「幸手市」「猿島郡五霞町」に至ります。

現在「江戸川」と呼ばれる流路の北半分(関宿~金杉間)もまた,17世紀初めに人工的に開削された流路です。江戸時代,この流路が利根川水運の関宿~行徳ルートとして整備されることになるのですが,金杉以北で「総武国境」となっていたのはこの「江戸川」ではなく「中川」の方だったのです。
明治になって「千葉県」と「埼玉県」の県境は江戸川とされました。したがって,「下総国葛飾郡」のうち江戸川以西の区域は千葉県ではなく埼玉県の所属となりました。「武蔵国葛飾郡」のうち,埼玉県所属の区域は「北葛飾郡」となりましたが,埼玉県に所属することになった「下総国葛飾郡」の一部は「中葛飾郡」となり,明治半ばの郡制施行の際に下総国から「武蔵国北葛飾郡」に編入されました。現在の庄和町と,幸手市・杉戸町・松伏町のそれぞれ一部がこれに相当します。

…というわけで,現在は小さな川に見える権現堂川は,茨城県と埼玉県とが分けられた頃には,今よりもずっと大きな川だったのです。

同様に,前橋付近で現在の利根川本流ではなく広瀬川が(東)群馬郡と(南)勢多郡の境になっていたのは,かつてはこちらが利根川本流だったからです。
現在の荒川本流でも元荒川でもなく,綾瀬川が(北・南)埼玉郡と(北)足立郡の境界になっているのも,かつては荒川の分流の1つとして,それなりに大きな流れであったことを示唆しているのだと思います。
[11293] 2003年 3月 16日(日)04:15:12でるでる さん
権現堂川と会の川
[11123]KMKZ さん
権現堂川とは地元での呼称なのでしょうか?

私の周りでは、権現堂川という名称の方が、馴染んでいるような気がしますが、たいてい中川と呼んでも通じますね。

[11153]Issie さん
現在は小さな川に見える権現堂川は,茨城県と埼玉県とが分けられた頃には,今よりもずっと大きな川だったのです。

詳細なご説明をして頂きまして、どうもありがとうございました。現在の権現堂川(中川)の姿からでは、かつては利根川の本流であったというのは、驚きです。そういえば、小学時代の社会科の授業で、利根川の流路変遷(東遷事業)について教っておりました。確かその時に「会ノ川(会の川?)」という川が(行田市か羽生市あたり?)元々は利根川の本流であったとよく聞いた記憶もあります。
[11323] 2003年 3月 16日(日)22:12:23【4】KMKZ さん
会の川 - 旧利根川本流
[11293]でるでる さん
小学時代の社会科の授業で、利根川の流路変遷(東遷事業)について教っておりました。確かその時に「会ノ川(会の川?)」という川が(行田市か羽生市あたり?)元々は利根川の本流であったとよく聞いた記憶もあります。
 私も小学生の時に、江戸幕府による利根川の東遷事業を知った時は、そのスケールの大きさに強い衝撃を受けています。この掲示板でも、[1639][11153]等でIssieさんが記述されていますが、会の川については触れられていませんでしたので、ネットで調査して見ました。

 利根川・荒川の変遷の概要については、以下のHPがわかり易いですね。古代の河川流路予想図も載っています。
http://www.pref.saitama.jp/A06/BI00/nouson/suiri/1.htm

 このHP中の河川の流路変遷の年表によれば、
「1594年 忍城主松平下野守忠吉は、川俣の下流で二派に分かれていた利根川の流れの一方(会の川)を締め切り、本線を浅間川筋とした。」

 16世紀末、利根川は川俣(現羽生市)で二派に分かれた後、下流で合流し、現在の古利根川の流路で南に流れ、「(元)荒川や入間川と合流し、現在の隅田川を通って江戸湾(東京湾)へ」流れ込んでいたようですね。
 しかし、1594年といえば、徳川幕府開幕の9年前、徳川家康の江戸入府は、1590年の小田原征伐直後ですから、徳川家康は江戸に入って直ぐに利根川の治水工事に着手していたことになります。

 地図で見ると、現在の会の川は、羽生市の西部を南に流れ、その後、流れを東に変えて羽生市・加須市の境界となり、更に、加須市街を通り、東北縦貫道の加須インターの真下を抜けたすぐ後で葛西用水路に合流して終わっています。

 余談ですが、年表中の忍城主松平下野守忠吉は、徳川家康の4男ですが、1580年生まれなので、会の川締め切り工事当時は満で13歳か14歳。とても本人が工事を仕切ったとは思えませんよね。しかし、その後の関ヶ原合戦では活躍し、兄の秀忠に代わって徳川2代将軍となる可能性もあったそうです。
[11453] 2003年 3月 19日(水)09:49:25KMKZ さん
伊奈備前守忠次 - 会の川締め切り工事の監督
徳川氏による利根川東遷事業の口火となる会の川締め切り工事を監督したのは、伊奈備前守忠次でした。

[11323]
忍城主松平下野守忠吉は、(中略)当時は満で13歳か14歳。とても本人が工事を仕切ったとは思えません
[11335]ken さん
松平忠吉は、関ケ原の戦場では、井伊直政の指導下で、活躍をしてますので、1594年当時も、家康関東入部時、家臣中で最大の所領を持っていた、上野厩橋城主、井伊直政の指導下にあったか、あるいは忍城拝領時には、忠吉本人は赴任せず、松平家忠が城預かりとして入りますので、そのあたりかと

利根川の歴史年表を見つけました。
http://www.tonejo.go.jp/jiten/rekisi/file/reki9-1.htm
この年表には、
文禄3年(1594) 伊奈備前守監督のもとで、忍城主松平忠吉の臣、小笠原三郎右衛門によって利根川の瀬替え、東遷工事が始まる。
とあり、伊奈備前守(表の前後の記述から伊奈備前守忠次と思われる)が工事監督でした。
 治水工事には専門知識が必要、いくら戦さ上手でも、井伊直政や松平家忠は利根川の治水工事には手も足も出なかったのでしょうね。

 この会の川締め切り工事以降、伊奈氏は、忠治、忠克と3代、60年に渡る利根川東遷事業を遂行し、利根川を日本最大の流域面積を誇る河川へ変えてしまったわけです。

 余談ですが、埼玉県北足立郡伊奈町、茨城県筑波郡伊奈町は共に伊奈氏の陣屋があったことに因む町名だそうです。
[13516] 2003年 4月 20日(日)10:04:28KMKZ さん
備前堀と伊奈氏
[13505]YSK さん
備前堀は、千波湖の溢水予防と耕地1000町歩の開墾用水路として、1609(慶長14)年、伊奈備前守忠次によって開削された用水路
伊奈備前守忠次は新規にアーカイブズ登録された「利根川東遷-利根川の流路の変遷について-」に登場する利根川東遷の立役者、代官頭として関東の天領をまかされた方です。

関東の開発に多大な足跡を残した伊奈氏については以下のページが詳しいです。
http://www5.ocn.ne.jp/~sasamata/inashi.html 伊奈氏の系譜
近世の土木史上で「伊奈流(備前流)」といわれる河川修治技術を駆使した伊奈氏の業績はその支配地であった関東(旧武蔵国)の各所に備前堀とか備前堤という名で残されている。
#しかし、関東(旧武蔵国)とは?

そもそも利根川東遷事業の一環として人口的に開削され現在の利根川本流となっている栗橋から関宿までの区間も赤堀川とか備前堀と呼ばれていたらしいです。
http://www.chiba-muse.or.jp/SEKIYADO/tousen.htm 利根川東遷
次いで元和7年(1621)から承応3年にかけて、関東郡代伊奈氏のもとで三度にわたって行われた赤堀川(備前堀)の開削により、利根川本流が常陸川を経て銚子河口に至るようになりました。

その他、ネットで調査したところ、水戸の備前堀、利根川本流となった備前堀以外にも関東で更に少なくとも3箇所の備前堀がありました。

[埼玉県深谷市付近の備前堀]
http://www1.odn.ne.jp/fukadasoft2/renga/around/bizenkyo/
備前渠用水は、1604年に開削された農業用水路。伊奈備前守忠次によって計画されたので、この名となった。
(中略)
埼玉県の北部では親しみを込めて、備前堀と呼ばれている。

[埼玉県久喜市付近の備前堀]
http://www1.odn.ne.jp/fukadasoft2/renga/around/bizenhori/index.html
備前堀川は、延長約11Kmの中川水系の排水河川。騎西町を起点とし宮代町で大落古利根川に合流する。
備前(現.岡山県)という名称は、伊奈氏(備前守)が開削したことに由来する。

[群馬県高崎市の備前堀]
http://www.gunmaibun.org/jiten/iseki0932.htm
畝状遺構は、遺物も少なく時期の特定は困難であるが、17世紀に玉村代官の伊奈備前守忠次が計画したとされる、通称「備前堀」により一部掘削されており、

なお、熊本城にも備前堀(熊本城唯一の水掘)がありますが、こちらは伊那氏とは関係ありません。
http://www.infobears.ne.jp/athome/fukusuke291/5bizenbori.htm
加藤清正の前の国守、佐々成政の遺族である佐々備前守がこの付近に住んでいたので、この名前がついたようです。
なんと、去年の大河ドラマ「利家とまつ」に登場した佐々成政ゆかりの堀でした。

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