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なぜ「葛飾」は複数の都県にまたがっているのか?

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記事数=10件/更新日:2005年4月5日/編集者:YSK

埼玉県北葛飾郡、千葉県東葛飾郡(2005年3月消滅)、東京都葛飾区と、「葛飾」は複数の都県に存在します。また、茨城県の一部地域も「葛飾」であったことがあるようです。この「葛飾」の事情についてのメッセージをまとめました。

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[755]2002年1月30日
Issie
[1639]2002年5月26日
Issie
[1644]2002年5月27日
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[3535]2002年10月3日
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ken
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[11163]2003年3月13日
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[39431]2005年4月5日
hmt

[755] 2002年 1月 30日(水)23:44:47Issie さん
Re:郡の東西南北
前の発言の続きを送ろうとしたら,また CGI BUSY になってしまいました。
グリグリさんは私のせいではないと言ってくれたけど,何か複雑。
ともかく復活したようなので,もう一度アップしなおします。

肥前国の「松浦郡」は「東松浦郡」「西松浦郡」(佐賀県),「北松浦郡」「南松浦郡」(長崎県)に分割されています。
日向国の「諸県郡」は鹿児島県から宮崎県が分離したとき,宮崎県となった区域が「北諸県郡」,鹿児島県に残った区域が「南諸県郡」となりました。宮崎県の北諸県郡からはその後さらに「西諸県郡」と「東諸県郡」が分離し,2県にまたがって東西南北の諸県郡がそろいました。しかし,郡制施行に際して鹿児島県の南諸県郡は東噌唹郡と統合されて「噌唹郡」となり,日向国から大隈国に編入されました。

武蔵国は最終的に東京府と埼玉県,神奈川県に分割されましたが,「足立郡」のうち東京府の管轄となった区域が「南足立郡」(現・足立区),埼玉県の管轄に入った区域は「北足立郡」となりました(その後,郡制施行の際に埼玉県北足立郡は荒川をはさんだ新座郡を編入しています)。

「葛飾郡」はさらに複雑です。
葛飾郡はもともと「下総国」に属し,隣国の武蔵国や上野国・下野国と境を接して下総国の北西部を占める広大な郡でした。中世には現在の江戸川を境にして「葛西」「葛東」などに分けられたりしましたが,江戸時代の初め,幕府によって江戸川以西が「下総国」から「武蔵国」に所属変更がなされました。
明治になり廃藩置県ののちの県の再編を通して,両国にまたがる「葛飾郡」は東京府・埼玉県・千葉県・茨城県に分割されました。
そこで郡区町村編制法による郡編制の際に,それぞれ次のような呼称になりました。
武蔵国葛飾郡
 東京府の区域 --> 南葛飾郡
 埼玉県の区域 --> 北葛飾郡
下総国葛飾郡
 埼玉県の区域 --> 中葛飾郡
 千葉県の区域 --> 東葛飾郡
 茨城県の区域 --> 西葛飾郡
というわけで,「東西南北中」がそろいました。
(下総国葛飾郡の一部が埼玉県になったのは,江戸時代半ば以降の河川改修によって,江戸川の流れが少し東に移動したからです。)
しかし,郡制施行のための統合によって,埼玉県中葛飾郡は北葛飾郡に編入され(同時に武蔵国に編入),茨城県西葛飾郡は猿島郡に編入されました。一方,千葉県東葛飾郡は南相馬郡を編入しています(このために旧相馬郡は茨城県となった利根川以北の「北相馬郡」だけが残りました)。
さらに東京府の南葛飾郡は東京市に編入されて葛飾区と江戸川区となり,現在残っているのは千葉県の東葛飾郡(下総国)と埼玉県の北葛飾郡(武蔵国)だけとなったのです。
[1639] 2002年 5月 26日(日)20:44:30Issie さん
利根川東遷
> 鹿島神社や香取神宮は彼方此方に存在しますね。

人気のある神様なんでしょうね。
特に「香取」(かとり←かんどり)は「舵取り」(→かんどり)に通じますから,「戦の神様」だけでなく水運関係にも人気があるようです。

> 平将門と藤原純友の仲

この2人が本当にツルんでいれば面白かったかもしれませんが,「東西相呼応して」というのは都の貴族連中の妄想だったというのが実際のところのようです。坂東の戦乱と西海の反乱とでは性格も目的もだいぶ違っているようですからね。2人が同時に都にいた可能性は十分ありえるのですが,お互いにお友達だった証拠はないのですよね。

> 関宿の分流点から常磐道橋梁付近の鬼怒川との
> 合流点迄が該当するのかな?

今の地図を見ているとそのように思ってしまうのですが,実際に全く新しく開削したのは栗橋や関宿のあたりのごく短い区間だけで,特に関宿以東は以前からあった水路を拡幅して少しばかり手を加えただけです。

(前にも書いたかもしれませんが,)実は関東平野の中で一番低くなっているのは栗橋のあたりで(ここがどんどん沈んでいるのです。逆に南部の東京湾岸地域はどんどん持ち上がっている),そこを荒川・利根川・渡良瀬川の3大河川が寄ってたかって埋めている最中です。
そのせいで特に埼玉県北部から群馬県南東部にかけては3つの河川の大乱流地帯となっていて,昔から流路が安定していない地域でした。
たとえば,荒川は現在では熊谷から南へ流れて川越で入間川と合流するルートをとっていますが,「元荒川」という東へ流れるルートもあるし,足立郡と埼玉郡の境界が綾瀬川であることはかつてはこれが荒川の主なルートの1つであったことを示唆しています。
これは利根川や渡良瀬川でも同じで,つまり今の北埼玉郡一帯には利根川の流路が無数にあった。それを戦国末期以来,あちこちの区間で堤防を築きながら固定されて成立したのが現在の流路なのです。
「利根川東遷」と呼ばれる大土木事業は,単に「江戸を洪水から守るための放水路」を建設するための1回かぎりの事業ではなくて,こうしたたびかさなる治水事業の総仕上げとして行われたもので,同時に房総沖の難所を避けて銚子と江戸を結ぶ内陸水路を開くための事業でもありました。
最終的に,今の地図にあるような流路が確定するのは,カスリン台風を経験した後の戦後になってからのことです。明治・大正期には,あちこちの区間で今とは違うルートが本流とされていました。
一方で,県境の方は府県制と郡制が実際に施行された明治半ば,世紀の変わり目で固定されてしまいます。流路の変更はその後も続いたわけで,そのせいでお互いのズレが大きくなってしまいました。

なお利根川が鬼怒川とつながるまでの常総地域で一番分かりやすい境界線は鬼怒川だったわけで,したがってこれが国境となっているのです(途中で国境は小貝川に移るけど,これはかつてはこちら本流だったことを示唆するのでしょうね)。古河を含む現在の猿島郡西部は旧(西)葛飾郡。後に武蔵に編入された江戸川右岸(西岸)の区域も含めて「葛飾郡」というのは,(古)利根川左岸の下総国北西境を限るたいへん広大な郡だったのです。

> 佐原付近で県境が利根川本流から北に外れて居る

実は小貝川合流点以東の区間では常総国境,そして両県の境も当初は利根川本流筋よりも北にありました。現在の稲敷郡河内町と東町の利根川沿いの区域は1899年に当時の村ごと千葉県香取郡から茨城県稲敷郡に移管された地域です。このときに利根川本流→横利根川→常陸利根川というのが県境として確定したのです。

関宿以東の現在の利根川筋は,平将門の時代はもちろん中世末期まで陸地だか水辺だか分からないような湿地帯でした。海音寺潮五郎の『平将門』で一度劣勢に陥った将門がこのあたりの芦辺に身を隠す場面がありますが,それは『水滸伝』の梁山泊や「芦の陰から漕ぎ出す船…」で始まるロシア民謡の「ステンカ・ラージン」を連想させます。そんな場所だったのですね。
当然,下総と常陸の境も曖昧だったわけで,ある程度確定する頃には少し北寄りのラインとなった。

江戸時代初めの東遷事業でそうした水路の1つが利根川筋として固定され,沿岸の排水と新田開発が進められます。
この新田開発には南岸の下総側の村も利根川本流筋を越えて積極的に参加します。現在「水郷」と呼ばれている与田浦一帯の地域は佐原周辺の村からの新田でした。そんなこともあって,このあたりは明治の大合併の時には利根川本流をまたいで「佐原町」や「津宮村」などの一部となります。潮来は常陸の行方郡だけど川(後に常陸利根川となる)の対岸は下総の香取郡。
結局は,これがそのまま現在の県境になったのですね。
このあたりに頑丈な堤防が作られて陸地と河川敷を完全に分離する事業が始まるのは大正から昭和初期,ちょうど「船頭小唄」が流行した頃。事業が完成するのは,ようやく戦後になってからです。「潮来花嫁さん」が流行した頃かな。

今のすっきりしてしまった川筋からはなかなか想像しにくいけれど,戦前までのこのあたりの様子は今とはだいぶ違っていたのですね。
[1644] 2002年 5月 27日(月)20:15:32Issie さん
千葉県の成立
現在の千葉県の領域(ついでに茨城県も)がほぼ確定したのは1875年5月のことです。

廃藩置県が行われた明治4(1871)年7月の直後は,それまでの「藩」がそのまま「県」になっただけで,そこらじゅうに飛び地が散在する状況でした。それが4ヵ月後に国郡単位に再編されて,現在の都道府県に直接つながる区画(75府県)が成立しました。

このとき下総は東西に分割され,西部の千葉・印旛・埴生(はぶ)・葛飾・相馬・猿島・岡田・豊田・結城の9郡が「印旛県」(県庁予定地は印旛郡佐倉。しかし実際には暫定的に葛飾郡本行徳(市川市)を経て流山),東部の海上・匝瑳・香取の3郡は常陸南部の鹿島・行方・信太・河内・新治・筑波の6郡とともに「新治(にいはり)県」(県庁所在地は新治郡土浦)に所属することになりました。
同時に上総・安房の両国は「木更津県」(県庁所在地は望陀郡木更津),真壁・茨城郡以北の常陸は「茨城県」(県庁所在地は茨城郡水戸)となっています。
翌々年の1873年6月,印旛県と木更津県とが合併されて新たに千葉郡千葉に県庁を置く「千葉県」が発足します。このときの千葉県はまだ下総の西半だけを領域としていて,下総最北部の結城が千葉県に属する一方,東部の佐原や銚子は新治県の所属でした。
それが1875年になって利根川が県境とされることになり,新治県は解体されて利根川以南の下総3郡が千葉県に編入される一方,以北の結城・豊田・岡田・猿島4郡および葛飾郡と相馬郡の利根川以北部分が新治県の残りとともに茨城県に編入されます。
分割された「下総国葛飾郡」のうち千葉県に残った区域が「東葛飾郡」,茨城県に編入された区域は「西葛飾郡」となり,同様に「相馬郡」も「南相馬郡」と「北相馬郡」となりました。後に西葛飾郡は猿島郡に,南相馬郡は東葛飾郡に編入されています。

くわしくは,こちらをご覧になってください。
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/huken/k-kanto.htm
[3535] 2002年 10月 3日(木)23:39:06Issie さん
南葛
[3532]
>「南葛なんとか」

現物を見ているわけではないので推測ですが,それは「南葛飾」のことではないでしょうか。
東京の隅田川以東の墨田・江東・葛飾・江戸川の各区がかつて所属していた「南葛飾郡」。
Yahoo で検索をかけてみたら「南葛建設業協会」なんてのがヒットしました。江戸川区にある組織です。

あと,可能性があるのは奈良県の「南葛城」だけど,清里に保養所をつくるかしら。

なお,前のところにもちょこっと書きましたが,字をひっくり返して「葛南」とすると,千葉県の「東葛地域」(東葛飾)南部,東京湾岸の浦安・市川・船橋の3市の地域を指します。

さらに,「葛飾」つづき…
現在は江戸川区にある「葛西」という地名は遅くとも中世までに現れているものですが,元の範囲は現在よりもずっと広く,“下総国葛飾郡”の西部,中世までの渡良瀬川(太日川=現・江戸川)以西の区域を指しました。
だから後の「南葛飾郡」や埼玉県の「北葛飾郡」の区域にだいたい一致します。
[7439] 2003年 1月 7日(火)16:43:01ken さん
re:re:24番目の区を考える
[7425] の私の書き込みは、[7409] ヒロオ さんのご提議に対し、一見ちょっと批判的な物言いになってしまいましたが、
「現23区は異常な状態にある」というご主旨には大賛同なのです。

要は
「都市東京」を如何なる存在と定義し、その行政機構としてどういうものが相応しいか。
もはや単なる現行23区の離合集散では解決できる次元ではないのではないか、ということなんです。

例えば、江戸時代の「本郷もかねやすまでは江戸のうち」、「ご朱引きの内」という時の「江戸市中」の朱引きは、何を基準に判断し、どう行政手続化されたのか。
 (参考「かねやす」http://www.travelsite.co.jp/oedo/001.htm

・南葛飾郡を下総国のままでは不都合で、武蔵国に変更すべきと考えたのは何故だったのか。
当時、深川、本所、向島はともかく、砂村や小松川村などは、純農漁村であって、市中になったわけではないのに。
しかし、江戸市中を囲むある一定の周縁部のバッファー地帯は、江戸と同様の武蔵国内にすべき、という発想があったからこそ、付け替えが行われたのであろう。

・当初の東京15区の範囲は如何なる根拠で、東京市と定められたのか。

・1932年の周辺部の新20区の編入、35区化は如何なる判断で、行われたのか。
 当時渋谷町などは8万人を超える人口を持ちながら市制を敷かなかったのは何故?
(関東大震災の影響は十分考慮しなければなりませんが)
<参考>大昔の書き込みですが
[3327] ゆっさん

・1936年北多摩郡の砧村、千歳村を世田谷区に編入、この判断は、何故、誰が、どのように行ったのか?
・これの裏返しとして、同じ北多摩郡のその他の町村は、何故、その後、市街地の拡大にも関わらず、東京市に編入されることがなかったのか?
この点は瑣末ですが重要で、北多摩郡のこの2村が東京市に入れられたということは、旧豊多摩郡、北豊島郡、荏原郡、南足立郡、南葛飾郡の5郡は東京市にして、「北多摩郡は、府下にしておこう」という発想・判断基準は無かったことを意味します。

・1947年、板橋区を分区したのは何を判断基準に行ったのか?
・1947年、都心部を中心に合区をしたのは何故か?

都府県界は(歴史上も)アンタッチャブルではないですし、
現23区の領域自体、都市の発展とともに変遷・拡大してきたものである。(ある時期まで)

東京市は
1889年 15区にて東京市成立
1932年 20区を加え35区
1936年 北多摩郡砧村、千歳村を世田谷区に編入。現領域に。
1947年 都心部を中心に合区22区に再編。
1947年 板橋区を板橋区と練馬区に分区、23区に。
この間約58年間に以上4回の見直しが行われているが、一方1947年意向は
なんと56年間も、何の変更も加えられていない。
(この間の地域実態の激変については改めて述べるまでもないと思いますが)

単純比較にはなりませんが、横浜市の例を対比してみれば
1889年 横浜市誕生
1927年 鶴見区・神奈川区・中区・保土ヶ谷区・磯子区の5区設置
1939年 都築郡内の9村を編入し港北区に、鎌倉郡内の1町7村を横浜市に編入し戸塚区に。現市域に。
1943年 中区より南区分区
1944年 中区より西区分区
1948年 磯子区から金沢区分区
1969年 南区から港南区分区、保土ケ谷区から旭区分区、港北区から緑区分区・戸塚区から瀬谷区分区
1986年 戸塚区から栄区分区、泉区分区
1994年 港北区+緑区から青葉区・都筑区新設し4区に再編
と18区体制ができるまでにほぼ10年に一度は見直しが行われています。

10年一昔と申します通り、都市の発展と地域行政の見直しが、10年単位くらいでは必要になってくる一例だと思います。
56年間も、その激変にも関わらず、一度も手が入れられていない東京23区は、異常と言えます。
その歴史の前半で出来ていたことが、ある日を境に出来なくなった一因は、「特別地方公共団体」という、異形の自治体となってしまったことも影響しているでしょう。普通地方公共団体であれば出来たことが「特別」であるために出来ない。
その影響度の大きさに比べ、権限が非常に制限されている。
「身長2.2m体重250kgの1歳児」の如き奇形の自治体とでも言いましょうか。「特別」は普通でないということで、良い意味にも悪い意味にもなリ得ますね。

新東京の都市行政を真面目に考えるなら、東京都、埼玉県、神奈川県、千葉県の都県界を一度完全に廃し、上尾市、さいたま市、上福岡市、所沢市、立川市、府中市、多摩市、町田市、川崎市、横浜市、習志野市、八千代市、船橋市、鎌ヶ谷市、柏市、流山市、吉川市、越谷市、岩槻市、といった範囲に括られる内側を新「東京都」、あるいは新「東京市」とし、その内部は他の道府県の市町村とは違った、新たな発想の行政区分に再編すべき、
残部の東京都は、現行の都道府県制を継続するなら、埼玉県もしくは神奈川県(これは足柄県にでも名称変更必要ですね)に統合、あるいは、両者に分割。千葉県の残部は千葉県として存続。
(野田市、関宿町は、まあ、ご随意に、という感じですが、すみません。)
という感じです。
[11153] 2003年 3月 13日(木)19:04:06【1】Issie さん
権現堂川
私,ずっと以前(まだ書き込み番号が2桁か3桁の頃)に,埼玉県内で「古利根川」と呼ばれる川が東京都に入って「中川」と呼ばれている,という趣旨の書き込みをしたことがあるですが,これは間違いでしたね。
「古利根川」は吉川市・越谷市・松伏町の境界の交点付近で「中川」に合流しているけど,中川そのものはずっとさかのぼって,春日部市と庄和町の境界や,五霞町と幸手市の境界(つまり埼玉・茨城県境),幸手市と栗橋町の境界などを構成しつつ,少なくとも加須市の樋遣川(ひやりかわ)地区のあたりまでたどることができます。現在の中川はこのあたりの湧き水や,水田からの落ち水,農業用水の余り水などを集めて流れ出しているようですね。

このあたりは,かつての利根川・渡良瀬川・荒川水系の乱流地帯で,人手が加わる以前にはおそらくかなり自由に流路を替えていたと思われます。
現在では細い細い単なる用水路にしか見えない流れでも,かつては利根川の本流(の1つ)であったものも少なくありません。地形的に「自然堤防」と呼ばれる細長く屈曲しながら連なるわずかな高まり(2列が並行していることが多い)の分布は,かつてそこが川の主たる流路であったことを示唆します。

逆に今は立派な本流にみえる川筋が人工的に開削されたものであることも少なくありません。
たとえば,現在は利根川の本流とされている五霞町と総和町・境町の間の流路は17世紀初めの「利根川東遷事業」事業といわれる一連の治水事業(必ずしも全体的な構想に基づいて体系的に行われたものではないらしい)の一環として人工的に開削されたもので,「赤堀川」と呼ばれます。
それまでは権現堂川が利根川の本流でした。
赤堀川が開削された後も20世紀初めまでは権現堂川の方が本流的な存在であったようで,1909年の地形図でも明らかに権現堂川の方が大きな流れになっています。

この川の両側はもともと「下総国葛飾郡」でしたが,江戸時代の初めに「権現堂川~中川中流部~現松伏町金杉地区と吉川市の境界を構成する小水路~江戸川下流部」というラインを境に「葛飾郡」の西半分が「武蔵国」に所属替えとなりました。
明治に入り,権現堂川の南側が(最終的に)「埼玉県」,北側が「茨城県」に所属することとなり,それぞれ「北葛飾郡」「西葛飾郡」を経て,現在の「幸手市」「猿島郡五霞町」に至ります。

現在「江戸川」と呼ばれる流路の北半分(関宿~金杉間)もまた,17世紀初めに人工的に開削された流路です。江戸時代,この流路が利根川水運の関宿~行徳ルートとして整備されることになるのですが,金杉以北で「総武国境」となっていたのはこの「江戸川」ではなく「中川」の方だったのです。
明治になって「千葉県」と「埼玉県」の県境は江戸川とされました。したがって,「下総国葛飾郡」のうち江戸川以西の区域は千葉県ではなく埼玉県の所属となりました。「武蔵国葛飾郡」のうち,埼玉県所属の区域は「北葛飾郡」となりましたが,埼玉県に所属することになった「下総国葛飾郡」の一部は「中葛飾郡」となり,明治半ばの郡制施行の際に下総国から「武蔵国北葛飾郡」に編入されました。現在の庄和町と,幸手市・杉戸町・松伏町のそれぞれ一部がこれに相当します。

…というわけで,現在は小さな川に見える権現堂川は,茨城県と埼玉県とが分けられた頃には,今よりもずっと大きな川だったのです。

同様に,前橋付近で現在の利根川本流ではなく広瀬川が(東)群馬郡と(南)勢多郡の境になっていたのは,かつてはこちらが利根川本流だったからです。
現在の荒川本流でも元荒川でもなく,綾瀬川が(北・南)埼玉郡と(北)足立郡の境界になっているのも,かつては荒川の分流の1つとして,それなりに大きな流れであったことを示唆しているのだと思います。
[11162] 2003年 3月 13日(木)21:26:26KMKZ さん
旧茨城県西葛飾郡の変遷
[11153]Issie さん
権現堂川の南側が(最終的に)「埼玉県」,北側が「茨城県」に所属することとなり,それぞれ「北葛飾郡」「西葛飾郡」を経て,現在の「幸手市」「猿島郡五霞町」に至ります。。
私は、旧下総国葛飾郡の変遷に非常に興味があり、この掲示板に於けるIssie さんの葛飾郡に関する過去の書き込みと、Issie さんのHPの「郡の変遷」、「市町村の変遷」の葛飾郡に関する部分を全て拝見させていただきました。ただ残念なことに「市町村の変遷」は茨城県関連は未公開の為、西葛飾郡の変遷の詳細が判らず、ただ過去の書き込み[1639]から古河市は旧西葛飾郡であると判り、おそらく五霞町も旧西葛飾郡であろうと予想はしておりましたが、今回のIssie さんの書き込みで、私の予想が正しかったことが判り安堵しました。旧茨城県西葛飾郡の領域は現古河市全域+猿島郡五霞町と考えてよろしいのでしょうか?

実は、私なりに旧茨城県西葛飾郡の調査を試みた事があり、その過程で興味深いHPを見出しています。
http://www.city.koga.ibaraki.jp/rekihaku/2001haru/shigo.htm 下総国葛飾郡新郷絵図
この絵図の解説には、
現在の古河市南部に含まれる地域を、一枚の絵図に仕立てたもの。(中略)明治期半ばにおこなわれた河川改修によって川向うとなった伊賀袋村もこの図には含まれている。
とあり、地図を見る限り伊賀袋村とは現在の北埼玉郡北川辺町伊賀袋に該当するのは確実と思われます。すなわち、北川辺町の町域の内、伊賀袋地区だけは旧下総国葛飾郡だったと思われるのですが、Issie さんの「市町村の変遷」の北川辺町に関する記述には、この事実が触れられていないようです。
[11163] 2003年 3月 13日(木)21:38:44Issie さん
Re:旧茨城県西葛飾郡の変遷
[11162] KMKZ さん
ただ残念なことに「市町村の変遷」は茨城県関連は未公開の為、

ぢつわ…
茨城県は現在作成中だったりします。今月中には何とか,と思っているのですが。
その後,栃木県・群馬県と,一応「関東甲信越」はカバーしようという“遠大な構想”はあるのですけどね。いつのことやら。

地図を見る限り伊賀袋村とは現在の北埼玉郡北川辺町伊賀袋に該当するのは確実と思われます。

1932年7月1日に「茨城県猿島郡新郷村の一部を編入」というやつのようですね。
こちらは茨城県側と一緒に埼玉県側にも手を入れる予定です。
[12583] 2003年 4月 6日(日)23:06:09【2】KMKZ さん
白浦和、「こちらも葛飾郡」
[12553]Issie さん
昔,小田急には「相模厚木」という駅がありました。
戦前に先例がありましたか。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/1732/rail/atsugi.html
ただし、この例は、別会社の駅同士の同名回避ですね。同一会社の駅同士ならば、やはり、武蔵浦和が最初でしょうか?

浦和の場合,東西南北中と考えられる接頭辞を使い切ってしまったせいもあるかもしれませんね。
おそらくそうでしょうね。
しかし、東西南北白発中で白浦和、発浦和でもよかったのでは?ロシアに対して白ロシアってのもありますし。。。(笑)


[11163]Issie さん
茨城県は現在作成中だったりします。
Issieさんのページに市町村の変遷/茨城編が追加され、ついに旧下総国葛飾郡の全貌を知ることができました。ありがとうございました。
小学3年の時に、地図を眺めていて、かつての葛飾は、葛飾区だけでなくて1都2県(実は1都3県)に跨った広い範囲を占めていたことに気づいたことが子供時代の自分にとっての「地理学上の大発見」で、それ以来、旧葛飾郡にこだわっていました。

全貌が分かったことですし、こんな標語を作ってみました。

こちらも葛飾郡、古河城の古河公方様。

こちらも葛飾郡、TDLのミッキーマウス。

こちらも葛飾郡、松戸のぢょしこぉせぇ。

こちらも少しは葛飾郡、春日部のクレヨンしんちゃん。

こちらは葛飾郡内合併、幸手市と五霞町。

失礼しました。m(_ _)m
[39431] 2005年 4月 5日(火)23:45:29hmt さん
もう一つの古隅田川
[39384]Issie さん
中川と荒川(放水路)の間で足立区と葛飾区の境界となっている「古隅田川」

古隅田川が存在していた 江戸時代初期の推定図 があったので、リンクします。
17世紀までは 古利根川上流から 隅田川鐘ヶ淵付近までの流れがあった ことが示されています。
利根川の下流である「隅田川」が、鐘ヶ淵付近で支流の「入間川」を合流していた ことになります。
古利根川からの流れが遮断された後も、細々とした流れが郡界の大河の痕跡を留め、現在は一部分が親水公園として復活しているようです。

ところで、「隅田川」に「入間川」が合流していたとなると、「荒川」はどこへ行った?
「荒川の西遷」[38111]よりも前には、現在の元荒川筋を流れて、越ヶ谷の下流、吉川の対岸あたりで利根川に合流していたのですね。
ところが、中世に遡ると、荒川が利根川に合流していたのは、もう少し上流、それも利根川(現・中川)の上流ではなく、荒川(現・元荒川)の上流側、岩槻付近であったということです。

これに関連して、「古隅田川」が もう一つあったことを示しておきます。
というか、こちらは、姿は変えているが、河川の名前としては一応現存しているらしい。
場所は、埼玉県春日部市。豊春駅付近のマップ
現在は改修されて変化した河道を東流して古利根川に注ぐ支流ですが、中世には利根川の本流で、西流して慈恩寺支台の縁から支流の荒川(現・元荒川)を合流させていたようです。
ここでも、隅田川の名と共に、業平橋や梅若塚が伝えられています。

本題の「葛飾」を忘れるところでした。
この「古隅田川」も、武蔵国太田庄花積郷(埼玉郡)と下総国下河辺庄新方(葛飾郡)との境界でした(永徳3年,1383の文書)。
従って、中世には、粕壁も「葛飾」だったわけです。

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