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利根川と国境・県境との関係

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記事数=25件/更新日:2016年2月16日

利根川と国境・県境との関係に関する記事を集めました。

アーカイブズ 利根川東遷−利根川の流路の変遷について− も、合せて御覧ください。
hmtマガジンには 渡良瀬遊水地 もあります。

更新情報
2016/2/15 利根川流路変遷図 の追加として、[77106]を加えました。
2016/2/16 利根川歴史地図のリンク先変更に対応する情報
 URBAN KUBOTA 19号 特集「利根川」 大熊論文の図3はp.21、図4はp.22-23です。
 利根川東遷概史
 隅田川少考
 「下総之国図」収録 500年前の江戸川の流れ 変更なし

★推奨します★(元祖いいね)

記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[1638]2002年5月26日
深海魚
[1639]2002年5月26日
Issie
[42005]2005年6月6日
hmt
[57247]2007年3月11日
hmt
[57264]2007年3月14日
hmt
[65690]2008年7月6日
スカンデルベクの鷲
[65693]2008年7月7日
桜通り十文字
[65697]2008年7月7日
hmt
[65700]2008年7月7日
Issie
[65806]2008年7月18日
hmt
[65807]2008年7月18日
hmt
[73602]2010年1月3日
hmt
[65861]2008年7月25日
hmt
[65862]2008年7月25日
hmt
[65874]2008年7月27日
hmt
[65909]2008年7月31日
hmt
[65910]2008年7月31日
hmt
[77005]2010年12月10日
hmt
[77030]2010年12月15日
hmt
[77081]2010年12月21日
hmt
[77091]2010年12月23日
hmt
[77101]2010年12月25日
hmt
[77106]2010年12月26日
oki
[77329]2011年1月4日
hmt
[82206]2012年11月18日
hmt

[1638] 2002年 5月 26日(日)17:12:47深海魚[雑魚] さん
>>1637
>鹿島あたりは神社つながりで藤原氏ですね。神主出身の藤原(中臣)氏は
>鹿島神宮や香取神宮(こちらは下総)なんかと関係があったらしい。
鹿島神社や香取神宮は彼方此方に存在しますね。何れも関連が在るのでしょうか?
藤原氏繋がりとなると、平将門と藤原純友の仲も何か必然めいて来るのかな?

>利根川の向うは茨城県になっちゃったけどね。
現在の利根川は、江戸開幕後に現在の江戸川の放水路として新規に開削されたと
聞いた事が在ります。となると、関宿の分流点から常磐道橋梁付近の鬼怒川との
合流点迄が該当するのかな? そう考えると、下総国が茨城県域に及んだ必然性も
理解出来るのですが。又、佐原付近で県境が利根川本流から北に外れて居るのは、
横利根川-常陸利根川が曽て本流だった為でしょうか?(この辺、小学校の郷土
学習で齧った筈ですが、どうしても思い出せない。)
[1639] 2002年 5月 26日(日)20:44:30Issie さん
利根川東遷
> 鹿島神社や香取神宮は彼方此方に存在しますね。

人気のある神様なんでしょうね。
特に「香取」(かとり←かんどり)は「舵取り」(→かんどり)に通じますから,「戦の神様」だけでなく水運関係にも人気があるようです。

> 平将門と藤原純友の仲

この2人が本当にツルんでいれば面白かったかもしれませんが,「東西相呼応して」というのは都の貴族連中の妄想だったというのが実際のところのようです。坂東の戦乱と西海の反乱とでは性格も目的もだいぶ違っているようですからね。2人が同時に都にいた可能性は十分ありえるのですが,お互いにお友達だった証拠はないのですよね。

> 関宿の分流点から常磐道橋梁付近の鬼怒川との
> 合流点迄が該当するのかな?

今の地図を見ているとそのように思ってしまうのですが,実際に全く新しく開削したのは栗橋や関宿のあたりのごく短い区間だけで,特に関宿以東は以前からあった水路を拡幅して少しばかり手を加えただけです。

(前にも書いたかもしれませんが,)実は関東平野の中で一番低くなっているのは栗橋のあたりで(ここがどんどん沈んでいるのです。逆に南部の東京湾岸地域はどんどん持ち上がっている),そこを荒川・利根川・渡良瀬川の3大河川が寄ってたかって埋めている最中です。
そのせいで特に埼玉県北部から群馬県南東部にかけては3つの河川の大乱流地帯となっていて,昔から流路が安定していない地域でした。
たとえば,荒川は現在では熊谷から南へ流れて川越で入間川と合流するルートをとっていますが,「元荒川」という東へ流れるルートもあるし,足立郡と埼玉郡の境界が綾瀬川であることはかつてはこれが荒川の主なルートの1つであったことを示唆しています。
これは利根川や渡良瀬川でも同じで,つまり今の北埼玉郡一帯には利根川の流路が無数にあった。それを戦国末期以来,あちこちの区間で堤防を築きながら固定されて成立したのが現在の流路なのです。
「利根川東遷」と呼ばれる大土木事業は,単に「江戸を洪水から守るための放水路」を建設するための1回かぎりの事業ではなくて,こうしたたびかさなる治水事業の総仕上げとして行われたもので,同時に房総沖の難所を避けて銚子と江戸を結ぶ内陸水路を開くための事業でもありました。
最終的に,今の地図にあるような流路が確定するのは,カスリン台風を経験した後の戦後になってからのことです。明治・大正期には,あちこちの区間で今とは違うルートが本流とされていました。
一方で,県境の方は府県制と郡制が実際に施行された明治半ば,世紀の変わり目で固定されてしまいます。流路の変更はその後も続いたわけで,そのせいでお互いのズレが大きくなってしまいました。

なお利根川が鬼怒川とつながるまでの常総地域で一番分かりやすい境界線は鬼怒川だったわけで,したがってこれが国境となっているのです(途中で国境は小貝川に移るけど,これはかつてはこちら本流だったことを示唆するのでしょうね)。古河を含む現在の猿島郡西部は旧(西)葛飾郡。後に武蔵に編入された江戸川右岸(西岸)の区域も含めて「葛飾郡」というのは,(古)利根川左岸の下総国北西境を限るたいへん広大な郡だったのです。

> 佐原付近で県境が利根川本流から北に外れて居る

実は小貝川合流点以東の区間では常総国境,そして両県の境も当初は利根川本流筋よりも北にありました。現在の稲敷郡河内町と東町の利根川沿いの区域は1899年に当時の村ごと千葉県香取郡から茨城県稲敷郡に移管された地域です。このときに利根川本流→横利根川→常陸利根川というのが県境として確定したのです。

関宿以東の現在の利根川筋は,平将門の時代はもちろん中世末期まで陸地だか水辺だか分からないような湿地帯でした。海音寺潮五郎の『平将門』で一度劣勢に陥った将門がこのあたりの芦辺に身を隠す場面がありますが,それは『水滸伝』の梁山泊や「芦の陰から漕ぎ出す船…」で始まるロシア民謡の「ステンカ・ラージン」を連想させます。そんな場所だったのですね。
当然,下総と常陸の境も曖昧だったわけで,ある程度確定する頃には少し北寄りのラインとなった。

江戸時代初めの東遷事業でそうした水路の1つが利根川筋として固定され,沿岸の排水と新田開発が進められます。
この新田開発には南岸の下総側の村も利根川本流筋を越えて積極的に参加します。現在「水郷」と呼ばれている与田浦一帯の地域は佐原周辺の村からの新田でした。そんなこともあって,このあたりは明治の大合併の時には利根川本流をまたいで「佐原町」や「津宮村」などの一部となります。潮来は常陸の行方郡だけど川(後に常陸利根川となる)の対岸は下総の香取郡。
結局は,これがそのまま現在の県境になったのですね。
このあたりに頑丈な堤防が作られて陸地と河川敷を完全に分離する事業が始まるのは大正から昭和初期,ちょうど「船頭小唄」が流行した頃。事業が完成するのは,ようやく戦後になってからです。「潮来花嫁さん」が流行した頃かな。

今のすっきりしてしまった川筋からはなかなか想像しにくいけれど,戦前までのこのあたりの様子は今とはだいぶ違っていたのですね。
[42005] 2005年 6月 6日(月)18:55:34hmt さん
利根川改修
[41988] N-H さん
江戸川と利根川の分流点から少し下流までは…五霞町の領域、また取手市小堀の付近一帯も「千葉島」に飛地のように食い込んでいます。

いずれも20世紀の河川改修の結果、「千葉島」が茨城県側に拡大した場所です。
「小堀」と書いて「おおほり」と読む。普通の読み方があるからこそ、超難読[18734]になるのですね。
ここの利根川改修は1920年に完成し、小堀地区は離島状態になってしまいました。住民が自分たちの力で始めた渡船が取手町営になったのは、半世紀近くも経過した1967年になってからでした。

関宿水閘門などの江戸川流頭部の改修は、資料によると1930年となっているので、「千葉島」の拡大もこの時と思われるのですが、例の帝国書院「復刻版地図帳」の1950年版を見ると、まだ県境と一致した旧流路になっています。元になる地形図の改定が遅れていたせいかもしれません。
五霞町が埼玉県だったら「3県にまたがる千葉島」になるところでしたね(笑)。>[42003]YSK さん

1959年修正(行政区画)という地勢図を見たら、神崎(こうざき)の西側にも、茨城県が利根川南岸に超えている場所(向野)がありました。現在は千葉県になっているようです。
[57247] 2007年 3月 11日(日)22:27:12【2】hmt さん
県の境界線変更
[57240] ともしび さん
古河市はかつて下総国でしたが、千葉県になることなく茨城県へとなってます。

古河市HP
明治初期、廃藩置県により古河藩は、古河県、印旛県、千葉県へと編入、最終的に明治8年に茨城県へと編入され…
と記されているように、前身の古河町は、明治8年(1875)5月7日に編入される前は 千葉県葛飾郡でしたよ。


その境界線を新たに引きなおした理由がわかりません。

たしかに、旧国境が現在の県境として残っているところは多いのですが、新しい明治政府が採用した行政区画である「県」の境界として、旧国境を残さなければならない理由はなかったと思います。

1875年に新治県を解体して、千葉県と茨城県とに再編成するにあたり、当時の「利根川本流」を境界にしたものと思われます。
そして、その「利根川本流」とは、現在の五霞町の北側(古河市/境町との間)を流れる「赤堀川」ではなく、五霞町の南側(幸手市との間)を流れる「権現堂川」だったようです([11153] Issieさん)。

だから、現在の五霞町は千葉県でも埼玉県でもなく、茨城県なのですね。

明治初年におけるこのあたりの県の再編成は、[1644] Issieさんの記事がありますからご覧ください。

その他、「府県統合」をキーワードとして記事検索すると約40件の記事が出てきますからご参照ください。
但し、上記[1644]のように、「府県統合」というキーワードを使っていない記事は、これでは拾えませんから、適当に検索用語を工夫してください。

“地勢図で「県界変更史跡」めぐり”という記事[46981]の冒頭で書いたように、明治29年(1896)の郡制施行時の県境変更では、県境に合わせて国境も変更された事例があり、この場合は地図に痕跡が残っていません。

戦後の県境変更事例は、[54264]にまとめておきました。
[57264] 2007年 3月 14日(水)17:16:57hmt さん
茨城県でありながら利根川の南の五霞町、それを埼玉県(武蔵)と隔てた権現堂川
[57240] ともしび さん
境界線を新たに引きなおした理由

既に[57247]hmtで記したように、茨城県南西部における千葉県との境界は、明治8年(1875)に新治県解体を伴なう再編成により、それまでの常陸・下総国境(鬼怒川・小貝川の線)から「利根川本流」に引き直されました。これにより、古河町は千葉県から茨城県に移りました。
この変更のねらいは、従来茨城・新治・千葉の3県の管轄地が入り組み、水利・治安・土木等で生じていた問題を、統合により解決することでした。

この時に、「茨城県は利根川下流の北側」という現在の常識ができたのですが、例外として利根川の南側にあるが現在の五霞町です。
# その逆に、千葉県で利根川の北にあるのが、与田浦周辺(香取市)。その他にも、河川改修により川向こうになった土地は存在。

「利根川本流」の件について、茨城・千葉県境の話に留めておけばよかったのですが、[57247]hmtでは うっかり その上流にまで展開してしまい、五霞町と幸手市との間を当時流れていた「権現堂川」が「利根川本流」であったかのような発言をしてしまいました。

これはどうも誤っているようなので訂正しておきます。
「権現堂川」は明治になってからも“大きな流れ”だったのですが[11153]、これは銚子口に向かう「利根川本流」ではなく、東京湾に向かう江戸川へと注ぐ主流であったと思われます。

江戸湾へと注いでいた利根川・渡良瀬川の水を常陸川へと導く「赤堀川」ですが、開削された当初の性格は 洪水時の放水路と舟運で、幅は僅かに10間(18m)。掘り下げてようやく通水に成功したのが寛永18年(1641)。
それでも19世紀の文化6年(1809)になると、赤堀川は40間に拡幅されました。
銚子口へと流れる流路が「利根川本流」になったのは、この頃からでしょうか。
県境が変った1875年の4年前、明治4年(1871)には通水能力が更に拡大しています。現在の幅は700mくらいでしょうか。

茨城県の中で、唯一 利根川の南にはみ出している五霞町の不思議な位置関係。
茨城・千葉県境変更の1875年から1世紀を経た1981年に、新利根川橋(2001年までは有料)の開通によって、五霞村(当時)は ようやく茨城県の「本土」と陸路で結ばれました。それまでの離島状態では、境町方面へは千葉県の関宿経由。そして、「ごか」の利根川対岸「こが」(古河)に行くには埼玉県の栗橋経由。

かつての「川中島」の面影を残す 現在の五霞町の地図 の中で、北の利根川と東の江戸川は大河として健在です。
しかし、西から南にかけて流れていたかつての大河は、痕跡を残す姿になっています。

五霞町の西を画する権現堂川は、かつては利根川の主流だった時代もあり、南端の権現堂村(現・幸手市)からは東流し、現在の中川(五霞町の南側)に続いていました。
この権現堂川の川筋は、寛永2年(1625)の新川通り開削後拡幅されました。寛永18年(1641)には前記のように赤堀川も通水可能になったので、仙台からの物資を積んだ船は、房総半島を迂回せずに銚子から常陸川を遡り、赤堀川・権現堂川経由で江戸川(新利根川)へ下ることが可能になりました。
もっとも、関宿付近の水路が整備され(1665)、利根川と江戸川とが結ばれた結果、権現堂川筋の繁栄は短期間に終わったようです。

舟運の中枢は関宿に移りましたが、権現堂川が、利根川・渡良瀬川の水を江戸湾へ流す大河の一部であるという役割は続きます。
南への流が東へと向きを変える地点にある権現堂付近の堤防は、[11541] KMKZさんの記事が伝えるように、江戸時代を通じて何回も決壊して、江戸に及ぶ浸水被害を出しました。

明治8年にも新しく築堤され、その翌年には東北巡幸途中の明治天皇が視察されました。しかし、結局はこの築堤も洪水を防ぎきることはできず、権現堂川は締切堤防工事で利根川から切り離されて([11541] KMKZさん)、1928年に廃川になりました。
現在は 「権現堂調節池」 として治水・利水に利用されており[36976]、「行幸湖」(みゆきこ)の名でダム湖コレクションにも収録されています。「行幸湖」の名は、もちろん明治9年の聖跡に由来します。
権現堂堤は、桜だけでなく紫陽花の名所でもあるのですね。[12603][51886]YSK さん [51922]でるでる さん

五霞町に戻ると、2002年11月の住民アンケート では、合併の枠組みとして埼玉県内(81.2%)、茨城県内(17.1%)と圧倒的に埼玉県志向ですね。権現堂川が事実上消滅して、交通の障害がなくなった結果、生活圏が埼玉県と共通になっているせいでしょう。
それでも県境を越えた合併は実現せず。
埼玉県編入のチャンスだったかもしれない1875年のことを今更思い出しても仕方がありませんが…
[65690] 2008年 7月 6日(日)22:32:27スカンデルベクの鷲[大龍エクスプレス] さん
勝手に越県合併の構想
僕が前々から気になっていた場所がここ付近です。
北西に埼玉県北埼玉郡北川辺町、南東には茨城県猿島郡五霞町がありますが、
両町とも斜めに流れる利根川により両県(埼玉、茨城)の本体と分断されています。(道路では繋がっています。)


そこで、僕がこれを解消するため勝手に越県合併の構想を練ってみました。

北川辺町→茨城県古河市に編入
五霞町→埼玉県幸手市に編入

北川辺→古河これは、編入と同時に東武日光線新古河駅が古河市内に無い不自然さを解消させるためです。下記の合併(仮)に伴う茨城県の面積・人口の減少を食い止めることも出来ます。
五霞→幸手これが実現すると、(仮)新・幸手市の人口は63,310人となり、(仮)新・幸手市は埼玉県の人口の最下位を脱出します。(ちなみに最下位は55,269人の日高市に移ります。)

ということです。実現は当分無いです。(泣)



[65687]伊豆之国さん
坂東太郎
余談ですが、茨城には、「ばんどう太郎」というファミリーレストラン(和食)があります。
[65693] 2008年 7月 7日(月)08:41:54【1】桜通り十文字 さん
利根川の存在及び東武線
おはようございます。桜通り十文字です。
さて、[65690]大龍エクスプレスさん
北川辺町→茨城県古河市に編入
五霞町→埼玉県幸手市に編入
これは、面白そうですね。五霞町と幸手市の合併は構想としてはあったらしいのですが北川辺と古河というのは、面白い発想だと思いました。個人的には北川辺は東武線沿線の板倉町と合併するということが最初に思いつきました。でも古河のほうが良いかもしれませんね。あと個人的にここは野田市との合併のほうがよいのかなと、思っていたりもします。あくまで個人的にはですが。
ではでは、また今度。
[65697] 2008年 7月 7日(月)17:56:37hmt さん
取手市小堀(おおほり)
[65694] 大龍エクスプレス さん  勝手に越県合併の構想・2
[65695] 鳴子こけし さん
もともと利根川が県境で、川の流れが変わった(もしくは変えた)為に分断されてしまった。と考えるのが自然ではないでしょうか。

ご推察の通り、かつての利根川は蛇行して、小堀(おおほり)地区の南を流れていました。その痕跡が県境の古利根沼です。
この付近の利根川改修工事[42005]は、当時の北相馬郡井野村小堀地区と井野村の本体との間に新たな流路を開削するもので、明治44年着工、大正9年(1920)に完成しました。

この工事により井野村の本体と分断された小堀地区。
この時すぐに我孫子への越県編入を実施されれば問題はなかったと思われますが、行政変更手続が放置されたために、交通の不便を感じた地域住民によって渡し船が設置されました。

2001年頃まで、小堀地区の小中学生は対岸の学校への通学に取手市営になった渡舟を利用していたが、現在はバスに変っているとのことです。小堀の渡し 自体は、有料の観光船化して現存しています。
[65700] 2008年 7月 7日(月)23:45:32【2】Issie さん
国境は渡良瀬川
[65695] 鳴子こけし さん
もともと利根川が県境で、川の流れが変わった(もしくは変えた)為に分断されてしまった

北川辺町についても同様で,大利根町との間にある現在の利根川の流れは人為的に切り開かれたもので,元々は陸続きでした。この辺りの栃木県・茨城県と群馬県・埼玉県との県境は古い時代の渡良瀬川の流路だと思われます。

この辺りは,実は関東平野の中で“最も低いところ”で,だから西からは利根川や荒川が,北からは谷田川や渡良瀬川などが集まって来ていて,古くは川の流れも定まらないような乱流地帯であったようです。
利根川の本流は,古い時代,今の羽生の辺りから南へそれて,現在の古利根川に流れ込んでいたようですが,他にも分かれた川筋があって,それらのうちの1つが,埼玉県の北川辺町と群馬県の板倉町の境,言い換えると 武蔵国埼玉郡 と 上野国邑楽郡 の境とされたのでしょう。

今の江戸川は元々は利根川ではなく,渡良瀬川下流の流れの1つでした。流れの1つはもう少し西を流れていたようで,現在の杉戸付近でその頃の利根川(現在の古利根川→中川→古隅田川→隅田川)に合流し,これが西側の 武蔵国埼玉郡 と東側の 下総国葛飾郡 の境となっていました。

やがて,いくつかの流れの1つが整備されて利根川の本流が現在の栗橋まで流れてくるようになりました。そして,栗橋の辺りからは今の茨城県五霞町の南側を流れ,関宿で現在の江戸川筋に入る前にその少し西を流れて,旧庄和町の金杉の辺りで今の江戸川筋に入っていました。実は,現在の江戸川の関宿と金杉の間の区間は,江戸時代に切り開かれた人工の水路です。
さらに,千葉県の関宿と茨城県の境町の間の区間も人工的に切り開かれて利根川本流は太平洋に向かうようになりました。
栗橋と関宿の間は明治になってから切り開かれた新しい水路です。
だからやはり,五霞町と古河市は元々は陸続きだったのですね。

繰り返すと,現在の北川辺町は渡良瀬川の西にあったので 武蔵国埼玉郡 に属し,そのまま 埼玉県北埼玉郡 に属すようになりました。現在の五霞町は渡良瀬川(後の利根川)の北にあったので 下総国葛飾郡 に属し,そのまま 茨城県西葛飾郡 を経て,現在の 猿島郡 に属するようになったものです。現在の利根川の流れは,その間を突っ切るように後から切り開かれたものです。
現在の県境は昔の川の流れに由来し,その変化に取り残されたのですね。

[65690] 大龍エクスプレス さん
実現は当分無いです。

[65696] 北戸 さん
いずれにしても現実になる可能性はゼロに近いですから

でも時には実際の流れに合わせて境界の変更がなされることもあります。

たとえば,さっきの利根川。
元は羽生で南へそれていた利根川本流は,江戸時代の初めに現在のように栗橋まで流れるようになり,さらに現在の五霞町の南側を流れるようになって,東京湾(江戸湾)に注ぐ現在の江戸川はその分流になりました。
そこで,昔の渡良瀬川の流路を利用していた 武蔵 と 下総 の国境は“当時の”江戸川の流路に変更され,葛飾郡のうちの江戸川以西の区域が 武蔵国 に“編入”されました。その区域は,明治になって 埼玉県北葛飾郡 と 東京府南葛飾郡 になりました。東側はそのまま 下総国 に残り,明治になってその大部分は 千葉県東葛飾郡 と 茨城県西葛飾郡 となりました。五霞町について述べたとおり,西葛飾郡は後に 猿島郡 に統合されています。
ところで,これも前述のとおり,現在の江戸川の流れのうち 関宿~金杉 間は江戸時代半ばに開かれた新しい水路でした。でも,下総と武蔵の新しい境界はその前の段階の江戸川の流れによるものであり,つまり新しい(=現在の)江戸川の西側に 下総国葛飾郡 の一部が取り残されました。ところが,明治になって埼玉県と千葉県が設置された時に,その県境は現在の江戸川とされました。そのために,埼玉県の管轄となった江戸川西岸の 下総国葛飾郡 は,埼玉県中葛飾郡 となり,後に 北葛飾郡 に編入されました。それは同時に,“下総国”中葛飾郡の“武蔵国”北葛飾郡への編入だったので,この時に再び,武蔵国 と 下総国 の国境が移動したことになります。

江戸時代の初めにはもう1つ。木曽川をはさんだ 美濃国 と 尾張国 の国境も変更されています。
こちらは戦国時代末期の洪水で自然に流れが変わってしまったものですが,尾張国葉栗郡・中島郡・海西郡 のうち,この洪水で南に移動してしまった“新しい木曽川”の北側になってしまった区域が 美濃国 に“編入”されて,それぞれ 美濃国葉栗郡(後に 羽栗郡 の表記の方がよく使われるようになりました)・中島郡・海西郡 となりました。
明治後半になって,岐阜県では (美濃国の)羽栗郡と中島郡,海西郡と下石津郡 を統合して,それぞれ 羽島郡,海津郡 とし,また愛知県は大正になってから (尾張国の)海西郡と海東郡 を合併して 海部郡 としています。

スケールがずっと小さくなりますが,最近の例では,
激しく蛇行していた昔の川筋に由来する都県境と,河川改修による現在の直線的な川筋とが一致しなくなって「川向うの飛び地」をたくさん抱え込むことになった 東京都町田市 と 神奈川県相模原市 があります。人が住んでいる「飛び地」については住民の意思があって,なかなか進んでいないのですが,それでも現在の境川と都県境とが一致する区間は少しずつ増えているようです。ところが上流ではさらに河川改修が進んで,新しい飛び地がまた生まれていたりするのですね。大変なことです。

…だからまあ,可能性が全くないというわけでは必ずしもない,ということで。
[65806] 2008年 7月 18日(金)19:30:14hmt さん
利根川と国境・県境との関係(1)古代は内海だった下流部
少し前に埼玉県北川辺町と茨城県五霞町とに関する「勝手に越県合併の構想」という記事[65690]がありました。
これは、利根川が北関東3県と南関東との境界線をなしているという大原則に逆らっているように見える2つの町に違和感を抱き、交換によりこれを是正?したいとする構想であろうと思われます。

埼玉県と茨城県との境界に関しては、その後で Issieさんの説明[65700]がありました。
すなわち、埼玉・茨城県境は、渡良瀬川を境界とした武蔵国と下総国との関係を引き継いだものです。
江戸時代になってからの人工的な開削によって、現在の利根川流路が形成される前から存在した境界線ですから、「利根川を境界線とする原則」の支配を受けるものではないということになります。

この埼玉・茨城県境から東は、千葉・茨城県境になります。
こちらには、「利根川を境界線とする原則」が存在しました。明治8年(1875)太政官布告第76号
(1)新治県被廃下総国香取匝瑳海上の三郡は千葉県へ(2)常陸国新治筑波信太行方鹿島河内六郡並(3)千葉県管轄下総国猿島結城岡田豊田の四郡及び葛飾郡の内3ヶ町四拾八ヶ村相馬郡の内2ヶ宿九拾九ヶ村茨城県へ管轄被 仰付候條此旨布告候事

便宜上付与した番号により説明すると、(1)と(2)は利根川下流の両岸にまたがっていた新治県を廃止し、南3郡は千葉県へ、北6郡は茨城県へと分割するもの、(3)は千葉県のうち利根川以北を茨城県に移管するものです。

この布告によって、概ね利根川が境界になっったわけですが、それでも、利根川の流れと県境との不一致はあります。
その一類型は、その後の改修工事で流れが変り、川の対岸に取り残された土地であり、1920年完成の改修工事に伴なう取手市小堀[65697] について話題になりました。江戸川流頭部・関宿[65693]も、1930年の改修による流路変更に由来します[42005]

この2ヶ所に比べて、ずっと広い地域に関して、茨城・千葉県境が利根川と外れている場所が下流部にあります。
[1638] 深海魚[雑魚] さん
佐原付近で県境が利根川本流から北に外れて居る

昭和30年までは千葉県香取郡新島(しんしま)村だった与田浦周辺の地域です。「十二橋」で知られる加藤洲など「日本水郷」の中心地帯ですが、現在の地図 で見ると、干拓が進んだ与田浦はずいぶん小さくなっています。

この地の南には香取神宮、北東には鹿島神宮があり、いずれも神武天皇の時代に遡ると伝えられる古い神様です。
古代には、この両社は 巨大な内海 の対岸に鎮座していたと考えられます。例えば常陸国信太(しだ)郡の南から東にかけての海(下の部分拡大図)は、常陸国風土記で榎浦流海・信太流海という部分的な名で呼ばれ、内海全体の名はなかったようですが、現在は「香取海」と通称されています。
その水域は、現在の北浦と西浦(霞ヶ浦)だけでなく、西方の印旛沼・手賀沼に及びます。

霞ヶ浦河川事務所のHPには、20万年前から現在までの様子が掲載されていますが、約1千年前の水系図 にも、これに近い形の香取海が見えます。

つまり、下総国とか常陸国とかいうような「国」の制度が生まれた時代になっても、現在の利根川下流域は、かなりの幅を持つ内海によって隔てられており、境界線を引くべき陸地はなかったということになります。
[65807] 2008年 7月 18日(金)19:35:28hmt さん
利根川と国境・県境との関係(2)海から陸へ、千葉県から茨城県へ
古代に「香取海」だった地域は、流入河川による堆積と干拓とによって、だんだんと「陸地」に変ってゆきます。そのあたりを、[1639] Issieさん の記事から抜き書きしてみます。
関宿以東の現在の利根川筋は,平将門の時代はもちろん中世末期まで陸地だか水辺だか分からないような湿地帯でした。
当然,下総と常陸の境も曖昧だったわけで,ある程度確定する頃には少し北寄りのラインとなった。
江戸時代初めの東遷事業でそうした水路の1つが利根川筋として固定され,沿岸の排水と新田開発が進められます。
現在「水郷」と呼ばれている与田浦一帯の地域は佐原周辺の村からの新田でした。そんなこともあって,(中略)潮来は常陸の行方郡だけど川(後に常陸利根川となる)の対岸は下総の香取郡。

徳川家康の関東入国時(1590)には、境界水域で常陸の佐竹氏との間で紛争もあったものの、結局は家康の許可による旧江戸崎城主土岐氏の家臣団などにより、新田開発が進められたようです。 『利根川図志』の挿絵図 には、横利根川より東側の下新島(図の左側、現在は千葉県香取市)と西側の上新島(右側、現在は茨城県稲敷市)とを合わせて16ヶ村が見えますが、それ以外の新田もできています。

このような開発によって陸地化した江戸時代の姿を、天保下総国絵図 でご覧ください。

図の中央・印旛沼に接する安食付近から東へ十六島にかけての一帯、かつての香取海から陸地になった領域のかなりの部分が、利根川の少し北まで下総国香取郡になっていることがわかります。

拡大してみると 、この地域にできたいくつもの新田村の名が現れます。
図の東半分、香取神宮の北側のブロックに掌形の与田浦があり、寛永3年(1626)に開かれた加藤洲村の名も見えます。

時代は更に下り明治8年になると、千葉県・茨城県の境界を利根川とする原則が中流部で樹立されたのですが、この布告では、「下総国香取郡」は利根川北岸の一部を含んだまま、千葉県所属とされました。
これが是正されたのは、町村制施行後の明治32年(1899)で、千葉県茨城県境界変更法律 によって、利根川よりも北にあった千葉県下総国香取郡金江津村(現・河内町)・十余島村(東村を経て現・稲敷市)を茨城県常陸国稲敷郡に編入するなどの県境変更が行なわれます。
先に引用した[1639]にも、“現在の稲敷郡河内町と東町の利根川沿いの区域は1899年に当時の村ごと千葉県香取郡から茨城県稲敷郡に移管された地域です。”と記されています。

上記拡大国絵図の西半分から図外にかけて、横利根川より西側の村々がそれであり、法律条文からもわかるように、県境と共に常総国境も変更されました。

下総国絵図の全体図に戻ると、安食(印旛沼付近)より西側にも、下総国の6郡が利根川の北に広がっています。
この地域は、明治4年に印旛県、明治6年に千葉県になりましたが、明治8年の再編制[65806] で利根川の北にあった6郡(結城・豊田・岡田・猿島各郡と相馬・葛飾の一部)は茨城県に移管されました。こちらは国境の変更なし。

結局のところ、下総国で利根川以北であった地域は、一度は全部が千葉県になりましたが、安食までの中流部が明治8年、安食から横利根川までの間が明治32年に茨城県になり、横利根川より下流の与田浦付近(下新島)だけが千葉県に残ったわけです。
[73602] 2010年 1月 3日(日)13:50:26hmt さん
利根川と国境・県境との関係(2.1)外浪逆浦 常陸利根川の南に茨城県があるわけ
このシリーズは、1年半前に河口から赤堀川までを書いたままで中断していたのですが、思いがけず話題が復活しました。
十番勝負の最中でもあり、また細部になるコメントですが、忘れないうちに書いておきます。

[73428] k-ace さん
東関東道の千葉・茨城県境ですが、利根川でも常陸利根川でもないところにあったのが驚き(地図)。このあたりの県境ってどうしてこんな線になってるんでしょう?

[73460] [73582] オーナー グリグリ さん
外浪逆浦に面している狭い地域のこと…だとしたら、…埋め立ての事業計画の中で茨城県に帰属することになったのではないかと推測します。
埋め立て(干拓)の事業計画で線引きされたというのは、あくまでも私の推測です。

最初に、♪潮来花嫁さんは 舟でゆく…の水郷地域に縁のない方のために、予備知識。
潮来(いたこ)は難読地名であるにもかかわらず、戦前から観光スポット「日本水郷」で知られていました。
1934年千葉県立公園。戦後の1959年国定公園。歌が流行したのはその翌年。50年前のことです。

神武天皇の時代に遡る香取神宮・鹿島神宮がこの近くに鎮座。2柱の神は、古代には内海を隔てて向かい合う位置関係でした。

この 古代の海 は、現在の霞ヶ浦(西浦)とそれに連なる浪逆浦(なさかうら)・北浦だけでなく、ずっと南西の印旛沼・手賀沼にも及び、その周辺の低地をすべて水域とする広大なものでした。
昔は全体を一つの内海として認識する呼び名はなかったと思います。今では香取海と呼ばれています。[65806]参照。

k-ace さんが通った千葉・茨城県境付近も、もちろん古代は海の中で、海を隔てた下総と常陸には厳密な国境はない状態でした。
古代の海の一部が、流入河川による堆積と干拓とで、だんだんと「陸地」に変ってゆく有様を、[1639] Issieさん の記事その他を引用しながら記述したのが [65807]です。

この記事の中で、幕末に出版された「利根川図志」の挿絵 十六島全図 をリンクしていました。現代の地図と逆に南(下総国)が上になっていることに注意。

図の中央部・与田浦の左下に浪逆浦があり、ここも陸化しつつあることがわかります。
“こんな所に千葉・茨城県境が…”と問題になった地(現在の東関東道常陸利根川橋梁南詰)は、「二十谷」と書かれた洲で、北利根川上流側・内浪逆浦に面した二十谷村の一部と知れます。

この図には国境が明示されていませんが、天保常陸国絵図 を見ると、問題の洲が常陸国行方郡「二重谷村之内」であることがわかります。

結局、この洲は江戸時代の陸化の過程で、北利根川の北岸にある常陸国行方郡の地先であると認められたことがわかります。

明治初期のこと。利根川下流域にあった 新治県が、明治8年(1875)に解体 された結果、再編成された千葉県と茨城県との境界は、利根川・横利根川・北利根川に概ね沿った下総・常陸国境になりました。
国境・県境が現在の利根川本流から北に外れた上記の線であることについては、[1639] Issieさん 利根川東遷をご覧ください。

明治の 20万分の1輯製図(1887)を見ると、問題の洲は既に千葉県側と地続きで、“浪逆浦の南なのに茨城県”の原型が見えます。
結局のところ、明治になってからず~っと、北利根川→常陸利根川の水面と一致しない県境が続いていたことになりますが、これは江戸時代に確定していた国境のせいということになります。

戦後に実施された 常陸利根川の河道拡張 により、茨城県側本体との間の水路が広くなっているので、南側に残された茨城県の領域が、現在では一層不自然な姿に見えるのでしょう。

[73582] 外浪逆浦の干拓地

外浪逆浦から少し外れますが、上記リンクページに示された約 60年前の水域図を見ると、外浪逆浦の西に 内浪逆浦(現在の潮来市日の出)があったことがわかります。
その他にも、北浦の南部や 鰐川、神の池、西の方も 与田浦(千葉県)や 霞ヶ浦の妙岐の鼻と、現在の地図と見比べると かなり多くの水域があり、江戸時代に続く海から陸への変容は、戦後も盛んに進行した ことがわかります。
[65861] 2008年 7月 25日(金)19:33:47hmt さん
利根川と国境・県境との関係(3)新利根川・将監川・小貝川・鬼怒川
きっかけが埼玉・茨城・千葉県境だったので、タイトルには「国境・県境」を掲げていますが、このシリーズ、結局は利根川流路の変遷が主題になります。

ということで、「利根川百科事典」に掲載されていた 江戸時代初期と現在との川の流れを示す図pdf を最初に掲げておきます。

「利根川百科事典」は、3年ほど前まで利根川上流河川事務所のHPに掲載されていた資料なのですが、残念ながら現在は見ることができません。
たまたま埼玉県HPに引用されていた図があったので、リンクしました。江戸時代の改修工事の年代も入っています。

下流から見てゆくと、先ず新利根川関係の3件が目につきます。
この工事は、利根川の水位を下げて印旛沼・手賀沼の干拓を図るために、利根川の北に並行する「新利根川」を開削し、舟運はこちらに移そうという計画に基づくものでした。

寛文2年に起工した直線水路は寛文6年(1666)に完成しましたが、浅くて速い流れは舟運に適さず、利根川締切も、その水位を思うように下げることができなかったために、竣工僅か3年後(1669)には締切を撤去して元に戻しました。
# 近年の諫早湾締切問題と比べて、当局がミスを認めて撤回するのは迅速だったようです。

1676(延宝4)年将監川開削というのもあります。利根川の一部を印旛沼に分流させた水路ですが、水害は防げず、大正2年(1913)に分流口を堰き止めて沼になったようです。現在は釣人が集合。

最近(2008/7/14)東京高裁で再審開始決定が支持された布川事件。その現場である布川(茨城県利根町)と利根川対岸の布佐(我孫子市)と間の川幅は、僅かに280mしかありません。上流側の取手で1270m、下流側の佐原で540mという値に比べて、ここは台地の間の谷を抜ける著しい狭窄部になっています。

江戸時代初期の鬼怒川と小貝川とは合流して下総・常陸国境を流れ下り、布川の北から東に出ていました。
寛永6年(1629)この両河川を分離してそれぞれ独立の河川としました。
鬼怒川は、大木丘陵を南に開削した流路により、常陸川(現・利根川)の約30km上流側へ。
そして牛久沼の水を合わせた小貝川は、その翌年(1630)に布川・布佐狭窄部の上手で常陸川と合流することになります。

このような工事により、常陸川の水量は、かなり上まで豊富になりました。
利根川と常陸川とを結びつける赤堀川はまだ工事中でしたが、その前から下流側の水上交通路も次第に整備されてきたことがわかります。
[65862] 2008年 7月 25日(金)19:50:11【1】hmt さん
利根川と国境・県境との関係(4)関宿の江戸川流頭部
今回のシリーズ。かつて十六島(新島 しんしま)と呼ばれた利根川下流部・水郷地帯から始め[65806][65807]、鬼怒川・小貝川に関わる改修に及びました[65861]

しかし、境界線ともからみあう利根川流路変遷の主要舞台は、なんといっても関東平野の中央部です。
今回のきっかけとなった埼玉県北埼玉郡北川辺町・茨城県猿島郡五霞町[65690]は、渡良瀬川が合流する栗橋付近であり、また江戸川が分れる流頭部は、その五霞町と関宿(千葉県野田市)との境界です。

下流から遡上してきたので、この地域も 関宿の 江戸川流頭部 から始めましょう。自治体名の 関宿町は2003年に消滅
最近では、[65693] 桜通り十文字さん が 県境と(江戸川の)流路との食い違いを取り上げた場所です。

南東に流れるのが利根川、西側を南に流れるのが江戸川(航空写真)ですが、ここに関宿水門があります。
西側の細い水路は南北2つのロックゲートで区切られた閘門です。現在はほとんど利用されていませんが、水位の違う利根川と江戸川との間を航行する船舶のための設備です。

明治43年(1910)8月の大洪水を契機として改定された利根川改修計画では、洪水時の水量のかなりの部分を江戸川に分けることできるような対策を組み入れました。
流頭部の関宿水閘門を含む59kmの江戸川拡幅工事(840→2230m3毎秒)がすべて完成したのは昭和5年(1930)で、これにより利根川から江戸川に直接分流するという現在の姿が実現しました。
なお、江戸川の流末部では、行徳の東で海に流す3.2kmの江戸川放水路が、大正8年(1919)に完成しており、また昭和22年(1947)のカスリーン台風後に更なる工事が行なわれ、関宿-野田間は40m幅になりました。

1930年に現在の流路に切り替えられる前の河道が、地図 に描かれた千葉・茨城県境なのです。

こまかく調べれば、明治時代にもこの付近の河道は多少の変更があり、それに合わせて県境も変更されているのですが、概略の流路としては 天保国絵図に描かれている河道 も、現在の千葉・茨城県境とほぼ同じです。

この河道のポイントは、関宿城の西側から北へと通じ、東向きに利根川に合流する「逆川」です。

逆川のできた年代については、寛永18年(1641)と記されている資料が多いようです。例えば前回の記事でもリンクしておいた 利根川百科事典の図pdf 。これは、関宿-金杉間の新水路(江戸川)開削(寛永12-18年)の完成年です。

しかし、寛文5年(1665)に関宿城主板倉重常の御手伝普請により、関宿から赤堀川に通じる新川・逆川が改修された(下総国旧事考)という記録があります。
寛永年間に行なわれた関宿以南の江戸川開削時に逆川の原型は開削されていたとしても、その流路はまだ不完全な状態であり、利根川を遡ってきた船が江戸へと直接下る幹川水路としての逆川が完全な機能を発揮したのは、24年後の1665年であったのではないかと思われます。

【追記】
利根川東遷と江戸川の開削(江戸川河川事務所)には、逆川開削を1665年とする記載がありました。
(工事)の後、寛文5年(1665)には、関宿に利根川と江戸川を結ぶ水路が開削されました。これにより、現在の江戸川の流れが完成したのです。
このページに掲載された図には、会の川締切・綾瀬川を元荒川から分離する備前堤・鬼怒川小貝川分離[65861]の3つの堤防と共に、逆川の位置にも堤防が記されています。
これに関する説明はありませんが、寛永年間の江戸川開削にあたり、一旦は堤防を築いて東へ流す赤堀川(利根川)と南へ流す江戸川とを完全に分離したのではないかと思われます。

下流からという原則に従って、時代的には前回記事と今回記事との間に位置する赤堀川開通に先立って関宿の話題を記したために、わかりにくくなったきらいがありますが、逆川以前の舟運は、利根川(赤堀川)を遡り栗橋から権現堂川経由へと迂回していました。
逆川により利根川と関宿との間をショートカットしたことで、関宿は最盛期には年間取引額150万両、日本随一の河港という交通の結節点になりました。

内水航路は明治にも盛んに利用され、明治10年(1877)には内国通運会社が江戸川を浚渫して、東京の深川から思川生井河岸(現・小山市)まで西洋式の蒸気船通運丸を就航させています。明治23年(1890)の利根運河通水により、関宿は銚子-東京航路から外れ、やがて内水航路自体も消滅します。

国絵図に戻ると、関宿城とその南側の城下町が見えます。城下町の一部は江戸川の西岸に及んでいます(向下河岸)。ここは粕壁方面などへの街道が分岐し、明治2年までは川関所が設けられていました。当時は文字通り川向いのこの町までが下総国の領域だったことが絵図の色分けからよくわかりますが、現在は地続きの埼玉県幸手市に属しています。
[65874] 2008年 7月 27日(日)17:30:27【1】hmt さん
利根川と国境・県境との関係(4.1)棒出し
[65870] 伊豆之国 さん
中之島ブルース

曲名は「中の島ブルース」。地名表記は、燃えて花咲くアカシアの札幌が「中の島」、泣いて別れた淀屋橋の大阪が「中之島」。
ところで、小雨そぼ降る石畳の長崎市内に「中の島」があるのかしら?

「千葉島」[20628]の北端、千葉県ならぬ茨城県に属する江戸川流頭が「中の島公園」になっていることは今回知りました。
通常の水量では低水路だけを流下。洪水時には洗堰を越えた高水路にも流れるので「中の島」が出現するようです。
おそらく関宿水閘門の建設よりも前、現在の高水路の下に消えた逆川が存在した時代を知っていると思われる公園内の「こぶし」の大木。開花情況のお知らせ があると思ったら、「中之島公園」と誤記していました。

それはさておき
リンクしていただいた五霞町HPによると、公園内には「棒出しの石」が保存されているとのこと。

「棒出し」とは、権現堂川から江戸川への流量を制限するために、流頭部(現在の関宿橋付近)に両岸から突き出す形で築かれた堤です。江戸川流域、特に江戸にとって重要な物資である塩の生産地・行徳を水害から守る役割がありました。
しかし、この堤により流水が逆川に押し上げられるので、権現堂川や赤堀川流域では水流が滞り水害が増しました。

棒出しが設けられたのは、文政5年(1822) または天保年間(1830-44)とされます。いずれにせよ、逆川開削よりもずっと後です。天保国絵図には、“川幅□□”と書いてあるようですが、読み取れません。
棒出しの間隔は明治初年に約30間で、天保年間の18間より狭めないという幕府の公約は守られていたが、その後の一時期江戸川縮小が進められ、明治31年にはわずか9間にまで狭められたとか(文献pdf)。

1910年の大洪水を契機に改められた利根川改修計画により、拡大する江戸川への分流量の調節は、新設の関宿水閘門により行なうことになり、棒出しは1929年に撤去されました。

【追記】
明治10年代の迅速測図に基づく 歴史的農業環境閲覧システム [65097]をリンクしておきます。
図の左下、権現堂川から江戸川に入る地点(継ぎ目の下)に棒出しがあります。
図の中央を流れる逆川(地川? )と当時の千葉・茨城県境とは一致していました。しかし、その後でもう少し南を流すようになったことは、明治28年法律24号 の次の記載からうかがうことができます。
千葉県東葛飾郡関宿町の内(中略)権現堂川以北は茨城県西葛飾郡五霞村に編入
この時に逆川(法律には権現堂川とある)流路に合わせて変更された県境が、すなわち現在の県境です。
[65909] 2008年 7月 31日(木)18:45:09hmt さん
利根川と国境・県境との関係(5)利根川東遷の主役? 赤堀川
国境・県境との関係に着目し、流路の変遷を追いながら利根川を遡るこのシリーズ。
これまでに記した話題は、1000年前の香取海[65806]。それが陸地になった水郷地帯[65807]。下流域の変遷[65861]
そして東京湾に分流する江戸川流頭。写真 を見ると、利根川と左側の江戸川との間に水位差があることがよくわかります。関宿水閘門[65862]を含む工事が1930年に完成する前の逆川があった位置は、写真の手前・関宿城博物館付近で、左側枠外になるかつての江戸川流頭には 棒出し[65874]がありました。

この関宿の上流側、茨城県猿島郡五霞町の北側を流れ 埼玉県北葛飾郡栗橋町に至る区間の 利根川(現在の河川敷幅約700m)は、かつて赤堀川と呼ばれた川です。

[13516] KMKZさん の記事に、関宿城博物館・利根川東遷のページから引用があります。
次いで元和7年(1621)から承応3年にかけて、関東郡代伊奈氏のもとで三度にわたって行われた赤堀川(備前堀)の開削により、利根川本流が常陸川を経て銚子河口に至るようになりました。

これを文字通りに受け取れば、東京湾に流れていた利根川が、赤堀川の開削によって承応3年(1654)から現在の本流に変った、つまり東遷したと思いたくなるのですが、事はそれほど単純なものではないようです。

引用にもあるように、赤堀川開削は元和7年(1621)にスタートしたと伝えられます。そして通水が33年後の1654年。これだけでも東遷工事は時間がかかり過ぎています。

この時代の瀬替え(流路変更)工事は、網の目のように乱流していた自然河川の中から適切な川筋を選んで手を加え・導水するというケースが多いのですが、赤堀川の場合は、純然たる新規流路を切り開く工事です。
このあたりは関東造盆地運動の中心地で、長期的な地盤降下が起きているために、標高は13m程度とごく低いのですが、関東ローム層(赤土)に覆われた洪積台地で、利根川・渡良瀬川水系と常陸川・鬼怒川水系とを分ける分水嶺の末端です。その赤土を掘ったから赤堀川。

そのような条件であったにしても、利根川東遷という大計画が最初からあったとしたら、通水まで33年は遅すぎます。鬼怒川や江戸川の工事でも台地を切り開いているのですから、技術力がなかったわけではありません。
たぶん60年前・徳川家康の時代の「会の川締切」に始まる「利根川東遷大計画」など、最初はなかったのでしょう。
着工時の赤堀川は7間幅。これが寛永12年に10間幅としたが通水せず、承応3年(1654)に川床を3間堀下げて深さを増し、ようやく通水に成功したとあります。

10間(18m)幅というと、700mある現在の利根川に比べると小川ですが、33年かけてこれを掘った目的は何でしょうか。
洪水時に利根川の本流を東に流し、江戸を水害から守るという放水路の役割としては10間幅では頼りない。
赤堀川の目的は、舟運であったと思われます。奥州からの船が銚子から入り、霞ヶ浦・鬼怒川流域からも通じる常陸川。これを栗橋で利根川・渡良瀬川水系とつなげれば、江戸を含む広範囲な水運ネットワークができます。
運河としての役割だけでなく、利根川・渡良瀬川の豊富な水量を導く赤堀川は、常陸川の航行確保にも役立ちます。
[65910] 2008年 7月 31日(木)18:49:20hmt さん
利根川と国境・県境との関係(6)再び逆川、そして赤堀川の位置付け
舟運、特に大消費地である江戸へのルートを考えると、一つの疑問が浮かびます。

常陸川を遡行してきた船は、関宿から逆川を経て江戸川へ入る。これが寛文5年(1665)から明治23年(1890、利根運河通水)までの間の内陸幹川航路です。
それ以前には、赤堀川を栗橋まで遡って、権現堂川経由江戸川に入っていました[57264]。これでも房総半島を迂回する海路に比べればだいぶ近道かつ安全な航路ですが、なぜ関宿から直接 江戸川(既に寛永18年=1641に開通)に入らなかったのでしょうか?

その理由は、常陸川の航行に必要な水量にあったのではないでしょうか。
既に1629年大木丘陵開削により鬼怒川合流点を移す[65861]などの常陸川水量確保の措置も講じられていますが、(長井戸沼など 境町・関宿周辺の沼沢群からの水だけでは、この付近までの航行に必要な水量には不足していました。赤堀川の水でこれを補給しようとしたが、まだ不足。

赤堀川通水以前、逆川の原型となる川の存在は不明ですが、ヘタをするとせっかくの赤堀川の水がここを逆流して(だから逆川?)江戸川に流出してしまうおそれもあります。
江戸川河川事務所HP掲載の図 で赤堀川の右に見える締切堤防は、この逆流を防ぐためのものではないかと推察されます。
ここを締め切ってしまえば、もちろん関宿から直接 江戸川には入れません。

では、寛文5年(1665)にこの締切を撤去して逆川を開削(復活?)することができた理由は何か?
それは、赤堀川の幅と水深を更に大きくして、給水能力を増強する対策を取ったためと思われます。

土木学会企画展pdf によると、元禄11年(1698)赤堀川は、川幅27間(49m)、深さ2丈9尺(9m)に拡張されているようです。しかし、それよりも少し前に、既にある程度の水量増加が実現している可能性があります。そうであるならば、一旦閉じた逆川を開いても舟運に必要な水量を確保できることになります。
これが寛文5年(1665)の逆川開削による銚子-江戸航路ショートカットを可能にした背景であろうと推測します。

舟運ルートの詮索から戻り、利根川水系における赤堀川の位置付けを考えます。

承応3年(1654)の通水により、赤堀川は「利根川の本流」になったでしょうか? そうではないようです。

「1654年赤堀川通水」により、利根川の水の「一部」は確かに赤堀川→常陸川へと流れました。
しかし、赤堀川の幅は狭く、いわば船の航行に必要な最小限の分水だったと思われます。
栗橋で渡良瀬川と合流した利根川の主流は、依然として権現堂川→江戸川を流れたと思われます。
そして、1665年の逆川開削より後の時代になると、利根川主流である権現堂川からの流れは、江戸川と逆川経由常陸川との二手に分かれることになります。

元禄15年(1702)下総国絵図 を見ると、渡良瀬川合流点の下流に「利根川 幅弐町四拾七間(167間)」とあり、そこから東に「赤堀川・川幅三拾弐間」が分れています。
10間幅→27間幅(1698)より更に拡張されていますが、それでも利根川の5分の1の川幅です。

権現堂川筋の川幅は関宿の江戸川流頭で65間(壱町五間)、分れる江戸川が43間、逆川が赤堀川と合流した後の関宿・境町間が161間と、渡良瀬川合流後の川幅とほぼ同じ値になっています。
この数値から判断すると、栗橋で2手に分れた流れのうち、権現堂川→逆川を経由して元の常陸川筋への流れが「利根川本流」になっており、赤堀川はバイパスであったと思われます。

つまり、寛文5年(1665)の逆川開削[65862]によって東へ向かう太い流路が確保されたわけで、拡幅された赤堀川と合わせて、この時期に「銚子口への利根川東遷」が一応は完成したと見てよさそうです。

利根川が、権現堂川と赤堀川との二本立てで東へ流れる体制は、長く続きました。
文化6年(1809)、明治4年(1871)、明治45~大正6年(1912-1917)など何度もの赤堀川拡幅工事を経て、遂に権現堂川は大正14年(1925)に流頭が、昭和2年(1927)に流末が締め切らました。
現在のように赤堀川が利根川の唯一の本流になったのは、このようにずっと後のことでした。
戦後のカスリーン台風(1947)を経て赤堀川が更に拡幅され、現在は700mほどになっていることは既に記しました。[65909]

利根川東遷 は、徳川家康時代からの大計画などではなく、試行錯誤を繰り返しながら到達した結果のように思われます。
[77005] 2010年 12月 10日(金)16:03:19hmt さん
利根川と国境・県境との関係(7)渡良瀬遊水地
栃木群馬埼玉 「3県境近辺の今昔」 に添付した明治17年迅速測図の上部欄外には、渡良瀬川の河道について、次のように書き加えました。
現河道はずっと北から貯水池の東に回り込む

渡良瀬川河川事務所HPの 渡良瀬川の歴史 には、次のように記されています。
渡良瀬川は、かつて太日川(ふといかわ)と呼ばれ、1000年前は、現在のルートとは違うところを流れていました。太日川は、足利市の対岸から矢場川を通り、古河市の西部で合ノ川という川に連なり、現在の江戸川の川筋を通って、東京湾に直接注いでいたのです。

[4618] G[わたらせG]さんも、下野国と上野国との境界をなす矢場川が、渡良瀬川の旧流路であったことを記しています。

上記HPには、足利・太田付近の図はありませんが、渡良瀬遊水地付近については、2番目の図(昭和初年)で説明されています。
赤く着色されているのが 藤岡放水路で、栃木県下都賀郡藤岡町の台地(図の上部橙色)を横切る開削工事(1910~1926年)によって作られました。[76925] 88 さん

(藤岡放水路)によって、渡良瀬川は、直接、赤麻沼に落ちることになったのです
というHPの記述から、昭和前期の渡良瀬遊水地において、北部にある赤麻沼が果した役割を理解することができます。

MLの [off7:00086] における、いっちゃんさんの下記発言も、渡良瀬遊水地を、その中の天然貯水池=赤麻沼で代表させたものだったのでしょう。
実は小学生の頃、地元民は赤麻遊水池と社会科で習ったのですよ

「遊水」目的の「土地」の周囲を土手で囲み、「池」にする工事の着工は 1963年でした。渡良瀬川(藤岡放水路)南西側の第1調節池は 1970年、北東側・巴波川と思川との間の第2調節池は 1972年、巴波川右岸の第3調節池は1997年に ほぼ でき上がりました。

第1調節池内は、更に掘削して貯水容量を増加し、水道水確保にも役立てることになりました。
鉱毒と完全に遮断するために 池の底までコンクリート張りにした ハート形の 渡良瀬貯水池(4.5km2) が 1990年に完成し、「谷中湖」と名付けられています。

振興財団HP[43138]遊水地の生い立ち には、3つの調節池からなる渡良瀬遊水地の航空写真と明治17年迅速図とが対比されており、赤麻沼との位置関係もよくわかります。鳥瞰写真

昭和という年号と共に流れが藤岡放水路に移る前は、蛇行する渡良瀬川がほぼ栃木県境でした。
“ほぼ”と言ったのは、県境が東武日光線と交わるあたりでは、明治の河道も少し県境から外れているからです。この付近、川が台地の先端を横断する形になっており、更に古い流路変遷の存在を思わせます。

それはさておき、その南東約4kmの3県境。迅速測図を見るとわかるように、この地点は 川の合流点でした。
同じく迅速測図に基く資料ですが、近世初頭の利根川改修を扱った論文の図3(URBAN KUBOTA PDF版 No.19 の4/4)「明治10年代…利根川流路と流路跡」をご覧ください。
地形図から読み取れる流路跡が記入されており、江戸時代の流路がよくわかります。

問題の 3県境は 図3の上部で、タイトル文字「利根川流路」の真下です。
蛇行しながら北西から南東へと流れるのが、栃木県境になっている渡良瀬川の旧流路であることは明らかですが、西から来て大きく蛇行してから渡良瀬川に合流する川の正体は何でしょうか?

谷田川と記された西からの流れに、南から大きな旧河道が合流しており、県境線は明示されていませんが、群馬埼玉県境はこちらです。
この河道を辿ると「合の川跡」と加筆されており、利根川接続部の堤防に、「天保9年締切」の注記があります。締切年代については、[76938] まかいの さんがリンクしてくれた 板倉町と水辺 16/36 記載のように 天保12年説もありますが、この河道が上野国と武蔵国との国境になっているということは、かつては利根川の本流と言ってもよいほどの大きな流れであったを語っています。

実は、この付近の利根川水系には、網の目のように多数の流路があり、時代により、また平水時と洪水時により流路は移り変わっていたので、どれが本流であるかということは、簡単に言えません。

3県境探訪からこの複雑地域に言及することになった以上、長らく中断していた 「利根川と国境・県境との関係」 シリーズを再発進しましょう。
[77030] 2010年 12月 15日(水)18:13:52【1】hmt さん
利根川と国境・県境との関係(8)利根川流路変遷図
「利根川と国境・県境との関係」に関する hmtの記事を、シリーズ開始前の2件を含め、下流からの順 で示しておきます。

これから書き続けようとする地域は、河川の流路が 自然的にも、人工的にも 複雑な様相を呈している所です。

[1639] Issie さん
関東平野の中で一番低くなっているのは栗橋のあたりで…,そこを荒川・利根川・渡良瀬川の3大河川が寄ってたかって埋めている最中です。
そのせいで特に埼玉県北部から群馬県南東部にかけては3つの河川の大乱流地帯となっていて,昔から流路が安定していない地域でした。

この地域の利根川流路図については、URBAN KUBOTA No.19掲載 大熊論文の図3 (PDFの4/4)を前報でリンクしました。

同じ論文には 図4 として、もっと広範囲な地域についての 近世初頭の利根川と河川改修図 が提示されているので、これもリンクしておきます。
河川改修項目や その年代、地形との関係といった 複雑な内容を示す、大きな図になっており、上記の過去記事に記した事項の参照図として、極めて有用です。

国土交通省の利根川関係河川事務所や、地方自治体のHPには、それぞれのテーマに応じた地図があり、過去記事でも しばしば参照していたのですが、残念ながら リンク切れになったり、別ページに更新されたりしているものが多数あります。
例えば 埼玉県HPにおける 江戸時代の利根川・荒川流路変遷図について言うと、[11323]KMKZ さん の リンク(着色図)は切れていますが、現在は 類似の 単色図 が開示されています。

個人ページでは、利根川東遷概史 の図(「古代で遊ぼ」の中)が 綺麗にできており、年代別の図が附属しています。同じ作者による隅田川図もあり、[39431]でリンクしています。

[77005]の最後に記した「合の川」を、これらの図で比較してみます。

大熊論文の図4を見ると、赤の11番で合の川呑口締切り・天保9年(1838)とあり、図3の注記と同じです。

最後に挙げた利根川東遷図では、次のようになっています。
緑色で示された江戸以前の利根川は、川俣(羽生の北西)で南に流れる会の川を分けて2筋になり、東への利根川は、更にに分流。3筋(1621以前)のうち南に行く浅間川が本流格で、会の川と再び合流して古利根川筋を流下します。東への細い緑色は、北川辺村内の蛇行流路で、図4にも示されていました。そして北東に向かう細い水色が合の川で、北西からの渡良瀬川と合流します。
年代別図を見ると、利根川から合の川への流れは、1594頃には存在しているが、1621年以降には地図から消失しています。

埼玉県HPには合の川の流路は描かれていますが、川の名は記されていません。

板倉町と水辺 15/36には、合の川の歴史的河道形成という節があります。これによると、元禄の国絵図では利根川との間は水路で繋がっておらず、「此所より田畑国境」と耕作地になっており、洪水時のみ流れていたと推定しています。

要するに、新川通開削(1621)後には、かつての有力な派川の名残である大きな流路が残されている合の川も、利根川の水が殆んど流れ込まなくない状態になっていたのでしょう。
天保年間の堤防により締切は、洪水対策であったと思われます。

3県境探訪記 の中でも、殆んど語られることのなかった 武蔵上野国境の 合の川跡 ですが、少々コメントしてみました。
[77081] 2010年 12月 21日(火)23:40:44【1】hmt さん
利根川と国境・県境との関係(9)上武・両毛・総武・常総国境
北関東3県と南関東との境界線は、大筋で利根川の流路沿いというのが常識です。
このシリーズは、一見この大原則?に逆らっているように見える 埼玉県北川辺町【当時】や 茨城県五霞町の所属が、渡良瀬川を境界とした武蔵国と下総国との関係を引き継いだものであるという「いきさつ」からスタートしました。

利根川のような大きな河川は、かつては内陸水運の動脈としての機能もありました。
しかし、架橋技術が発達していない時代の大河は、地域間の交流を分断する存在でした。
そのようなわけで、関東の平野部では、国境やそれを引き継いだ県境が、利根川水系の流路に関わる場合が多く、それをテーマとして、このシリーズを始めました。

武蔵国と上野国との国境は、烏川合流点から下流は、ほぼ利根川に沿っています。その中で、「合の川」の跡[77030]だけが 現在の利根川よりも北に外れ、それ故に 旧北川辺町が 埼玉県の対岸飛び地の観を呈していました。
しかし、現在の国境が確定したと思われる近世初頭には、合の川は利根川の有力な派川でした。
特に川俣での「会の川締切り」(1594)以後、「新川通開削」(1621)までの間、「合の川」【注】は浅間川と共に利根川の主流格の存在であったと思われます。これが上武国境となり、ひいては群馬埼玉県境に引き継がれた理由でしょう。
【注】 発音が同じで紛らわしいが、「合の川」は「会の川」とは別の川で、「間の川」とも書きます。
3県境探訪ルート図 の6→7が合の川跡です。

栃木・群馬・埼玉3県境地点から先は、渡良瀬川【旧流路】と合流した武蔵・下野国境(ルート図の7→8)で、茨城・栃木・埼玉3県境(古河付近)を経て、渡良瀬川の現流路として武蔵・下総国境を流れます。
遡ると、桐生付近から下流の渡良瀬川は 両毛(上下毛野)国境になっています。但し 国境は 現・矢場川経由の旧河道であり[4618]、現在の栃木・群馬県境は 境界変更 のために 更に少しずれている部分があります[46981]
また、渡良瀬遊水地のために、旧河道跡の国境と遊水地内の新河道(藤岡放水路)も別ルートです[77005]

現在の茨城・埼玉県境(=総武国境)は、渡良瀬川が利根川と合流した先の栗橋で、川から外れます。
しかし、ここ総武国境の南半分も、かつては利根川の主流であった 権現堂川でした。
3県境近辺の今昔 の後の2枚を比較してください。

更に古い時代に遡れば、武蔵国と下総国との国境をなしていた川は、埼玉郡【加須市旧大利根町】と葛飾郡【久喜市旧栗橋町】との間を流れて古利根川筋を経由して「両国」に至っていたものと思われます。
しかし、近世初期、現在の国境が確定した時点では、国境は古利根川より少し東の庄内古川に移動していたと推察します。

寛永12~18年(1635-1641)になると、下総台地を切り開いた 新利根川(江戸川)が開削され、利根川の主流は、権現堂川経由で、こちらから江戸湾へ流れることになりました。

近世初頭の流路に基き総武国境として定められた庄内古川筋。人工的な河川改修により流れが失われてから二百数十年後、江戸川西岸が埼玉県になった1875年[36159]以降も、総武国境でした。
しかし、郡制施行を契機とした 1896年の「埼玉県下国界変更及び郡廃置法律」で国界も江戸川に移りました。

結城付近から下流の常総(常陸・下総)国境は、かつて鬼怒川と小貝川とが合流して龍ヶ崎の南で常陸川に出ていた流路です[65861]
現在の鬼怒川が常総国境になっているのは結城付近だけで、後は主として下総国結城郡内を南下し、大木丘陵を開削したルート(寛永6年)を通り、守谷で利根川に合流しています。一方、小貝川の流路は下妻付近から龍ヶ崎付近まで常総国境をトレースしています。

印旛沼と接続する安食付近(栄町)から下流の常総国境は、明治8年以来の茨城・千葉県境で、現在は与田浦周辺を除き 大部分は利根川本流とも一致しています。
しかし、明治32年までの 国境 = 県境 は、利根川よりも北にありました。1899年の法律による境界変更で、利根川より北の村々は「千葉県から茨城県へ」と所属が変ったわけです[65807]
横利根川よりも下流側の与田浦周辺の水郷地帯[65806]の 国境 = 県境 は、依然として霞ヶ浦(西浦)と外浪逆浦とをつなぐ北利根川【注】にあります。

【注】
北利根川は常陸利根川の一部です。川の名前による混乱を防ぐために[76914]でリンクした 河川図 を再録しておきます。

常総国境 = 茨城・千葉県境 が利根川本流を外れている部分は、横利根川・北利根川・外浪逆浦西側・常陸川の一部(西側)です。
外浪逆浦でなく、その西側の陸地に境界がある点については、[73428] k-ace さんが東関東道を通過した際に発見して疑問を呈し、これに対して、[73602]で答えています。
[77091] 2010年 12月 23日(木)18:20:16【2】hmt さん
利根川と国境・県境との関係(10)権現堂川
総武国境を流れる川と言うと、下総国は千葉県で武蔵国は東京都・埼玉県だから、この境界を流れるのは江戸川というのが最初に出る答えです。

しかし、下総国は茨城県西部に及んでいますから、総武国境の北部は茨城・埼玉県境です。
[77081]では、主としてこちらについて記し、総武国境の最北部で古河市が旧北川辺町と隣接している渡良瀬川に触れました。
今昔地図 の最後から明らかなように、現状では、栗橋から先の総武国境には川が流れていませんが、ここは、利根川の歴史を語る上で欠かせない「権現堂川」の流路跡です。

権現堂川(栗橋・権現堂堤・関宿間)のことは、Issieさんを始めとする2003年の記事が アーカイブズ に収録されており、私も[57264][65910]など何回も言及しましたが、「帰らざる河」になってしまったこの川のことをレビューしておきたいと思います。

ウオッちずで権現堂川を検索すると、現在も1件ヒットします。しかし、その姿は 南北に細長い池で、権現堂調節池(行幸湖)という注記も見えます。南端でつながっている川を東に進んだ幸手工業団地付近も かつての権現堂川ですが、Mapionには「中川」と書いてあります。
つまり、「川としての権現堂川」は完全に失われ、西側は調節池として、南側は中川の一部として再利用されているわけです。

[11293] でるでる さん
私の周りでは、権現堂川という名称の方が、馴染んでいるような気がしますが、たいてい中川と呼んでも通じますね。
現在の権現堂川(中川)の姿からでは、かつては利根川の本流であったというのは、驚きです。

権現堂川の西側の流路は、古河から南下してきた渡良瀬川の続きで、権現堂付近から南へ大きく蛇行した河跡が地形図上で読み取れ、杉戸付近で古利根川に流入していたとされます(小出博:日本の河川研究 1972)。
権現堂から東に分派する流れもありました。天正4年(1576)権現堂堤で南への流れを断って以降は東流が主となり、庄内古川経由金杉以南は江戸川筋を南下したと考えられます。

この権現堂川の流れは、渡良瀬川だけでなく、利根川の主流路にもなりました。
利根川の派川・合の川が3県境地点で渡良瀬川に合流しただけでなく、もう一つの利根川主流である浅間川の水も島川経由で権現堂川に流れ込んでいました。寛永年代になると浅間川から古利根川方面への流れは 高柳地点で締め切られ、全量が栗橋経由で権現堂川に入ることになりました。
この時期、栗橋・関宿間の赤堀川拡幅工事が進行中ですが、こちらから東に流れる利根川の水はまだ少量と思われます。

利根川水系における権現堂川の地位を語るにあたっては、赤堀川[65909][65910]の状況認識を欠くことができません。
元和7年(1621)にスタートした赤堀川開削。最初は僅か7間幅で着工。拡幅だけでなく深さも掘り下げてようやく平水時の通水を達成したのが33年後の承応3年(1654)【[57264]の寛永18年は誤記】。この工事の主目的は、仙台から物資を輸送する船を江戸に導くことであったと思われます。

江戸に行くならば栗橋など回らずに、関宿から直接江戸川に入ればよいと思われます。事実 天正年代には 僅かながら逆川ルート【自然か人工か不明】が舟運に利用されていたようです。
しかし、江戸川の水位は利根川(常陸川)よりも低く、うかつに関宿での水路を繋げると、長井戸沼などから供給されていた水が流出してしまい、利根川を大きな船が遡行する水位を保てなくなるのが問題なのでした。
このような理由で、赤堀川を通じて利根川に十分な水量が供給される前には、逆川を堤防で締切る(寛永18年=1641)ことにより、水の流失を防いでいたのでした。

逆川が締め切られれば、江戸への航路は栗橋を廻らざるを得ません。こうして物流拠点となった権現堂川筋には、一時的な繁栄がもたらされました。

しかし、寛文5年(1665)には逆川の堤防が撤去され、仙台からの物資輸送船は、利根川から江戸川に直通することができるようになりました。承応3年の赤堀川通水から11年後ですから、この間に一層の水量増加対策が取られたものと思われます。
赤堀川の規模については、元禄11年(1698)に幅27間、深さ29尺(土木学会企画展)と記され、元禄15年の国絵図にも川幅32間とあります。文化6年(1809)には40間。

元禄国絵図に記された川幅[65910]からすると、権現堂川筋の川幅は関宿の江戸川流頭で 65間あり、赤堀川 32間に比べて倍あります。もちろん江戸川への流出もありますが、利根川は栗橋で2手に分れ、関宿で合流という2本立ての姿を見せており、これは天保国絵図でも殆んど同じです。

江戸時代の「利根川の本流」がどこだったのか。私にはよくわかりません。
ごく初期の会の川、古利根川などは別として、利根川本流は浅間川から新川通へと移り、そして栗橋から下流の候補としては、権現堂川→江戸川、権現堂川→常陸川、赤堀川→常陸川が挙げられます。

明治の迅速測図 になっても、まだ権現堂川から江戸川と逆川とに分れ、赤堀川を含め3本立ての流路です。
赤堀川は概ね幅広になっているが、川妻村にボトルネックががあり、洪水時の処理能力には まだまだ不安あり。
青線で加筆された現在の江戸川流頭は、当時の逆川と逆向きです。

内陸水運の物流拠点が、権現堂河岸 から 関宿 へと移ってから200年以上、明治23年(1890)に利根川と江戸川とをショートカットする利根運河(ムルデル[67436]設計)が開削され、関宿も拠点の地位を失いました。蒸気船の時代になっていますが、追いかけて明治29年(1896)日本鉄道土浦線[61225](現・常磐線)開通というわけで、運河の最盛期は短期間で終りました。

権現堂川は江戸時代を通じて大河でしたが、もともと南下していた流路を東に向けただけに、権現堂堤はずっと破堤・水害の危険をはらんでいました[11541]。「行幸湖」[36976]の名も、明治9年に明治天皇が前年に築かれた堤防を視察されたことを記念しています。

河川政策が水運から水害防止に移ると、赤堀川の役目も、舟運用の水路確保から、洪水時の排水機能が重視されるようになりました。明治の大水害(1910)経験後の近代改修事業(~昭和5年)と、カスリーン台風(1947)後の戦後改修で、赤堀川は一段と拡幅されました。現在は約700m(400間)。
20世紀初頭の工事については、洪水時に足尾鉱毒が東京に氾濫することを防止する役割も狙ったものであるという指摘もあります。

水運路の確保から洪水対策へと目的は変りましたが、17世紀から20世紀へと長期間をかけての整備が進められた結果、赤堀川の比重が次第に高まってゆき、遂に昭和に入って 権現堂川は 完全に廃川になりました。
結果として、「利根川東遷」は、ここに完成したものと思われます。

拡幅を続けた赤堀川と対照的に、権現堂川の運命は、明治以降の近代改修で縮小廃止への道を歩みます。
大正14年(1925)に流頭締切、昭和2年(1927)に流末締切。そして廃川。
農業用水の水源(溜井)になっていた上流側が再整備されて行幸湖になり、下流側が中川の一部に変身していることは、既に記しました。

利根川東遷完成と言いながら、利根川の水は、江戸川・見沼代用水路・武蔵水路など多くの人工的な水路により導かれています。
また、1947年のカスリーン台風では、利根川の洪水が東京に襲来しています。
利根川と東京との関係は、東遷によって、縁が切れたということでは、決してありません。
[77101] 2010年 12月 25日(土)16:34:53hmt さん
利根川と国境・県境との関係(11)中川
[77091] hmt
「川としての権現堂川」は完全に失われ、西側は調節池として、南側は中川の一部として再利用されている

南北関東の境界をなす利根川シリーズ。その中に「中川」が出てくのは、意外な展開のようでもありますが、ある意味では当然でもあります。

「意外」と感じる理由は、中川と言えば東京の川というイメージがあるからです。
江戸川のなりたち の一番下をご覧ください。右下の江戸湾に3つの川が注いでいます。右の川には江戸川(太日川)と記され、左は河口に隅田川(大川)とあります。
ところが、真ん中の川は名も記されていません。この可哀想な川が「中川」でした。
3つの川の位置関係からこの名は自明のこと。でも、それは江戸(東京)で通用する論理です。

東京を遠く離れた茨城県境にある権現堂川の跡が転用されて、中川と呼ばれるようになったのは、現代の河川改修事業の結果です。
上記の地図上方やや左、権現堂川という文字から辿って行くと、アレアレ…?
古利根川に近寄りますが、合流することなく江戸川に行ってしまいます。権現堂川と中川とはは、昔は別の水系でした。

現在の中川の流路が確定したのは、昭和3年のことのようです。
中川の誕生 には、大正7年から昭和3年(1918-1928)にかけて行なわれた 国営の庄内古川改修事業が記されています。
すなわち、廃川となった権現堂川の約4kmの区間を中川に転用。上宇和田から下流に吉田村新水路を開削して、権現堂川を庄内古川へ付け替え。庄内古川は全線を浚渫。そして、松伏領新水路を開削して、従来は江戸川に合流していた庄内古川を、古利根川へ付け替え。

当時、既に建設機械を用いた土木工事法は導入されていたが、約10kmの新水路の開削は、不況対策の一環として、あえて人力主体の工事で行なわれたと書いてあります。

このようにして、周辺地域における河川逆流・排水不良のトラブル克服効果を発揮した新水路が完成すると、本来は下流の江戸付近の名称であった中川の本流であるという地位が、これに与えられたのですね。

このような新設流路が本流顔をしていることは周知でなく、ベテランでも 次のような 勘違いの修正発言があります。
[11153] Issie さん
私,ずっと以前(まだ書き込み番号が2桁の頃[77])に,埼玉県内で「古利根川」と呼ばれる川が東京都に入って「中川」と呼ばれている,という趣旨の書き込みをしたことがあるですが,これは間違いでしたね。
「古利根川」は吉川市・越谷市・松伏町の境界の交点付近で「中川」に合流しているけど,中川そのものはずっとさかのぼって,(中略)少なくとも加須市の樋遣川(ひやりかわ)地区のあたりまでたどることができます。

中川を管理している江戸川河川事務所 によると、
中川は埼玉県羽生市を起点に、大落利根川、新方川、元荒川、大場川など多くの支川の流れを集めながら南下し、東京湾へと注ぐ総延長約81kmの一級河川です。

もともとは江戸に近い下流の呼び名であった中川は、現在の河川管理用語としては、利根川水系が瀬替を行なった結果として残された旧流路・人工水路・農業用水路などを複雑に再構成した、極めて人為的に定義された河川の名として使われています。

現在の中川は、河口に近い部分が高砂橋から江戸川河口を目指す新中川、荒川と並行する中川(←中川放水路)、江戸川区の西縁をなす旧中川の3つに分かれています。これを遡ると、吉川橋で元荒川、その上流で新方川、更に大落古利根川が流れ込む越谷市の 四川合流
大落古利根川の方が色が濃くて太いので航空写真上目立つのですが、河川管理上は支流ということになっています。
真っ直ぐ北に伸びる本流を遡ると、元は権現堂川だったところに行き着きます。

折角なので、権現堂調節池から島川跡を更に北西に伸びている中川の「起点」を探ってみましょう。
具体的な地点が示されているのは、中川の起点で、宮田落という排水路が葛西用水の下を立体交差で横断(伏越)した吐口で、中川と名を変えて、一級河川として管理されるとのことです。写真あり。羽生市役所の少し南のようです。地図
中川の延長、流域面積の数字は河川事務所の数字と少し違いますが、起点に変更はないものと推察します。

ここにも記されているように、中川起点の標高は、僅かに15m! 平均勾配は5500分の1という「下流だけしかない川」です。
小さな図ですが、Watch中川pdf の9/15に、多摩川・鶴見川と比較した河川勾配図があります。
[77106] 2010年 12月 26日(日)03:31:44oki さん
利根川東遷以前の下総国図
[77091] hmt さん 利根川と国境・県境との関係(10)

利根川と国境・県境との関係シリーズについては、興味をもって読んでおりますので、今後も継続していただくよう、お願いいたします。
それに関連して、上記書き込みでhmt さんが引用された土木学会のサイトに、非常に面白い絵図が掲載されており、利根川東遷以前の利根川流域の状況が推測できるので、それについてちょっとご紹介しておきます。

紹介したい絵図は、上記サイトの右下に「江戸初期 下総之国図」(船橋市西図書館蔵)となっているものですが、サイト掲載のままでは解像度が低すぎて何を示しているかよく分かりません。
そこで最初に、この絵図が何を示しているか、簡単に説明しておきます。絵図は上が北、右が東で、現在の地図と同じです。絵図のもっとも左上(北西側)にある□印が古河城で、その西を流れるのは渡良瀬川(思川)です。渡良瀬川(および権現堂川)沿いに古河城の下(南)に位置する□印が栗橋城、そのすぐ東(右)にあるのが関宿城です。ただし、この栗橋城があったのは、権現堂川西岸に位置する現在の栗橋ではなく、東岸の元栗橋(現五霞町)です。関宿城のはるか下にある□印は葛飾区青砥にあった葛西城、その斜め右(東北東)に位置するのが松戸の大谷口にあった小金城です。
栗橋城、葛西城、小金城などは、秀吉の小田原攻めの際に落城し、そのまま廃城になったはずですから、この絵図は江戸時代初期というより、後北条氏時代の下総を描いたものではないかと思います。

この絵図で、利根川は次のように流れています。まず、北西方向から流れてきて二派に分かれます。東流する細い流れはおそらく合の川で、渡良瀬川と合流しています。南東流は浅間川筋と見られ、さらに二分されていますが、東派した川は権現堂川と合流、関宿方面へ続いています。南東方向への流れが利根川の本流で、猿ヶ股(現在の葛飾区水元)で二分し、葛西城の東を通って江戸湾に注ぐ西側の流れが江戸時代の中川です。その一部(古隅田川)はさらに西派して隅田川に流入しています。猿ヶ股から東へ行く派川は当時の太日川で、現在の江戸川下流部をなす河川だと考えられます。絵図からは、(古)隅田川以東が下総国に属していることがはっきりと分かります。

この絵図には、東遷以前の利根川水系について、注目すべき点がいくつか示されています。その中で最大のものが、利根川水系と常陸川水系の連絡を明示していることです。少し分かりにくいですが、栗橋城の南を通る権現堂川は、関宿城の西側から北側を迂回し、東側の常陸川につながっています。これは近世の逆川の川筋そのもので、この絵図が正しいとすれば、後北条氏の時代に、逆川に当たる水路が既に存在したことになります。
栗橋城主北条氏照の書状により、天正4年(1576)の段階で葛西~栗橋間および佐倉~関宿間の舟運があったことが判明しているので、栗橋~関宿間が上記の水路を通じて連絡していたとすれば、江戸湾と佐倉間(さらには銚子まで)の舟運も可能だったと考えられます。

もう一つの注目点は、庄内古川に相当する河川が存在しないことです。庄内古川(この時点では庄内川ですが)は、関宿城の西側で権現堂川から分派、当時の利根川本流と並行する形で南流し、猿ヶ股から東派した太日川と合流しているはずです。しかしこの絵図では、太日川に流れ込んでいる川はありますが、権現堂川には達していません。逆に権現堂川から南流する川は、途中で利根川本流に合流してしまっています。
この南流河川は、hmt さんが
権現堂川の西側の流路は、古河から南下してきた渡良瀬川の続きで、権現堂付近から南へ大きく蛇行した河跡が地形図上で読み取れ、杉戸付近で古利根川に流入していたとされます
と書かれていた川だと思います。この絵図が正しいとすると、この時点では庄内川がなく、渡良瀬川の水も利根川本流に合流していたことになります。
迅速側図を見ると、上記の南流河川の東側に、南へ向かう広い河道跡が認められ、それは庄内古川の川筋につながっています。ひょっとすると、この絵図の時点では閉塞していた河道を改めて開き、利根川本流に集中する水流を太日川方面に流そうとしたものの、うまくいかず、改めて江戸川を開削したのかもしれません。

また、利根川水系と常陸川水系との水運が既に開かれていたとすれば、新川通や赤堀川を開削した主目的は、特に洪水時に、利根川および渡良瀬川の水を常陸川に流すことにあったと思われます。それにしては赤堀川の川幅が狭すぎ、放水路の役割を果たさなかったのではないか、とも思われるのですが、この点は今後考えてみることにします。

何にしろ、赤堀川も新川通もない時代の珍しい地図ですので、参考のために、ご覧になってください。

※ 後で捜したところ、こちらに、もう少し詳しい地図が掲載されていました。城名などの注記もあるので、より見やすいと思います。また、上記した北条氏照書状の翻文も記載されているので、そちらもご覧ください。


[77101] hmt さん  利根川と国境・県境との関係(11)中川
現在の住居は江戸川のすぐそばで、新中川辺りにもよく行きます。なので、「中川」に関する記述も、とても興味深く読みました。今後の連載は、上武国境の方に遡るのでしょうが、江戸川についても触れていただければと思います。
ご参考のために、野田市立興風会図書館にある「江戸川縁領々地図」と題された地図をリンクしておきます。幕末期(1845年以後)のものですが、江戸川沿岸地域の地図として非常に精密で、流頭部の棒出しも明瞭に描写されています。
[77329] 2011年 1月 4日(火)21:00:09hmt さん
利根川と国境・県境との関係(12) 船橋市西図書館蔵「下総之国図」
[77106] oki さん
「江戸初期 下総之国図」(船橋市西図書館蔵)
※ 後で捜したところ、500年前の江戸川の流れ に、もう少し詳しい地図が掲載されていました。

土木学会サイト掲載図では 判読できなかったのですが、今回のご紹介により、小田原征伐のあった 天正18年(1590)以前の 利根川水系を知ることのできる絵図であることがわかりました。

絵図 の左辺上方で現れ、南東に流れる利根川。概ね浅間川[77030]→古利根川の筋を流れ、猿ヶ股(現在の葛飾区水元)で中川と太日川とに分れて江戸湾に注ぐという姿が描かれています。中川を天然の水濠とした 葛西城。現在は、新中川と分岐する高砂橋に近い 葛飾区青戸7丁目の環七通りの下に 埋も戻されているようですね。

ところで、この絵図においては、中川と太日川の分岐点は、海と関宿城との ほぼ中間点になっています。
現在の地図で測ってみると、当時の海岸から猿ヶ股まで約 12km。ところが、猿ヶ股と関宿との距離は約 33kmもあります。約13kmある関宿・古河間が、絵図では海岸・猿ヶ股間より少し短く描かれているので、江戸付近がやや過大気味ではあるようですが、それにしても、栗橋や関宿のある権現堂川区域と猿ヶ股との中間区域は 著しく過小に描画されており、不正確な絵図になっていると思われます。

逆川と江戸川開削について

この絵図には、東遷以前の利根川水系について、注目すべき点がいくつか示されています。その中で最大のものが、利根川水系と常陸川水系の連絡を明示していることです。
この絵図が正しいとすれば、後北条氏の時代に、逆川に当たる水路が既に存在したことになります。

天正年代の逆川ルートについては、私も[77091]で言及しました。参考資料は 大熊論文 の20頁です。
逆川も勾配がなくどちらの方向に流れていたか明らかでないが、おそらく細流であり、吃水の浅い小舟が通じた程度であろう。

今回紹介していただいた 天正四年1576年の「北条氏照の判物」
従佐倉、関宿、自葛西、栗橋、往復
佐倉より関宿へと遡る常陸川航路、葛西より栗橋へと遡る古利根川航路。
両者を結ぶ逆川は、絵図ではかなり太く描かれていますが、大船の直通ができたのかどうかわかりません。

江戸が都市として発展すると、江戸への物資輸送を目的とした新水路が建設されます。
古利根川や庄内古川では、急増した輸送需要を賄うのに不十分だったのでしょう。
江戸川開削(1635-1641)がこれですが、関宿-金杉間は 下総台地を開削[49898]。金杉から江戸湾までは 庄内古川・太日川の水路を用いました。

こうして江戸川ルートはできましたが、赤堀川が貧弱な状態では、新水路に見合う水の供給は不十分でした。
だから、折角できた江戸川から常陸川への直通はお預けになり、栗橋・権現堂河岸経由の迂回路を使用。
逆川の堤防が撤去されて、利根川から江戸川への直通が実現したのは寛文5年(1665)[77091]

庄内古川について

もう一つの注目点は、庄内古川に相当する河川が存在しないことです。
権現堂川から南流する川は、途中で利根川本流に合流してしまっています。

過小描画されているらしい権現堂川区域と猿ヶ股との中間区域の川の流れ。古利根川左岸に記された下総国の村々の名を 読み取ることもできず、実はよくわからないのですが、私としては、一応 次のように理解しています。

すなわち、現代の地図で見ると、中川と大落古利根川とは、春日部市の 藤の牛島駅付近で かなり近接しています。
船橋市の絵図の時代には、中川の前身である庄内古川が、大落古利根川の前身である利根川に近接し、ここで合流していたものと思われます。

関宿の手前の上宇和田村付近で 権現堂川から分れて南流し 古利根川に入るこの川は、当時の郡界であったことが、絵図に描かれた 村の色 からわかります。東側は葛飾郡ですが、西側の幸手領は何郡だったのでしょうか。色からすると、古河方面と同じ下総国幸嶋郡【猿島郡】のようです。

私が[77091]で言及した南流河川、つまり
権現堂付近から南へ大きく蛇行した河跡が地形図上で読み取れ、杉戸付近で古利根川に流入
していた流路は、大熊論文 の図3 [77030]において「蛇行流路跡」と赤字で注記された川を指しています。
船橋市西図書館蔵の絵図にある川ではなく、おそらくもっと古い河跡だと思います。

(庄内古川の)春日部付近より下流は、別の川として太日川に注いでいました。

おそらく江戸時代初期には、春日部付近を境に上下別々だった川は、1本の庄内川になり、この川が下総国と武蔵国との境界になったのでしょう。下総国幸嶋郡であった幸手付近は、武蔵国葛飾郡になったわけです。

ずっと後の時代の絵図になりますが、参考までに、天保武蔵国絵図 をリンクしておきます。
便宜上庄内古川と呼んできましたが、天保武蔵国絵図で、埼玉郡粕壁宿の北東に見える国境には、「利根川」の文字が記されています。利根川東遷がかなり進んでいる天保時代でさえ、江戸湾に注ぐ川が「利根川」を名乗っていたのでした。

# 文学作品には、20世紀になっても、江戸川のことを「利根」と呼んだ例を見ます。新茶のかおり (田山花袋のエッセイ、明治42年5月)
[82206] 2012年 11月 18日(日)12:09:13hmt さん
利根川と国境・県境との関係(13)1947年 カスリーン台風
[82194] YT さん
昭和22年の臨時国勢調査人口における宮城県、栃木県、埼玉県の総人口は、「水害により調査を延期した地域における調査洩れの補正人口」を含み、市町村別人口の合計と一致しません。
ところが(中略)水害によって調査を延期した地域には、東京都も含まれていました。

戦後初の臨時国勢調査が行なわれたのは、65年前の昭和22年(1947)10月1日でした。
ところが、その直前の9月に来襲した カスリーン台風 は東日本に大水害をもたらし、人口調査の記録にも、このような爪痕を残したのでした。

(註)水害によって調査を延期した地域
南埼玉郡久喜町は国勢調査延期の事態にはならなかったようですが、なきらさん の出身地も大きな被害を受けた地域であったと推察します。なきらさん自身は 幼児の頃なので、ご本人による直接の記憶はないと思いますが、ご家族や近くの方から 水害について多くの経験談を お聞きになったことでしょう。

当時は厚木の中学に通学していた hmt は、関東地方とはいえ 被災地の様子を直接知ることはありませんでした。
しかし、利根川から溢れ出た濁流が 埼玉県から東京へと流れ下り、葛飾区や江戸川区までを水浸しにした大水害になったことは、紙不足で十分な紙面が使えなかった当時の新聞にも 大きく報道され、よく知っております。

9月16日0時20分に最初の堤防決壊があった後も、数多くの決壊・越流を伴いながら、18日17時には氾濫流は埼玉県と東京都との境界に達しました。ここは県境未定地で話題にした小合溜[79564]ですが、昔から 桜堤 という堤防が築かれて、利根川の氾濫を防いでいた場所です。

カスリーン台風の時にも、桜堤で しばらく水の侵攻を停滞させたのですが、洪水が都内に侵入することを食い止めるためには 江戸川に落す他はないと、都知事は堤防を切る許可を内務省に求めました。対岸の千葉県の了解という条件でOKになり 作業を開始したのですが、当時の装備では能力不足で 進駐軍に爆破作業を依頼。その間 19日2時20分に桜堤は決壊してしまったものの、午後には爆破による堤防開削も成功して 都内の浸水を減少させるのには役立ちました。

余談ですが、小合溜の都県境が未確定であることについて、中央防災会議調査会報告書の 第5章 15/26コマに コラムがあったので紹介しておきます。

それはさておき、最初の利根川堤防決壊から5日余を経過した 21日5時に江戸川区船堀の新川堤防に至って ようやく氾濫流が停止。これまでの間 連日の新聞紙面には、押し寄せる濁流を伝える記事が続きました。

当時はまだ 「利根川東遷」 という言葉を知らなかったと思いますが、人の力によって 銚子へと流路を変更されていた利根川は、堤防決壊を機に解き放されると、その潜在力により かって流れていた中川・古利根川の筋を辿り、東京湾へと押し進む。自然の力に 治水技術が敗北した姿を まざまざと見せつけられ、衝撃を受けたことを記憶しております。

防災科学技術研究所企画展 には、東京を襲った利根川洪水の流向や、あと少しで東京湾というところまで達した氾濫流の図が掲載されています。詳細図

この水害に関しては栗橋という地名を記憶していたのですが、調べてみると これは濁流が最初に向かった町であり、決壊口そのものは 栗橋よりも少し上流、北埼玉郡東村(現・加須市)の 新川通 でした。
新川通は、茨城県から埼玉県に境界変更された伊賀袋の記事[79541]で、“東武日光線が利根川を渡った直後”と説明した利根川流路で、もともとは利根川東遷の過程で 1621年に開削されたものです[77030]

私の記憶に残っていたのは 関東地方の水害だけでしたが、YTさんの記事に「宮城県」とあったので調べてみたら、カスリーン台風は その後も東北地方の北上川で 大雨による災害をもたらしていました。

北上川水害の歴史 4/10コマによると、現在の登米市中田町で堤防決壊、当時の3町5村が濁水に浸かり 宮城県・岩手県で死者109人、流失家屋263戸。
なお、利根川流域での死者は 1,100人、家屋浸水 303,160戸、家屋の倒半壊 31,381戸と記録されています。資料

おまけ:台風の名
カスリーン台風は昭和22年台風9号ですが、占領下の日本では米軍が使っていたABC順の女性名が通用していました。「KATHLEEN」ですが、日本の新聞の表記は キャサリーン、カザリンなど まちまちであったと記憶しています。
大阪では 1950年のジェーン台風が有名です。
独立後は現在の番号方式になりましたが、伊勢湾台風(1959)のように特別に被害の大きかった台風には固有名が付けられています。

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