総武国境を流れる川と言うと、下総国は千葉県で武蔵国は東京都・埼玉県だから、この境界を流れるのは江戸川というのが最初に出る答えです。
しかし、下総国は茨城県西部に及んでいますから、総武国境の北部は茨城・埼玉県境です。
[77081]では、主としてこちらについて記し、総武国境の最北部で古河市が旧北川辺町と隣接している渡良瀬川に触れました。
今昔地図 の最後から明らかなように、現状では、栗橋から先の総武国境には川が流れていませんが、ここは、利根川の歴史を語る上で欠かせない「権現堂川」の流路跡です。
権現堂川(栗橋・権現堂堤・関宿間)のことは、Issieさんを始めとする2003年の記事が
アーカイブズ に収録されており、私も
[57264][65910]など何回も言及しましたが、「帰らざる河」になってしまったこの川のことをレビューしておきたいと思います。
ウオッちずで権現堂川を検索すると、現在も1件ヒットします。しかし、その姿は 南北に細長い池で、権現堂調節池(行幸湖)という注記も見えます。南端でつながっている川を東に進んだ幸手工業団地付近も かつての権現堂川ですが、Mapionには「中川」と書いてあります。
つまり、「川としての権現堂川」は完全に失われ、西側は調節池として、南側は中川の一部として再利用されているわけです。
[11293] でるでる さん
私の周りでは、権現堂川という名称の方が、馴染んでいるような気がしますが、たいてい中川と呼んでも通じますね。
現在の権現堂川(中川)の姿からでは、かつては利根川の本流であったというのは、驚きです。
権現堂川の西側の流路は、古河から南下してきた渡良瀬川の続きで、権現堂付近から南へ大きく蛇行した河跡が地形図上で読み取れ、杉戸付近で古利根川に流入していたとされます(小出博:日本の河川研究 1972)。
権現堂から東に分派する流れもありました。天正4年(1576)権現堂堤で南への流れを断って以降は東流が主となり、庄内古川経由金杉以南は江戸川筋を南下したと考えられます。
この権現堂川の流れは、渡良瀬川だけでなく、利根川の主流路にもなりました。
利根川の派川・合の川が3県境地点で渡良瀬川に合流しただけでなく、もう一つの利根川主流である浅間川の水も島川経由で権現堂川に流れ込んでいました。寛永年代になると浅間川から古利根川方面への流れは 高柳地点で締め切られ、全量が栗橋経由で権現堂川に入ることになりました。
この時期、栗橋・関宿間の赤堀川拡幅工事が進行中ですが、こちらから東に流れる利根川の水はまだ少量と思われます。
利根川水系における権現堂川の地位を語るにあたっては、赤堀川
[65909][65910]の状況認識を欠くことができません。
元和7年(1621)にスタートした赤堀川開削。最初は僅か7間幅で着工。拡幅だけでなく深さも掘り下げてようやく平水時の通水を達成したのが33年後の承応3年(1654)【
[57264]の寛永18年は誤記】。この工事の主目的は、仙台から物資を輸送する船を江戸に導くことであったと思われます。
江戸に行くならば栗橋など回らずに、関宿から直接江戸川に入ればよいと思われます。事実 天正年代には 僅かながら逆川ルート【自然か人工か不明】が舟運に利用されていたようです。
しかし、江戸川の水位は利根川(常陸川)よりも低く、うかつに関宿での水路を繋げると、長井戸沼などから供給されていた水が流出してしまい、利根川を大きな船が遡行する水位を保てなくなるのが問題なのでした。
このような理由で、赤堀川を通じて利根川に十分な水量が供給される前には、逆川を堤防で締切る(寛永18年=1641)ことにより、水の流失を防いでいたのでした。
逆川が締め切られれば、江戸への航路は栗橋を廻らざるを得ません。こうして物流拠点となった権現堂川筋には、一時的な繁栄がもたらされました。
しかし、寛文5年(1665)には逆川の堤防が撤去され、仙台からの物資輸送船は、利根川から江戸川に直通することができるようになりました。承応3年の赤堀川通水から11年後ですから、この間に一層の水量増加対策が取られたものと思われます。
赤堀川の規模については、元禄11年(1698)に幅27間、深さ29尺(
土木学会企画展)と記され、元禄15年の国絵図にも川幅32間とあります。文化6年(1809)には40間。
元禄国絵図に記された川幅
[65910]からすると、権現堂川筋の川幅は関宿の江戸川流頭で 65間あり、赤堀川 32間に比べて倍あります。もちろん江戸川への流出もありますが、利根川は栗橋で2手に分れ、関宿で合流という2本立ての姿を見せており、これは天保国絵図でも殆んど同じです。
江戸時代の「利根川の本流」がどこだったのか。私にはよくわかりません。
ごく初期の会の川、古利根川などは別として、利根川本流は浅間川から新川通へと移り、そして栗橋から下流の候補としては、権現堂川→江戸川、権現堂川→常陸川、赤堀川→常陸川が挙げられます。
明治の迅速測図 になっても、まだ権現堂川から江戸川と逆川とに分れ、赤堀川を含め3本立ての流路です。
赤堀川は概ね幅広になっているが、川妻村にボトルネックががあり、洪水時の処理能力には まだまだ不安あり。
青線で加筆された現在の江戸川流頭は、当時の逆川と逆向きです。
内陸水運の物流拠点が、
権現堂河岸 から
関宿 へと移ってから200年以上、明治23年(1890)に利根川と江戸川とをショートカットする利根運河(ムルデル
[67436]設計)が開削され、関宿も拠点の地位を失いました。蒸気船の時代になっていますが、追いかけて明治29年(1896)日本鉄道土浦線
[61225](現・常磐線)開通というわけで、運河の最盛期は短期間で終りました。
権現堂川は江戸時代を通じて大河でしたが、もともと南下していた流路を東に向けただけに、権現堂堤はずっと破堤・水害の危険をはらんでいました
[11541]。「行幸湖」
[36976]の名も、明治9年に明治天皇が前年に築かれた堤防を視察されたことを記念しています。
河川政策が水運から水害防止に移ると、赤堀川の役目も、舟運用の水路確保から、洪水時の排水機能が重視されるようになりました。明治の大水害(1910)経験後の近代改修事業(~昭和5年)と、カスリーン台風(1947)後の戦後改修で、赤堀川は一段と拡幅されました。現在は約700m(400間)。
20世紀初頭の工事については、洪水時に足尾鉱毒が東京に氾濫することを防止する役割も狙ったものであるという指摘もあります。
水運路の確保から洪水対策へと目的は変りましたが、17世紀から20世紀へと長期間をかけての整備が進められた結果、赤堀川の比重が次第に高まってゆき、遂に昭和に入って 権現堂川は 完全に廃川になりました。
結果として、「利根川東遷」は、ここに完成したものと思われます。
拡幅を続けた赤堀川と対照的に、権現堂川の運命は、明治以降の近代改修で縮小廃止への道を歩みます。
大正14年(1925)に流頭締切、昭和2年(1927)に流末締切。そして廃川。
農業用水の水源(溜井)になっていた上流側が再整備されて行幸湖になり、下流側が中川の一部に変身していることは、既に記しました。
利根川東遷完成と言いながら、利根川の水は、江戸川・見沼代用水路・武蔵水路など多くの人工的な水路により導かれています。
また、1947年のカスリーン台風では、利根川の洪水が東京に襲来しています。
利根川と東京との関係は、東遷によって、縁が切れたということでは、決してありません。