[20726] 深海魚 さん
長らく 「ペギー松山 / モモレンジャー」 と混同していました。(笑)
「ゴレンジャー」は見てないけれど,ペギー葉山といえば,そりゃあなた,「緑のおばさん/ウルトラの母」ですよ。
[20716] 両毛人 さん
[20717] 白桃 さん
町村制施行後の「加納」の変遷は次のとおりです。
【上加納村】
1889(明治22).7.1 | 上加納村の一部をもって「上加納村」を編成 |
| (岐阜駅および駅前通・安良田町は岐阜市) |
1903(明治36).4.1 | 岐阜市へ編入 |
【東加納町・西加納町・下加納村 →加納町】
1889(明治22).7.1 | 加納町のうち東部20ヵ町をもって「東加納町」を編成 |
| 加納町のうち西部6ヵ町をもって「西加納町」を編成 |
| 下加納村をもって「下加納村」を編成 |
1897(明治30).4.1 | 東加納町・西加納町・下加納村 が合体 |
1940(昭和15).2.11 | 岐阜市へ編入 |
市制・町村制施行直後の1891(明治24)年測図の地形図(の復刻版)によれば,
・「東加納町」と「西加納町」は,実際には“北”側の中山道に沿った「東加納町」,“南”側のお城とその周辺の「西加納町」という位置関係になっています。
・町村制施行以前の(旧)上加納村のうち,「岐阜市」の一部となったのは,岐阜駅構内と岐阜市街へのびる通り沿い,および名古屋から岐阜へ通じる街道に沿った街区(安良田町[のうち東海道線以北])の区域のようです。1891年段階で既に市街化していて,中心部と市街地が連続しています。
・東海道線の南側と,安良田町の東側が,町村制による「上加納村」を構成しますが,1891年の段階では安良田町のすぐ東側の通り沿い以外は市街化されていません。
・当然,「岐阜」と「加納」とは全く別個の市街地を形成しています。
1920(大正9)年測図の地形図では,既に開業している笠松への軌道線(現在の名鉄本線の一部)を軸に,(狭義の)岐阜と加納の間の区域の市街化が始まっています。
(ついでに,元々,岐阜都市圏の私設鉄道網では[新]岐阜から笠松を経て竹鼻・大須方面へ向かう路線が「本線」でした。一方で,尾張[愛知県]側では,名古屋[押切町]から枇杷島を経て津島へ向かう路線がいち早く建設され,次いで,弥富から津島・一宮を経て奥町[尾西市]から木曽川橋の手前まで延びる路線,つまり現在の名鉄尾西線が早く整備されました[木曽川橋~玉ノ井間は統合後に廃止]。枇杷島から新岐阜へ向かう現在の名鉄本線は,昭和になってこの地域の各鉄道が統合されてから整備された新しい路線です。)
全体を俯瞰すると,次のようになると思います。
・大雑把な地域の把握として,稲葉山下・長良川南岸の市街地を(狭義の)「岐阜」と呼ぶ。
・「岐阜」に南隣する区域を,大雑把に「加納」と呼ぶ。
・加納は,北側の「上加納村」と,南側の「下加納村」に分割される。
・江戸時代初期以降,「加納」に大名が配置された。
・加納に入封した大名は,この地位の南側「下加納地域」に築かれた城郭を本拠地とし,「加納城下町」を整備した。
・この城下町区域を,「上・下加納村」から特に分けて「加納町」とする。
・城下町のうち,“町人地”はこの町を通過していた中山道に沿って配置した。
・一方で,中山道筋の南側,お城に近い区域は武家屋敷地とした。
・明治に入り,中山道沿いの町人町と,お城の近くの武家屋敷地区とは,それぞれ別個に行政末端の区画を構成する。
・1889(明治28)年の市制・町村制施行に際し,旧城下町「加納町」を分けて,中山道沿いの町人町区域を「東加納町」,お城の近くの武家屋敷地区を「西加納町」とした。
・城下町・加納を取り巻く,“農村”としての上・下加納村は,岐阜市街の延長区間として既に市街化した岐阜駅周辺を分離して,そのまま“村”となった。
・そんなこんな,全部ひっくるめて1940年の大合併で,この地域全域が「岐阜市」となった。
考えてみれば,
戦国末期に美濃1国を「乗っ取った」斎藤道三が稲葉山城に拠り,麓の「井ノ口」に城下町を整備するまで,戦国後半,美濃国の守護大名であった土岐氏が本拠を置いたのは加納でした。
それが斎藤氏の支配(前にも触れたことがありますが,斎藤道三[利政]の「国盗り物語」は,実は彼一代ではなく,彼の父親から2代にわたる乗っ取り工作の結果,という考え方が最近では有力です)下で「井ノ口」に中心が移り,斎藤氏を滅ぼした織田信長がこの地を新たな本拠とし,「岐阜」と改名して以来,美濃南西部の中心として成長したのでした。
ところが,徳川政権(江戸幕府)の支配下では,岐阜城とその城下町が廃棄され,かわって加納が再び美濃西部の行政中心として整備されたわけです。
これに対して,県庁設置を節目に岐阜が“巻き返し”に出て,結局昭和初期までに“加納に対する優位”を確立しました。結果,加納は岐阜市に編入されることとなります。
かくて,すべてをひっくるめて,最近500年間を通した 岐阜 vs. 加納 の“熾烈”な競争は,全般に岐阜優位に進んでいるように感じます。
1920年国勢調査で加納町は10082人を数える大きな町でしたから、当時から岐阜市と市街が繋がっていたのでしょうね。
1920年の段階ではまだ,岐阜市街と加納市街とは別個の市街地を形成しています。
ただ,この頃から岐阜から笠松方面へ敷設された電鉄線を軸に市街化が進行し,高度成長が終結する1970年頃までに「駅裏」たる加納側の市街化がほぼ完了します。
1920年段階の「加納町」の人口は,近世以来の「城下町 兼 中山道の宿場町」という,二重の役割を反映したものではないか,と思います。