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“複核”都市、岐阜市の成り立ち

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記事数=9件/更新日:2005年5月15日/編集者:YSK

織田信長がこの地本拠として「岐阜」と改名して以来、美濃南西部の中心として成長した町が基礎となった岐阜、江戸期以来岐阜にとって替わり城下町として、また中山道の宿場町として栄えた加納。この両地域は1940年の大合併により岐阜市の範域となっています。岐阜市の成り立ちについてまとめてみました。

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[4082]2002年10月22日
Issie
[20683]2003年10月6日
深海魚
[20687]2003年10月6日
YSK
[20714]2003年10月7日
ズッキー
[20716]2003年10月7日
YSK
[20717]2003年10月7日
白桃
[20736]2003年10月7日
Issie
[20740]2003年10月7日
YSK
[22342]2003年11月29日
まがみ

[4082] 2002年 10月 22日(火)21:45:56Issie さん
岐阜
[4061]
>岐阜) --県庁×/市役所△/旧中系高校×/------/国立大附属小中学校×

都市としての連続性という観点から,私は「城下町」を近世のものに限定したいと思うのですが,その点で岐阜はどうでしょう。

確かに「岐阜」は美濃を制圧した織田信長がその拠点として建設した城下町なわけですが,関ヶ原の後,西軍に立った城主の織田秀信が改易されて以降,岐阜城は廃城となっています。これをもって,“城下町”としての岐阜の歴史は途切れた,と考えるべきだと思います。
同じ織田信長が建設した近江(滋賀県)の安土は「城下町」としては扱われませんよね。本能寺で織田政権が瓦解して安土は“城”としての地位を失ってしまったわけですが,その点,関ヶ原後の岐阜も同様だと思います。
廃城となった岐阜に代わって濃尾平野北部の中心都市としての地位を取り戻すのが中山道沿いの宿場町でもある「加納」です(戦国時代,守護大名の土岐氏の居城があったのが加納でした)。以来,幕末に至るまで譜代中堅大名の城下町として,加納が美濃の主要都市の1つとしての地位を保ちました。

岐阜が美濃地域の中心として“復活”するのは1871年の廃藩置県後,同年11月の全国的な府県統合で「岐阜県」が発足し,暫定的に笠松に置かれていた県庁が隣接地区の今泉村に移転してきた1873年のことです。
この段階で「岐阜」と「加納」とはお互いに独立した都市でした。
東海道本線が開通したとき,「岐阜駅」が当時の「上加納村」に設置され,岐阜と加納の間の地区(つまり,上加納村)の市街化が始まり,1903年に上加納村は岐阜市に編入されました(上加納村のうち岐阜駅前地区は1889年の市制施行の際に岐阜市の一部となっています)。
加納城下町の本体を占める「加納町」が岐阜市に編入されたのは1940年のことです。

もし岐阜を城下町として扱うなら,ぜひ「千葉」も城下町にカウントしてほしいなぁ。
鎌倉時代以来,下総を支配した千葉氏の“城下町”(もちろん,戦国以降の「城下町」とは性格が違うのは確かですが)。戦国時代,関東の騒乱で衰退した千葉氏と一緒に衰退した千葉だけど,その点,幕末ギリギリに城下町として復活した「山口」(大内氏と一緒に衰退した)と五十歩百歩では。
千葉にもしっかり城郭の跡は残っています(現在,亥鼻(いのはな)公園にある近世天守閣風の郷土資料館はもちろん偽者ですが)。というより,千葉・亥鼻城はきれいに保存された中世城郭の1つとされています。
現在の千葉大医学部(旧制千葉医科大学)と亥鼻公園の部分が中世千葉亥鼻城の中核部分ですね。そして,公園内の県立中央図書館および文化会館の区画が旧制千葉師範学校,つまり千葉大教育学部の敷地です。もちろん,附属小中学校もここにありました。
1960年代半ばに教育学部と附属学校が西千葉のキャンパスに統合されて現在に至ります。

[4062]
>とりあえず学校側が主張する継承を公式な沿革と
>するべきでしょう。

もちろん,それでいいんですけどね,
ノーベル賞をとったからといって,県立横須賀高校が全校集会を開いた,というのには私は何か違和感を感じました。60年前の旧制中学の卒業生と今の高校生と,どれほど関係があるんだろう。
…ま,「伝統校」に縁のない者の僻み,といえば僻みなんですけどね(でも,雑魚さんの一覧の中に私の母校も一応ありました。有名な卒業生って,俳優の高橋英樹しか知らないんですけどね)。
[20683] 2003年 10月 6日(月)14:06:29【1】深海魚 さん
岐阜市および羽島市の謎
名鉄が赤字を理由に営業撤退を表明した岐阜市の路面電車では、路線継続の世論を喚起する趣旨から、「ばんえい競馬」 よろしく電車二両を人力で数十m牽引して速さを競う 「ひっぱれ路面電車選手権大会」 をここ数年間行なっており、今年は昨日に実施されました。

黒野以遠の末端区間二系統が 2001年に廃止された揖斐線も 「名が体を表さなくなった」 例ですね。道路渋滞の影響から速達性、定時性で不利な側面もあってか、路面電車理由者が減少しているとはいえ、岐阜駅前への直通性が失われると、忠節-黒野の趨勢や如何に、と思えます。通勤・通学で本巣町や根尾村から樽見鉄道利用で岐阜市を志向する場合でも、名鉄との連絡設備らしきものが見当たらない手前、大垣経由を採ると思われます。

岐阜市もまた武漢よろしく、川を挟んだ街が一体的に形成された例ですね。軌道線と鉄道線の境界となる忠節駅の界隈は、戦前の創立で有力進学校としても知られる県立岐阜北高が位置する事から、単なる旧市街外縁部という立地に留まらず、某かの要衝性を感じますが、道路地図を見る限りでは、「長良○○町」 という行政区画が細かくかつ広範に分布し、かつて市電も通じていた国道 256号線 (先頃誕生した山県市への経路ですね。) 沿道が、長良川北岸一帯の中心域だった様に思われます。自治体区分はどうなっていたのかな。

それにしても、長良川流域を含む市街北東部一帯に比較的急峻な丘陵地を擁する岐阜市の地形は独特ですね。岐阜市の衛星都市たる機能も持つであろう関市に至る意味で、県都志向の利用者が多そうな美濃町線 (これも新関以北の廃止で、「名が体を表さない」 例となりました。) すら去就が微妙とされるのは、上芥見付近で平坦地が多少広がるにせよ、宅地の開発度合いがそれ程大きく無さそうな背景も介在しているのでしょうか。「阜」 の字が意味する 「小高い丘」 そのものです。(ちなみに 「阜」 を 「おか」 と読む長野県泰阜村では、田中県知事が最近転入届けを出したそうな。)

一方、濃尾平野となる市街南側で羽島郡に属する町が細かく分布しているのも特徴的ですね。名古屋市の西側一帯同様、農村としての集落形成が古くから進んだという事でしょうか。

その羽島郡を南下する名鉄竹鼻線、なぜ 「羽島線」 ではないのかと思えば、城下町・羽島市の中心部を広域的に網羅する地名なのですね。駅としての 「竹鼻」 は、市代表駅 「羽島市役所前」 に隣接し、地図上は中心街から微妙に外れた感じが窺われ、構内も確か単線構造ですが、以前 「栄町」 を名乗っていたという事は、ここがかつて街を代表する駅だったのかも知れません。うーん、奥が深い。そう言えば、羽島市街にも 「丸の内」 なる行政上の地名がありますね。

2001年に廃止された竹鼻線の末端区間は、木曽川と長良川に挟まれて進退極まった、という感じの大須で終点だったのが特徴的ですね。しかし合流しそうでなお、堤防を挟んで河口まで並行する形を採る上記両河川も、何やら含蓄がありそうで独特の雰囲気です。現行の末端区間である江吉良-新羽島は、新幹線への接続を第一義に 1982年に開通していますが、東京方面から岐阜市を指向する場合は、乗換え前後の運賃通算性や新幹線高速便の停車 パターンから名古屋乗換えが一般的かと思われ、岐阜羽島で新幹線から名鉄に乗り換えるのは、羽島郡内での乗降を除けば近畿歩面からの利用者に限られるのではないか、とすら思われます。(その意味では、大阪発着の 「しなの」 「ひだ」 も案外、岐阜以西の利用者が多いかも知れません。) 一方、高速道 I.C.の近接性から、パーク&ライドの地として有望にも思えますが、現況や如何に?
[20687] 2003年 10月 6日(月)16:35:30【2】YSK[両毛人] さん
岐阜市街地の成り立ち / 岐阜市内電車について
[20683]深海魚さん
深海魚さんの岐阜市に関わるお話を拝見し、早速ニューエストの岐阜県版と、全国市町村要覧を引っ張り出してきて、岐阜市街地の様子を改めてみてみました。

岐阜市は、東海道本線を利用して西日本方面に行く際に通過したことがあるだけで、実際に街中を歩いたことはないのですが(まだまだ修行不足ですね・・・)、以前から、市街地において、細かい町名がたくさん残っていることに驚かされておりました。しかも、ほとんどが旧来からの街路方式の町名であるところが、城下町らしい町割を今に伝えています。これが、日本の多くの都市においては、ブロック方式の住居表示に置き換えられてしまうのですが、岐阜市街地については、まだその荒波をかぶってはいないようですね。

「長良○○町」 という行政区画が細かくかつ広範に分布し、かつて市電も通じていた国道 256号線 (先頃誕生した山県市への経路ですね。) 沿道が、長良川北岸一帯の中心域だった様に思われます。自治体区分はどうなっていたのかな。
これは、岐阜市の市街地が、かつての岐阜城下の城下町に、北側の河港都市である長良の町、南側の江戸期の城下町である加納の町を合わせて成立したことと関係があるのではないかと思います。

全国市町村要覧を見る限りでも、長良川北岸の「長良○○町」が展開する一帯が別の自治体で、岐阜市市制後に編入されたとする記述は無く、推測の域を出ないのですが、もともと岐阜市の一部としてのスタートを切った町なのではないかと思いました。

度々ご紹介している今尾恵介さんの「路面電車」においても、岐阜市内の路面電車(名鉄揖斐線&美濃町線)について紹介されていますが、現在の商業中心である徹明町を軸に、上述の路線のほかに、深海魚さんご指摘の長柄北町までの間(1988年廃止。日付までは分かりません。あしからず)及び千手堂から鏡島間(1964年廃止)に路線が配されていたのですね。長良町と、徹明町を結ぶ市街地が、岐阜市街地のメイン市街地を形成してきたようです。

ただ、先にあげた今尾氏の本によると、岐阜市内電車の停留所には安全地帯が無く、停留所表示も道路端の電柱にくくりつけられているだけで、当地の事情に詳しくない人が見れば、まさかそこが電停であることには気づかないであろう、とのことでした。かなり危険な気がいたします。このことも、市内電車の利用者の減少=自家用車利用の伸張を後押しする要因の1つになっているのではとのご指摘でした。
[20714] 2003年 10月 7日(火)01:43:45ズッキー さん
あーあー岐阜市 ぎーふーしー♪
いつもは見ているだけだったのですが、私の知っていることがありましたので、初めて書き込みします
全国市町村要覧を見る限りでも、長良川北岸の「長良○○町」が展開する一帯が別の自治体で、岐阜市市制後に編入されたとする記述は無く、推測の域を出ないのですが、もともと岐阜市の一部としてのスタートを切った町なのではないかと思いました。
あの地域は昭和7年まで長良村でした。長良川の古川や古々川が網の目に流れる荒地が広がっていた土地だったそうです、昭和14年の締め切り工事で、現在の長良川の流れのみになり、古いタイプの新興住宅地によくみられる住所割になったようです。
市制執行時の岐阜市は、長良川南の現在の金華・京町・明徳小学校のあたりのみで、柳ヶ瀬も駅前地区も上加納村や加納町でした。
岐阜市の合併の沿革です↓
http://www.city.gifu.gifu.jp/ghym-gappei/02_01.htm
[20716] 2003年 10月 7日(火)04:46:37【1】YSK[両毛人] さん
サンキュ.です
[20714]ズッキーさん
岐阜市の沿革をご教示いただきありがとうございます。

岐阜市HPにも掲載が無かったので・・・(苦しい言い訳)。合併協議会のHPは盲点でした・・・。

整理させていただきますと、

(長良地区関係)
長柄村編入:1932(昭和7)年7月1日

(加納地区関係)
上加納村編入:1903(明治36)年4月1日
加納町編入:1940(昭和15)年2月11日

ということですね。ところで、上加納村の編入からけっこう時間が経過してから岐阜市に編入されている加納町自体、複数の自治体との合併を経験しているということはないですよね?

※今尾氏の本にも、加納町が合併したのが1940年との記載がありました・・・。ほんとうに間抜けな私です(恥)。
[20717] 2003年 10月 7日(火)07:13:17白桃 さん
加納性の追求
[20716]両毛人さん
ところで、上加納村の編入からけっこう時間が経過してから岐阜市に編入されている加納町自体、複数の自治体との合併を経験しているということはないですよね?
途中から、割り込んですみません。加納町は明治22年(1889)の市町村制度が出来たときには、東加納町と西加納町に分かれておりました。でも、もともと「ひとつの加納」であったのでしょうか?1920年国勢調査で加納町は10082人を数える大きな町でしたから、当時から岐阜市と市街が繋がっていたのでしょうね。
[20736] 2003年 10月 7日(火)21:44:29【4】Issie さん
上加納村岐阜駅前
[20726] 深海魚 さん
長らく 「ペギー松山 / モモレンジャー」 と混同していました。(笑)

「ゴレンジャー」は見てないけれど,ペギー葉山といえば,そりゃあなた,「緑のおばさん/ウルトラの母」ですよ。

[20716] 両毛人 さん
[20717] 白桃 さん

町村制施行後の「加納」の変遷は次のとおりです。

【上加納村】
1889(明治22).7.1上加納村の一部をもって「上加納村」を編成
(岐阜駅および駅前通・安良田町は岐阜市)
1903(明治36).4.1岐阜市へ編入

【東加納町・西加納町・下加納村 →加納町】
1889(明治22).7.1加納町のうち東部20ヵ町をもって「東加納町」を編成
加納町のうち西部6ヵ町をもって「西加納町」を編成
下加納村をもって「下加納村」を編成
1897(明治30).4.1東加納町・西加納町・下加納村 が合体
1940(昭和15).2.11岐阜市へ編入

市制・町村制施行直後の1891(明治24)年測図の地形図(の復刻版)によれば,
・「東加納町」と「西加納町」は,実際には“北”側の中山道に沿った「東加納町」,“南”側のお城とその周辺の「西加納町」という位置関係になっています。
・町村制施行以前の(旧)上加納村のうち,「岐阜市」の一部となったのは,岐阜駅構内と岐阜市街へのびる通り沿い,および名古屋から岐阜へ通じる街道に沿った街区(安良田町[のうち東海道線以北])の区域のようです。1891年段階で既に市街化していて,中心部と市街地が連続しています。
・東海道線の南側と,安良田町の東側が,町村制による「上加納村」を構成しますが,1891年の段階では安良田町のすぐ東側の通り沿い以外は市街化されていません。
・当然,「岐阜」と「加納」とは全く別個の市街地を形成しています。

1920(大正9)年測図の地形図では,既に開業している笠松への軌道線(現在の名鉄本線の一部)を軸に,(狭義の)岐阜と加納の間の区域の市街化が始まっています。
(ついでに,元々,岐阜都市圏の私設鉄道網では[新]岐阜から笠松を経て竹鼻・大須方面へ向かう路線が「本線」でした。一方で,尾張[愛知県]側では,名古屋[押切町]から枇杷島を経て津島へ向かう路線がいち早く建設され,次いで,弥富から津島・一宮を経て奥町[尾西市]から木曽川橋の手前まで延びる路線,つまり現在の名鉄尾西線が早く整備されました[木曽川橋~玉ノ井間は統合後に廃止]。枇杷島から新岐阜へ向かう現在の名鉄本線は,昭和になってこの地域の各鉄道が統合されてから整備された新しい路線です。)

全体を俯瞰すると,次のようになると思います。

・大雑把な地域の把握として,稲葉山下・長良川南岸の市街地を(狭義の)「岐阜」と呼ぶ。
・「岐阜」に南隣する区域を,大雑把に「加納」と呼ぶ。
・加納は,北側の「上加納村」と,南側の「下加納村」に分割される。
・江戸時代初期以降,「加納」に大名が配置された。
・加納に入封した大名は,この地位の南側「下加納地域」に築かれた城郭を本拠地とし,「加納城下町」を整備した。
・この城下町区域を,「上・下加納村」から特に分けて「加納町」とする。
・城下町のうち,“町人地”はこの町を通過していた中山道に沿って配置した。
・一方で,中山道筋の南側,お城に近い区域は武家屋敷地とした。
・明治に入り,中山道沿いの町人町と,お城の近くの武家屋敷地区とは,それぞれ別個に行政末端の区画を構成する。
・1889(明治28)年の市制・町村制施行に際し,旧城下町「加納町」を分けて,中山道沿いの町人町区域を「東加納町」,お城の近くの武家屋敷地区を「西加納町」とした。
・城下町・加納を取り巻く,“農村”としての上・下加納村は,岐阜市街の延長区間として既に市街化した岐阜駅周辺を分離して,そのまま“村”となった。
・そんなこんな,全部ひっくるめて1940年の大合併で,この地域全域が「岐阜市」となった。

考えてみれば,
戦国末期に美濃1国を「乗っ取った」斎藤道三が稲葉山城に拠り,麓の「井ノ口」に城下町を整備するまで,戦国後半,美濃国の守護大名であった土岐氏が本拠を置いたのは加納でした。
それが斎藤氏の支配(前にも触れたことがありますが,斎藤道三[利政]の「国盗り物語」は,実は彼一代ではなく,彼の父親から2代にわたる乗っ取り工作の結果,という考え方が最近では有力です)下で「井ノ口」に中心が移り,斎藤氏を滅ぼした織田信長がこの地を新たな本拠とし,「岐阜」と改名して以来,美濃南西部の中心として成長したのでした。
ところが,徳川政権(江戸幕府)の支配下では,岐阜城とその城下町が廃棄され,かわって加納が再び美濃西部の行政中心として整備されたわけです。
これに対して,県庁設置を節目に岐阜が“巻き返し”に出て,結局昭和初期までに“加納に対する優位”を確立しました。結果,加納は岐阜市に編入されることとなります。

かくて,すべてをひっくるめて,最近500年間を通した 岐阜 vs. 加納 の“熾烈”な競争は,全般に岐阜優位に進んでいるように感じます。

1920年国勢調査で加納町は10082人を数える大きな町でしたから、当時から岐阜市と市街が繋がっていたのでしょうね。

1920年の段階ではまだ,岐阜市街と加納市街とは別個の市街地を形成しています。
ただ,この頃から岐阜から笠松方面へ敷設された電鉄線を軸に市街化が進行し,高度成長が終結する1970年頃までに「駅裏」たる加納側の市街化がほぼ完了します。
1920年段階の「加納町」の人口は,近世以来の「城下町 兼 中山道の宿場町」という,二重の役割を反映したものではないか,と思います。
[20740] 2003年 10月 7日(火)22:57:23【1】YSK[両毛人] さん
憧憬、「複核都市」岐阜
Issieさん、詳細なお話、ありがとうございます。

江戸期に行政中心としての地位を加納に明渡していた狭義の岐阜の町は、どのように存立してきたのでしょう。興味深いです。

加納の町も、城下町としての面、中山道の宿場町としての面、いろいろと味わいがあるように思えます。加納城跡には石垣も残っているようですね。ただ、手許にある「中山道を行く」という本の加納宿のくだりを見ると、「当時を偲ばせるものはほとんど無い」とありますので、仙台における芭蕉の辻界隈のように、拡幅された広幅員の道路沿いを中心に都市化が進み、それらのあわいの相対的に落ち着いた都会の風情なのではないのかな、と想像します。

長良川北岸の長良の町を含め、「複核都市」岐阜を歩いてみたくなりました。また1つ、目標がみつかりました。
[22342] 2003年 11月 29日(土)00:48:04まがみ さん
Re: 岐阜市街地の成り立ち / 岐阜市内電車について
[20387]両毛人 さん
長良町と、徹明町を結ぶ市街地が、岐阜市街地のメイン市街地を形成してきたようです
「柳ヶ瀬ブルース」でもお馴染みで、以前から岐阜市の中心市街地とされてきた柳ヶ瀬ですが、近年は衰退傾向にあるようです。JR岐阜駅や名鉄新岐阜駅周辺の再開発も進んでおらず、むしろJR岐阜駅西方の「オーキッドパーク」など、郊外型の商業施設が発展しているように見えました。

ただ、JR岐阜駅周辺地区での再開発は既にスタートしていますので、完成した暁には大きく景観も変わることでしょう。

岐阜市内電車の停留所には安全地帯が無く、停留所表示も道路端の電柱にくくりつけられているだけで、当地の事情に詳しくない人が見れば、まさかそこが電停であることには気づかないであろう、とのことでした。かなり危険な気がいたします
いちおう、電停ということを示すために道路にペイントはしてあるのですが、なにぶんにも道路の真ん中にあるので、自動車が平気でその上を走っていきます。以前、パトカーが安全地帯の上を走っていくのさえ見ました…。はっきり言って、かなり危険です。

岐阜市は先頃、構造改革特区の提案募集として「路面電車特区」を申請しましたが、名鉄としては路面電車区間の全廃を検討しているとのこと。

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