[24279] じゃごたろ さん
「日本」とはつまり、「天皇の統治する国」を意味する国名と解釈して良いと思ってます。
通常,「ひのもと」とは「黒田節」での「日本一:ひのもといち」の用法に見られるように「イコール日本」と理解されています。
しかし,実は中世後期にはこれと全く別の用法で「ひのもと」という呼称が使われたことがあります。むしろ,「日本の外」というニュアンスを込めて。
それは鎌倉時代から戦国期にかけて,津軽十三湊を拠点に秋田から現在の北海道・渡島半島南部にかけての地域を支配下に置いた安藤(安東)氏が称した「日の本将軍」というもの。
安藤氏は,平安中期の「前九年の役」で滅ぼされた「俘囚(ヤマトに服属したエミシ)の長」安倍氏の後裔を称するように,「日本人」よりは「エミシ」ないし「エゾ」(この2つは微妙に意味が違う)の系譜を強く意識する一族でした。その点で頼朝の「奥州征伐」後に奥州藤原氏の故地に移住し,甲斐南部荘を“名字の地”として,つまりは“鎌倉武士”としての系譜を誇る南部氏と大きく異なります。
鎌倉時代末期,その安藤氏内部で抗争が起こります。これは当時の鎌倉幕府執権・北条高時の側近であった長崎氏と深いかかわりのある事件で,幕府滅亡の第一歩にもなったのですが,室町時代になってこの事件を記録した史料の中で,安藤氏の支配していた「蝦夷(えぞ)が千島」すなわち現在の北海道について,この島には「日の本」「唐子(からこ)」「渡(わたり)党」の3つのグループの人々が住んでいる,と記されています。
このうち「渡党」とは,字のとおりに,本州から津軽海峡を“渡って”この島の南端部に移住した人々を指すと考えられています。
問題は「日の本」と「唐子」で,この2グループは姿かたちが違って言葉も通ず文化も違う,つまりは“外国”に連なる人々と解釈されていることです。これについて,「唐子」とは唐(=中国大陸)や「カラフト(樺太)」に通じる呼称で,日本海側の道北・樺太方面の住民を指すと考えられています。一方の「日の本」は,太平洋側の道東・千島方面の住民を指すと考えられています。
当時の地理感覚では「陸奥外の浜」すなわち青森湾の海岸で日本はおしまい,とされていましたから,ここでいう「日の本」は完全に日本の外です。
こうしたことを踏まえて,安藤氏は「エゾを支配する者」として「日の本将軍」を称した,と考えられています。
(ここから後は以前の書き込みでも触れたことですが,)
15世紀に入り,本州最北部の支配と,それと密接なかかわりを持つ北方先住民との交易をめぐる安藤氏と南部氏の抗争は激しさを増しました。そして結局は,安藤氏が津軽から追い出される形となって,渡島半島南端部に本拠地を移します(この結果,津軽は南部氏の支配するところとなりますが,戦国末期に支族の大浦氏が「津軽氏」を名乗って南部氏から“独立”し,それが豊臣・徳川両政権から認められることとなります)。
後に安東氏(←名字の表記が変わった)は渡島から再び本州に移転し,出羽最北部の檜山(能代地方)に本拠地を移しました。さらに一族で秋田湊(土崎)に本拠を置く系統に統合され,「秋田氏」を名乗って“関ヶ原”を迎えました。戦後の大名配置換えで常陸宍戸に移り,さらに奥州田村の三春藩主として廃藩置県を迎えます。
安藤氏が去った後の「蝦夷が島」で勢力を広げたのは蠣崎氏改め松前氏で,その支配権が豊臣・徳川両政権に認められることで,いわゆる「松前藩」が成立します。
この頃までに「日の本」という呼称は消滅していました。
かわって定着したのが,松前氏の支配体制を背景とするもの。
すなわち松前氏は渡島半島南部を日本人,すなわち「和人」の直接支配地とし,その結果この区域は「和人地」あるいは「松前地」と呼ばれることになりました。
残りの広大な地域は先住民アイヌ,すなわち「蝦夷:エゾ」の“縄張り”とし,この区域を「蝦夷地」と呼ぶようになるわけです。
つまりこの用法に従えば,「蝦夷地」は“イコール北海道”ではないということになるのです。