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>多分バンカラ風味の色彩が濃いとは思うのですが、旧制の中等ないし高等諸学校における
>応援歌の類も、既存の曲が引用され、複数校で同じ旋律を共有している例が多い様ですね。
数年前に「軍艦行進曲」ばかりを集めたCDが発売されたとき,岩手県の県立盛岡一高の校歌が収録されていました。…同じ曲なのですね。
もちろん,軍歌の「軍艦」が最初にあって,これ(の替え歌)を当時の旧制盛岡中学が校歌にした,というもの。海軍の方でも,この軍歌を他の軍歌とセットにして壮大な行進曲にしました。
割と知られているものに,旧制一高の寮歌の1つである「アムール河の流血や…」という歌が,軍歌(万ダの桜か襟の色…;“ダ”はもちろん漢字)にも,労働運動の歌(立て万国の労働者…)にもなった,という例があります。
ところで,「ネーデルラント」の話の続き。
現在の「ネーデルラント王国」(オランダ)が歴史的な「ネーデルラント」の北半分でしかない,というのと同じような例は少なくありません。
ソ連解体の契機となった「リトアニア」の独立。
第2次大戦の最中にソ連に占領・併合された「リトアニア」が現在の領域で独立したのは第1次大戦の後のことです(細かく言うと,独立当時のリトアニアは現在よりも若干小さく,現在の首都であるビリニュス地方はポーランド領でした)。
バルト沿岸の「小国」として困難な歴史を歩むわけですが,実は16世紀にロシアが急速に強大化する以前の「リトアニア」は東ヨーロッパの「大国」でした。14世紀の終わりごろにポーランドと合体して,現在のベラルーシ(白ロシア)やウクライナを含む広大な領域を支配しました。
その名残で,現在のポーランド東部からベラルーシにかけての地域を歴史的に「リトアニア」と呼ぶことがあります。その一例が,現在はベラルーシに属する都市「ブレスト」の旧名,「ブレスト・リトフスク」。「リトアニアのブレスト」という意味です。
「マケドニア」という地名も多分に問題を含んでいます。
歴史上重要なのは,古代ギリシア時代,紀元前4世紀のアレクサンドロスの「マケドニア」ですね。
当時のマケドニアは「辺境」ではあっても,ギリシア文化圏の一部でした。アレクサンドロス自身も,(ある種の方言だったかもしれないけれど)ギリシア語を話していたのでしょう。
遠征で巨大化した王国は彼の死後に分裂し,彼の部下の1人であるアンティゴノスが継承した領域が「マケドニア」と呼ばれることになります(セレウコスが継承したのが「シリア」,プトレマイオスが継承したのが「エジプト」。クレオパトラはプトレマイオスの子孫だから,当時のエジプトはギリシア人が支配していたのです)。
この「マケドニア」は紀元前2世紀までにローマの支配下に入りました。
そして紀元後の「ローマ帝国」の時代になると,「マケドニア」という地域呼称は次第に用いられなくなります。
東ローマ(ビザンツ)帝国,オスマン帝国(トルコ)と続く支配にも「マケドニア」という呼称が使われることなく推移し,その間にバルカン半島南部の住民ではスラブ人が優勢となりました。
オスマン帝国の支配に入る前には“スラブ化”した「ブルガリア」(元々はボルガ川流域の遊牧系民族)や,「セルビア」の支配に入ったりもしました。
「マケドニア」という地域呼称が突然復活するのは,19世紀に入ってギリシアの独立運動が活発になってからのことです。
1820年代にギリシアの独立が確定したとき,その領土はペロポネソス半島とアテネを含むその付け根の部分だけで,現在のギリシア本土の南半分に過ぎないものでした。これから領土を北(バルカン方面)や東(エーゲ海)に広げていくことが近代ギリシア国家の最大の課題でした。
このときにバルカン半島南部の呼称として古代の「マケドニア」が復活したのです。
ところが,ここは既にスラブ化し,ブルガリアもセルビアもかつて支配したことある地域でした。
そのために,この地域をオスマン帝国(トルコ=イスラム教徒)の支配から「解放」するのはよいとして,今度はブルガリアとセルビアとギリシアのそれぞれが領有を主張しました。「欧州の火薬庫」バルカン問題の焦点の1つです。
結果的には,第1次大戦後,「マケドニア」はこの3つの国で分割されました。
現在の「マケドニア」は,そのうち当時のセルビアが領土とした区域です。
第2次大戦後,ティトーの指導した社会主義政権のユーゴスラビアは,「マケドニア人」という民族概念を作って,セルビア語のアルファベットを改良してこれで表記する「マケドニア語」を確立させました。けれども,この言語は基本的にブルガリア語(の方言)と同じであり,ブルガリアではそのように理解しているようです。
また,ギリシアは「マケドニア」を当然ギリシアの地名と考えています。そのために,マケドニアが独立したとき,その国名と国旗に強く抗議をして,国連では国名に「旧ユーゴスラビア」をつけること,国旗はデザインを若干変更すること(その結果,日本の“軍艦旗”を赤と黄色で派手にしたようなものになりました)を余儀なくされました。それでも,ギリシアは不満なようですが。
「スーダン」。
現在,エジプトの南隣でナイル川中流に位置する国が「スーダン」を名乗っています。
けれども本来,「スーダン」というのはマリやブルキナファソ(オートボルタ)なども含めたサハラ砂漠の南側一帯の非常に広い地域を指す地域呼称です。
アフリカの“肌の黒い”住民を大きく「スーダン・ニグロ」と「バントゥー・ニグロ」に分けることがあるのですが,大陸南部の「バントゥー」に対して,この場合の「スーダン」はこの広い意味で使用されます。
まるで,広大な「陸奥」の一角に「むつ市」があるようでしょ。
なぜこういうことを長々と書いたかというと,
ここしばらく続いている「広域地名を市町村名とするのは適当でない」という議論に違和感を感じるからです。
「むつ市」が話題にあがっているけれど,「大湊田名部市」が「むつ市」になったのには,それ相応の理由があったからでしょう。他の場合にも,それぞれの事情があるはずです。
評判の悪い「西東京市」や「東大阪市」。
「ユーゴスラビア」が「南スラブ人の国」という意味であることを考えれば,名づけの発想は全く同じです。「セルビア人とクロアチア人とスロベニア人の王国」という合体直後の長い国名,しかもそれぞれに違う歴史背景をもった地域が合体した…。この辺,「大湊田名部市」や,「田無・保谷」「布施・河内・枚岡」という組み合わせで合体した2つの市と事情が似ていませんか。
広域地名が適当でないならば,コアになっている地区の名前で代表させればいいか,というと,そう簡単な話ではないですよね。「ユーゴスラビア」が「セルビア」を名乗ったら,即,国家は解体してしまったでしょう(実際に解体して,間もなく「ユーゴスラビア」は地図から消えるわけです)。
同じことが,日本国内の自治体でも大量に発生することでしょう。浦和と大宮が最後まで争いあった「さいたま市」など真っ先に。
どの自治体も,その名前になるまでには相応の議論があったはずです。
正直に言って「これはちょっと…」と言いたくなる名前がないわけではありません。
けれども,(たとえ最初が誰かの“思いつき”であったとしても)そこにはそれなりの理由と事情があるはずです。
それを考慮せずに端(はた)から当否を議論してもしようがないのでは…,なんて考えてしまいます。