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落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

樺太の鉄道データベース

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記事数=13件/更新日:2003年1月1日/編集者:YSK

本ホームページが誇る樺太ネタです。樺太(現サハリン)における鉄道について、詳細なデータが提供されました。最大の功労者であるニジェガロージェッツさんには、たいへん感謝いたします。

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★推奨します★(元祖いいね) ken 雪の字 北神

記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[3180]2002年9月19日
ニジェガロージェッツ
[3199]2002年9月20日
ニジェガロージェッツ
[3218]2002年9月21日
ニジェガロージェッツ
[3245]2002年9月22日
ニジェガロージェッツ
[3256]2002年9月22日
ニジェガロージェッツ
[3252]2002年9月22日
Issie
[3257]2002年9月22日
ニジェガロージェッツ
[3279]2002年9月23日
ニジェガロージェッツ
[3322]2002年9月24日
ニジェガロージェッツ
[3366]2002年9月27日
ニジェガロージェッツ
[6858]2002年12月23日
ニジェガロージェッツ
[6871]2002年12月23日
ニジェガロージェッツ
[7098]2002年12月29日
ニジェガロージェッツ

[3180] 2002年 9月 19日(木)01:18:56ニジェガロージェッツ さん
樺太の鉄道
樺太について市町村と行政区画に関して、戦前の樺太と現在のサハリンを対比して見てみましたが、今度は鉄道について調べてみたく存じます。
現在の「サハリンの鉄道」については詳しいガイドブックや旅行記も出版され、また「鉄道ジャーナル」誌でもしばしば取り上げられています。
ここでは戦前の「樺太の鉄道」について落書きしてみます。

終戦当時、樺太には以下の鉄道がありました(軌間1067ミリのもの)。

【樺太鉄道局線】
1)樺太東線     大泊港―古屯   414.4キロ
    同、支線   落合―栄浜      10.3キロ
    同、貨物線  栄浜―栄浜海岸   1.8キロ
2)豊真線       小沼―手井      76.2キロ
    (昭和20年7月15日、豊原・奥鈴谷間16.2キロを廃止し、小沼・奥鈴谷間8.6キロに変更。
     このため、豊真線は当初の83.8キロより短縮された)
3)川上線       小沼―川上炭山  21.9キロ
4)樺太西線     本斗―久春内   170.1キロ
    同、貨物線  本斗―浜本斗    1.3キロ
    同、貨物線  真岡―浜真岡    1.8キロ

【地方鉄道線】
5)南樺鉄道株式会社線      新場―留多加    18.6キロ
6)南樺太炭鉱鉄道株式会社線 本斗―内幌炭山  16.4キロ
7)内淵人造石油株式会社線   大谷―内淵     12.5キロ

他に、軌間762ミリの産業軽便鉄道も各地に点在していましたが、ここでは略しています。
上記の1)から7)のキロ数を合計すると、総延長745.3キロとなります。

一方、ソ連崩壊時のサハリンの1067ミリ軌間の鉄道は

[Ⅰ]1)の樺太東線を北樺太ノグリキまで延長した「東部縦貫線」 ポルト(大泊港)―ノグリキ            653.1キロ
  スタロドゥープスコエ(栄浜)線   ドリンスク(落合)―スタロドゥープスコエ                      10.9キロ
  7)内淵人造石油線を延伸したブイコフ(西美保)線 ソコル(大谷)―ブイコフ                    23.2キロ
  3)川上線を継承したシネゴルスク(川上)線  ノヴォアレクサンドロフカ(小沼)―シネゴルスク          21.9キロ
  5)南樺鉄道を継承したアニワ(留多加)線  ダチノエ(新場)―アニワ                         19.0キロ
  ヴァフルーシェフ(泊岸)からヴァフルーシェフ炭鉱まで新設した                             12.0キロ
[Ⅱ]4)樺太西線と6)南樺太炭鉱線を統合した「西部縦貫線」 シャフタ(内幌炭山)―イリインスキー(久春内) 185.3キロ
[Ⅲ]2)豊真線を継承し、
     起点をユジノサハリンスク(豊原)に復した「南部横断線」 ユジノサハリンスク―ポリャーコヴォ(手井)  83.2キロ
[Ⅳ]西部縦貫線イリインスキー終点と東部縦貫線アルセンチエフカ(真縫)間に新設した「北部横断線」      29.1キロ

上記の[Ⅰ]から[Ⅳ]のキロ数を合計すると、総延長1037.7キロになります。
更に大戦末期、樺太東線の北の終点古屯より、東40キロにあった雁門まで建設中だった石灰石輸送用の軽便鉄道を戦後ソ連が1067ミリに改軌し、ポベージノ(古屯)―レスナヤ(雁門)間約40キロに加え、レスナヤで二手に分岐しペルヴォマイスコエ(雁門岩)まで10キロ、およびイズヴェストコヴイ(西山)まで12キロを延長しているのがサハリン州20万分の1地形図に記載されています。別に同地形図には西部縦貫線ゴルノザヴォーツク(内幌)付近で分岐し、海岸沿いに南下しシェブニノ(南名好)まで鉄道線がかかれています。ただ、このシェブニノにある駅名が西部縦貫線の起点と同じ駅名「シャフタ」と書かれているのが不思議です。路線図にはシャフタ―ゴルノザヴォーツク間は極めて近く1.79キロでシャフタは旧内幌炭山に間違いないのですが。因みにゴルノザヴォーツク―シェブニノ間は約16キロあります。
また軌間750ミリ軽便鉄道では、北樺太ノグリキ近郊のカタングリからサハリン最北の都市オハまで243キロがあり、軌間1520ミリのソ連標準の広軌鉄道がオハ―モスカリヴォ間30キロに敷設されています。

ざっとですが、「樺太の鉄道」と「サハリンの鉄道」についてまとめてみました。
また稿を改め、各線ごとに駅名などを落書きしていきたく存じます。

樺太の鉄道を知る日本人にとって、最大の見所は豊真線池ノ端駅と宝台駅の間にある「ループ線」で、戦後は「鉄のカーテン」の奥に隠された幻のループ線と言われた程でした。が、残念なことに旧豊真線である南部横断線が1993年ごろよりトンネルなどの修復のため営業を休止し、その後の財政難により廃線化してしまい現在ではレールも撤去されつつあると聞きます。無念です。
[3199] 2002年 9月 20日(金)01:02:19【1】ニジェガロージェッツ さん
樺太の鉄道  豊真線
[3180]で紹介した樺太の鉄道について各線ごとに詳しく見ていきたく存じます。

でるでるさん、雑魚さんから「ループ線」に関する書き込みがありましたので、まず「豊真線」について落書きしてみます。

豊真線はその名の通り、樺太の島都豊原と西海岸最大の要港真岡を結ぶ東西横断線として建設されました。大正10年9月17日に工事を起こし、昭和3年9月3日に樺太東線(当時は樺太庁鉄道東海岸線)豊原駅と樺太西線(同じく樺太庁鉄道西海岸線)手井駅間83.8キロの全線が開通しました。
当初は豊原を起点としていましたが、終戦間際の昭和20年7月15日、樺太東線小沼駅(豊原駅から北へ4つ目の駅、10.9キロ先に位置)起点に変更されました。その後、ソ連は廃線になっていた豊原―奥鈴谷間を復活させ、ユジノサハリンスク(豊原)起点に戻しています。

豊真線の停車場は次の通りです。

駅名(日本)累計キロ程(日本)  開業年月日     駅名(ソ連)   累計キロ程(ソ連)
豊 原    0.0   ----  明治40年8月1日    ユジノサハリンスク          0.000
西久保   5.2   ----  大正14年10月1日   ダーリネー               5.089
鈴 谷    9.9   ----  大正14年10月1日
小 沼   ----   0.0   明治44年7月20日   ノヴォアレクサンドロフカ       ----
奥鈴谷   16.2    8.6   昭和3年9月3日    ノヴォデレヴェンスカヤ       16.035
瀧ノ沢   29.6   22.0  昭和3年9月3日    ペレヴァル-サハリンスキー     29.400
中 野   42.5   34.9  昭和3年9月3日    オジダーエヴォ            42.245
清 水   47.8   40.2  昭和3年9月3日    チストヴォドノエ            47.500
逢 坂   52.6   45.0  大正15年11月15日  ピャチレーチエ             52.231
二 股   60.0   52.4  大正15年11月15日  チャプラノヴォ             59.552
宝 台   69.1   61.5  昭和8年1月15日    カムイシェヴォ-サハリンスコエ  68.554
池ノ端   78.3   70.7  昭和3年1月18日    ニコライチュク             77.675
手 井   83.8   76.2  大正9年10月11日   ポリャーコヴォ             83.181

さらに豊真線を走る列車は樺太西線を北真岡駅まで乗り入れていました。
真 岡   86.9   79.3  大正9年10月11日   ホルムスク
北真岡   89.8   82.2  大正10年11月11日   ホルムスク-セヴェルヌイ

累計キロ数が日本時代のものとソ連時代のものとで若干違いがあるようですが、基本的に同じ路線です。
それと、現在の豊真線こと南部横断線は残念なことに両端部を残し廃線の方向で撤去中と聞きます。
サハリンのHPでユジノサハリンスク駅の時刻表(2001年のもの)をみましたが、南部横断線関連ではノヴォデレヴェンスカヤ(奥鈴谷)行きの近郊列車が1日3便あるだけです。ホルムスク行きも1便ありますが、これは北部横断線経由のものです。ホルムスク市のHPも見てみましたが、全体でユジノサハリンスク行きが1便、チェーホフ(野田)行きが2便あるだけで、ニコライチュク(池ノ端)方面への列車は見当たりませんでした。「宝台ループ線」あたりまで観光用に残してあるだけかもしれません。

さて、その「宝台ループ線」についてですが、
[3181]
>豊真線池ノ端駅と宝台駅の間のループ線は、どれ程の規模だったのでしょうか、興味があります。
「鉄道ジャーナル」誌1990年12月号特集「サハリン鉄道紀行」には、ループ線の延長1643m・高低差約36m、とあります。
真岡側から行けば、池ノ端駅を過ぎて緩い上り勾配を進むと、やがて前方に50メートル以上ありそうな鉄橋が見えてきます。その鉄橋の下をくぐるとすぐに右にカーブを描くトンネルに入り、一旦トンネルを出、すぐにまた短いトンネルを抜けると、先ほど下から見上げた鉄橋に差し掛かります。鉄橋の上からは今通ったばかりの線路を眼下左手にみながらまたトンネルに入って行き、宝台駅へと向かいます。これが樺太の鉄道のハイライト「宝台ループ線」です。
ここは軍事上の要衝で、事実1945年8月21日、22日と日ソ両軍が激しい攻防戦を繰り広げた激戦地でした。前出の「鉄道ジャーナル」特集にはループ線入り口の谷あいに軍の建物があり、兵隊の姿が見える、と紹介しています。

[3183]
>現地を訪れた友人によると、撮影の為の停車などの演出があったそうですね。
私も1994年7月に現地に行ってきました。
「北緯50度線突破、サハリン鉄道周遊の旅」と銘うったJR北海道、宗谷北線運輸営業所(名寄)が企画したツアーでした。残念ながらその時は既に旧豊真線こと南部横断線は運行しておらず、ユジノサハリンスク―ホルムスク間はバス移動でしたが、サハリンのSL・D51を観光用に改装した「レトロ列車」をホルムスクからループ線鉄橋下まで走らせ撮影の為にしばらく停車しホルムスクに戻る、といった演出がありました。鉄橋の上に立てなかったのが残念です。物凄い絶景だそうです。

P.S. でるでるさん、稚内市のHP見ました。サハリンの情報が解りやすく纏められており面白かったです。
[3218] 2002年 9月 21日(土)01:57:59ニジェガロージェッツ さん
樺太の鉄道 樺太東線
[3199]豊真線に続き、樺太東線について落書きします。

樺太東線は日露戦争終結直後の明治39(1906)年12月1日に樺太臨時派遣隊鉄道班がコルサコフ(楠渓町)―ウラジミロフカ(豊原)間に開通させた600ミリ軌間の軍用軽便鉄道を起源とします。
当時、鉄道班が随所に掲げた標札には

  「十二月一日ヨリ便乗ヲ許可ス、但生命財産ハ官其ノ責ニ任ゼズ    明治三十九年十一月  樺太軍用鉄道班」

と、恐ろしいことを書いていたそうです。
その後、軍政廃止・樺太庁設置に伴い、樺太庁鉄道となり、明治43年11月3日に軌間1067ミリとして再開通させ、明治44年12月17日には豊原以北、栄浜まで開通しました。また、大泊においては築港工事がなされ、昭和3年12月5日に大泊港を起点とし、これが樺太庁鉄道東海岸線(当初は泊栄線)95.1キロです。
大正時代に入り、樺太にパルプ工業が誕生し、奥地に製紙工場が建設され、工場のある落合、知取、敷香を鉄道で結ぶ必要が生じたのに応じ、「樺太鉄道株式会社」を設立して樺太庁鉄道東海岸線落合駅を起点に「樺太鉄道線(樺鉄)」として逐次、北へ北へと建設し、昭和11年8月30日、落合―敷香間の245.5キロが全通しました。
昭和16年3月31日付で樺太庁は樺太鉄道を買収し、樺鉄線は樺太庁鉄道東海岸線の一部として経営、さらに北の上敷香まで延伸しました。
昭和18年4月1日、鉄道省に移管となり樺太鉄道局が豊原に設置され、従来の「東海岸線」は「樺太東線」と改称されました。
鉄道局に移管後、戦争の激化に対応して日ソ国境近くまで樺太東線をさらに延伸することになり、昭和19年10月15日、古屯まで開通し、これで大泊港―古屯間414.4キロの全線が開通するに至りました。

樺太東線の停車場は次の通りです。
*印は信号場、またロシアの現況のついては極東鉄道サハリン支局の路線図SKHEMA(作図年不明)を参照しましたが、キロ程の記していないものはその路線図に載っていないもので、別の資料「鉄道地図帳 ATLAS Zheleznykh Dorog 1993年」に記されている駅を追加したものです。

駅名     累計キロ程  開業年月日        ロシアにおける累計キロ程および駅名
大泊港      0.0     昭和3年12月5日     0.000 ポルト
栄  町      1.4     昭和6年4月1日
大  泊      2.6     明治41年6月1日     2.600 コルサコフ
楠渓町      3.9     明治40年8月1日
一ノ沢      7.4     明治42年8月16日     7.262 ピェルヴァヤ パーチ
三ノ沢      10.7     明治40年8月1日         トゥレーチャヤ パーチ
貝  塚     14.3     明治40年8月1日         ソロヴィヨフカ
新  場     17.7     大正15年10月1日    17.398 ダチノエ-サハリンスコエ
中  里     23.4     明治40年8月1日          マツリョフカ
豊  南     31.5     大正11年9月16日    31.142 フリストフォロフカ
大  沢     37.5     明治44年1月1日     37.119 ボリシャヤ エラニ
豊  原     41.6     明治40年8月1日     41.150 ユジノサハリンスク
北豊原     43.8     大正12年10月30日    43.314 ヴラジミロフカ
豊  北     47.5     明治44年7月20日          ルゴヴォエ
南小沼     50.3     昭和11年2月11日
小  沼     52.5     明治44年7月20日    51.877 ノヴォアレクサンドロフカ
富  岡     61.4     明治44年9月10日    60.763 ベレズニャキ
深  雪     66.7     明治44年12月2日          スタロルースコエ サハリンスコエ
大  谷     73.8     明治44年12月2日    73.158 ソコル
小  谷     78.7     明治44年12月2日    77.929 タコエ
落  合     84.8     明治44年12月17日    83.996 ドリンスク
新栄浜     94.0     昭和3年9月11日     93.168 ルチイ
白鳥湖    100.9     昭和5年11月16日
相  浜    107.5     昭和2年11月20日    106.760 ソヴィエツコエ サハリンスコエ
富  浜    111.7     昭和11年9月11日          ポドレスナヤ
白  浜    114.8     昭和2年11月20日
小田寒    126.9     昭和2年11月20日    126.149 フィルソヴォ

真  苫    132.4     昭和4年8月27日
保  呂    138.8     昭和2年11月20日    139.061 ドゥジノ
白  浦    149.4     昭和2年11月20日    148.615 ヴズモーリエ
真  縫    159.1     昭和2年11月20日    158.337 アルセンチエフカ
三浦峠*    166.6     昭和20年1月15日          ポヤソク サハリンスキー
近  幌    174.2     昭和2年11月20日    173.389 チーハヤ
蛯  毛*    184.4     昭和20年1月15日    183.579 ツァプコ
白石沢    192.4     昭和2年11月20日
馬群潭    199.2     昭和2年11月20日    198.476 プガチョーヴォ
帆矢向*    203.7     昭和20年1月15日
南  沢*    210.5     昭和20年1月15日
元  泊    214.4     昭和2年11月20日    213.582 ヴォストーチヌイ サハリンスキー
樫  保    224.7     昭和2年11月20日    224.056 ザオジョールノエ サハリンスコエ
北樫保    227.9     昭和5年11月14日          ウグレダルスク
幌内保    232.0     昭和11年9月11日
東礼文    239.7     昭和2年11月20日    238.954 グレベンスカヤ
遠古丹    249.7     昭和2年11月20日    248.881 ポレーチエ サハリンスコエ
知  取    255.3     昭和2年11月20日    254.481 マカロフ
柵  丹    267.6     昭和5年11月3日     266.811 トゥマノヴォ サハリンスコエ
大鵜取    277.0     昭和5年11月3日     276.230 マルコヴォ サハリンスコエ
茂  受    282.3     昭和5年11月3日
新  問    287.3     昭和11年8月30日    286.472 ノーヴォエ
泊  岸    299.8     昭和11年8月30日    299.000 ヴァフルシェフ サハリンスキー
内  路    312.4     昭和11年8月30日    312.938 ガスチェーロ
床  佐    321.1     昭和11年8月30日
敷  香    330.3     昭和11年8月30日    329.026 ポロナイスク
中敷香    338.4     昭和16年12月1日    337.258 ゴンチャロヴォ サハリンスコエ
江  須    350.4     昭和16年12月1日    349.309 オレーニ サハリンスキー
上敷香    352.0     昭和16年12月1日           レオニードヴォ サハリンスコエ
大  木    360.5     昭和18年11月16日    361.812 ヴォズヴラシェーニエ
初  問    371.3     昭和18年11月16日    370.120 マトロソヴォ
保  恵    381.1     昭和18年11月16日    379.950 ブユークルィ
千  輪    388.1     昭和18年11月16日    386.867 コシェヴォイ
亜  屯    396.5     昭和18年11月16日    395.259 エリニキ サハリンスキエ
気  屯    403.7     昭和18年11月16日    402.356 スミルヌィフ サハリンスキー
古  屯    414.4     昭和19年10月15日    412.999 ポベージノ サハリンスコエ

落  合     0.0     明治44年12月17日     0.00 ドリンスク
栄  浜     10.3     明治44年12月17日    10.88 スタロドゥープスコエ サハリンスコエ
(貨物専用線)
栄  浜     0.0     明治44年12月17日
栄浜海岸    1.8     大正3年4月10日

以上です。

戦後1946年4月1日、樺太の全ての鉄道はソ連国鉄に編入され、樺太東線(東部縦貫線)では古屯(ポベージノ サハリンスコエ)以北に日本国鉄の標準軌間1067ミリのままノグリキまで延長し現在に至っています。

古屯(ポベージノ サハリンスコエ)以北にソ連が延伸した東部縦貫線の停車場は次の通りです。

累計キロ程(ポルトより)および駅名
 412.999 ポベージノ サハリンスコエ
 428.280 ユージナヤ ハンダサ
 438.330 スリーヴBR>  452.420 オノール
 465.880 セーヴェルナヤ ハンダサ
 479.240 タウラン
 493.550 ロンガリ
 507.120 パーレヴォ
 519.410 キーロフスキー
 531.680 トゥイモフスク
 542.770 ウスコヴォ
 553.850 スラヴBR>  565.250 アド トィモヴォ
 575.820 ラズイェスト イルキル
 588.370 アリバ
 610.000 ヌィシ
 653.073 ノグリキ

大変長くなりましたが、以上です。
[3245] 2002年 9月 22日(日)02:44:23ニジェガロージェッツ さん
旧豊真線廃止
[3223]Issieさんのご指摘どおり、[3199]に書きました旧豊真線(サハリン南部横断線)の線路状況は最悪です。
ホルムスク市(旧真岡郡真岡町)は市街のすぐ背後に西樺太山脈が迫り、その標高は真岡町あたりでは高いところで500メートルを超えています。この急峻な山脈を超えるため、「宝台ループ線」が建設されました。ループ線自体の標高は150メートル程ですが、宝台駅(清水村の真岡町との境近くに位置)では250メートルぐらいまで上っています。そこからは清水村を流れる留多加川(リュートガ川)まで下降し、二股駅付近では標高110メートル程まで下がります。さらにもうひと山、清水村と豊原市の境を成す山脈があります。このあたりでは線路は豊原と真岡を結ぶ「豊真山道」に沿って走り、春日峠を経由しています。この春日峠に位置するのが瀧ノ沢駅ですが、この駅はサハリン鉄道の最高地点で、その標高は407メートルです。特にこの瀧ノ沢―奥鈴谷間は、起伏の多い山岳地帯に入り、急勾配に加え数多くの曲折を重ね、山と谷間を縫って連続的に8箇所のトンネルを貫くなど最悪です。
この線路状況の悪さに加え、この豊真線の山岳部一帯は豪雪地帯で、雪崩の多発地帯でもあります。当然、日本時代より事故は続発し、ソ連も頭を抱えていたようです。
また、ソ連国鉄での標準軌間は1520ミリあり、日本国鉄の軌間をそのまま使っているサハリン鉄道の1067ミリに比べ広く、
ロシア大陸を走って来た列車は、ワニノ港で鉄道連絡船に積まれ、ホルムスク港に上陸後、台車交換場で1067ミリ軌間の台車に交換されてサハリンの鉄道線を走るのですが、豊真線のトンネルは狭いためロシアの列車は通行が出来ません。そのため、ユジノサハリンスク(豊原)へは西部縦貫線(樺太西線)を一旦北上し、イリインスキー(久春内)から北部横断線を経由し、アルセンチエフカ(真縫)より東部縦貫線(樺太東線)を南下して行きます。
豊真線では1994年冬の大雪で一部のトンネルが落盤で不通になったのを機に、その復旧を兼ねて全てのトンネルの断面拡張工事を始めたそうですが、経済事情により予算がストップされ、現在では廃線へと線路が撤去されつつあるそうです。

一方、道路では現在ユジノサハリンスクからホルムスクへ向かう場合、かつての豊真山道は使われず(20万分の1サハリン州地形図ではまるで獣道のように描かれています)、豊原を出て西大橋で鈴谷川(ススヤ川)を渡るとT字路を左折(豊真山道方面は右折)して南西に向かい、ウスペンスコエ村(豊原市並川)を通り、ペトロパヴロフスコエ村(留多加町小里)からリュートガ川沿いに旧清水村を北上し、ピャチレーチエ村(清水村逢坂)で左折西進し、急峻なホルムスキー峠(熊笹峠)を越えホルムスク市街に入ります。1989年はじめてこの道路を通ったときは道も悪く、ホルムスクまで3時間もかかり春日峠経由の旧豊真山道を通っていると疑わなかった程でしたが、1994年に同じ道を通ったときにはピャチレーチエぐらいまでは舗装拡張工事も行われており、熊笹峠越えの難所以外は快適な道路状況になっていました。
サハリンのHP、[SAKH.COM] にあるバス時刻表をみるとユジノサハリンスク―ホルムスク間には1日に11~12往復のバス路線があります。こうなると、やはり豊真線の価値は低くなり、廃線もやむを得ないのでしょう。残念ですが・・・
[3256] 2002年 9月 22日(日)12:22:45ニジェガロージェッツ さん
樺太の鉄道  川上線
[3218]樺太東線に関する書き込みの中で、「樺太庁鉄道」について触れましたが、その本線と言うべき東海岸線の小沼駅から奥川上まで最初の支線13.1キロが大正3(1914)年4月10日に営業を開始しました。この線路は、これに接続する三井鉱山株式会社の専用軽便鉄道が川上炭山から搬出する石炭の輸送を主な使命としていました。この専用軽便鉄道は軌間600ミリで輸送能力は小さく、その輸送力の大幅な向上には樺太庁鉄道と同一の軌間1067ミリに改修するしかなく、奥川上―川上炭山間を改軌し樺太庁鉄道と統一して経営されることとなり、大正11年10月1日、小沼から川上炭山までの「川上線」21.9キロとして営業を開始しました。
昭和18年4月1日、樺太庁鉄道は鉄道省に移管され、国鉄川上線となりました。

川上線の停車場は次の通りです。(*印は信号場)

駅名    累計キロ程  開業年月日        ロシアにおける累計キロ程および駅名
小   沼     0.0  明治44年7月20日      0.0  ノヴォアレクサンドロフカ
西 小 沼*    2.6  昭和20年7月15日
本 川 上     5.6  大正3年4月10日           クリューチ
                                   10キロ停止点
丸   山    10.9  大正7年6月10日          テプロヴォーツク
奥 川 上    13.1  大正3年4月10日
中   山    17.2  大正11年10月1日          17キロ停止点
                                   19キロ停止点
川上炭山    21.9  大正11年10月1日     21.9  シネゴルスク

以上です。

開通当初の駅名は、本川上が「川上」、丸山が「川上温泉」でした。現在の駅名「テプロヴォーツク」はそのまま「温泉の街」を意味しますが、サハリン州20万分の1地形図には「テプロヴォーツキー 無人」と記載されています。
ソ連国鉄移管後はシネゴルスク線となり、現在ではユジノサハリンスク市の近郊路線としても営業されています。
サハリンのHP [SAKH.COM] の列車時刻表によれば、1日4往復の旅客列車がユジノサハリンスク―シネゴルスク間を運行し、各駅に停車していることが判ります。
[3252] 2002年 9月 22日(日)11:03:55Issie さん
ソ連の客車
[3245]
>ソ連国鉄での標準軌間は1520ミリあり、日本国鉄の軌間をそのまま使っているサハリン鉄道の1067ミリに比べ広く、

そうそう,シベリア鉄道に乗って最初に感じたことは客車がとても大きくて,何よりたいへんに「重々しかった」ことです。
それに比べれば,日本国鉄の「重い」と言われていた旧型客車でさえ,紙でできているような弱弱しいものに感じてしまいました。
日本の鉄道が,言ってみれば植民地の軽便鉄道規格である,というのを実感した次第です。
[3257] 2002年 9月 22日(日)12:52:00ニジェガロージェッツ さん
Re:ソ連の客車
ソ連国鉄(ロシア帝国以来)の1520ミリ軌間は特に広いようですね。
ヨーロッパ大陸各国や中国では1435ミリ軌間と聞きます。
要するに戦時に鉄道線が地続きの敵に占領されても改軌しないかがり使い物にならないようにしているのでしょうが、平時には国際路線が乗り入れする場合にいちいち台車を交換しなければならず、不合理この上ないと思うのですが。今、ロシアは朝鮮半島の南北鉄道連結にあわせ、鉄道を乗り入れをしようと意気込んでいますが、この軌間の問題をどうするつもりでしょうか。

[3252]
>シベリア鉄道に乗って最初に感じたことは客車がとても大きくて、何よりたいへんに「重々しかった」ことです。

まさにその通りですね。残念ながらシベリア鉄道にはまだ乗ったことがありませんが(ハバロフスクからウラジオストク間はソ連末年に1度だけ乗ったことがあります)、モスクワ―ニジニノヴゴロド間は「ヤールマルカ号」や「ニジェガロージェッツ号」をよく利用したものです。やはり重厚そのもの。走行中の車内は揺れも少なく快適でした。
[3279] 2002年 9月 23日(月)13:40:03ニジェガロージェッツ さん
樺太の鉄道 樺太西線 および内幌炭砿鉄道
樺太東海岸方面には「東海岸線(当初は泊栄線)」、「川上線」が相次いで建設されましたが、大正時代に入り、日本海に臨む西海岸でも鉄道の建設が急務となってきました。これは東海岸南端に近い大泊港でさえ冬季には結氷し閉ざされるのに対し、西海岸は対馬暖流の影響で本斗港、真岡港が不凍港であったため海運に頼っていましたが、真岡に製紙工場が建設されるに及び、鉄道が必要となったものです。
まず大正9年10月1日に本斗―真岡間47.3キロが開通したのに続き、翌10年11月1日には野田まで、昭和5年11月1日に泊居まで北上し、昭和12年12月1日、久春内までの170.1キロの全線が開通しました。これが樺太庁鉄道「西海岸線」です。昭和18年4月1日、樺太庁鉄道が鉄道省に移管されたのに伴い、国鉄樺太西線となりました。

一方、本斗以南では内幌炭山の開発、石炭輸送を目的とし内幌炭砿鉄道が昭和6年12月1日、本斗―内幌炭山間16.3キロが開通しています。
後に内幌炭砿鉄道は、南樺太炭砿鉄道、三菱石炭油化工業会社線と変わっていきましたが、戦後は樺太西線とともにソ連国鉄に移管され、西部縦貫線として一括して運営されています。

停車場は次の通りです。

駅 名  累計キロ程    開業年月日     ロシアにおける累計キロ程および駅名
【内幌炭砿鉄道線】
内幌炭山    0.0   昭和6年12月1日    0.000 シャフタ サハリンスカヤ
内   幌    1.8   昭和6年10月1日    1.790 ゴルノザヴォーツク
北 内 幌
気   主                            アムールスコエ
吐 鯤 保                            カザケヴィッチ
本   斗    16.3   昭和6年10月1日    16.341 ネヴェリスク

【樺太西線】
本   斗    0.0   大正9年10月11日    16.341 ネヴェリスク
遠   節    4.3   大正9年10月11日         ロヴェツカヤ
阿   幸    11.3   大正9年10月11日         ヤスノモルスキー
麻   内    16.4   大正9年10月11日         33キロ停止点
知 根 平    21.4   大正9年10月11日         38キロ停止点
多 蘭 泊    25.4   大正9年10月11日    41.386 カリーニノ サハリンスコエ
大 穂 泊    31.0   大正9年10月11日         ズイリャンスカヤ サハリンスカヤ
広   地    34.6   大正9年10月11日    50.488 プラヴダ サハリンスカヤ
明   牛    39.9   大正9年10月11日         シェールヌイエ イストーチニキ
手   井    44.2   大正9年10月11日    60.081 ポリャーコヴォ
                                   ホルムスク ソルチローヴォチヌイ
真   岡    47.3   大正9年10月11日    63.103 ホルムスク(廃止)
北 真 岡    50.2   大正10年11月1日    66.000 ホルムスク セーヴェルヌイ
幌   泊    55.9   大正10年2月1日     71.683 シマコヴォ
楽   磨    60.0   大正12年10月16日        ミネラーリナヤ
蘭   泊    62.7   大正10年11月1日    78.282 ヤブロチナヤ
藻 白 帆    66.5   大正10年2月1日         サドヴニキ
羽 母 舞    73.5   大正10年11月1日    88.977 ピオネールイ サハリンスキエ
                                   93キロ停止点
小能登呂    79.6   大正10年11月1日    94.990 コストロムスカヤ サハリンスカヤ
仁 多 須    84.1   大正10年11月1日         102キロ停止点

登 富 津    89.8   大正10年11月1日         クラスノヤルスカヤ サハリンスカヤ
野   田    94.9   大正10年11月1日   110.100 チェーホフ サハリンスキー
久 良 志   100.2   昭和5年6月15日    115.343 バイコヴォ
小   岬   110.2   昭和5年6月15日         セルゲーエヴォ サハリンスコエ
                                    130キロ停止点
追   手   121.2   昭和5年6月15日    136.277 ノヴォセロヴォ サハリンスコエ
杜   門   128.8   昭和5年11月1日         ウロジャイナヤ サハリンスカヤ
泊   居   137.2   昭和5年11月1日    152.138 トマリ
                                    158キロ停止点
                                    166キロ停止点
苫   虫   147.9   昭和12年12月1日         スタロマヤチナヤ
樺太名寄   158.0   昭和12年12月1日   173.000 ペンゼンスカヤ
上久春内   168.4   昭和12年12月1日   183.413 イリインスク ユージヌイ(イリインスキー)
久 春 内   170.1   昭和12年12月1日   185.115 イリインスク サハリンスキー
                              185.330 (車両止め)
[貨物支線]
本   斗    0.0   大正9年10月11日
浜 本 斗    1.3   大正13年1月1日

真   岡    0.0   大正9年10月11日
浜 真 岡    1.8   昭和4年12月13日

以上です。



ここで残念なことを一つ。
上野駅をモデルにした小樽駅を模して建設された「ホルムスク駅」の駅舎が戦後も原型のまま残されていました。1989年に訪れた時にばっちり写真におさめ、帰ってから樺太の写真集に載っている戦前の「真岡駅」と寸分の違いもない姿に感動しましたが、1992年秋ごろに廃止されてしまいました。情報としては知っていたことですが、1994年7月に再訪したさい、取り壊され完全に姿を消した駅舎跡地を目の当たりにしたときは、さすがにがっくりきました。
ホルムスク駅は日本時代の駅の最後の生き残りだったそうで、大変残念でした。
[3322] 2002年 9月 24日(火)23:59:49ニジェガロージェッツ さん
樺太の鉄道  地方鉄道会社線
[3279]の書き込みの中で「内幌炭砿鉄道」について書きましたが、樺太にはそれ以外にも地方鉄道会社線がありました。
樺太東線新場駅(千歳村)―留多加(留多加町)間に大正15(1926)年に開通した南樺鉄道株式会社線18.6キロおよび樺太東線大谷駅―内淵(いずれも落合町)間に昭和19(1944)年に開通した内淵人造石油株式会社線23.2キロです。

【南樺鉄道線】
留多加川流域から切り出される王子製紙株式会社のパルプ資材を輸送する目的で、樺太庁鉄道東海岸線新場駅から分岐して建設されました。軌間は1067ミリです。
「鉄道ジャーナル1990年12月号」に東亜交通公社時刻表(1944年12月刊)が載っており、それによれば新場―留多加間に
1日3往復の旅客列車の運行があります。
戦後はソ連国鉄に移管されアニワ線19.0キロとなりましたが、以降斜陽化の一途をたどり、現在では貨物専用線となっているそうです。

停車場は次の通りです。

駅名  累計キロ程  開業年月日    ロシアにおける累計キロ程および駅名
新  場   0.0   大正15年10月1日   0.000 ダチノエ サハリンスコエ
江の浦                           オゼレツコエ(1993年版サハリン州20万分の1地形図には存在せず)
浜  路                           ペスチャンスコエ
留多加  18.6   大正15年10月1日   18.6   アニワ
                          19.010 (車両止め)
以上です。

【内淵人造石油線】
石炭輸送のために建設された路線ですが、大戦末期の開通のため詳しい資料がなく、また5万分の1地形図にも載っておらず、途中の駅名など正直なところ私には謎です。昭和20年3月1日に内幌炭砿鉄道(三菱石炭油化工業か?)と会社合併が行われ、それぞれ帝国燃料興業内幌線、内淵線と呼ばれるようになったそうです。軌間は1067ミリです。
前出の東亜交通公社時刻表によれば、大谷―内淵間に1日4往復の旅客列車の運行があります。
戦後はソ連国鉄に移管されブイコフ線23.2キロとなり、ユジノサハリンスク(豊原)の近郊路線として利用されサハリンのHP [SAKH.COM] の鉄道時刻表によれば、現在ユジノサハリンスク―ブイコフ間に1日2往復の旅客列車が運行しています。

停車場は次の通りです。

駅名  累計キロ程  開業年月日    ロシアにおける累計キロ程および駅名
大  谷   0.0   明治44年12月2日   0.0 ソコル
                              ポクロフカ
                              15キロ停止点
東内淵                      16.3 ウグレザヴォーツク
                              21キロ停止点
内  淵  23.2   昭和19年4月1日   23.2 ブイコフ サハリンスキー

以上です。

以前の書き込み[3180]で、この内淵人造石油株式会社線のキロ程を「12.5キロ」とご紹介さして頂いておりました。基になった資料「北海道鉄道百年史」の中でそのように記載されていたのですが、前出の東亜交通公社時刻表には「23.2粁」と記されており、ロシア側のデータ23.2キロと一致しますので、この数値のほうが正しいと結論づけました。
となると、[3180]で終戦時の樺太における1067ミリ軌間鉄道の総延長を745.3キロとしているのは 756.0キロ となり、またソ連崩壊時の同総延長を1037.7キロとしているのは 1048.4キロ となります。ここで修正させていただきます。


さて、[3188]でmikiさんから 「西暦で表記した方が分かりやすいのでは」 とご助言いただきました。
実際、書く方もいちいち年号を文字変換する必要もなく西暦表記のほうがはるかに楽なのですが、これは私自身のこだわりです。[3294]で雑魚さんが私の言いたいことをほぼ代弁くださった形ですが、私から付け加えておきたいことがもう一つあります。
かなりの回数で樺太ネタを書き込みさして頂き、ご覧下さった方にはもうお感じの方もおられることと思いますが、日本統治時代の40年間に、いかに多くの労力をかけて先人たちが「北方の大地」樺太の開拓を成し遂げていったか。もちろんこれには、もともとこの地に太古より暮らしてきたアイヌ、ウイルタ、ニブヒ族などの土着の諸族からみれば侵略者と映り、また朝鮮半島方面から強制的に樺太へ送り込まれ開拓に従事させられ、戦後も帰郷さえ出来なかった人々の存在など暗部の側面も併せ持ちます。がしかし、40万近くの日本人が北辺の樺太に極限の中築き上げた繁栄に敬意を表し、敢えて日本の元号で書き込むこととしたまでです。ご了承ください。
実際、過去3回参加しました「サハリン旅行」には多くの旧樺太居住者も参加され、直に彼らから戦前の樺太についてのお話を伺う機会にも恵まれました。樺太ではどの街でも当時の北海道が見すぼらしく映るぐらい立派なものだったと口をそろえておられました。大泊で少女時代を過ごされたご婦人は、変わり果てたコルサコフの街並みに「あんなに綺麗だった大泊を
ソ連はここまで汚くした」と涙ぐんでおられました。
また、 「樺太はもう日本ではないんですから。」 とありますが、ご覧いただければお判りのことと存じますが、樺太が日本でなくなった1946年以降の事柄については私自身の旅行の体験談も含め、すべて西暦で表記致しております。


[3194]
>件の台車交換は、乗客を乗せたまま行うという、物凄い話も聞いていますが、真偽の程やいかに?

私も聞いたことがありますが、場所がサハリンかどうか失念しました。
ただ、現在の極東ロシア大陸部からサハリンへ乗り入れる旅客列車をロシア極東各地のHPで探してみたのですが、見当たりません。第一、現在定期的にそのような列車があれば前出の SAKH.COM の時刻表に出ている筈ですがありません。
東ヨーロッパのベラルーシ共和国のブレスト(ポーランドとの国境に位置、戦前はポーランド領ブレスト=リトフスク)の台車交換場かも知れません。
[3366] 2002年 9月 27日(金)01:00:02ニジェガロージェッツ さん
樺太の鉄道  未成線
樺太の鉄道(1067ミリ軌間)について終戦時までに開業した区間について落書きさせて頂きましたが、樺太には実際に建設が行われていたものの工事途中で終戦を迎え開業に至らなかった路線(泊恵線)や、計画だけに終わった路線(真久線)がありました。

【樺太西線延長工事(泊恵線)】
樺太西線の久春内駅(久春内村、現イリインスキー町、イリインスク=サハリンスキー駅)以北の延伸は藻糸音(塔路町、現シャフチョルスク市の北郊)まで157.2キロにわたり計画され、そのうち久春内―恵須取(恵須取町、現ウグレゴルスク市)間144キロが昭和10年6月1日に起工し、その延長にある恵須取―藻糸音間13.2キロも昭和17年春から起工していました。しかし、建設は予算の都合により遅々として進まず、戦時に入り、上敷香駅(敷香町、現レオニードヴォ町)まで開通していた樺太東線の日ソ国境中央方面の古屯駅(敷香町、現ポベージノ村)への延伸工事が優先され(この区間のレールは北海道札沼線を一部休止し転用)、開通には至りませんでした。それでも終戦時には南から

久春内―珍内(珍内町、現クラスノゴルスク市)間 50.4キロ
珍内―中倉庫(珍内町、現アインスコエ村)間 18.2キロ
上恵須取(恵須取町、現クラスノポーリエ村)―恵須取(恵須取町、現ウグレゴルスク市)間 22キロ
恵須取―塔路(塔路町、現シャフチョルスク市)―藻糸音間 13.2キロ

での路盤工事がほぼ完成し、久春内―珍内、恵須取―藻糸音間の一部区間ではレールの敷設も進んでいたそうです。
この本線の他、恵須取駅(建設地は山市街の中島町)より大平炭鉱(恵須取町、現ウダルヌイ町)への支線を既存の炭鉱軽便鉄道(762ミリ軌間)を改軌して工事、また恵須取駅より浜市街の浜恵須取への支線、恵須取港への支線も工事あるいは計画されていたそうです。

戦後、ソ連はウグレゴルスク―シャフチョルスク、ウダルヌイ間の一部を750ミリ軌間の軽便鉄道に転用した以外はこれらの完成されていた路盤のほとんどを破壊、または他の用途(道路など)に転用したため幻の鉄道になってしまいました。

【真久線】
樺太東線真縫駅(白縫村、現アルセンチエフカ村。1993年発行サハリン州20万分の1地形図には「無人」と表記)と樺太西線久春内駅を連絡する路線として計画されたものの、起工されずに終戦となりました。
この区間は樺太島の最狭部(久春内地狭、幅29キロ)にあたり、急峻な西樺太山脈もこの付近はせいぜい200メートル級の山々がある程度で、谷あいをいけば分水嶺上の轟峠(現ポヤソク峠)で標高87メートルの鞍部に過ぎず、横断道路も開通していました。
戦後、ソ連はこの横断道路に沿って鉄道を建設し、1970年にイリインスク=サハリンスキー―アルセンチエフカ間29.1キロの北部横断線として開通させました。樺太南部の東西を連絡する鉄道としては、すでに旧豊真線([3199][3245]に既述、Issieさんからも[3223]に詳述)がありましたが、同線は急勾配、急カーブが連続し、さらにトンネル断面が狭軌断面のために大陸直通の広軌用貨車が通れず、大陸との物資輸送を円滑に行うためにどうしても必要となったものです。
旧豊真線が廃線となりつつある現在、ユジノサハリンスク(豊原)―ホルムスク=セーヴェルヌイ(北真岡)間を結ぶ旅客列車が1日2便この線を経由して運行しています。
なお、この線には途中に駅はなく、イリインスク=サハリンスキー駅起点から18.2キロの地点に待避点が設けられているのみです。
私も1994年7月にホルムスク=セーヴェルヌイ駅より特別編成の「ホテル列車」で、チェーホフ(野田)、トマリ(泊居)観光を終え、この線区を経由して北樺太のオノールに移動したのですが、きついカーブもなく線路条件は良好でした。旧樺太西線からこの北部横断線に入線するポイントは終点のイリインスク=サハリンスキー駅ではなく、その手前のイリインスク=ユージヌイ(旧上久春内)を過ぎたあたりにあり、そこで右に(東向きに)カーブを切り、しばらくして北部横断線に合流していました。

注)ここでのロシアにおける「市、町、村」の表現は[2593]にある表現に統一して書いています。念のため。

[3335]ゆうさん
いいたいことを全ていって下さいました。ありがとうございました。
[6858] 2002年 12月 23日(月)14:11:38ニジェガロージェッツ さん
間宮海峡海底トンネル
[6407]夜鳴き寿司屋 さん
>さらに樺太(サハリン)と大陸の間にある間宮海峡(タタール海峡)を橋で結んで、
>さらに樺太と北海道の間の宗谷海峡をトンネルで結び、―中略―
>間宮海峡に関してはスターリン時代末期に連絡橋に着手して、その後放棄され
>現在でも大陸側に残骸が残っているとの資料もありますが、
>実際に現地の写真を見たことがないので真偽は不明です。

遅れレスになり、申し訳ありません。
スターリン時代に工事が行われた間宮海峡を越える鉄道建設についてですが、実際には連絡橋ではなく海底トンネルですね。

ソ連の樺太(サハリン)領有後、樺太の鉄道と大陸の鉄道を結ぶ計画について、1950年4月3日、ソ連邦共産党委員会会議で審議され、同年5月5日ソ連邦閣僚会議決定の法令として
 1. 大陸側コムソモリスク・ナ・アムーレから間宮海峡ラザレフ岬までの鉄道
 2. 間宮海峡ラザレフ岬から樺太側ポギビ岬までは海底トンネル
 3. ポギビ岬からポベージノ(古屯、旧日本国鉄最北端の駅)まで鉄道
の建設が決定されました。
探検事業、道路と鉄道の設計および建設を1955年までに完成させることとなりましたが、極秘事項となり、外部には報道されませんでした。
実際に建設にあたったのは囚人で、樺太側に506号監獄建設会社、大陸側ラザレフに507号建設会社が配置され、多い時には女性を含む囚人9600人が連行されたそうです。噂によると多くの囚人は命を落としていったそうです。
工事は順調に進み、ラザレフ岬、ポギビ岬の両側から建設は始められ、両岬から沖には突堤が伸び、その先端にはトンネル通風用の人工島(直径90m)も設けられ完成に近づきましたが、1953年3月5日スターリンが死去、後に囚人の大赦が公示されました。現場では同年4月20日に労働者の刑期短縮のため監獄の一部は廃止され、5月20日までには506号監獄全体が閉鎖となり、建設工事は停止したそうです。

手持ちの1993年版サハリン州20万分の1地形図を見てみると、間宮海峡最狭部(ロシア名、ネヴェリスキー海峡)の距離は約7.3キロで、ラザレフ岬側中岬(スレードニー岬)からは沖合いに0.8キロ程の突堤がポギビ方向に伸びているのが分ります。また、樺太ポギビ側の突堤は消えていますが(流氷で壊されたらしい)、岬から内陸に東へ30キロ程にわたり周辺とは不自然な道路が伸びています。また、岬から南15キロ程の海岸にドルージバ(友好)と名づけられた無人集落があり、ここからも東へ不気味なほど太い道路が伸びていますが、トンネル工事との関係は判りません。

時代は移り、現地でも海底トンネルについては忘れ去られ、ポベージノ(古屯)以北のサハリン鉄道延伸は1976年にアリバ、1979年にはヌィシと北進しましたが、そこからは間宮海峡のポギビには向かわず、逆にオホーツク海側のノグリキへ延伸されました。
ところで、1990年代に入り再び大陸と樺太を結ぶ新線建設構想が持ち上がりました。
これは、コムソモリスク・ナ・アムーレ東方のセリヒノからアムール河沿いに北東にシェレホヴォに伸びるバム鉄道支線からラザレフ、ポギビを経由してノグリキに至る新線をロシア規格の1520ミリ軌間で建設し、サハリン鉄道に接続する構想です。海底トンネルの長さは取付部を含めて11~13キロになるそうですが、今現在、同構想の進捗がどうなっているかは分りません。
[6871] 2002年 12月 23日(月)16:05:29【1】ニジェガロージェッツ さん
間宮海峡トンネル衛星写真
間宮海峡トンネル地区の衛星写真を見つけました。
http://www.transsib.ru/Photo/Other/space02ir-tatproliv.jpg
をご覧下さい。

参考までに、写真中の各点の解説
1. 施工された鉄道道床に沿った自動車道路地区
2. 大陸側トンネル入口地区
3. (白点)―スターリン時代に建設済みのトンネル部分の施工標識
4. サハリン側トンネル出口地区

更に506号建設会社を扱ったホームページから、現在の海峡の景色を
ラザレフ側から http://www.sakhalin.ru/Region/tunnel/images/lazarev.jpg
ポギビ側から http://www.sakhalin.ru/Region/tunnel/images/pogibi.jpg

あと、ロシアの検索サイトで調べると、現在の構想を含め色々な記事が出てきました。
面白そうなのがあれば、また和訳してご紹介致します。
[7098] 2002年 12月 29日(日)01:22:00ニジェガロージェッツ さん
間宮海峡横断鉄道の壮大なる構想
[6858]Нижегородец 自己レス末尾
>1990年代に入り再び大陸と樺太を結ぶ新線建設構想が持ち上がりました。
>これは、コムソモリスク・ナ・アムーレ東方のセリヒノからアムール河沿いに北東に
>シェレホヴォに伸びるバム鉄道支線からラザレフ、ポギビを経由してノグリキに至る
>新線をロシア規格の1520ミリ軌間で建設し、サハリン鉄道に接続する構想です。
>海底トンネルの長さは取付部を含めて11~13キロになるそうですが、今現在、
>同構想の進捗がどうなっているかは分りません。

とお書き致しましたが、この雄大な構想の現状が気になってロシアの検索サイトで調べた結果、面白いものが出てきましたので、お知らせします。
「鉄道交通の技術経済的予備調査および設計の国立研究所長代理」という恐ろしく長い肩書きをもつS.N.シャラポフ工学博士の【ネヴェリスク海峡とトンネル(または架橋)で横断する大陸とサハリン島間の鉄道建設の論拠(セリヒン―ラザレフ岬―ポギビ―ノグリキ)】と題した記事からの引用ですが、

「検討されているセリヒン―ラザレフ岬―ポギビ―ノグリキの鉄道線は、サハリン島と大陸間の連結を可能とし、更に隣接する地域の飛躍的な発展はもとより、日本―西ヨーロッパ間の通過貨物をも引き寄せることとなろう。その有効性については2000年6月13~17日にサンクトペテルブルグ市で開催された第4経済フォーラムにおいて詳細に論じられた。」そうです。

今年(2001年)ロシア連邦交通省で「建設への投資の論拠」として、構想への融資に関する問題を提起し、それには
・作業開始にあたって重要な問題を簡潔に表現できるか。
・計画される鉄道線区における貨物と乗客の運搬について予想される程度は。
・北海道島とサハリン島を結ぶ国際トンネル(または架橋)の建設の可能性と期間、さらに将来的な運搬の規模は。
・サハリン鉄道の改築の規模は。
・ネヴェリスク海峡の横断方法の選択(架橋か、トンネルか)。
・全体的な建設コストの算定。
・実現し得る建設への投資の財源。

とし、更に運搬規模を2015年を想定して以下の項目から見積もり
・サハリン島および州の持つ本来の貨物。
・セリヒン―チョールヌイ岬―デ・カストリ―ラザレフ岬(大陸側計画ルート)鉄道沿線地域の貨物。
・新線開通の結果として新たに生じる北東ロシア地域(マガダン、ペトロパヴロフスク=カムチャツキー)の経済構想からの貨物。
・サハリン―北海道両島間の42キロメートルからなる架橋またはトンネルのヴァリアント。
・日本―西ヨーロッパ間の通過貨物。
・結果として生ずるロシアと日本の経済関係からの貨物。

その結果、
・2015年における貨物運搬総量 600万~1000万トン
・アジア太平洋地域各国から西ヨーロッパへの貨物輸送の期間短縮(東京―ロッテルダム) 15~18日
・20フィートコンテナ1台あたりの輸送経費削減額(東京―ロッテルダム) 523米ドル
・2015年における通過輸送の経費節約(238,000台) 124,500,000米ドル
とはじき出しています。

[6996]夜鳴き寿司屋 さん
>シベリア改造計画
米ソ両国でそれぞれそのような壮大な構想があったとは存知ませんでした。誠に興味が尽きません。
戦前の大日本では、間宮海峡を埋め立てて閉塞する夢想があったと聞きます。
間宮海峡を埋め立ててしまうと、北から沿海州に沿って南下する寒流(リマン海流)が消滅し、南からの暖流(対馬海流)が日本海で渦を巻く形になり、それによって気流が変化し、どう言う根拠か少雨地帯の満蒙地域に雨が降るようになるそうです。ほんまかいな。

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