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千本桜さんの記事が10件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[77119]2010年12月27日
千本桜
[77093]2010年12月23日
千本桜
[77083]2010年12月22日
千本桜
[77082]2010年12月22日
千本桜
[76288]2010年10月2日
千本桜
[76196]2010年9月16日
千本桜
[75500]2010年7月19日
千本桜
[75490]2010年7月17日
千本桜
[75322]2010年6月8日
千本桜
[75311]2010年6月7日
千本桜

[77119] 2010年 12月 27日(月)00:33:18千本桜 さん
卯名沢は小字
[77111] k-ace さん
町名・大字名のみを対象とし、小字名は割愛。
気仙沼市本吉町卯名沢

本吉町は大字を編成していませんので、卯名沢は小字として扱うのが妥当かと思われます。当然ですが、近隣の中島下宿今朝磯などもすべて小字で、敢えてそれらを総称する大字相当の地名を挙げるなら小泉(藩政期の小泉村)になります。旧小泉村の中心となる小字は。藩政期の小泉村は明治22年(1889)に他村と合併せずに単独で町村制下の小泉村になりましたから、大字を置く必要がなかったのです。昭和30年に小泉村、津谷村、大谷村が合併して本吉町が成立しましたが、やはり大字は置かずに、自治体名(本吉町)の後ろに直接 小字名を書くことになっています。
[77093] 2010年 12月 23日(木)19:21:14千本桜 さん
引綱から唐琴へ、平から金ヶ瀬へ
[76203] hiroroじゃけぇ さん
落ち着いて書き込みする時間がとれず、ご返事が遅くなって申し訳ありませんでした。
唐琴は明治22年まで存在した引網村のことではないかと推察します。もし、地理範囲に変わりがないなら、今も引綱と呼ばれて良いはずなのに、どうして唐琴に改称したのでしょうか。
という私の問い掛けに
人口が集中する「唐琴」を採用したのではと推測しています。
との回答を頂きましてありがとうございました。私も人口や居住空間(集落)が少なからず作用しているだろうと感じています。そこで、私なりに藩政期の引綱村が現在の倉敷市児島唐琴町に変化する過程を追ってみました。
明治22年、引綱村と田ノ口村が合併して町村制下の田ノ口村が発足。引綱村の区域は田ノ口村大字引綱となる。
明治40年、田ノ口村と鴻村が合併して琴浦村が発足。田ノ口村大字引綱の区域は琴浦村大字引綱となる。
大正4年、琴浦村が町制施行。琴浦村大字引綱の区域は琴浦町大字引綱となる。
昭和31年、琴浦町と児島市が合併して(新)児島市が発足。琴浦町大字引綱の区域は児島市唐琴町となる。
昭和42年、児島市と倉敷市、玉島市が合併して(新)倉敷市が発足。児島市唐琴町の区域は倉敷市児島唐琴町となる。
昭和46年、倉敷市児島唐琴町に住居表示が実施されて倉敷市児島唐琴1~4丁目となる。住居表示が未実施の区域は倉敷市児島唐琴町のまま残留。
昭和31年に大字引網を唐琴町に改称したようですね。ここまでは調べることができたのですが、なぜ引綱ではダメだったのかについては分からずじまいです。実は、宮城県でも昭和31年に大字平(藩政期の平村)が金ヶ瀬という地名に改められています。あまり参考にならないかとは思いますが、平が金ヶ瀬に変化して行く経緯を紹介します。
【第1段階】
寛永14年(1637)、6月23日朝より大雨。24日雨止まず。25日雨止まず。26日洪水。この洪水で刈田郡宮村(現・蔵王町)の金ヶ瀬宿は流出して河原と化した。同じ場所での再建は方策がたたず、領主の片倉重長は伊達藩主に請願して柴田郡平村(現・大河原町)の畑地を拝領し、そこに屋敷割りを実施して、侍1、町足軽27、百姓修験1、百姓16、計45軒を移転させることにしました。
【第2段階】
寛永19年(1642)、金ヶ瀬宿が平村の南西部に移転して宿駅業務を再開する。この時に形成された町並みは、後に増設される金ヶ瀬新町に対して金ヶ瀬本町と呼ばれます。
【第3段階】
享保6年(1721)、金ヶ瀬宿の貨客増加に伴い、平村の村落部に住む農民90軒を強制移住させて金ヶ瀬宿を拡張する。この時に増設された町並みは金ヶ瀬新町と呼ばれます。金ヶ瀬本町と金ヶ瀬新町は途切れのない一連の町並みになっていて、安永風土記には、本町 長サ三丁拾弍間 家数四十五軒。新町 長サ八丁 家数九十三軒と書いてあります。この時点で平村の村落部に住む住民と金ヶ瀬町場に住む住民の比率が完全逆転しましたから、平とは金ヶ瀬のことという感覚が生まれ始めてもおかしくないと思います。対外的な知名度は、地籍上の村名「平」よりも町場名「金ヶ瀬」の方が勝ってしまったのではないかと想像します。
【第4段階】
明治22年(1889)、平村、堤村新寺村が合併。平村の町場名をもって金ヶ瀬村になりました。旧3村は、平村が金ヶ瀬村大字平、堤村が金ヶ瀬村大字堤、新寺村が金ヶ瀬村大字新寺となりました。
【第5段階】
昭和31年(1956)、金ヶ瀬村は大河原町に合併。村内の旧3大字は、大字平が大河原町金ヶ瀬、大字堤が大河原町堤、大字新寺が大河原町新寺となりました。この段階で大字平(藩政期の平村)は金ヶ瀬という名に置き換えられて消滅しました。
こうしてみると、平は金ヶ瀬に庇を貸して母屋を取られた格好ですが、私としてはあまり抵抗感がないんですよね。リアルタイムのできごとではなく、昔のできごとだからというのも少しはあります。しかし、何よりも大きいのは、へんちくりんな大字のエリア変更がなかったこと。過去の歴史が見えなくなるような大字の領域変更がなかったこと。天保郷帳や安永風土記などの古い書物に書かれている「平村」をそっくりそのまま「金ヶ瀬」に置き換えれば意味が通じる状態に保たれたこと。それが一番の理由です。大字の変更で私が一番恐れるのは、無感心なるが故に安易な領域変更に走る行政による歴史破壊です。これがリアルタイムで目の前で行われたなら、たまったもんじゃありません。
[77083] 2010年 12月 22日(水)19:38:07千本桜 さん
市区町村変遷情報および『旧高旧領取調帳』と『天保郷帳』
[76590]88 さん
静岡県(336件)、長野県(391件)の計1,257件(いずれも町村のみ)の一括登録をしていただきました。
いつも感謝しながら市区町村変遷情報を利用させていただいております。ところで、市制町村制施行時の情報の静岡県ですが、「市制町村制施行前の町村名等」を記載する欄に「施行後の町村名」が掲載されているようです。88さんが間違う筈はないという前提で見ていますから、もしかして私の方が見方を誤っているのかな?と少々頭が混乱していますが、念のため御確認おねがいします。

[76822]YT さん
『旧高旧領取調帳』と『天保郷帳』 東北編
天保郷帳では陸前国栗原郡92村ですが、旧高旧領取調帳では1つ増えて93村になっています。どうしてかなと調べたところ、明治4年(1871)に真坂村から北沢村が分村したことによる増加のようですね。北沢村は江戸期の昔より独立した1個の自治村だと思い込んでいましたが、YTさんの『旧高旧領取調帳』と『天保郷帳』の村数比較を見て、勘違いしていたことに気がつきました。ありがとうございました。ところで、旧高旧領取調帳では羽前国置賜郡292村2町となっていますが、その2町がどこなのか、御存知でしたなら教えて頂けないでしょうか。
[77082] 2010年 12月 22日(水)19:26:40千本桜 さん
鈍感都市
[76095] 白桃 さん
その市の郊外?にあるバス停に到着
そのバス停は大内バスストップのことだと推察しますが、そこで下車した人の数が気になりました。そして仮に、利用客が少ないことを理由にバス会社が大内バスストップへの停車をやめると通告してきたなら、東かがわ市の行政や住民はどんな行動に出るのだろうと考えてしまいました。A・バス会社に停車継続を働きかける。B・行政も住民も無関心のままやりすごす。さあ、東かがわ市はA・Bどちらをとるでしょう。
こんなことを書きますのも、昨年2月から岩沼、大河原、白石に東京行き夜行バスが停車しなくなり、宮城県南部は長距離バスの空白地帯になってしまったからです。私は訳あって大河原、白石両バス停の乗客数を時折チェックしていましたが、乗車する人が非常に少なく、バス会社が停留所を廃止したくなるのも分からないわけではありませんでした。しかし、地域には地域の側の論理があって当然で、東京行きのバスは地域にとって必要、交通機関は都市戦略に欠かせないアイテム、だから通過措置は回避して欲しいと、ダメもと承知で行政が声をあげるのを期待していましたが、その声も聞かれないまま実質バス停廃止に至りました。こうして大河原は東京と直結する交通手段を失ったのですが、それでも平然としていられるのは都市として鈍感すぎ。なにしろ、18万人圏域の中心地としての役目を背負っているのですから、もっと敏感にならなくちゃと思うのです。
そこで、国の出先機関配置から見た東北地方の拠点都市を書き出します。対象となる役所は「地方裁判所またはその支部」、「法務局またはその支局」、「国税局の税務署」の3つに絞ります。東北地方の都市で3機関がすべて設置されているのは青森、五所川原、弘前、十和田、八戸、盛岡、二戸、宮古、花巻、水沢、一関、仙台、気仙沼、石巻、古川、大河原、秋田、大館、能代、本荘、大曲、横手、山形、酒田、鶴岡、新庄、米沢、福島、会津若松、郡山、白河、相馬、いわきの32市1町です。平成の大合併後の自治体にまだ馴染めないので、合併前の自治体を念頭に置いて書きました。このそうそうたるメンバーの中に名を連ねながら、東京との直結交通手段もなければホテルもない大河原町って、やっぱり異色ですね。
[76288] 2010年 10月 2日(土)08:19:57千本桜 さん
児島、日比、水城の御礼
[76203] hiroroじゃけぇさん
[76204] かぱぷうさん
[76205] 中島悟さん
[76263] hiroroじゃけぇさん
私の疑問にお応え下さいましてありがとうございました。拝読いたしましたのに、御礼の書込みが遅れて申し訳なく思っております。実は[76196]を書込んだ後に、敬老会、同級会などの準備や種々の会合が重なって舞い込み、落ち着いて書込みをする時間がとれない状態に陥っておりました。この後も、村の鎮守の秋祭りやカラオケフェステバルに追われますが、それらが終われば書込み可能な状態に戻れると思います。塩生・通生・宇野津をまとめて本荘と呼ぶ習慣はないのだろうか?など、お尋ねしたい事はまだまだあるのですが、取り敢えず御礼まで。
[76196] 2010年 9月 16日(木)08:22:18千本桜 さん
児島、玉野市日比、太宰府市水城
[59333] hiroroじゃけぇ さん
地元における一般的な区分は、
児島(味野・小川・琴浦・田ノ口・唐琴・赤崎・由加をまとめて)
下津井
塩生(しおなす)・通生(かよう)(リンク先は塩生)
郷内
と分かれています。自治体の変遷とは必ずしも一致していませんので分かりづらいでしょう。大まかに言えば、山に囲まれ東側または南側が海の地域が児島、それ以外は別々と言うことです。
児島に関して幾つかお尋ねします。
1・公的な行政区分ではなく、世間の一般的な人々の地理意識を知りたいので教えてください。琴浦から少し離れた地域の人々、例えば下津井や日比の人は琴浦の地理範囲をどのように捉えているのでしょう。A・下の町・上の町の区域を琴浦と呼んでいる。B・下の町・上の町・田ノ口・唐琴・由加・白尾の全域を琴浦と呼んでいる。捉え方は世代によって違いがあるかもしれません。そこで、1つはhiroroじゃけぇさん世代の感覚で捉えた琴浦。もう1つは70才以上の高齢者の感覚で捉えた琴浦。二者の立場からの琴浦を解説いただけたなら幸いです。
2・唐琴は明治22年まで存在した引網村のことではないかと推察します。もし、地理範囲に変わりがないなら、今も引綱と呼ばれて良いはずなのに、どうして唐琴に改称したのでしょうか。
3・塩生(しおなす)・通生(かよう)で1つの区域とした場合、宇野津はどこへ行ってしまうのでしょう。塩生に含まれるのでしょうか。
4・次に、現在の公的な住所地名の話に移ります。旧児島市の区域では、大字に相当する町丁名のほとんどが児島を冠して倉敷市児島○○と表記するのに、郷内村、下津井町および味野町の菰池だけは児島を冠称しません。何故でしょうか。後に児島市に編入された郷内村の区域が児島を冠称しないのは理解できますが、児島市発足当初から児島市に組込まれていた下津井町と味野町の菰池地区が児島を冠しない理由がわかりません。児島を冠せず、いきなり倉敷市下津井、倉敷市菰池になるのが不可解なのです。赤崎が倉敷市児島赤崎ですから、菰池は倉敷市児島菰池になるのが一般的だと思うのですが・・・。
5・さらに不可解なのは下津井の大畠です。明治22年以前、下津井町の区域は下津井村、吹上村、田ノ浦村、大畠村に分かれていました。現在の住所表記は、下津井村の区域が倉敷市下津井、吹上村の区域が倉敷市下津井吹上、田ノ浦村の区域が倉敷市下津井田ノ浦なのに、大畠村の区域は下津井を付さずに倉敷市大畠です。大畠村の区域が児島も下津井も冠称しないのはなぜでしょうか。

玉野市やその周辺に住む世間の人は、日比の地理範囲をどのように捉えているのでしょう。
A・日比という地名を耳にすると、藩政期の日比村に相当する区域を思い浮かべる。
B・日比という地名を耳にすると、日比に渋川和田を加えた区域を思い浮かべる。
C・日比という地名を耳にすると、日比、渋川、和田にを加えた区域を思い浮かべる。
私の関心は、今も日比という地名が玉を包含する力を持っているかどうかにあります。

かぱぷうさんへ
太宰府市近隣、例えば筑紫野市や大野城市の人たちは、水城という地名が及ぶ地理範囲をどのように捉えているか知りたいので教えてください。
1・太宰府市水城あたりに行くことを、A・太宰府へ行く、B・水城へ行く、と言い習わしている。
2・太宰府市坂本あたりに行くことを、A・太宰府へ行く、B・水城へ行く、C・坂本へ行くと言い習わしている。
3・太宰府市通古賀あたりに行くことを、A・太宰府へ行く、B・水城へ行く、C・通古賀へ行くと言い習わしている。

明治22年、藩政期の水城村, 国分村, 坂本村, 観世音寺村, 通古賀村, 片野村, 吉松村, 向佐野村, 大佐野村の9村が合併して町村制下の水城村が誕生しました。これら旧9村は水城村の大字に引継がれ、後に太宰府町の時代を経て、太宰府市の大字・町丁名に継承されています。ところが、旧9村のうち片岡村の名称だけは現在の太宰府市の住所地名に見当たりません。ここから先は推測で書きますが、大字片岡(旧片岡村)は住居表示が実施されて朱雀○丁目になり、住所地名としては消滅してしまったのでしょう。私の関心は、この片岡という地名が世間の人に今も使われているかどうかにあります。かぱぷうさんは片岡という地名を口にしたり耳にしたことはありませんか。もし、かぱぷうさん世代になじみのない地名だとしても、住居表示が実施される以前に物心がついていた人たちは今も片岡という地名を使っているかもしれません。高齢者が片岡を口にしているのを耳にしたことはありませんか。
[75500] 2010年 7月 19日(月)18:13:52千本桜 さん
田老森崎
[75493] 2010 年 7 月 17 日 (土) 22:55:15 しんちゃん さん
岩手県宮古市田老森崎(郵便番号0270354)という所があります。しかし地図検索しても指示点はありますが、どの地図にも字名が書かれていません。どんな所なんですか。

宮古市田老森崎の名称と字界はちず丸で確認できます。ただし、字界の精度は保証できません。マピオンで田老森崎43番地を検索するとこの場所が表示されますが、ちず丸は そこを田老末前の領域にしています。どちらかがズレているわけですが、この場合に限って判断するなら、ちず丸の字界線がズレている可能性が高いと思います。また、ちず丸やマピオンの他に国土地理院ウォッちず2万5千分の1地形図併用をおすすめします。2万5千分の1地形図には森崎の表記がなく、字界も表示されていませんが、地形や集落への想像をかきたててくれます。

森崎は町村制が敷かれる明治22年以前は末前村の字(あざ)でした。角川地名大辞典によると、末前村の字(あざ)は七滝・青倉・立腰・日影山・森崎・末前・和山・鈴子沢の8字です。ただし、日影山は現在、日影と呼ばれているようです。ちず丸は この8字名を全部表示していまが、ウォッちず2万5千分の1地形図は森崎・日影・和山の3字名を表記していません。2万5千分の1地形図の集落名表記は、地籍の上で存在するかどうかではなく、地図の上で集落としての図形が確認できるかどうかで決まります。ですから、家屋が存在しない字(あざ)の名称は表記されず、家屋が少ない字(あざ)も名称表記がされないことがあります。また、ひとかたまりの集落に見えても、複数の字(あざ)に跨がっているものが多々あります。この場合、すべての字名を表記すると繁雑になり、等高線・河川・道路・家屋・植生などの表示に悪影響をおよぼすので、代表的または総称的な地名のみを表記し、他は省略します。

森崎が2万5千分の1地形図に表記されなかった理由は、家屋が少ないことに加え、中心集落の末前と ひとかたまりの集落とみなされ、省略されたからではないかと思います。世に出回っている多くの地図は、国土地理院の地図を基にして作られています。地理院2万5千分の1地形図に記載されない地名は、他の地図にも記載されないことが多くなります。森崎もその例でしょう。

末前村の字だった森崎は明治22年、末前・田老・乙部・摂待の4村合併で田老村(後に田老町となる)が成立すると、田老村大字末前の小字になりました。住所は昭和59年まで田老町大字末前第5地割字森崎○○番地と表記していたようです。昭和59年に字(あざ)の名称変更があり、大字末前第5地割の字句を外して田老町字森崎になりました。この名称変更に関する資料が見つかりましたので貼っておきます。その後、平成17年に田老町は宮古市・新里村と合併し、田老町字森崎は宮古市田老森崎となって現在に至っています。
[75490] 2010年 7月 17日(土)17:05:46千本桜 さん
間違い探し
[75488] 白桃 さん
東かがわ市の合併等の経過図ですが、一部が間違っていますね。
横レスをお許しください。福栄村を構成する入野山村が記載もれですね。

三本松高校の同級生だった市長に言っとこう・・・
この系統図を東かがわ市の市長に見せて、間違い探しをしてもらいましょう。ヒントなしで一瞬に間違いを探し当てたら、頭をなでなでしてあげて下さい。そのとき、ついでに次のことを市長に質問して下さい。
「中筋地区と三本松地区の家並は連続状態ですから、中筋○○番地を三本松○○番地に改めましょうよ。中筋なんて田舎臭い大字名を捨て、都会的な三本松を名乗らせてやれば住民は喜びますからね」。これに対して「いいアイディアだ!」などと乗って来たなら、頭をゴッツンしてやりましょう。藩政村が大字として継承されてきた歴史の重みを認識させましょう。
東北地方の某町では、住所政策担当者にこの認識が足りません。藩政村とか大字の歴史を知っている住民はいないから、大字の名称や領域を変更しても良いのだそうです。変な理屈ですね。
[75322] 2010年 6月 8日(火)22:02:35千本桜 さん
サントス生まれの編集者が選ぶ福岡県の三都市
茨城県:水戸、土浦、日立
(たとえ時代遅れといわれても、まだ この3都市に執着します。“つくば”をいまいち理解できていないからかな)
埼玉県:さいたま、熊谷、川越
(さいたまは浦和それとも大宮?、それが第3位選びに少し影響しますが、川越が伝統の重みで所沢を押し倒し)
千葉県:千葉、銚子、館山
(千葉県の形状を思うと銚子、館山を配置したときが最も安定感を感じます。柏、船橋ごめんなさい)
新潟県:新潟、長岡、上越
(第2位長岡、第3位上越、ともに順当かと思います)
岐阜県:岐阜、高山、大垣
(第2位は岐阜の勢力が及ばない高山。第3位は大垣と多治見が決戦して大垣に)
静岡県:静岡、浜松、沼津
(沈丁花は枯れても香しという諺は沼津のためにあるような)
愛知県:名古屋、豊橋、岡崎
(第2位はすんなり豊橋に決定。第3位は岡崎と豊田が決戦の末に岡崎の判定勝ち)
兵庫県:神戸、姫路、豊岡
(第2位は迷わず姫路。第3位は独自の都市圏を形成し小粒でもピリリと辛い豊岡。尼崎、西宮ごめんなさい)
福岡県:福岡、北九州、久留米
(サントス生まれでトスマニア島育ちの編集員は福岡、北九州、鳥栖を選びました。いくらトスマニアでも、やりすぎでしょう。でも鳥栖は福岡県三都市の一つに選ばれて喜んだそうです。唐津は福岡県三都市から漏れてがっかり。佐賀県って・・・)
[75311] 2010年 6月 7日(月)08:35:41千本桜 さん
Re:県下三都市決定戦
[75271]で書いた
広島県には3つの都市を記載して広島県であることを伝えようとしています。広島、福山、もう1つはどこでしょう。
答えは廿日市でした。

[75306] 白桃 さん
以下の9県で3つの都市をお選びください。
時間がないので取り敢えず、番外・大阪府の「酒の肴編」です。
市りとりマニアの編集者は大阪府の地図に大阪、門真、松原の3都市を表記しました。これにクレームをつけたのは先輩編集者でした。3都市が近くに固まりすぎているというのです。そこで先輩編集者は手本を示しました。いいか、よく見ておけ。大阪府全体を見渡して摂津、和泉、河内の3国にそれぞれ1都市ずつ配置するのがベストなんだ。そして大阪、貝塚、河内長野を選びました。どうやら、この先輩も市りとりマニアだったみたいですね。こんな末期症状の地図編集現場を見て、堺、岸和田、高槻、枚方の面々は、あまりのばかばかしさに第2都市、第3都市に立候補するのをやめたそうです。


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