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北の住人さんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[46255]2005年10月28日
北の住人
[46250]2005年10月28日
北の住人
[46207]2005年10月26日
北の住人
[45562]2005年10月10日
北の住人
[45113]2005年9月24日
北の住人

[46255] 2005年 10月 28日(金)14:18:51北の住人 さん
北海道の国
[46207] の追加
1897(明治30)年の郡役所廃止、支庁設置で行政区画としての意義を失った北海道の「国」(詳しくは[46203] Issie さんの説明をご覧下さい)ですが、郵政と鉄道には位置を示すために残った様です。
郵政関係は調べていませんが、手元に鉄道関係の資料があったので紹介します。

支庁設置前である1896(明治29)年の「北海道鉄道敷設法」で北海道の場所を表すのに「国」を用いていますが、1922(大正11)年改正の「鉄道敷設法」でも「国」を使って場所を表現しています。この法律はその後幾度か追加があり、1953(昭和28)年の時点でも、「国」を使っているようです。1961(昭和36)年の追加では「国」は使ってないようです。(法律の原文は読んでません。)

なお、1862(明治25)年公布の「鉄道敷設法」は本州、四国、九州が対象なんですが、ここに出ている地名は「国」を用いず「府」「県」を使っています。1922(大正11)年改正の「鉄道敷設法」でも同じで、「国」を使っているのは北海道のみのようです。
[46250] 2005年 10月 28日(金)11:46:04北の住人 さん
北広島
[45562]北広島調査の続き
地元の「北ひろしま郷土史研究会」という団体が出している本を数冊読んでみましたが、地名「北広島」についての話題は見つけることができませんでした。で、こんな話やあんな話を。

エピソード1 明治期の村設定時に、当時の北海道長官が開村の功労者である和田郁次郎の姓から「和田村」と命名したが、本人が固辞し出身地由来の「広島村」となった。

エピソード2 開村当時に飛来した丹頂鶴を明治天皇に献上。しばらく宮中(皇居のことか?)で飼われていた。当時は、丹頂鶴が石狩平野にも棲息していた様子。 

エピソード3 義経の宝が北広島の山中にある!大正期以降、何人かが探索しているがいまだに見つかっていないようです。義経伝説、北海道の海岸部にいくつかありますが、札幌の隣町にも義経が現れていたとは知りませんでした。私も、そのうち地図を入手してお宝でも探そうかと。最近の雑誌に埋蔵金探知機を譲りますなんてのを見ましたが、そんなに高くはないようで、宝が見つかったら十分元が取れます。

鉄道関係の資料に「鉄道敷設法」(大正11年改正)というのがあったので、北広島の辺りを確認しましたが、計画線では村の名称「広島」を使っていました。ただし、胆振国広島となっているのが妙なんですが。当時の計画では、現石勝線は広島から追分方面に分岐してます。というよりも、白石―広島―追分の路線で、分岐は広島―苫小牧という表現ですが。(現千歳線の開業は大正15年)
[46207] 2005年 10月 26日(水)23:41:00北の住人 さん
北海道の国名設定
[46127] デスクトップ鉄 さん
[46176] オーナー グリグリさん
[46203] Issie さん
北海道大学附属図書館資料の閲覧サイトにこんなのがあります。
明治2年の国名ノ儀ニ付申上候書付北海道々国郡名撰定上書郡名之儀ニ付申上候書付(いずれも松浦武四郎)
私には訳すのが難しいですが、「国名ノ儀ニ付申上候書付」の冒頭数ページに北海道に国を置く必要性などが書かれており、68州に匹敵し広大である、壱岐・対馬なども68州の内に入っている、諸外国の侵略を食止める必要もある、というような内容のようです、多分。

また、国の範囲と命名についての説明もあります。釧路、根室、石狩、天塩、十勝については、多分、その地方の中心であった江戸期の「商場」「場所」(交易場のようなもの、名称の元はアイヌ地名)を採用し、漢字を当てている様です。分らない漢字があったり解像度が低いので詳しく読んでませんが、内容は、「北海道の支庁名の由来」の通りだと思います。

角川日本地名大辞典によると、釧路市、根室市、石狩市、天塩町の命名も、もとをたどれば「場所」名から来ているようです。北見市は「北見地方(網走支庁管内の通称、由来は北見国?)」から、日高町は「日高山脈(由来は日高国?)」から取ったようですね。
[45562] 2005年 10月 10日(月)15:56:57北の住人 さん
北広島
[44907] 北広島調査の続き
広島町で出している資料をいくつか調べた所、’84年広島町勢要覧に
 『国鉄の駅や道営団地などの名称として用いられている「北広島」は、広島町の俗称として使われており、本来は広島県と北海道の広島町を区別する意味から、そう呼ばれ始まったものです』
との記述を見つけました。ただ、広島村時代のを含め、他の年度の要覧を5、6冊見ましたが、このように記載されているのはこの年度だけでした。’84年は昭和59年であり、北海道大百科事典(昭和56年)の影響を受けているかもしれません。

「広島町を北広島市とする事についての申請書」(市制施行の前年度に作成されたと思われます)に、市名選定の理由が次のように載ってます。
『「広島」という名称は、明治26年12月月寒村から分離独立するに当たり、村の中心である東部地区へ入植し、開拓に功労のあった和田郁次郎ら団体移住者の出身地である広島県の名を採り、新村名として「広島村」と名付けられたことによります。その後、昭和43年の町制施行により、「広島町」として継承されてきました。
 このように「広島」の名称は、歴史的にも極めて意義深いものがあります。このことから、まず「広島」を選定することにしました。
 次に、他市の名称との混乱を避けるため、北海道の「北」を「広島」の上に冠し、「北広島」としました。
 現在のJR駅は、大正15年8月に北海道旅客鉄道株式会社が札幌-沼の端を開通させるに当たり、広島県の「広島駅」と区別するため「北広島駅」とした経緯があり、又、北海道立高校の校名や各企業、事業所の本支店名に「北広島」という名称が広く使用され定着していると言えます。』

この文の冒頭にあるように、村の中心(字広島)は「東部地区」と呼ばれています。広島村は南北で分けるのではなく、東西で分けるのがいくつかの資料を読んだ上での印象です。この点からも、入植地の北部を北広島と呼んだのかが疑問となるわけです。
「北広島」の地名、おそらく、道立北広島団地ができ流入する人口が増え、特に広島町以外の人との会話の中で一般化されたのではないでしょうか。
他にも資料文献ありましたので、多分、調査はまだ続きます。余談ですが、現在の「北広島インター」は、開設当時は「大曲インター」と呼ばれていました。
[45113] 2005年 9月 24日(土)07:15:03北の住人 さん
きのこのこのこ
[45091] じゃごたろ さん
[45098] eiji_t さん
「舞茸」、私の辞書では、その形が「舞っているような観を呈する」とあります。今昔物語には、他に、平茸にあたって死んだ人(藤の木に生えていたのを食べたようですが、藤は北海道では自生していない?)と食べてもあたらない人の話、藤原の陳忠という信濃の守が谷底に転落する途中の木に平茸を見つけ採れるだけ採ったが、採れなかった残りを惜しんだという話もあります。

天然ものではありませんが、舞茸は我が家でも、味噌汁の具としては「なめこ」と肩を並べています。「しじみ」は「あさり」にその座を奪われました。洋食にも使える他、安いのが原因のようです。
私の幼少のかすかな記憶では、おそらく家の周辺の林にあった「ぼりぼり」「らくよう」なるキノコを食していたのですが、いまではそのようなキノコを見ることは無くなりました。
道の駅などで最近良く見かけるのは「カバノアナタケ」ですが、北海道だけの現象でしょうか。

一昨日の新聞によると、札幌には「藻岩山きのこ観察会」という団体があり、キノコの採取、鑑定を定期的に行っているとか。住宅地近くである、藻岩山、旭山公園で、ある日の採取したキノコは2時間で100種類近く。欧米では高級食材であるものが自生しているという話も。


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