拙稿
[88714]で
白桃さんの北九州市の人口推移の話にも反応したくて文章作成にかかりましたが、長くなりそうだったので項を改めます。
と、したためたものの時間が取れずに今になってしまいました(^^;
[88703]白桃さん
人口面で見る限り、小倉の一人勝ちで、門司以上に割りを食っているのが戸畑です。北九州市が成立して52年、都市機能の分化が進んだ今、旧市間の対立というものは無いのでしょうが、もし、もし、たら、れば、五市が合併していなければ、これほど人口の差は生じなかったでしょうね。
うーん、一概にそうとは言い切れないかもしれません。
北九州市は、発足からしばらくは絶対的な中心地区をどことは打ち出さずに旧五市それぞれに中心性を持たせる「多核都市」政策を進めました。それがどう作用したのか。五市合併は良かったのか否か。各区の事情に触れながら考えてみます。
◇戸畑区・八幡東区
北九州市は工業都市と言われますが、中でも戸畑と八幡(東区)は八幡製鐵の企業城下町で「鉄の街」の様相を呈していました。その八幡製鐵は高度経済成長にあわせて堺・君津にも製鉄所を設け、さらに富士製鐵と合併して新日本製鐵(新日鉄)となり、会社における八幡製鐵所のウエイトは相対的に低くなっていきます。さらにエネルギー革命によって地理的優位もなくなり、設備の老朽化も手伝って昭和四十年代前半のピーク時には八幡地区に6基・戸畑地区に4基あった高炉も1978(昭和53)年に戸畑地区に集約され、その戸畑地区の高炉も1988(昭和63)年には1基体制に縮小されました。
この頃の北九州市を表すのキーワードとして盛んに使われたのが「鉄冷え」という言葉です。鉄冷えの影響をモロに受けた戸畑区・八幡東区の人口減少と街の地盤沈下は五市合併ではなく新日鉄が大きく絡んでいると言えるのではないでしょうか。
ここで、戸畑区について擁護させてください。戸畑区の人口は現在5万8千人と大きく減らしましが、それでも面積が16.61km2と狭いので3537人/km2の人口密度を有します。そして、その狭い区面積の半分近くは製鉄所の敷地が占めているのでその分を除くと7000人/km2近い人口密度を有することとなるのです。ピーク時の北九州市発足の頃には11万人弱の人口であったといいますから、この頃の実質的な人口密度は…
かつてが尋常でなかっただけで今が健全な姿なんです、なんて言ったら負け惜しみなのでしょうか(^^;
◇八幡西区
同じ八幡でも西区は少し事情が違います。
八幡市に編入されるまで黒崎町だった地域は、洞海湾に面した海沿いに工場集積があります。これらは三菱化学・安川電機・黒崎播磨に代表される非製鉄系の工場で、そのため鉄冷えの影響は限定的でした。宿場町に端を発した黒崎は商業集積もあり、次第に北九州市の副都心としての立場を確立します。しかし平成になってからの三菱化学の縮小などで街に勢いがなくなり、特に2000年のそごうの閉店以降は急激にさびれてしまいました。
それでも八幡西区の人口が微減で留まっているのはベッドタウンとして区の南部が開けてきたのが比較的近年であることと、学園都市という顔もある折尾がまだ踏みとどまっているからと考えます。
◇門司区・若松区
八幡・戸畑が北九州市発足後人口を減らしたキーワードは工業としたが、門司・若松は「港」でしょうか。
まず門司。門司と聞けば「貿易港としてかつて栄えた」「(その遺産を活かした)門司港レトロ」など、港町の風情を思い浮かべる人が多いかと思います。確かに門司はかつて港湾都市として隆盛しました。区東部、いわゆる門司港地区の門司町は五市の中でトップを切って市制施行、門司市は上水道の整備も北九州市域で最初でした。大正~昭和初期には先進的なオフィスビルが立ち並び活況を呈していましたが、昭和17年に関門鉄道トンネル開通したことと、終戦と同時に貿易港としての立ち位置を追われたことで、門司の港町としての繁栄は終わります。代わって戦後は西部の「大里(だいり)」地区が台頭。大里は小倉のベッドタウンとして、また、門司機関区を有した鉄道のまちとして開けてきます。人口も増加傾向にありましたが、機関区は国鉄の合理化とともに縮小し、現在は住宅開発されたのが早かった分だけ高齢化も早く進行し人口流出が進んでいます。
次に若松です。若松は石炭の積出港として栄えます。が、エネルギー革命で筑豊の炭坑が次々に閉山すると若松もエネルギーがなくなってしまいます。ただ、北九州市発足前年の1962(昭和37)年に若戸大橋が開通し、五市のなかで陸の孤島にならずに済んだことは幸いしました。
◇小倉北区・南区
一人勝ちの小倉ですが、もしかすると五市合併がなければ小倉はもっと伸びていたのではないかという気がします。
城下町小倉は明治維新以降は商都として発展、戦前は小倉造兵廠や師団が置かれて軍都の一面も持ちます。戦後も商業集積が進み、北九州地域の中心都市としての機能していきます。一方で住友金属小倉製鉄所や東陶機器をはじめ工業集積もあり都市としてのバランスも取れていました。このまま行くと北九州地域のなかで小倉一極集中になっていくのではないか…というところで五市合併の機運高まり北九州市発足となるのです。
新幹線の駅ができても、小倉は思ったほどの伸長はありませんでした。市制施行25年後の1988(昭和63)年に、多核都市政策を見直して小倉を都心・黒崎を副都心と明確に位置付けた政策「北九州市ルネッサンス構想」が発表されましたが、当時の北九州市は産業構造の転換に乗り遅れて体力を失っており、加えて福岡市が九州の中心としてめきめき力を付けている時期で、小倉にとっては「時すでに遅し」でした。
◇総括
北九州市のこととなると熱くなってしまい、さしたるデータもなく主観的なことを長々と書き連ねてしまいましたが、私のなかでは「五市合併はした方がしないより少しはマシだった」という結論に行き着きます。
合併以前の問題として門司・八幡・若松・戸畑の四市は斜陽が必至の情勢でした。小倉には気の毒ですが、五市合併後に北九州市がしばらくは多核都市路線を取ったことで極端な置いてきぼりを食らった市が出なかったことは幸いだったといえるかもしれません。
最後に、(以前に拙稿
[46217]で記したことがあるのですが)西日本シティ銀行の『ふるさと歴史シリーズ』を紹介させていただきます。
「博多に強くなろう」と「北九州に強くなろう」の二つのシリーズがあり、各テーマゆかりの人と銀行幹部とで対談を行い、小冊子にして配布しているものです。1999(平成11)年に発行された、
「北九州に強くなろう」No.12・五市合併が合併の経緯やエピソードを面白くまとめてありますので、古いもので恐縮ですが興味がある方はぜひご一読ください。