[34483]NTJ会長 さん
「御成街道」という道で、船橋市から東金市までを一直線に結んだ、旧街道です。
[34502]Heimskringla さん
直線道路の裏に権力あり
これらの記事から思い出したのが「行幸道路」という言葉です。
1937年、陸軍士官学校の卒業式に“大元帥陛下”が行幸されるために突貫工事で作られた道が、現在も「行幸道路」と呼ばれています。横浜線原町田駅(現在の町田駅よりも少し南)に作られた宮廷ホームと、この卒業式に際して命名された「相武台」とを結ぶ道路です。
フランス式彩色地図の右上「原町田村」から、左下「至厚木町」まで続いている道を改修したものですが、完全な直線道路ではありません。現在の神奈川県道51号町田厚木線。
その「相武台」ですが、「座間」から改称した小田急の駅名が「士官学校前」だった理由として、“天皇から下賜された名前(
同台経済懇話会の会名の由来参照)だから民間が使うことは許されなかった”という説を聞いたことがあります。結局は防諜上の配慮?から「相武台前」になった
[28850]ことからも、駅改称が相武台命名より先だっただけというのが真相でしょう。
それはともかく、駅名に使われたことで、士官学校が「キャンプ座間」になってしまった後も通称地名として生き残り、遂には相模原市と座間市との行政町名として正式な地名になりました。
「相武台前駅」が先にあって、「相武台」という地名が後からできたことになります。
これと逆のケースですが、能登の総持寺祖院の門前町が「門前」という地名で定着したために、本家の方が「門前総持寺」と通称されるようになってしまったことを連想しました。
相武台と同様に行幸があったと思われる「修武台」(航空士官学校、現在の入間基地)に通じる国道463号も「行幸道路」と呼ばれるような気がしたのですが、検索してもヒットしません。
上野恩賜公園行幸道路:これは知りませんでした。
皇居から和田倉門を通って東京駅に伸びる幅員73mの銀杏並木の道は「御幸通り」です。銀座は「みゆき通り」。
武蔵野の雑木林の間に建設された中央線(東中野~立川間は本州最長の直線区間)のような例もありますね。開業時は私鉄(甲武鉄道)でしたが。
1888年、武蔵野の地図上に豪快な直線を引いた人物は、広軌(標準軌のこと)改築を含む鉄道改良論を推進したことで知られたカミナリ親父・仙石貢でした。
彼は官鉄の技師ですが、技術者の少なかった明治時代には、日本鉄道や甲武鉄道のような私鉄も、官鉄の技師の手により建設がなされました。本業の官鉄では、碓氷峠のアプト式を提案しています。後に筑豊鉄道、九州鉄道の社長として、九州の鉄道を改良。1925年の自動連結器取付工事の時は鉄道大臣でした。
中央線ほどの長さはありませんが、武蔵野では、小田急(世田谷代田―喜多見)にも直線路があります。
相模野を貫いて建設された 横浜鉄道(原町田―橋本、現在はJR横浜線)や小田原急行鉄道も直線路です。小田急(相模大野―座間)と並行する行幸道路よりも先輩です。
この原町田―橋本間は、1917年 横浜鉄道買収の直前に、鉄道院がその線路を借りて 広軌改築試験を行なった場所です。この時の総裁は後藤新平で、工作局長が島安次郎。
後藤・仙石・島の悲願の広軌化は実現しませんでしたが、彼らの後継者・十河信二が国鉄総裁の時、島秀雄技師長の手によって、標準軌の東海道新幹線が実現することになりました。
今月のはじめは、市町村合併やオフ会があって慌しく、関係する記事がなかったように思いますが、この 10月1日が、東海道新幹線開業 40周年だったのですね。
【2】鉄道改良史関係の記載を補足。