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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[36355]2005年1月3日
hmt
[36682]2005年1月11日
hmt
[57874]2007年4月8日
役チャン
[57891]2007年4月9日
hmt
[57904]2007年4月10日
役チャン
[89254]2015年12月6日
hmt

[36355] 2005年 1月 3日(月)17:00:04【1】hmt さん
「稲むらの火」
インド洋大津波で思い出したのが「稲むらの火」の物語です。
家でこの話題を出したが、正月の休みで帰ってきた息子たちは、この物語を知りません。
私に限らず、昔の子供の頭には、津波の脅威を教えるこの貴重な事例が、学校教育の場で刷り込まれていたのに。参考

防災教育の教材として高く評価できるこの話が、教科書から消えてしまっているのは残念なことですが、稲むらの火HP防災システム研究所によって紹介されています。

せめて、落書き帳のみなさんには知っておいていただきと思い、書き込みました。
舞台は醤油発祥の地・紀州湯浅の近く廣村(現・広川町)です。一応、要約しておくと、安政南海地震(1854年)に伴ない発生した津波の際に、「稲むらの火」で村人に危険を知らせ、大勢の命を救った濱口儀兵衛の行為を伝えたものです。

濱口儀兵衛は銚子のヤマサ醤油の七代目当主で、社会事業や政治にも貢献した人です。地震の前には現・耐久高校の前身を創立。
彼は、地震の際のとっさの判断で人命を救っただけでなく、地震の後には私財で大防波堤を建設し、津波により職を失った人を助けました。そして第2次大戦直後の1946年、またも南海地震津波が起こった時には、この堤防が住民を守りました。
現在は、この昭和南海地震からも60年近くたち、次の南海地震が近づいています。
もちろん、安政以来150年経った東海地震も。

「稲むらの火」の場合は、引き波によって予想できた津波でしたが、いきなり押し波で来る津波もありますから注意。
参考までにスマトラ沖地震・津波災害の情報
[36682] 2005年 1月 11日(火)17:49:19hmt さん
津波被害地の復興劇
[36632] 2005 年 1 月 10 日 (月) 16:23:15 YASU さん
和歌山県湯浅町と広川町の市街地は一体化していますね

[36355]で紹介した「稲むらの火」の舞台です。
明日(1月12日)、NHK の「その時歴史が動いた」で、この話が放送されます。
広川町は、昭和の南海地震でも津波に襲われましたが、安政地震津波を教訓として濱口儀兵衛(梧陵)が私財を投げ出して築いた廣村堤防のおかげで 中心地が浸水を免れ、被害が少なくてすみました。
[57874] 2007年 4月 8日(日)11:50:02役チャン さん
(続)1枚の写真に2つの役場
やっと撮れました。

ちょうど1年前、長野県の豊丘村と高森町の両役場間は直線距離は2キロくらいで庁舎を相互に見ることができると記したことがあります。[50789]拙稿
珍しい例なので、2つの庁舎を1枚の写真に写せるのではないかと豊丘村のほうで撮影ポイントを探して見たのですが、残念ながら適当なアングルは見つけられませんでした。しかし旧庁舎跡地というのがすぐ横にあり、今は更地になっていますが門柱だけは残っていていました。安いデジカメで正面からこれを撮ると豊丘村役場と書かれた門柱のはるか先に高森町役場がかすかに写っていました。

先週和歌山県の湯浅町と広川町に行ってきました。
「落書き帳・測量部」[39426] 音無鈴鹿 さん によると近さランキングでは4位だそうですが、ここではじめて1枚の写真に両役場を収めることができました。

湯浅駅周辺の地図
この両町は紀勢本線のいずれも湯浅駅近くで、広川という小さな川を挟んで市街地は繋がっています。湯浅の庁舎は東京オリンピック前後に建てたと思われるかなり古いもので、4階建てですがその頃の流行だったのかどうか消防署の望楼のような更に4階分くらいの高い塔屋が建っていました。これに対して広川の方は平成になって建てられたと思われる人口規模を越えた豪華なものでした。広川町役場の正面から写真を撮ると左奥に湯浅の塔屋だけが写っていました。
なおこの両町は今回の合併でも影響されず今後もそれぞれ単独の道を進むようです。湯浅から広川へ歩いた途中の狭い道には熊野古道という表示が出ていました。
[57891] 2007年 4月 9日(月)19:35:56hmt さん
醤油のふるさと・紀州湯浅
[57874] 役チャン さん
湯浅の庁舎は…4階建てですが その頃の流行だったのかどうか 消防署の望楼のような更に4階分くらいの高い塔屋が建っていました。

望楼らしい塔屋があるという記述に接して、ピンと来たのは、地震が起きた際の津波への警戒体制です。
紀州の湯浅町と広村(現・広川町)は、昔から何度も繰り返して起こった南海大地震による津波の被害を受けてきた歴史があります。
最近400年間を見ても、慶長10年(1605)、宝永4年(1707)、安政元年(1854)、昭和21年(1946)と、約100年毎に地震津波災害を被っており、次の南海地震の到来も、時間の問題とされています。

インド洋大津波(2004年12月)の後で、「稲むらの火」の物語を紹介しました。[36355]
これは、広村の濱口梧陵が、安政南海地震に伴なって起こった津波の「引き波」を高台から発見し、とっさの機転で稲むらに火を放って村人に危険を知らせ、多くの人命を救ったというお話です。
ラフカディオ・ハーンの英文の著作「A Living God」によって、この話を学んだ広村の中井常蔵が書いた文章が、戦前の 「小学国語読本」 と、その後の国民学校の「初等科国語」に収録され、昔は「国民の常識」になっていた話でした。

ところで、改めて 防災システム研究所 の記事を見ると、「稲むらの火」は、教科書の物語のように、村人に津波の危険を知らせる目的ではなく、暗い夜に逃げ道を教える目印だったようです。
実は 前日、嘉永7年11月4日(1854/12/23)10時頃には東海地震が起こっており、この時から津波襲来を警戒していました。
そして、30時間後の11月5日16時頃には南海地震が起こり、これが大津波をもたらしました。夜になっても逃げ遅れた人が多く、これを高台に導いて救うための目印の火でした。

# 11月に大災害に見舞われた嘉永7年は、師走に安政元年と改元され、歴史記録としては、東海地震・南海地震も「安政」になっています。実際には年号のような「安らかな政治」が実現したわけではなく、天災も終息せずに、翌年10月には安政江戸地震に襲われます。

話を「醤油のふるさと」に戻します。
鎌倉時代、紀州由良(紀州湯浅から熊野道を1里余南)の興国寺開祖・法燈國師覚心が南宋からもたらした金山寺味噌。
夏野菜を塩と麹で漬けた保存食品ですが、その「樽に溜まる液体」で食べ物を煮ると美味しいことから、わざと水分を多く仕込んだ「溜まり醤油」が湯浅で造られるようになったのが醤油の起源とか(紀伊国名所図会)。

現在でも、湯浅には醤油屋さんがたくさんあるようですが、全国的な5大メーカーは、東の野田と銚子(2社)、西の龍野と小豆島になっています。
その銚子のヤマサの主人が、「稲むらの火」の濱口梧陵で、広川をはさんで湯浅と町続きの広村の人でした。

一見離れているような紀州と銚子ですが、紀州から黒潮の道を進めば銚子に行き着くのですね。古くから漁民の漂着などを通じて交流の歴史があったものと思われます。
銚子最大の産業である漁業も、紀州から導入された技術でした。銚子の外川港を作ったのは、紀州出身の崎山次郎右衛門とのことです。

17世紀、江戸が日本の政治中心地になって大都市に発展すると、醤油の需要も増えましたが、初めは上方からの「下り醤油」が上物とされたのは「下り酒」など他の商品と同様でした。しかし、関東での現地生産品=「下らない物」も、こと醤油に関しては、やがて高い評価を得るようになりました。
それは、大豆や小麦の原料に恵まれていただけでなく、上方の醸造技術者が渡ってきたためでもありました。

紀州広村の濱口儀兵衛(初代)が銚子に渡り、ヤマサ醤油を創業したのは正保2年(1645)、3代将軍家光の時代でした。
少し後に江戸に出現した伝説的な豪商・紀伊國屋文左衛門も紀州湯浅の出身でした。
11月8日の「ふいご祭り」で撒く蜜柑が江戸にないと聞き、みかん舟を仕立てて時化の海に乗り出して名を挙げ、その後、材木で巨利を得たり、吉原での豪遊でも知られる人物です。

時代は下って、「稲むらの火」の濱口梧陵は、19世紀に広村の分家に生まれた人ですが、銚子の本家を継いで七代目濱口儀兵衛を名乗りました。
安政地震津波の後の復興、防潮堤構築にも尽力しました。安政5年に完成した 広村堤防 のおかげで、第二次大戦直後の昭和南海地震による津波の被害は、安政に比べて大幅に軽減されました。浸水範囲を比較した地図あり。

彼はもともと産業界の人ですが、時代の激流の中で大活躍しています。防潮堤構築等の社会活動については既に触れました。
教育分野では「耐久社」を設立。現在の耐久高校。
安政5年には、江戸の西洋医学所の火災に700両を寄付して再建しました。現在の東京大学医学部。
政治の面でも、和歌山藩の末期には、その勘定奉行を勤め、明治の新政府ができると大久保利通により初代の駅逓頭に任命されました。
しかし「郵政民営化論者」だった彼は、官営により急速に近代郵便制度を確立しようとする前島密と意見が合わず、早々と和歌山県知事に転じたそうです。小泉内閣メールマガジン
[57904] 2007年 4月 10日(火)18:38:05役チャン さん
飛び地の村
[57891] hmt さん
望楼らしい塔屋があるという記述に接して、ピンと来たのは、地震が起きた際の津波への警戒体制です。
大変興味深いご説明をいただきありがとうございました。それにつけても私の市町村めぐりは極めて表面的なことしかしていないと恥じ入るばかりです。

今回青春18切符を使い4日間で和歌山県と三重県の28市町村役所・役場(平成の合併以前のものを含む)に行ってきたのですが、恥かきついでに飛び地村である和歌山県の北山村に行った報告をさせていただきます。

ここに行くには三重県の熊野市から三重交通のバスが3往復、北山村営のものが2往復ありますが、時間の都合で前者を利用しました。しかしこのバスは正確には北山村に行くというよりも北山川対岸の熊野市郁生地区に行くもので、北山村内の一部を通りますが村役場のある大沼地区には行きません。だから対岸の大沼口というところで降り橋を渡って行かなければならず、役場までの700メートルを帰りのバスが来るまで16分の間に往復しなければならなかったので半ば走るようにしました。尤もすれちがう人など皆無でしたから年寄りの醜態を晒すこともなかったと思いますが。

飛地となった理由は、村役場のHPによると97%が山林のこの村は昔から林業で栄え、伐採された木材は筏によって木材集積地の新宮まで運ばれていた。当時は人口の大半を筏師が占め、彼らは新宮の木材業者との結びつきが強く、明治4年の廃藩置県で新宮が和歌山県に編入されたときにも村民の要望により和歌山県に編入されたとのことです。江戸時代には和歌山藩新宮領に属していたそうです。

人口は570人、北山川が作る斜面に沿って走る国道169号線沿いのわずかな平坦地に小規模な集落が点在するだけでした。中心になるのが大沼地区で、ここに役場のほか郵便局や農協、さらには商店や旅館などがあり、小学校と中学校もあります。北山小学校のHPによれば、2006年度の児童数は27人で内10人が6年生、30年以上前に村内に3つあった小学校が統合されたが1950年には263人の児童がいたそうです。

私がこの北山村の土を踏んでいたのは僅か16分間だけでしたが、熊野市駅前からここまでのバスの車窓はなかなか変化に富み楽しかったです。北山川の流域に出るには急峻な山を越えなければならず、小型バスがやっと1台だけ通れる正に羊腸の小径という言葉がぴったりの道が続きました。滅多にすれ違う車はありませんでしたが、普通のドライバーにとってはかなり難儀しそうな道でした。特に高齢になってからの運転はかなりむずかしいと思います。

長いトンネルを抜け北山川に出ると七色ダムがあります。面白いのは天端(てんば)というダム堤体の最上部は車がやっと1台通れる狭い道路になっていて、バスもそこを渡り和歌山県側の北山村に入るのですが、この部分は国道169号線です。天端が道路というのはよくありますが、国道というのは珍しいそうです。ふと全国ダム天端渡りに挑戦している人も居るのではないかなどと思いました。

ちょうど桜の時期で途中の熊野市神上地区などは那智黒石の産地だそうですが、3千本あるという桜が満開でそれは見事でした。特に廃校となった中学校の校庭に咲き乱れる桜は、木造校舎とよく調和し、わが世の春を忘れさせまいとしているかのようでした。

今回も事前の調査不足で後悔が多々ありました。せっかくこのような珍しい村に来るのならばせめて一泊するなど工夫が必要でした。役場でもらったパンフレットによると、観光筏まで送迎してくれるバスがあり、更に瀞八丁のジェット船に乗り継げ新宮までバスで行くこともできたようです。紀伊半島の山奥は地形が複雑で川の流れにも変化があり、地理的にも、景観上も実に面白いところだということを知りました。そして桜の季節がお勧めです。

なお交通案内や観光筏については北山村のHPに載っていました。北山村HP
[89254] 2015年 12月 6日(日)12:28:13【1】hmt さん
★祝★ 役チャン さん 「公共交通機関による役場巡り」目標達成
10年以上前、[42077] 2005年6月8日 役チャン さん の記事です。
私は「公共交通機関による全国市町村役所・役場めぐり」を行っています。
対象を平成の合併前の市町村+東京23区の3259としており(中略)
役所・役場めぐりについては100%達成を目指し今後とも進めて行くつもりです。

朝日新聞2015/11/30夕刊で 大目標を達成されたことを知りました。おめでとうございます。
大合併前の役所役場 3259カ所訪問 公共交通機関使い、29年かけ

電子版では省略されている部分があり、以下の引用部分は紙面に基づくものです。

>合併前の東京23区、671市、1990町、575村をすべて回ると決めた。

671市、1990町との記載から、基準時点が 1999年4月 篠山市合併 の後であることがわかります。
ひとつ解せないのが 575村でした。総務省資料 に示されているように、当時は568村だった筈です。【訪問不可能であり、地方自治法の対象外である北方6村を除外した数字】

それはさておき、旅を始めてから29年、目標設定から23年での成果に拍手。

>1年間に100カ所程度のペースだったが、退職翌年の05年は最多の331カ所を訪れた。

最初に引用した落書き帳デビュー記事は この頃だったのですね。

続いて、「公共交通機関では行けない役場」と題した、難件の岡山県旧中和村の事例紹介[42127]
3件目の[42478]で、著書『地理が面白い』のご紹介がありました。そのうちに続編が出るのでしょうか。

>最後の訪問は今年9月。船で片道26時間かけた東京都小笠原村だった。

役場巡りの仕上げは 飛び切りの舞台でしたね。
『時刻表2万キロ』の宮脇さん[88851]は、国鉄全線完乗の最後になった足尾線の冒頭で、もう少し情緒のある線区にならなかったことを悔いていました。

hmtとして印象に残っている記事は、[57874]で紹介いただいた和歌山県湯浅町の望楼を備えた庁舎です。
「稲むらの火」 [36355]で知られる安政南海地震津波に関係する話題でした。スレッド[57891][57904]

この安政南海地震発生は、 安政元年11月5日【天保暦】でした。
日本政府は、これにちなんで11月5日を「世界津波の日」という共通記念日にすることを各国に働きかけていました。
最新の報道によると、12月4日の国連総会第2委員会で この決議が採択されたとのことです。


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