前にも申したことがあるのですが,この季節,私たちの職場は超繁忙期です。
おまけに,来週はお仕事で沖縄へ行くこともあって,うちんとこのHPも放ったらかしです。
次回更新は4月1日頃を目標にしましょうか。
[38388] hmt さん
「まあるい緑の山手線」
最初に“刷り込まれた”影響が大きいですね。
さう。
おそらく,「山手線」をどう読むかと言う問題は,それぞれの人の「東京」との関わり方を映す鏡であるようにも思っています。
「トーキョー・ネイティブ」の人には「やまのて線」の方が親しいでしょう。
戦後の一定の期間に「山手線」に濃厚に接した人には「やまて線」の方が親しいかもしれません。
「やまのて線」が“公式に”「正し」くなったのは,私の小学生だった頃でした。
「やまて線」と「やまのて線」のどちらが親しいか,というのは面白いテーマかもしれませんね(既に,誰かが調査していそうな気がするけれど)。
[38371] 音無鈴鹿 さん
南豊島郡幡ヶ谷村は甲州街道以北ですけれど「渋谷区」ですねぇ。
や,うっかり。
そう言えば,十二社(←おや,MS-IME で「じゅうにそう」と打ったら出てこなかったぞ。…って,MS-IME が物知らずなのは今に始まったことではないけれど,現存行政地名でなければ,まあしかたないか…)から方南町へ向かうバスが通過する「本町」が,「渋谷区本町」であることを忘れていました。
…ところで,この「本町」とは,どこの「本町」なんでしょうねえ。
[38467] hmt さん
多摩
「三多摩」については,私も hmt さん と同じ感覚を持っています。
直接には神奈川県から東京府に移管された「西・南・北」の3郡を指していたところから始まるのでしょうが,より意味を持つのは,
東京府 ないし 東京都 の中で「東京23区」あるいは,その前身である1932年の市域拡張以降の「大・東京市」,さらに旧北多摩郡の砧・千歳両村を編入した世田谷区を含めて,この「区部」に対する概念ではないかと考えます。
さて、本題の川崎市多摩区。
ここは近世以降は武蔵国橘樹(たちばな)郡ですが、[2035] Issieさん によると、
さらに以前はこのあたりも多摩郡だったらしい
とあります。
とはいえ,問題の「多摩区」がここまで遡るか,というと,そうではないだろうなとも思います。
下流側4区の命名パターンからすれば,「稲田区」でもよかったような気がしますが,「生田」や「柿生/麻生」に対する配慮でもあったのでしょうかね。
日野市、多摩市、稲城市に続く多摩川南岸だし、ここの人達は南多摩との一体感があるかもしれません。
何回か触れていることですが,
現在,東京都の町田市に属している「三輪」地区が,このあたりの境界を錯綜させる原因の1つと言えるような気がします。
なぜここが「東京都」か,と言えば「三輪村」が近世以来「多摩郡」に属していたからです。
もし,ここが隣接する「岡上村」や「上麻生村」と同じ「都筑郡」所属であれば,自然と「柿生村」の一部となり,そのまま「川崎市」へ編入されたことでしょう。現在あるような 岡上 の「川崎市飛地」も生ずることはなかったはずです。
丁寧なことに,町田市(旧南多摩郡鶴川村)の「三輪」と「能ヶ谷」の境界は,鶴見川の旧河道なのですね。
いや,それよりも,
三多摩が東京府に“奪われる”事件さえなければ,「同じ神奈川県」として“ボーダーレス”な交流が維持されたろうと思います。
そんな昔に遡らなくても、このあたりは「多摩丘陵」です。
地形区分にかかわる呼称と,行政区分とは必ずしも一致しません。
新潟県の長岡市街から見た「西山」は「刈羽郡」から「三島郡」に属していますが(間もなく長岡市と柏崎市になってしまうけれど…),地形の世界ではしばしば「頸城丘陵」に含まれます。
かつて「空知支庁(管内)」の東部山地に分布していた炭田は「石狩炭田」と呼ばれていましたね。「空知郡」(←上川支庁管内の富良野盆地も含む)もまた「石狩国」に属していたことによる呼称なのでしょうが,「石狩支庁」の管轄範囲で考えると,やや違和感を覚えます。
地形上の「多摩丘陵」には,保土ヶ谷・戸塚の国境(東海道の権太坂)や,鎌倉・金沢(六浦)間の朝比奈切通し周辺の丘陵地域まで,つまり武蔵の多摩郡を遠く離れて,都筑郡や久良岐郡,そして相模国の鎌倉郡にまで広がる範囲まで含まれることがあります。