都道府県市区町村
落書き帳

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[817]2002年2月5日
Issie
[38498]2005年3月11日
Issie
[68630]2009年2月16日
Issie
[69048]2009年3月29日
hmt

[817] 2002年 2月 5日(火)21:18:45Issie さん
Re:飛び地
> 2.東京都町田市に囲まれた神奈川県川崎市麻生区岡上

これは明治以来,この地区が麻生(あさお)区本体の柿生(かきお)地区とセットで扱われてきたからです。
まずその前に,現在では町田市は東京都で川崎市は神奈川県と,お互いに別々の都県に分かれていますが,1893年までは南は現在の町田市から西の奥多摩,東は現在の西東京市や世田谷区の千歳地区や砧地区まで,いわゆる「三多摩」は神奈川県でした。ただ,現在の町田市は南多摩郡,岡上を含めて現在このあたりで川崎市や横浜市になっている区域は都筑郡というように,両者の間には都県境ならぬ郡境が通っていました。

岡上地区は江戸時代以来,1878年の郡区町村編制も1889年の町村制施行も通して単独で「都筑郡岡上村」を構成していました。けれども,やはり極小自治体でしたから,村役場などは単独で設置せず隣接の町村と共同で設置することになりました。
もともと岡上村は北隣の鶴川村と一番結びつきが強いのですが,ここは南多摩郡でした(現在は町田市)。南隣の田奈村(長津田村+奈良村=現・横浜市青葉区および緑区)は同じ“都筑郡”なのですが,間にちょっとした峠があって(TBSの緑山スタジオやこどもの国の裏山)この2つの村はお互いに背を向けています(現在も)。そこで,岡上村は同じ都筑郡内で一番近い柿生村とペアを組むことになったのです。
1939年に横浜市が何度目かの市域拡張を行い,田奈村をはじめとする都筑郡の町村のほとんどは横浜市に編入されました。しかし,小田急沿線の柿生村と岡上村は横浜市には編入されず,同じ小田急や南武線(当時は私鉄の南武鉄道)沿線の橘樹(たちばな)郡の町村と一緒に川崎市に編入されました(このときに都筑郡と橘樹郡が消滅)。
そんなわけで,岡上地区はペアを組んでいる柿生村に引っ張られて,横浜市ではなく川崎市に編入されて飛び地となったのです。

むしろ問題は,岡上と柿生の間に挟まっている町田市三輪地区の方かもしれません。
幕末から明治にかけて,ここが(南)多摩郡であったために東京府となり,現在町田市がここに割り込んでいるのです。
ここが都筑郡であったなら,おそらくは岡上地区と一緒に柿生村の一部となり,そのまま順当に川崎市に編入されて岡上地区が飛び地となることはなかったでしょう。
この三輪地区の帰属が一番不自然なのですね。
[38498] 2005年 3月 11日(金)21:40:35Issie さん
多摩区
前にも申したことがあるのですが,この季節,私たちの職場は超繁忙期です。
おまけに,来週はお仕事で沖縄へ行くこともあって,うちんとこのHPも放ったらかしです。
次回更新は4月1日頃を目標にしましょうか。

[38388] hmt さん
「まあるい緑の山手線」

最初に“刷り込まれた”影響が大きいですね。

さう。
おそらく,「山手線」をどう読むかと言う問題は,それぞれの人の「東京」との関わり方を映す鏡であるようにも思っています。
「トーキョー・ネイティブ」の人には「やまのて線」の方が親しいでしょう。
戦後の一定の期間に「山手線」に濃厚に接した人には「やまて線」の方が親しいかもしれません。
「やまのて線」が“公式に”「正し」くなったのは,私の小学生だった頃でした。
「やまて線」と「やまのて線」のどちらが親しいか,というのは面白いテーマかもしれませんね(既に,誰かが調査していそうな気がするけれど)。

[38371] 音無鈴鹿 さん
南豊島郡幡ヶ谷村は甲州街道以北ですけれど「渋谷区」ですねぇ。

や,うっかり。
そう言えば,十二社(←おや,MS-IME で「じゅうにそう」と打ったら出てこなかったぞ。…って,MS-IME が物知らずなのは今に始まったことではないけれど,現存行政地名でなければ,まあしかたないか…)から方南町へ向かうバスが通過する「本町」が,「渋谷区本町」であることを忘れていました。
…ところで,この「本町」とは,どこの「本町」なんでしょうねえ。

[38467] hmt さん
多摩

「三多摩」については,私も hmt さん と同じ感覚を持っています。
直接には神奈川県から東京府に移管された「西・南・北」の3郡を指していたところから始まるのでしょうが,より意味を持つのは,
東京府 ないし 東京都 の中で「東京23区」あるいは,その前身である1932年の市域拡張以降の「大・東京市」,さらに旧北多摩郡の砧・千歳両村を編入した世田谷区を含めて,この「区部」に対する概念ではないかと考えます。

さて、本題の川崎市多摩区。
ここは近世以降は武蔵国橘樹(たちばな)郡ですが、[2035] Issieさん によると、
さらに以前はこのあたりも多摩郡だったらしい
とあります。

とはいえ,問題の「多摩区」がここまで遡るか,というと,そうではないだろうなとも思います。
下流側4区の命名パターンからすれば,「稲田区」でもよかったような気がしますが,「生田」や「柿生/麻生」に対する配慮でもあったのでしょうかね。

日野市、多摩市、稲城市に続く多摩川南岸だし、ここの人達は南多摩との一体感があるかもしれません。

何回か触れていることですが,
現在,東京都の町田市に属している「三輪」地区が,このあたりの境界を錯綜させる原因の1つと言えるような気がします。
なぜここが「東京都」か,と言えば「三輪村」が近世以来「多摩郡」に属していたからです。
もし,ここが隣接する「岡上村」や「上麻生村」と同じ「都筑郡」所属であれば,自然と「柿生村」の一部となり,そのまま「川崎市」へ編入されたことでしょう。現在あるような 岡上 の「川崎市飛地」も生ずることはなかったはずです。
丁寧なことに,町田市(旧南多摩郡鶴川村)の「三輪」と「能ヶ谷」の境界は,鶴見川の旧河道なのですね。

いや,それよりも,
三多摩が東京府に“奪われる”事件さえなければ,「同じ神奈川県」として“ボーダーレス”な交流が維持されたろうと思います。

そんな昔に遡らなくても、このあたりは「多摩丘陵」です。

地形区分にかかわる呼称と,行政区分とは必ずしも一致しません。

新潟県の長岡市街から見た「西山」は「刈羽郡」から「三島郡」に属していますが(間もなく長岡市と柏崎市になってしまうけれど…),地形の世界ではしばしば「頸城丘陵」に含まれます。

かつて「空知支庁(管内)」の東部山地に分布していた炭田は「石狩炭田」と呼ばれていましたね。「空知郡」(←上川支庁管内の富良野盆地も含む)もまた「石狩国」に属していたことによる呼称なのでしょうが,「石狩支庁」の管轄範囲で考えると,やや違和感を覚えます。

地形上の「多摩丘陵」には,保土ヶ谷・戸塚の国境(東海道の権太坂)や,鎌倉・金沢(六浦)間の朝比奈切通し周辺の丘陵地域まで,つまり武蔵の多摩郡を遠く離れて,都筑郡や久良岐郡,そして相模国の鎌倉郡にまで広がる範囲まで含まれることがあります。
[68630] 2009年 2月 16日(月)23:32:14Issie さん
飛び地「岡上」
下の書き込み([68629])のついで。

ずっと以前,川崎市の飛び地として有名な 岡上地区 について,
“背中合わせ”で隣接している 旧・田奈村(現横浜市青葉区) よりも,間に東京府(都)の 旧・鶴川村(現町田市) をはさんだ 旧・柿生村 との結びつきが強くて,そのせいで柿生村ともども川崎市に編入されて飛び地となった。むしろ,間にはさまった鶴川村(町田市)の 三輪地区 が(南)多摩郡に属していることが不思議…
という意味の書き込みをしたことがあります。
これに関連して,「新編武蔵」の 都筑郡・岡上村 の項に以下のような記述がありました。

--------------------------------------------------------------------------------------
岡上村は、本郡の西にありて、東西北の三方共に多磨郡に接せり、古(いにし)への事は伝へざれど、正保の頃は多磨郡に属し、元禄に至(いたる)も猶(なほ)多磨郡に属せしと云(いふ)、されど村内の東光院慶安年中の御朱印には、都筑郡の内とあれば、両郡接地なるゆへに未(いま)だ本郡に入らざる前に,たまたまかく唱へしこともありしなるべし、土人の伝へは多磨郡に属すといへば、慶安中は多磨に属せしやもしるべからず、或(あるい)は本郡にも随(したが)ひ、近き頃は当郡に附せしと云、村名の起りは詳(つまびらか)にせずといへども、岡上氏の住せし所などにや、……
--------------------------------------------------------------------------------------

というわけで,江戸時代の初め(正保年間=3代家光の時代)は 多磨(多摩)郡 の所属で,元禄年間(5代綱吉の時代)もそうだったらしい。ただし,慶安年間(家光~4代家綱の時代)に「都筑郡」としたものもあるけれど,それは「たまたま」。ともかく,最近(というのは江戸時代の後半)には都筑郡となっていた,ということですね。
三輪村 だけでなく 岡上村 も多摩郡,ということであれば,それはさほど不自然ではないかな。
でも,何で 岡上村 だけが都筑郡に所属替えになって,三輪村 が多摩郡に残ったか,という疑問は残りますけれど。
[69048] 2009年 3月 29日(日)12:52:18【1】hmt さん
「飛び地」の魅力 (12)内陸型飛び地・川崎市麻生区岡上
[69040] Issie さん
ノルマン朝は当然にイングランドの王家ではありましたが,大陸,つまりフランスではあくまでも「フランス王」であるカペー朝の歴代王の“家臣”でありました。

琉球王国を征服した島津家が、日本では徳川家に臣従していたようなもの? 
あちらさんは本拠地をイギリスに移したのに、こちらではあくまでも薩摩が本体という点は大きな違いですが。

ジョン・バ・イッシー

飛び地の話題からウィリアム征服王、ジョン失地王を経て Issie さんと「ご同名」の王様の話になるとは、意外な展開。
雑談の醍醐味ですね。

本筋の飛び地。
「飛び地」には、本体に対する飛び地だけでなく、天草上島の例で見たような「分体の飛び地」もあることがわかりました[69038]
これまで、飛び地に対する「親」の地域を本体と呼んできましたが、自治体の中で人口最大の地域でない分体についても、飛び地の存在を認めることにしたいので、飛び地域に対する本地域という意味で、「本域」と改めます。

「親」の地域である本域との関係に注目すると、飛び地は、以下の3分類に改めた方が適切と思われます。

内陸型 = 飛び地が内陸であるもの。本域は内陸・沿海の区別不問。
市浦(しうら)型 = 飛び地は沿海で、本域は内陸のもの。
沿海型 = 飛び地と本域の双方が沿海であるもの。

2番目の命名は異質ですが、五所川原市 市浦にちなんだものです。さしあたり思いつく類例としては、隣接した 中泊町 小泊がある程度です。共に2005年津軽半島で誕生。

内陸型飛び地に入ります。
そのトップスターとして挙げたいのは、川崎市麻生区の 岡上 です。過去記事
これは、昭和14年に行なわれた横浜市第6次(17町村編入)・川崎市第6次(2村編入)の市域拡張の際に行なわれた、都筑郡岡上村の 川崎市 への飛び地合併で生まれたものでした。

【追記】
むじながいり さん の パラパラ地図神奈川県 をリンクしました。
第6次市域拡張のあった1939/04/01と、その直前(1938/10/01)とを対比してください。

改正新旧対照市町村一覧(1913) で岡上村を見ると、役場は 柿生 と記されています。
現在は「おかがみ」と呼んでいるようですが、「ヲカノボリ」というフリガナが付いていました。

岡上村が 柿生村とのペア を組んだことは、既に [817]Issieさん によって紹介されています。
明治22年の町村制で組合役場を作った鶴川(鶴見川)流域の都筑郡柿生・岡上の2村ですが、間にある南多摩郡鶴川村(能ヶ谷、三輪)の領域により隔てられた「飛び地組合」でした。
現在の飛び地の淵源は、都筑郡の間に南多摩郡が入り込んでいた行政区画にありました。

もっと遡れば、江戸時代初期には多摩郡だったらしい岡上村が、都筑郡に移ったのが遠因だそうで[68630]

南多摩郡鶴川村の前身である小野路村や野津田村のことは、[33902]で書いたことがあります。
鶴川村になって4年後の明治26年には 東京府に移管され[33700]、岡上村から 役場のある柿生村に行くには 東京府経由ということになってしまいました。
# 東京府になって2年後の1895年、鶴川村の小島鹿之助(近藤勇の後援者で義兄弟)に孫娘が生まれました。私の母です。大昔のことを書いているようでも、私にとっては、ある程度は身近に感じることのできる時代と地域なのでした。

この地域は、かつて「禅寺丸」という小さな甘柿の産地でした。柿生という村名は、これに由来。現在は小田急の駅名。
子供の頃はよく食べたものですが、もっと見栄えの良い大きな柿が市場に出回っている現在、禅寺丸を口にする機会はなくなりました。

飛び地の岡上村に話を戻すと、1939年の横浜・川崎の市域拡張の際に、低い分水嶺を介して背中合わせ(こちらは鶴見川支流の恩田川流域)の田奈村[34657]と共に横浜市に合併すれば飛び地が解消したのでしょうが、組合役場時代の飛び地状態を維持したまま、川崎市への合併という結果になったのですね。

本域の川崎市は、もちろん沿海ですが、岡上飛び地の淵源は柿生組合村の飛び地であり、本域側が 1939年に大きな川崎市の一部となって海に面したことが、岡上飛び地に影響を及ぼすこともありません。
今回改めた分類で、「内陸型」の本域につき それが内陸であるか沿海であるかの区別を不問 にしたのは、このような理由によるものです。


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