[69040] Issie さん
ノルマン朝は当然にイングランドの王家ではありましたが,大陸,つまりフランスではあくまでも「フランス王」であるカペー朝の歴代王の“家臣”でありました。
琉球王国を征服した島津家が、日本では徳川家に臣従していたようなもの?
あちらさんは本拠地をイギリスに移したのに、こちらではあくまでも薩摩が本体という点は大きな違いですが。
ジョン・バ・イッシー
飛び地の話題からウィリアム征服王、ジョン失地王を経て Issie さんと「ご同名」の王様の話になるとは、意外な展開。
雑談の醍醐味ですね。
本筋の飛び地。
「飛び地」には、本体に対する飛び地だけでなく、天草上島の例で見たような「分体の飛び地」もあることがわかりました
[69038]。
これまで、飛び地に対する「親」の地域を本体と呼んできましたが、自治体の中で人口最大の地域でない分体についても、飛び地の存在を認めることにしたいので、飛び地域に対する本地域という意味で、「本域」と改めます。
「親」の地域である本域との関係に注目すると、飛び地は、以下の3分類に改めた方が適切と思われます。
内陸型 = 飛び地が内陸であるもの。本域は内陸・沿海の区別不問。
市浦(しうら)型 = 飛び地は沿海で、本域は内陸のもの。
沿海型 = 飛び地と本域の双方が沿海であるもの。
2番目の命名は異質ですが、
五所川原市 市浦にちなんだものです。さしあたり思いつく類例としては、隣接した
中泊町 小泊がある程度です。共に2005年津軽半島で誕生。
内陸型飛び地に入ります。
そのトップスターとして挙げたいのは、川崎市麻生区の
岡上 です。
過去記事
これは、昭和14年に行なわれた横浜市第6次(17町村編入)・川崎市第6次(2村編入)の市域拡張の際に行なわれた、都筑郡岡上村の
川崎市 への飛び地合併で生まれたものでした。
【追記】
むじながいり さん の
パラパラ地図神奈川県 をリンクしました。
第6次市域拡張のあった1939/04/01と、その直前(1938/10/01)とを対比してください。
改正新旧対照市町村一覧(1913) で岡上村を見ると、役場は 柿生 と記されています。
現在は「おかがみ」と呼んでいるようですが、「ヲカノボリ」というフリガナが付いていました。
岡上村が 柿生村とのペア を組んだことは、既に
[817]Issieさん によって紹介されています。
明治22年の町村制で組合役場を作った鶴川(鶴見川)流域の都筑郡柿生・岡上の2村ですが、間にある南多摩郡鶴川村(能ヶ谷、三輪)の領域により隔てられた「飛び地組合」でした。
現在の飛び地の淵源は、都筑郡の間に南多摩郡が入り込んでいた行政区画にありました。
もっと遡れば、江戸時代初期には多摩郡だったらしい岡上村が、都筑郡に移ったのが遠因だそうで
[68630]。
南多摩郡鶴川村の前身である小野路村や野津田村のことは、
[33902]で書いたことがあります。
鶴川村になって4年後の明治26年には 東京府に移管され
[33700]、岡上村から 役場のある柿生村に行くには 東京府経由ということになってしまいました。
# 東京府になって2年後の1895年、鶴川村の小島鹿之助(近藤勇の後援者で義兄弟)に孫娘が生まれました。私の母です。大昔のことを書いているようでも、私にとっては、ある程度は身近に感じることのできる時代と地域なのでした。
この地域は、かつて「禅寺丸」という小さな甘柿の産地でした。柿生という村名は、これに由来。現在は小田急の駅名。
子供の頃はよく食べたものですが、もっと見栄えの良い大きな柿が市場に出回っている現在、禅寺丸を口にする機会はなくなりました。
飛び地の岡上村に話を戻すと、1939年の横浜・川崎の市域拡張の際に、低い分水嶺を介して背中合わせ(こちらは鶴見川支流の恩田川流域)の田奈村
[34657]と共に横浜市に合併すれば飛び地が解消したのでしょうが、組合役場時代の飛び地状態を維持したまま、川崎市への合併という結果になったのですね。
本域の川崎市は、もちろん沿海ですが、岡上飛び地の淵源は柿生組合村の飛び地であり、本域側が 1939年に大きな川崎市の一部となって海に面したことが、岡上飛び地に影響を及ぼすこともありません。
今回改めた分類で、「内陸型」の本域につき それが内陸であるか沿海であるかの区別を不問 にしたのは、このような理由によるものです。