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hmtさんの記事が5件見つかりました

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[91957] 2016年 11月 16日(水)18:04:08hmt さん
名所地名を利用した自治体名 (1)妙高
[91948]に続き、過去に存在した長い読みの市町村から題材を得た記事です。
異彩を放っているのが、リストの中で3行を占めている「みょうこうこうげん」の「妙高」です。
1955/4/10 新潟県中頸城郡妙高々原村→1956/9/30 妙高々原町→1969/10/1 妙高高原町→2005/4/1 妙高市

言うまでもなく、長野から直江津に向かう車窓の左側に特異な山容を示す成層火山・妙高山に由来する自治体名です。
妙高山は 北信五岳の筆頭に挙げられていますが、信濃ではなく越後の山ですね。
赤倉・池の平などの温泉やスキーで知られた名所・行楽地です。

この「妙高」という名を利用した自治体名称が 町村制施行の1889年に 南の長野県境近くで誕生し、100年以上かけ、その範囲を北へと拡大してきた歴史をまとめてみます。

最初は、変遷情報検索により「妙高」を調べた結果です。

異なる漢字を使った「名香山(なかやま)村」を含めて7件の自治体名が抽出されました。
何れも新潟県・越後国中頸城郡の領域にありますが、2つの妙高村は時代も場所も異なるので、以下の文では便宜上 妙高村1と妙高村2に書き分けます。

年代を追ってみると、3期に分けると理解しやすいようです。

第1期は、町村制施行の1889年から 昭和合併の1955年までの 66年間です。
妙高を使った自治体は、妙高山のお膝元である長野県境付近【旧・妙高高原町】に限られていました。

検索結果の1番:妙高村1は 明治合併で旧5村の合併により成立。存続期間約12年半。
検索結果の2番:名香山村は 妙高村1の南側・関川村との合併により成立。存続期間約53年半。通算66年。
語源的には妙高山の古名である「越の中山」が、地名二字化[84087][37482]の影響で「名香山」と表記されるようになり、これが「みょうこう」と音読され、「妙高」の字を当てる現在の名になったと考えられます。
# 妙高から北に流れる頸城の関川は濁音ですが、同じ新潟県内の岩船郡に現存する関川村は清音です。

第2期は昭和合併の1955年から平成合併の2005年までの50年間です。
妙高を名乗る自治体の範囲は北に拡大し、「妙高高原町」と「妙高村2」との二本立てになりました。

戦後の経済復興を背景にした観光産業が盛んになり、田切川より北側の自治体もブランド力のある「妙高」を名乗るようになりました。時代も場所も違うので、妙高村2と表示して区別することにします。

検索結果の3番:妙高村2は 関山駅【信越本線がスイッチバック停車】のある関山村などの 昭和合併で成立。
平成合併までの50年間存続しました。
検索結果の4番:妙高々原村は 名香山村からの改称。こちらが 本家・妙高村を名乗りたかったのだと思いますが ブランド自治体名争い に遅れをとった結果でしょう。妙高々原村の存続期間は約1年半。
検索結果の5番:妙高々原町は 関川の上流・杉野沢村との合併を機会に町になった結果です。13年存続。
検索結果の6番:妙高高原町は踊り字「々」を廃して「高」を連ねた結果です。信越本線の駅名も「田口」から「妙高高原」に改められました。
「妙高高原町」は平成合併まで35年半存続したので、昭和合併と平成合併の間の通算50年が「みょうこうこうげん」時代ということになります。

そして第3期が 10年を越えた平成合併以後の期間です。山岳ブランド「妙高」を名乗る自治体の領域は、合併により高田平野の一角にまで拡大しました。

検索結果の7番:平成合併は妙高高原町・妙高村2を新井市に編入する形になりましたが、名前はブランド力のある「妙高」を使うことになり、全国的にも珍しい「編入/改称」となりました。

妙高山のお膝元の「妙高村1」から始まった「妙高名自治体」の領域は、116年の間に 上越市と境を接する平野部にまで拡大し、更に 10年後の北陸新幹線延伸(2015)では 自治体範囲を越えた「上越妙高駅」も実現しました。
[91956] 2016年 11月 16日(水)12:18:58hmt さん
Re:大町は村?
[91951] グリグリさん
Wikiのこちらのページに、長野県の大町に関して次のような記述があります。
>1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、大町として単独で村制を施行。
>4月10日 - 町制施行。町制に基づく「大町」となる。
(中略)
この情報の根拠を確かめることはできないでしょうか。

長野県における公文書館機能を担っているのは 長野県立歴史館です。町村制施行時の県令等の原本は、ここに保管されているものと推測します。
収蔵資料検索から『本県令達目録(明治3年~大正15年)』などの存在を確認しましたが、明治22年4月10日 大町の町制施行 を裏付けることができそうな県令・告示などの原資料名を発見するには至りませんでした。

原資料の代用となる二次資料について。
[76874] むっくんさん の労作「市制町村制施行時の府令県令(ver.5)」に引用されているように、『長野県現行令達類聚』(明治26年)という本の 上巻741コマ以下に 明治22年長野県令第18号 町村区域名称が収録されています。
問題の北安曇郡大町は 760コマであり、中段の新町村名には「大町」と明記されています。

これで問題解決か?
…そう簡単には問屋が卸しません。『長野県現行令達類聚』の凡例をご覧ください。
此書は明治4年11月置県以来明治25年12月迄の発布に係る本県諸令達中現行のものを類聚…
此書専ら専ら簡約を主とす 故に…改正増補の文字に改め旧文を存せず 欄外に於て其沿革のみを記載す

この『長野県現行令達類聚』は、発行時の現行実務に供することを目的とするものであり、そこに収録された「明治22年県令18号」は発令当時の内容ではなく、明治25年12月迄の改正が盛り込まれているのでした。

例えば 町村制施行 約2年後に町になった 諏訪郡上諏訪町は、明治26年発行の『長野県現行令達類聚』では 当然のように 上諏訪町として掲載されています。

但し 凡例に記されていたように、上部の欄外に「24年告示第27号を以て上諏訪村を上諏訪町と改称」との記載があり、「後発の町」であることが注記されています。

そこで、もう一度 760コマの 北安曇郡大町に戻ります。こちらには、上諏訪町に記されていたような上部欄外の記載が見当たりません。

私の調べた上記の状況から判断した結論。【グリグリさんの問に対する直接の返事にはなっていません。】

現状では、「大町は 1889/4/1に村制を施行した」と信ずるに足る証拠が証拠が 具体的に示されていない。
従って、大町は 1889/4/1に町制を施行した生まれながらの町である」とする趣旨の変遷情報を 改める必要はない。

余談:村と町との区別について

上記の本文では、便宜的に 村制・町制・生まれながらの町・後発の町 などという表現を使いました。
しかし、実はこれは私の本意ではありません。
施行当時の考え方としては 制度は「町村制」一つであり、「町制」「村制」を区別する「いわれ」はなかったと思います。
上に引用したように、「上諏訪村を上諏訪町と改称」と記されており、「町制の施行」とは表現されていません。
現行の「町になる要件」などという区別は、ずっと後に生じた慣行が制度化されたものです。
町村制施行当初、呼び名としては 宿・駅・町・村・新田・浦などを適当に使い分けていました。
しかし これは「便宜的な呼び分け」に過ぎず、制度的な区別は 本来無意味なことであると思っています。
[91948] 2016年 11月 14日(月)18:46:58hmt さん
四日市次郎丸村 過去記事紹介
11月に入ってから休眠状態だった hmt ですが、落書き帳のトップに掲げられた新規メニュー 短い読み・長い読みの市区町村を拝見して、少し眠りから覚めたので書き始めました。

最初は ウォーミングアップとして、四日市次郎丸村の過去記事紹介から。

この村の名は、読みの長さもさることながら、連称自治体名として記憶に残っています。
大網白里市誕生が期待された5年前にシリーズ記事を書いたことがあり、そこから手繰ったところ[79392]に 更に3年以上前に むっくんさん と okiさん による先行記事を引用していました。

今回の「長い読み」と合わせた記事集に仕立てましたので、関心のある方はどうぞ。

記事集 四日市次郎丸村

記事集 連称自治体名

蛇足ですが、新規メニュー:長い読みの市区町村 の中に、「1989(M22)」という誤記が多数あるようです。修正をお願いします。>グリグリさん
[91887] 2016年 10月 30日(日)22:57:21hmt さん
了解:中土佐/四万十
[91885]白桃さん
[91886]グリグリさん
(異動人口は)今回の確定地で7人に訂正されたと言うことでよろしいと思います。

私は[91872]の最後の文章を正しく理解することができなかったために、余計な記事[91883]を書いてしまったようです。
シロウトにとっては「ひねった表現」でなく、[91886]のように ストレートに書いていただいた方が有り難いのでした。
[91883] 2016年 10月 30日(日)15:02:45hmt さん
四万十川上流の町での境界修正・境界変更 これに伴う人口異動の不思議
[91872] 白桃さん
[90443]hmtさんの次の記事があります。【記事番号を修正、引用部分を省略】
[90077]【人口異動を伴う境界変更データ2011/5/18】と確報値の組替人口差は14人。これが、hmtさんの記事と関係有るのか無いのか考えているうちに頭が痛くなってきました。(笑)

書いた当人もすっかり忘れていました。改めて過去記事により経過を再録してみると、高知県高岡郡中土佐町大野見野老野(ところの)と同郡四万十町上秋丸との境界に関する問題であり、地籍簿【明治初年?】の記載と、自治体・住民を含めた地元の認識との間にズレが存在したことに起因するようです。

[76944][76945]の伝えるYomiuri Online 2010/12/2を要約
【A】中土佐町は1990年と2008年とに町境を調査。測量や公図などを基にした本来の境界線は、一般の地図に示された境界線よりも、最大で約200m東側【西側の誤記と推察】(中土佐町側)だったことが判明。これに従うと、大野見野老野地区4世帯7人の住所は上秋丸地区となる。中土佐町は2010年5月、7人に対して四万十町への住民登録変更を勧めた。

[90443]の伝える東京新聞 2010/12/16を要約
【B】7人は長らく中土佐町民として暮らし、住民税も中土佐町に納めていたが、2010年5月までに全員が四万十町に住民登録をし直した。
【C】だが「これまでの地域生活を変えたくない」などと町側に要望。両町議会は以前考えられていた通り【4世帯の東側】に境界を変更する議案を9月に可決、県議会も12月下旬に可決する運びだ。来年夏には国が新しい境界とし認める見通し。→2011/5/18総務省告示により境界変更 下記【D】(1)

【D】 平成23年面積調 p.102, 103
39401中土佐町 -0.05境界修正(2), +0.02境界変更(1)
39412四万十町 +0.05境界修正(2), -0.02境界変更(1)
境界修正(2) H23.3.18 高岡郡中土佐町長と同郡四万十町長の申請
境界変更(1)(H23.5.18総務省告示188号)高岡郡四万十町の一部を同郡中土佐町に編入

境界変更(1)の対象である2haは、Yomiuri Onlineの伝える「最大で200m」という境界線のズレと矛盾しない面積と思います。そして両町長の申請に基いて行なわれた境界修正(2)の区域5haはマスコミ報道には全く登場していない無人地帯であろうと推察します。
マスコミ報道【A】【B】が一致して伝える「7人」が正しいとすると、2011/5/18の境界変更の結果四万十町から中土佐町に異動した人口は7人のはず。
ところが、既に[90077]グリグリさんにより紹介されているように異動人口21人。
更に白桃さんの14人説[91872]も登場。
7人の住民票が中土佐町→四万十町→中土佐町と動いている間に増殖する筈もないのに…謎ですね。


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