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落書き帳

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[71580]2009年8月10日
hmt
[79316]2011年9月6日
hmt
[80030]2012年1月9日
hmt
[80943]2012年6月8日
hmt

[71580] 2009年 8月 10日(月)17:22:44【1】hmt さん
山が動く!
土井たか子さんが 「山が動いた」と語ったのは、1989年の参議院選挙の結果でしたが、タイトルは選挙とは無関係。

[71550] Issie さん
1911(明治44)年に大崩壊を起こして土石流が当時の北小谷村の中心部を埋め尽くし,姫川を流れ下って糸魚川にまで甚大な被害を及ぼした稗田山

孫子の「動かざること山の如し」は、軍隊の進退に関係した「たとえ」ですが、時には山が動いて大災害を引き起こします。

独立行政法人防災科学技術研究所防災システム研究センターHP内には、既往斜面災害の発生状況一覧表 があります。
地すべりの誘引としては降雨が最も多いようですが、歴史的に名を残す 大規模な山崩れ の原因は、地震が目立っています。

火山噴火も 山崩れを起こします。近年では セント・ヘレンズ山の大噴火(1980)の際にも 山頂付近の山体が崩壊し、2950mだった標高は500mも低くなりました。

稗田山崩れの23年前の明治21年(1888)には、磐梯山で大規模な水蒸気爆発があり、小磐梯山の山頂を含む北側が崩壊しました。岩屑流は山麓の村落を埋没し、桧原湖、秋元湖などを生じました。死者461名。[23960]の45

更に1世紀前の18世紀末には、肥前国雲仙普賢岳の噴火が眉山の山体崩壊→島原湾への落下→肥後国の津波災害という連鎖(島原大変・肥後迷惑)を引き起こしました [23960]の95。
迷惑なことではありますが、肥前と肥後との密接な関係を示しています[9212]

では、98年前の夏に、姫川支流浦川の上流に位置する稗田山で起きた山崩れの引き金は何だったのか?
これが「不明」なんですね。豪雨でも地震でもなく、突然襲った大災害。

以下は 山川事務所のサイト による状況です。 1911年8月8日、全山 地すべりだらけ と言ってもいいこの地帯で大きな崩壊が発生。流出した崩壊土砂は姫川本川を塞き止め天然ダムを形成。そして4日後には、怖れていたとおり天然ダムが決壊して、下流の集落を押し流した。天然ダムは翌年にも決壊。

この稗田山崩れは、「三大○○」を集めたサイトの 自然の部 に、「日本三大崩壊地」の一つとして集録されていました。
静岡県安倍川上流の大谷崩れもその仲間で、山川事務所 によると、
この三大崩壊とやら、M田先生が若い頃、論文を書いておられます。M田先生、自分で言い出したんじゃ.....まさかね。

もちろん、「三大○○」は 落書き帳の話題 になっています。

後回しになりましたが、日本三大崩壊地の筆頭が 鳶(とんび)崩れ
安政5年の飛越地震により、立山カルデラ稜線の大鳶山と小鳶山が大崩壊して消滅しました。

立山カルデラ は、この鳶崩れに代表されるような崩壊・浸食作用により拡大してきた地形で、浸食カルデラと呼ばれます。
立山カルデラの中には、全部流出したら富山平野を埋没させてしまうほどの大量の土砂が溜まっており、かつての常願寺川は、流出する土砂が原因で洪水氾濫を繰り返す「日本一の暴れ川」でした。

明治39年に富山県の手で立山カルデラ内の砂防工事が開始されましたが、自然の猛威は 県の手には負えないレベルで、大正15年(1926)から国の直轄工事に移管され、以後 70年間に最高の砂防技術による施設が設けられた結果、ようやく災害がなくなりました。
砂防工事は現在でも継続しています。

昨年末に 立山砂防工事専用軌道 のスイッチバック(地図 )を話題にしたことがありますが、これは「山が動いた」後始末工事の 資材と人員輸送 を目的とした施設だったのでした。
[79316] 2011年 9月 6日(火)23:16:33【1】hmt さん
深層崩壊
[79314] k-ace さん
今回の台風12号、特に紀伊半島に甚大な被害をもたらしています。

今回の「のろのろ雨台風」は、通過地域から遠く離れた関東や北海道にまで豪雨をもたらしましたが、最もひどかったのは、紀伊半島でした。
紀伊半島での被害状況を見ると、「深層崩壊」 が起っていたようです。

深層崩壊 は、急斜面で起こる表層崩壊と違い、長時間にわたる大量の降雨により、深層の割れ目に到達した水が、数十mの厚さの岩盤もろともに、緩斜面が崩れ落ちる現象で、2009年に台湾で起きた大被害 以来、特に注目されていました。

日本と同様の防災システムが整備された台湾で、高台の避難所に集まっていた 500人が、一瞬にして村もろともに消えてしまったのは、類似した地形の多い日本にとっても、大きなショックでした。

昨年、国土交通省が発表した 深層崩壊推定頻度マップ を見ると、中央構造線などの断層地帯が危険で、十津川村は、まさにこれに該当していました。

十津川村では1889年(明治22年)に大水害があり

町村制施行直後の大水害も、深層崩壊によるものだったようですが、今回の台風での十津川村風屋の総雨量は 1358mm【9月4日午後4時までの値】とか。
深層崩壊のきっかけになる大雨とは、累積雨量 400mm以上とか聞きました。

水害の翌年に合併した 十津川村 は、北海道の広大な村[70240]がなくなった現在、村の面積ランキング第1位ですね。
[80030] 2012年 1月 9日(月)14:39:12hmt さん
災害などによる合併の事例
[80021] オーナー グリグリさん
過去にもこのような災害などによる合併の事例があったのではないかと考えますが、どうでしょうね。

奈良県吉野郡十津川郷(近世村数59)は、明治22年(1889)4月の町村制施行により6ヶ村で発足しました。
しかし、その直後の8月に台風に見舞われ、死者 168人、全壊・流出家屋426戸の被害を受けました。
1889十津川災害 は 単純な水害ではなく、中央構造線の断層地帯にあるため深層崩壊を含む山崩れが大きく、村の産業の中心である山林の被害は甚大でした。
深層崩壊という言葉は、2009年台湾での大被害以来注目されていますが、2007年の資料による 過去の122事例 のうち、27が 1889年十津川の事例でした。

生活の基盤を失った人々は第二の郷土を建設すべく、約600世帯・2500人が北海道への移住を決断しました。
10月に神戸から小樽に渡り、空知太で雪解けを待ちながら準備を進め、トック原野に入植したのは翌1890年6月。新十津川開拓史

一方、故郷に残った人々も、同じ明治30(1890)年6月には6ヶ村の再合併して 十津川村 になりました。
これが、町村制の下での災害合併第1号であることは、先ず間違いないでしょう。

なお、十津川村は今年の9月にも台風被害受け、落書き帳で話題になりました。[79314][79316]

時代と場所が変って、第二次大戦末期 昭和20年(1945)1月の三河地震。
[55569]では、地震による被害を受け、約10年後の昭和大合併に際して安城・西尾・碧南の3市に分割編入されて消滅した愛知県碧海郡明治村の事例を挙げました。、最近[79775]でも言及。

三河地震で被害【注】の大きかった愛知県の町村リストを作り、変遷情報による合併データを加えてみました。
【注】死者100人以上、住家被害率50%以上。
山下文男『戦時報道管制下隠された大地震・津波』(1986新日本出版社)p.260

町村総戸数死者死者率%住家被害率% 合併データ
碧海郡桜井村119017915.058.51967年安城市
碧海郡明治村236032513.869.51955安城市西尾市碧南市[55569]
幡豆郡西尾町39641764.442.91953西尾市
幡豆郡三和村91819621.488.81955西尾市
幡豆郡福地村67323434.885.41952,1954西尾市
幡豆郡吉田町13391067.953.11955吉良町>2011西尾市
幡豆郡横須賀村173327515.964.81955吉良町>2011西尾市
宝飯郡形原町167423313.940.81962蒲郡市

被害が大きかったにもかかわらず、桜井町 になって1967年まで存続した村もあります。
しかし、碧海郡明治村と同様に被害の大きかった幡豆郡福地村など、昭和大合併の時代に消えています。
編入した側の西尾町も大きな被害を受けていましたが、1953年に西尾市になっています。
福地村の死者内訳は男84人女150人であり、男手のなかった戦時中を思わせます。
幡豆郡|横須賀村も、断層活動により水田が傾斜し、大きな池になるなど各所に地変を生じ、荒廃したようです。
1955年にこれも被災地の吉田町と新設合併して 吉良町。2011年西尾市。

三河地震の被害がなくても、昭和大合併の波は押し寄せたことでしょうが、災害も要因にはなったことと思われます。
[80943] 2012年 6月 8日(金)21:59:43【1】hmt さん
地震峠
[80937] 垳(がけ)、[80941] 鬮野川に続いて地名ネタ。また新聞記事から始めます。

朝日新聞 ふしぎ探検隊 地震峠
相模原市緑区鳥屋(とや)の山あいに「地震峠」がある。なぜ、そんなリアルな名前が付いたのか。
「1923(大正12)年9月1日の関東大震災で馬石では死者16人、埋没棟数9戸。ある家では6人家族全員が埋没死した。山津波で串川はせき止められた」。

1923年当時のこの地は、神奈川県津久井郡鳥屋村の東端、下流の串川村との境界付近でした。
hmtの出身地の約2km上流なのですが、私は 「地震峠」という地名は もとより、誕生する 約10年前の大震災に際して 隣村が土石流災害に襲われたという事実も知りませんでした。

調べてみると、関東大地震の跡と痕を訪ねて というページがありました。
それによると、地震によって南側の斜面から崩壊土砂が押し寄せ、串川の流路と人家とがあった谷を埋め、そこに出現した湖の水位上昇により、更に上流の集落が浸水の危険に晒されたそうです。水の力で天然ダムが一気に決壊すれば、下流の集落にも危険が及びます。

津久井町郷土誌には、“余震のまだ続く中を、隣村の消防団員が、道具・弁当持参で土砂の取り除き作業の救援に参加をした。”と記されています。機械力のなかった時代、手作業で水防工事に携わった経験者も近くに居たと思うのですが、お話を聞く機会はありませんでした。

関東大震災は、死者の数では東京の火災被害によるものが最大だったのですが、地震自体は震源地に近い神奈川県の方が激しかったのです。 丹沢一帯と箱根南部とで激しい山崩れがあったことは、関東大震災の最激震地,根府川の山津波 に引用された地図にも示されています。

「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」【これが正式の名なのですね[77767]】では大規模事例がなかったようですが、地震>土砂崩壊>川のせき止め>二次災害の可能性という図式は、このケースに限らず、しばしば起こる事件です。
外国については、近年の大規模事例(2008年四川唐家山)もありますが、ここでは日本の事例を少々。

話の順序として 1923年の関東大地震から。丹沢の南 渋沢丘陵の「震生湖」。自然湖として居座りました。
2004年の新潟県中越地震による地滑りで、魚野川の支流芋川が堰き止められたニュースは、[34776]で言及されました。
江戸時代に遡ると、1683年の会津日光大地震により鬼怒川支流に出現した五十里(いかり)湖は、40年後に決壊して下流の村々を壊滅させました。ここまでは、[78104]で触れています。

幕末にも 大規模な事例 があります。
一つは 弘化4年(1847)の善光寺地震。この地震は、折しも御開帳の期間に起こったために、全国から参拝に訪れていた善男善女に被害が及んだのですが、それだけで済みませんでした。
余震による山崩れで 犀川がせき止められ、村々が水没したのです。飯山藩のように千曲川の水位監視体制を取り、19日後の決壊時には住民を避難させていた地域もありますが、犀川とそれが合流する千曲川沿いとの広範囲の村々で、多数の死者を出しました。

もう一つは、安政5年(1857)の飛越地震による立山カルデラの鳶(とんび)崩れです。
[71580]に記したように、ここは日本三大崩壊地の筆頭で、立山カルデラ内には大量の土砂が溜まっており、現在でも、下流の富山平野を守るための砂防工事が 継続的に実施されています。

「地震峠」という地名から始めたので、地震を引き金とする災害に終始しましたが、土砂災害の原因は、豪雨[79316]・火山[23960] それに 稗田山崩れのような「不明」もある[71580] ことを付言しておきます。


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