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伊豆之国さんの記事が10件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[109066]2023年10月11日
伊豆之国
[109056]2023年10月11日
伊豆之国
[108994]2023年10月10日
伊豆之国
[108987]2023年10月10日
伊豆之国
[108935]2023年10月9日
伊豆之国
[108926]2023年10月8日
伊豆之国
[108848]2023年10月6日
伊豆之国
[108794]2023年9月22日
伊豆之国
[108744]2023年9月12日
伊豆之国
[108700]2023年8月29日
伊豆之国

[109066] 2023年 10月 11日(水)23:23:58伊豆之国 さん
十番勝負
問四:妙高市
[109056] 2023年 10月 11日(水)22:16:25伊豆之国 さん
十番勝負
問八:稚内市
[108994] 2023年 10月 10日(火)22:59:13伊豆之国 さん
十番勝負
問九:草加市
[108987] 2023年 10月 10日(火)22:21:07伊豆之国 さん
十番勝負
問七:天童市
[108935] 2023年 10月 9日(月)18:18:28伊豆之国 さん
十番勝負
問二:幸手市
[108926] 2023年 10月 8日(日)22:26:56伊豆之国 さん
十番勝負
問三:三島市
問十:狛江市
[108848] 2023年 10月 6日(金)22:22:38伊豆之国 さん
木造駅は鉄筋です & 下総国葛飾郡
[108801]白桃さん
市の中心地区に、鉄骨、鉄筋で建てられている住宅が見当たらない市はどこでしょうか。もちろん、石造りの家もありません
[108839]BANDALGOMさん
つがる市でしょうか? 旧木造町ということで
つがる市の旧木造町には、5年前に訪れています([96376])。町内にはJR五能線の「木造」駅がありますが、
その駅舎はコンクリート造りでないといいのだが
([96357]千本桜さん)
残念ながら?駅舎は「もくぞう」ではなくて鉄筋コンクリート造でした(こちら)
([96376])
ちなみに、このJR木造駅の駅舎の正面には、この町で出土した縄文土器を模した巨大モニュメントが張り付いています。

…今晩のTV番組で、市内に「雷電町」がある、その昔「下総国葛飾郡」だった茨城県古河市にある直木賞作家の旧宅の「開かずの金庫」を開けろ、という場面が出てきました。その結果は、というと…
[108794] 2023年 9月 22日(金)22:09:34伊豆之国 さん
庁舎移転、地名コレクションetc.
[108752] 菊人形さん
葛飾区役所
少し前にNHKで京成立石駅周辺の再開発事業による横町の立ち退きを扱った番組がありましたが、跡地に新庁舎が建つようです
一昨日だったか、日経新聞の記事に「京成立石駅前再開発で消える『せんべろ』の町」の記事がありました。
飲み屋を営んでいるのは高齢者が多いのと、「店子」の立場にあるので地権者に声が届きにくい、といった話が書かれていました。
古い記事(7年前)で、既に更新もストップしており鬱陶しい広告がいっぱい出てきて見づらいのですが、こちらの「鉄ネタ」ブログに、再開発が具体化し始めてきたころの立石界隈の当時の風景が書かれており、私もレスを入れていました。先の新聞記事に出ていた「のんべえ横丁」は既に全店閉店、この写真に出ていた「人生のスパイス」という看板がかかっていた飲み屋も、既に閉店したのでしょうか? そして、下町情緒あふれる仲見世も、京成線の高架化とも合わせた一帯の「再開発」で跡形もなく消えて行く運命に…。そして、新たに生まれる町は、どこにでもありそうな若者に媚びたような高層ビル街に変わってしまうのでしょうか?
ちなみに「せんぺろ」とは「千円でべろべろに酔いつぶれる」意味だとか…。

[108780] あきごんさん
奈良県庁が奈良公園の真ん前にある必要があるのか、という議論は昔からあり、新大宮や平城宮跡に移転するという構想のようなものは何度か出てきていました(中略)個人的に平城宮跡移転案は面白いなと思いました
そういえば、平城宮跡を横切っている近鉄線の地下化・線路移設の話、今どういう状況になっているのでしょうか?

[108763] 白桃さん
♬野ばらのエチュード
松田聖子のこの曲が出た頃、TV番組で「野ばらの越中道」と書いていたリクエストカードが紹介されていたのを見た記憶があります。
「エチュード」という言葉は当時の子供には聞きなれない言葉だったのでしょうか? それにしても「越中道」とは…。富山でバラの名所、といえば、どこなんでしょうか?

…ところで、グリグリさんへ。
[108744]の記事の中で、「斑尾高原ホテル」玄関前の階段の床に埋め込まれている「長野県⇔新潟県」の県境サイン(飯山市ー妙高市)について書き込んでしました。斑尾高原周辺の県境サインについては、過去記事にもありましたが、このホテル玄関前の階段床のは、やはり未登録のようですので、新規登録をお願いいたします。
[108744] 2023年 9月 12日(火)23:53:30【2】訂正年月日
【1】2023年 9月 13日(水)01:31:56
【2】2023年 9月 13日(水)09:30:36
伊豆之国 さん
避暑のはずが猛暑…道中記クイズ解答
[108700]で出題した夏休みの道中記クイズ、解答の発表です。

【A】~【P】までの市町村名は…
A市:八王子市 B市:大月市 C市:甲府市 D市:北杜市 E市:諏訪市 F市:岡谷市 G市:塩尻市 H市:名古屋市
I市:松本市 J市:長野市 K市:千曲市 (旧)L市:篠ノ井市 M市:飯山市 (旧)N町:豊野町 O市:妙高市 P町:山ノ内町
Q村:栄村 R市:十日町市 S町:湯沢町 T市:南魚沼市 (旧)U町:塩沢町 (旧)V町:六日町  W町:みなかみ町 X市:高崎市

…でした。

[108701] メークインさん
[108702] 千本桜さん
[108704] あきごんさん
お付き合いいただきありがとうございました。

今回の行程の概略は次の通りでした。
八王子駅から「あずさ5号」に乗車。これは昨年秋([105967])と同じですが、今度は小淵沢駅で下車せずそのまま乗り続けて信濃路へ。松本駅で下車。この駅で後ろ3両を切り離して安曇野方面へと向かう列車を見送って、改札を出て松本城へ。この市には6年前にも訪れているのですが([92849])、この時はお城の手前の「中町通り」を中心に回ったので、お城に登るのは25年前、「長野五輪」観戦の前日に立ち寄ったとき以来。黒を基調とした外観は、最近真っ白にお化粧直しされた姫路城とは好対照。今まで「いわゆる天守閣」(中央の大天守)だけが「天守」だと思っていたのが、本当は両脇の2つの櫓(乾小天守・辰巳附櫓)と、それぞれの櫓とを結ぶ「渡り廊下」を合わせた5棟で「松本城天守」として国宝に指定されていること、また大天守は外観では5階建てに見えるが、実際には内部は6層になっており(松本城HP )、このことを知って、今から○十年前の中学の修学旅行で奈良の薬師寺に行ったとき、説明していたお坊さんが「東塔は一見6階建てに見えるけれど、本当は3階建て(三重塔)ですので誤解(5階)のないように」と言っていたのを聞いて一同大笑いしたことを思い出してしまいました…。
行列ができるほどの混雑に加え、お昼時にかかったため、沿道の主だった食事処もどこも混雑していることもあって、昼飯は駅のホームの片隅の立ち食いそばで我慢。「鈍行」で長野へ、途中の姨捨駅でスイッチバックのホームに停車。眼下の棚田の絶景のある一帯は、以前は更埴市に属していましたが、平成の大合併で、昨年秋に宿泊した温泉地がある上山田町([105967])・戸倉町と共に、現在の千曲市になっています。篠ノ井駅で、「長野行き」(北陸)新幹線の開業に伴い「しなの鉄道」に転換された「信越本線」と合流するのですが、篠ノ井~長野間はJRのまま残り、一方その北陸新幹線が金沢まで伸びると、信越本線の長野~直江津間が「並行在来線」となって、長野~妙高高原間が「しなの鉄道」に転換(妙高高原以北は「えちごトキめき鉄道」)される一方、長野~飯山間で新幹線と並行している飯山線のほうは、線路戸籍上の飯山線の起点である豊野駅以北がJRのまま残り、結果として長野駅の前後でJRもしなの鉄道も分断された形となり、合算運賃を取られて割高になっては、[108700]でも書いた通り、利用者の「鉄離れ」を増長させ、お互いに自らの首を絞めるような格好になってしまったのには、どうにも納得が行かない気がします([108704] あきごんさんの記事(下記)参照)。篠ノ井~長野~豊野間を「二重戸籍」にして、JR、しなの鉄道、それぞれ1本の路線として扱うようにはできなかったのか、と考え込んでしまいます。
今回の旅程で特に気になったのが、新幹線の開業で平行在来線が第三セクターになってしまっているという事。もちろん、横川~軽井沢間のように廃線になるのよりは余程ましではありますが、新幹線ができたばかりに昔からの路線が切り離されてしまうのは何とも悲しいものです。この問題は、今後も北海道や九州、北陸でも起こるので昔を知る人間からしたら寂しい思いがします
このような事情と、この日の宿を取った斑尾高原へのバスの乗換駅・飯山駅に停車する新幹線が少ないため、JRの最初の乗車駅・町田駅から買った切符はこの長野駅までとし、いったん改札を出ることに。この暑さの中、6年前に拝んだ善光寺はバスして先を急ぐことにし、改めて飯山までの「しなの」~JRの連絡切符を買って飯山線のディーゼル列車に乗車。2両編成の先頭車は、イベント列車対応の特別仕様で、「乗り得」といった感じでした。飯山駅で降りてバスを待つことに。午後4時を回っていましたが、依然として猛烈な暑さ、冷房の効いた駅の構内でしばし待機。やってきたバスは、ほぼ貸し切り状態のまま、バスの終点の「斑尾高原ホテル」に到着。途中には、雪の重みで屋根がつぶれた?廃墟ホテルも見えました。冬がメインの観光地で、夏はそれほど混んでいないのかもしれませんが、それでもやはりマイカーで来る客が多かったのでしょう(観光バスで来た団体客もいました)。
入浴と夕食を済ませて、すっかり暗くなった屋外へ。[108700]にも書いたように、案内には「真夏の平均最高気温は24℃」とあったのですが、この日は夕方になっても館内の温度計は27℃を指し、冷房はフル運転。夜空を見上げると、ところどころに雲はかかっていたのですが、頭上を見ると七夕の織姫・彦星と、仲を取り持つ?白鳥の姿が綺麗に見えていました。ちなみに、この日は旧暦で7月8日。今の暦のだとまだ梅雨が明けていない時期になってしまうので、「月遅れ」で七夕の行事を行うところが多いのも、「せめて本来の季節に近い時期に」ということも有るのでしょう。このホテルの所在地は飯山市なのですが、新潟県との境界線に近い場所にあり、地図を見て知っていたのですが、目の前の県道に県境を示す標識があり、新潟県側は妙高市。県境の間を行き来していたのでした。
翌朝、再び外に出て付近を散策。別荘・ペンションや夏季休業と思しきスキー関係の施設が、県境を挟んで両側に建っているようでした。後で調べると、この一帯では新潟県側にある施設も電話は長野県側の飯山局番(0269-6x)、電力も新潟県で使われる50Hz(東北電力)ではなく長野県側の60Hz(中部電力)に統一されているようでした。
出発前、玄関先の階段の足元を見ると、そこに県境を示す表示板が埋め込まれていました。「斑尾高原の県境サイン」については過去記事にもいくつか出ているのですが、この「ホテル玄関前の階段」は地名コレクションには登録されていませんでした。
翌朝、バスで飯山駅に戻り、市内巡り。6年前([92849])には北寄りの麓のほうにある寺院を回っていたので、今回は南側の高台にある寺院をいくつか見ることに。茅葺屋根の本堂がある「正寿庵」は工事中で中を見られなかったのが残念でした。そのあと平地に降り、雁木造りの街並みへ。両側には特産の仏壇作りの店が並んでいたのも、6年前と変わらぬ光景。昼食は途中にあった「街角食堂」で「ご当地拉麺」。それからやはり6年前はパスした高橋まゆみ人形館に入ってしばし暑さしのぎ。この日もとにかく朝から暑い。長岡市では39℃にも達したとかで、飯山でも35℃を超える猛暑日だったのでした。この辺りからだと北飯山駅のほうがずっと近いのですが、身軽になるために飯山駅のコインロッカーに荷物を預けていたのと、この時間帯に飯山線の長野方面への列車がないこともあり、暑さの中、飯山駅に戻ることに。十日町行きの列車に乗車。ここからは6年前と同ルート。野沢温泉行きのバスが飯山駅発着に変わって駅名が実態を表さなくなった戸狩野沢温泉駅で対向列車待ち合わせで10分余り停車、その先は千曲川に寄り添ったり離れたりしながら、鉄道沿線で積雪日本一の標柱が建つ森宮野原駅を過ぎると、斑尾高原でいったん別れた越後路に再び入り、終点の十日町駅で下車。ここで接続する始発の越後川口行きに乗ると、JRだけで越後湯沢方面に行けるのですが、四角形の三辺を通る大回りになるため、ここで「ほくほく線」に乗り換え。接続時間が4分しかなく、JRの改札を出てすぐ目の前のほくほく線の券売機で切符を買い、駆け込みで何とかセーフ…。1両だけの電車でしたが、車内は通学生で満員状態。北陸新幹線の金沢延長で、上越新幹線から北陸方面への短絡ルートとしての役割を失い、快速列車も消えた今、メークインさんが[108701]でおっしゃるように、今後は地元住民の足としての役割に徹することが生き残りの道、ということになるのでしょう。
この日の宿は越後湯沢に取っているのですが、その前に塩沢駅で下車して見たいところがあり、この列車が乗り入れているJR上越線内の途中駅に停車しないため、JRと合流する六日町駅で下車し、すぐ後に来るJRの列車に乗り換えて塩沢駅で下車。駅を出てすぐ左の道に入り、江戸時代後期に著された「北越雪譜」で知られるこの地出身の文人・鈴木牧之の記念館を目指すのですが、そこへの道筋にある「塩沢つむぎ記念館に立ち寄り、展示コーナーだけ見てから牧之記念館へ。雪を「風流なもの」と見ていた、江戸など雪の少ない温暖地域での見方と対比して、雪国の長く厳しい冬の暮らし、こうした風土から生まれた風俗、生活道具などを紹介した「北越雪譜」はたちまち当時の大ベストセラーとなり、雪国の厳しい現実を世間に知らしめた名作となったのでした。道路には融雪装置が設置され、温暖化で積雪量も昔と比べて減ってきた今日でも、まだまだ通用するようなところは多いような気がします。一方で、雪に慣れていない、東京など温暖地域の大都市圏では、わずか数cmの積雪でも交通は麻痺し、慣れない雪道で転ぶ人が続出、といった今の現実を見ると、温暖地での雪の見方は江戸時代と大して変わっていないようにも思えました。
…改めて雪国の冬の暮らしの厳しさを実感し、そして昔のこの界隈の絵や写真、展示されていた昔の生活道具などを見ていうちに、まだ残暑が厳しい季節なのにふと思い浮かんだ、雪国の冬を歌い込んだ名曲…。
 ♭目を閉じれば昔のまま 厳しくも日々強く生きてる者よ~(“Winter Again” by灰色楽隊)

この後「雁木」の街並みが続く、街道沿いの町のメインストリートにいったん出てから塩沢駅に戻り、越後湯沢へ。今度の列車もほくほく線からの直通でしたが、塩沢駅には停車し、ノンストップで終点の越後湯沢駅で下車。ほくほく線からの列車は、ほとんど越後湯沢までJRに乗り入れているのですが、JR線内は塩沢駅に一部が停車する以外、「鈍行」でも全て途中駅は通過。かつてスキーでにぎわい、シーズンには上野からの直通特急も運行されていた石打は、閉鎖されたスキー場や民宿などが軒並み廃墟化し、駅も寂しい無人駅となって、悲惨な現状がはっきり見えました。
越後湯沢駅に到着、宿に着く前にまず土産物屋が並ぶ駅構内のショッピングモールでお土産探し。駅前に待っていたタクシーに乗り込み、目指す温泉旅館「高半」へ。温泉街の中心から少し離れた高台にあり、客室からは新幹線の走る姿も見えました。「かけ流し」という良質の温泉で疲れを癒した後、夕食探しに麓の商店街に。沿道には小規模な旅館・ホテルや民宿が立ち並んでおり、やはりスキー客相手にしているところが多いせいか、営業はしていても客室の明かりがついていない、といった感じのところが大半のようでしたが、見た限りでは「廃墟化」しているようなところはほとんど見当たらないようでした。10分余り歩いてようやく商店街に入り、ここで入ったのはとんかつ屋。肉は県内産のブランド豚、ご飯は「魚沼コシヒカリ」ということで、十分に空腹を満たすことができ、満足できたと思いました。外に出るとすっかり暗くなっていましたが、街灯も整備されており、迷うことなく宿に戻れました。玄関前の駐車場からは、街の明かりが綺麗に見えました。
ところで、この「高半」は、川端康成が「雪国」を執筆した宿。館内には、康成が泊った客室が再現されており。公開時間が朝の7時から10時までということで、朝風呂を浴びた後、朝食までの時間に見学。朝食は本格的なお膳で、ご飯ももちろん「魚沼コシヒカリ」。和風旅館でも朝食はバイキング、というところが増えている中、「老舗」のブライドも感じ取ったように思いました。
[108702] 千本桜さん
宿帳に文筆家「島村」と書き入れた伊豆之国さんは、なじみの芸者「○子」を部屋に呼び寄せる。(中略)翌朝、旅館からの請求書には障子戸修理費が計上されていたのは言うまでもない。妄想ですよ。
もちろんそんな悪さはしていません…。当然サインは本名(今年の大河ドラマの主人公の出身地が最多だそうですが、そこでは違う読み方をします)。ところで、宿から駅の方へ歩いていたら、「島村ロッジ」という名のスキー客相手の旅館?がありました。この宿の名前が「雪国」の島村さんから取った(あやかった)のか、あるいは単純にこの旅館の創業者・経営者が島村氏なのか、そこまでは詮索しません…。だいぶ前のことですが、「元日1万円乗り放題」だったかを使って、信越方面に日帰りしたことがあり、越後湯沢で降り「駒子の湯」という立ち寄り湯に入ったことがあります。
会計と、前日までに着た衣類や土産物が入った重い旅行鞄を宅配便で送る手続きを済ませ、身軽になって送迎のマイクロバスに乗って出発。バスはもちろん駅まで行くのですが、駅までの道筋にある、湯沢高原へのロープウェイの割引券がもらえるということで、そのロープウェイに乗って高原に行くことに。冬はスキー場になるのですが、夏場は高山植物園などになり、ロープウェイの山頂駅から、連絡バスを経て、リフトで下がったところにある、その高山植物園「アルプの里」へ。夏と秋の間の中間期ということと、猛暑が続いたことも有り、花の咲き具合がいまいちだったのが少々残念な印象でした。…それにしてもとにかく暑い。暦の上ではとっくに秋になっているのに、高原の涼しさなど全くなし。湯沢町の最高気温は35℃を超える猛暑日。まだ昼飯時間になっていないレストランでは、アイスクリームは売っていたので、これで体を少し冷やしたのでした。
大型ホテルも立ち並ぶ温泉街のメインストリートを歩いて、越後湯沢駅に。まだお昼前ということも有り、「鈍行」で上越国境越え、水上を目指すことに。いまや普段は1日5往復だけというローカル線に甘んじるようになって久しくなりましたが、夏山登山と思しき客が結構乗り込んでいて、意外と車内は賑やかでした。かつて「水泡経済」の時期に相次いで建てられた高層リゾートマンションが悲惨な状況に追い込まれている、という現状は、ニュースなどでもよく耳にしましたが、こうしたマンションは、温泉街の中心部ではほとんど見られず、岩原スキー場前、越後中里辺りに来ると目立つようでした。
次の土樽駅は、「雪国」の中で「夜の底が白くなった、信号所に汽車が止まった」と描かれている駅ですが、今や全く人の気配もない無人駅。2両編成の短い列車は、ほどなく清水トンネルに吸い込まれて行きます。この清水トンネルこそが「国境の長いトンネル」なのですが、複線化で下り線が「新清水トンネル」経由の新線に変わり、上り列車だけが通るようになって、「逆コース」になってしまったのはちょっと残念な気がします([108704] あきごんさん)。そして新幹線の開業で、更に長いトンネルを抜けるといきなり越後湯沢駅、となっては、もう小説に描かれた当時の風情など何もありません…。
トンネルを抜けると群馬県に入り、最初の駅が土合駅。トンネルの中に地中深く潜った下り線に対し、こちらは地上ホーム、駅舎もすぐ横にありました。手前でループ線になっているのが見える湯檜曽を過ぎると間もなく終点の水上駅。ここでようやく昼食。駅前で飲食店を探していると、某TVの旅番組で放映されていたという食事処があり、看板に出ていた上州名物「おっきりこみうどん」をご馳走。茸・山菜など具がたっぷりあり、食べきるのに結構時間がかかりました。
ところで、水上温泉というと、近年ネット検索などで盛んに出てくるのが、温泉街のあちこちに見られる「廃墟旅館・ホテル」と温泉街そのものの衰退・荒廃が進んでいる現状。水上温泉が衰退した原因として、新幹線の駅ができなかったこと、観光スタイルの変化に対応できず、それまでの団体旅行・宴会をメインとした「昭和の男の娯楽」を当てにしていた時代の古い体質・設備から抜け出せないまま経営破綻・廃業に至った旅館が多かった、といったことなどが挙げられているようですが、他にも衰退の原因があるのではないか。という人も多いようです。中でも、水上駅を出てすぐという立地にあり、無残な姿をさらけ出している「OM」。既に新幹線開業前に事故が原因で営業停止処分を食らい、そのまま廃業、その後荒れるに任せ、今や「水上温泉衰退の元凶」とも言われるようで、地元でも「温泉街の入り口に巨大廃墟があっては薄気味悪い、町の印象を余計悪くしている。早く何とかしてくれ」という声は強いようです。温泉街の北側に離れた一軒宿のような場所にあり、列車の窓からも見えた、団体客・宴会をメインとしていた巨大旅館で、やはり「水泡経済」崩壊後の時世の変化に対応できず12年前に廃業、廃墟化している「OT」、温泉街の中心部にあり、かつては「お色気路線」を売りにしていたという、今は取り壊されている「SK」等々…今も残っているホテルなどでも、経営不振に陥っていったん「倒産」したり経営体が変わったところも多いようで、今や昔の姿を残しているのは、かつてCMにも盛んに流れていた、チェーン店の「J」ぐらいではないでしょうか(こちらの記事)。草津・伊香保と並んで「上州三大温泉」の1つに数えられていた水上温泉は、今ではその地位から陥落、「神隠し」のモデルともなったという老舗旅館がシンボルになっている四万温泉に取って代わられたようにも思えます。私は水上温泉には十数年前に一泊したことがあったのですが、思えばその頃から「温泉街がさびれている」ような印象が結構見えていた気がしていて、私がその時に泊ったホテルも経営体も名称も変わっていました。
食事に時間がかかったのと、暑さもあり、先の「OM」の少し先まで歩いただけで引き返して水上駅に戻り、またも「鈍行」で高崎へ。今の水上駅は、駅舎の正面は模様替えされていたように見えましたが、既に特急も駅弁も消え、エレベーターなどバリアフリーの対応もなく、正直言ってあまり手を付けたくないのか、という感じにも見えます。高崎でようやく新幹線に乗り、帰途に…。

…とにかく暑かったこの夏、世界各地でも同じように記録的猛暑になったところが多かったとか。そこで、この夏の一曲…。
 ♭世界で一番熱く光る夏 もうこのトキめき(←妙高市を通っている路線)止めないで~([105396])

道中記はこのくらいにして…
[108730] あきごんさん
15年前の話です。さゆりさんは上野発の夜行列車(午後8時ちょうどのあずさ2号)に乗りました(以下略)
これは、「パロディ」なのでしょうか? それとも。TVドラマによくある「登場人物・企業名は実在のものとは一切関係ありません」ということと見るべきなのでしょうか?
以前にも書き込んだことがありますが、「新宿発8時ちょうどのあずさ5号」(昔の「あずさ2号」)、新宿から乗ったことはありませんが、八王子から乗ったこと、何回あったのか、もう10回近くになったのか、数えきれていません…。
[108735] メークインさん
寝台電車特急はくつるでも、9時間半ぐらいかかったのですが。(最速はつかりでも8時間半だったような)
その昔、上野発の夜行列車「はくつる」、上野から北陸方面に向かう特急「はくたか」と、北陸線か信越線だったかにあった急行「しらゆき」というのがあって、勝手に「清酒列車トリオ」と呼んでいました…。今では「はくたか」は北陸新幹線に「出世」し、「しらゆき」は新潟県内のローカル特急として運行されていますが、「はくつる」は復活していないような…

♯「十番勝負の改革案」については、後ほど。
基本的には、白桃さん([108718])、あきごんさん([108721])、デスクトップ鉄さん([108722])あたりとほぼ同意見で、無理して性急な改革はしなくてもよいような気がします。ただ、グリグリさんの提案([108712])については必ずしも全否定というわけではなく、後日時間の余裕があったときに考えてみようかとも思うところです…。
[108700] 2023年 8月 29日(火)21:47:19伊豆之国 さん
避暑の旅のつもりが猛烈残暑の道中記 & 慶應 甲子園「初制覇」
去る23日より2泊3日の旅の道中記、クイズ形式で。

朝7時過ぎに我が家を出て、2度の乗り換え、電車の中で県境を越えたり戻ったりしているうちに、【A市】の中心駅から乗った特急は、その昔、昭和歌謡で一躍有名になったあの列車の後身、始発の大ターミナル駅の出発時刻も当時と全く同じ。「国電」区間が終わる駅を過ぎ、長いトンネルを抜けた先は、合併によって今や我が家のある市の一部、でも市の中心部に鉄道で行くにはいったん県外に出ないと行けない。左手に人造湖を眺めつつ、次の県境越えがこれで今回の道中で5つ目。私鉄が分岐する、その県内の市で人口が最小の【B市】の駅は素通り。峠越えの長いトンネルを抜け、広い盆地に入ると、かの霊峰が見えるはず…でしたが、生憎の天気で山は見えず。そして【A市】の駅を出て次の停車駅で、駅前に名だたる戦国武将の銅像も建つ県庁所在地【C市】の中心駅を過ぎてしばらくすると上り坂の連続。北海道に異字同音の市がある【D市】…ここまでは昨年秋と全く同じルート。出発時点で降っていた雨は、【B市】を過ぎて盆地に入る頃にはやみましたが、間近に見えるはずの霊峰を拝むことができないままだったのも全く同じ。しかし、今回は【D市】の駅では降りず、そのまま乗車を続けます。まもなく県境を越えると下り坂になり、やがて【E市】へ。この市名を冠する湖では、夏の花火大会が有名で、今年は久しぶりに開催することができたようです。【F市】の駅で旧ルートと分かれて長いトンネルを抜けると、【G市】。この市の駅で再び旧ルートと合流した「本線」は「大都会」【H市】に向かう線で、ここからは名前の上では「支線」になるのですが、【H市】から向かう特急も合流して「幹線」として扱われる主要路線になっています。乗った列車は【I市】からローカル線に直通しますが、【I市】のターミナル駅で下車。6年前の春の連休にも訪れているのですが、その時はパスした、国宝の名城へ。この城を訪れるのは実に25年ぶり。天守閣には行列ができるほどの賑わいでしたが、内部は防御を重視した構造もあって、階段は急なものが多く、体力の衰えを自覚している身には、この暑さもあって、相当しんどいものがありました。外壁は黒塗りが目立ち、同じく国宝で世界遺産にもなっている関西の名城と対照的な印象を受けました。
【I市】からは「鈍行」で県庁所在地【J市】へ。この区間、「鈍行」でしか味わえないのが、スイッチバックの駅と眼下に広がる棚田の絶景。この絶景が見られる場所は、平成の大合併で、昨年秋に泊まった温泉がある地域と同じ【K市】になっています。この路線の名になっている、現在は【J市】の一部になっている消滅市【L市】名の駅で、かつての大幹線だった、新幹線開業で第三セクターに転換された路線と合流しますが、【J市】の中心駅まではJRのまま。この駅で乗り換えて、この県で人口最小の市ながら新幹線も停まる【M市】の中心駅に向かうのですが、【J市】の中心駅からローカル線が分岐する、旧【N町】の駅までは、前記の第三セクターに転換されており、JRも第三セクターもどちらも分断された形で、何ともしっくり行かない、ちぐはぐな対応。合算運賃を取られて割高になっては、沿線住民も納得が行かず、「鉄離れ」が一層進んでいるようで、もう少し柔軟な対応ができなかったのか、というのが正直な感想でした。とにかく、このような現状と、【M市】の駅に停まる新幹線の本数が少ないことから、乗車駅で買った切符は【J市】の中心駅までとし、ここでいったん改札外に出て小休止。この市を代表する名刹は、6年前に拝んでいるのでこちらはパス。結局、時間もないので「鈍行」のディーゼル列車で【M市】へ。2両編成でしたが、前の車両はイベント列車対応の特別仕様。といっても特別料金を取る臨時列車ではないので、「乗り得」といった感じでした。駅前からバスで、目指す高原のホテルへ。この辺りは冬場のスキー客がメインなようで、バスはほぼ貸し切り状態。入浴と夕食を済ませた後。ホテルの外へ。夜空を見上げると、まだ雲が少し残っていたものの、頭上を見上げると七夕の織姫・彦星と、仲を取り持つ?白鳥の姿が綺麗に見え、北の方に目を向けると北極星を挟んで北斗星とカシオペアが向かい合って…。それにしても、この時期とは思えない異常な暑さ。「真夏の平均最高気温は24℃」とあったのですが、宿に着いたときの玄関の温度計は27℃。冷房もフルに効いており、平地にある周辺の都市の最高気温は軒並み35℃以上の「猛暑日」。夜になっても気温は下がらず、高原の涼しさに備えて持ってきた長袖は結局無用に終わりました…。
ところでこのホテル、地図で見ると県境のすぐ近くにあり、建物は【M市】にあるのですが、目の前の道路に県境の標識があり、県境の先は【O市】。翌朝起きて周りを少しぶらぶらして見ると、夏季休業中と思われるスキー客相手の施設や、別荘・ペンションなどが、県境の両側にそれぞれ立ち並んでいるようで、ふとホテルの玄関先の階段の足元を見ると、県境を示すプレートがありました。
ホテルからバスで【M市】の中心駅に戻り、市街地を散策。この【M市】には6年前、【J市】から出ている私鉄の終点がある【P町】のホテルに泊まった時にも訪れているのですが、今回はこのときに見ていなかった寺院などをまず回ることに。茅葺屋根の寺院は工事中で中を見られなかったのは残念でした。そのあと、豪雪地帯ならではの「和風アーケード街?」を抜け、人形の展示館を見て駅に戻るのですが、この猛烈な暑さに体力も大きく消耗。冷房の効いた車内に入ったとき、ようやく安心できたのでした。列車は大河に寄り添ったり離れたりしながら、【Q村】の駅を出てすぐに県境越え。この列車は【R市】の駅が終点で、この駅で接続する列車に乗り継ぎ、更にその終点で乗り換えればJRだけで【S町】方面に行けるのですが、大回りになるため【R市】の駅で、こちらも第三セクターの路線に乗り換え。乗り換え時間が短く駆け足でした。この線も新幹線の影響を受けて経営が厳しいと言われていますが、この時乗った1両だけの列車は、車内は通学生で混雑しており、やはり冬が長い寒冷地とあってか、夏休みは既に終わっていたようでした。
この列車はJRに乗り入れて【S町】まで直通するのですが、【T市】の旧【U町】に立ち寄りたいところがあり、この列車はJR線内の途中駅に停車しないため、JRと合流する【T市】の旧【V町】の駅で、後から来る「鈍行」に乗り換え。旧【U町】の駅で下車、伝統工芸の織物の展示館と、この地出身で豪雪地帯の厳しい暮らしを綴った江戸時代の文人の記念館を見学。そして【S町】の温泉旅館で2日目の夜を。街はずれの高台にあり、部屋の窓からは新幹線の走る姿が見え、良質の温泉は疲れを癒せた気分に。一泊朝食付き、夕食は街の繁華街で、というプランで、市街地までは10分余り歩くのですが、ほぼ一本道で分かりやすく、駅に近い方はこれまで何度も「立ち寄り湯」などで歩いたことがあって土地勘があったため、迷うことはありませんでした。沿道には小規模なホテル・旅館・民宿などが立ち並んでいるのですが、冬がメインの観光地、廃業したようなのは少なかったのですが、やはりこの時期は休業、といった感じに見えたのが多く、やはり「冬だけ営業」というところが多いのでしょうか。夕食をいただいた店は、この地特産の肉料理が名物という店。宿に戻る道を歩いて空を見上げると、谷間なので見える範囲は狭いのですが、ここでも七夕の星やカシオペアなどがはっきり見えました。
ところで、この旅館はあの国民的名作が生まれた場所として名高いところ。作品が執筆された当時の客室も館内に再現されていました。翌朝の朝食は、和風旅館でも増えているバイキング形式ではなく、本格的なお膳。さすが米どころ、ご飯は地元の超ブランド米でした。遅めの出発、駅までは行かず、道筋の途中にあるロープウェイで、冬はスキー場として賑わう、【S町】の名を冠する高原へ。展望デッキからは周囲の山々が一望。そこからリフトで下ったところにある高山植物園へ。夏から秋への中間期で、しかもここでも猛烈な暑さ。咲いている花は少なめでやや寂しい感じもしました。この【S町】では、「水泡経済」期になって、温泉街を見下ろす高台などに相次いで建てられた高層リゾートマンションが、景気の悪化などで空き家だらけになって。廃墟同然になったり、「ただ同然」の家賃でようやく借り手がついた部屋も多い、といった話が、TV番組などでも放映されていたことがありました。
【S町】からは新幹線で一気に戻ることも有りでしたが、やはりあの名作に出ている景色を、ということで、今では「逆コース」になるものの、単線だった時代のルートである上り線に乗って、長いトンネルを抜け、やがて県境を越えて【W町】へ。この区間は今では「鈍行」ばかり5往復程度という「閑散区間」になってしまいましたが、夏山登山と思しき客が結構乗っていていました。この列車の終点の【W町】の温泉街の玄関の駅で下車。かつては団体旅行でにぎわった歓楽温泉街として栄えたこの町も、新幹線のルートから外れてからは凋落の道をたどり、観光スタイルの変化にも対応できず廃業・廃墟化した旅館・ホテルなどが相次ぎ、中でも駅のほど近くには荒廃が激しい廃墟旅館があり、地元でも「早く何とかしてくれ」という声が強くなっているようです。駅舎も改装されたように見えましたが、今では特急も来なくなり、駅弁も消え、バリアフリーにもなっておらず、寂寥感がありありといった印象でした。某TV局の番組で取材に来たという駅前の食堂で、この県の名物という麺類料理を。具が多くで完食するまでに結構時間がかかり、列車の時間が迫っているので温泉街の結局の中心までは行かず引き返し。この県で人口が最多の【X市】の駅から新幹線に乗り換えて、帰路に。

…文中の【A市】~【X市】までの市町村名を答えてください。ヒントも豊富なのでそれほど難しくはないと思いますが…

ところで、23日に行われた全国高校野球の決勝戦で、慶應義塾高校が連覇を目指した仙台育英高校を破り、第2回大会(1916(大正5)年)以来、実に107年ぶり2度目の優勝を果たしました。この107年ぶりという期間の長さは、これまで最長だった作新学院の54年(1962→2016)、春も含めても広陵の65年(1951→2016)を大きく上回る最長ブランクの新記録となりました。また、慶應が前回優勝した当時は、甲子園はまだなく豊中球場での開催であったため、今回が「甲子園」での初制覇ということになりました。そして、私が出題した「第二回・チャレンジトライアルの問六」の解説記事([105196])で
学校が移転した各校のうち、日大三高と早実は、共に移転先の市(町田市、国分寺市)でも全国制覇を果たしています。一方、慶應は、横浜市に移転してからも「甲子園」の出場はありますが、全国制覇はまだ果たしていません
と書き込んでいたのですが、今回の優勝で移転前(東京都港区…当時は東京市芝区)と移転後(横浜市)で共に全国制覇を果たしたことになり、ここでも「早稲田」に並ぶことになったのでした。


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