[105925]で出題した道中記クイズの解答発表です。
【A】~【P】までの市町村名は…
A市:八王子市 B市:大月市 C市:甲府市 D市:北杜市 E(町):清里(町) F村:南牧村 G村:川上村 H市:佐久市
I市:小諸市 J市:千曲市 (旧)K町:戸倉町 (旧)L町:上山田町 (旧)M市:更埴市 N市:上田市 O市:東御市 P町:軽井沢町
…でした。
[105929] あきごんさん
[105930] メークインさん
[105939] 千本桜さん
いずれもお察しの通りですね。
行程は次の通りです。
初日は、八王子駅から特急「あずさ5号」に乗車。この列車の始発駅・新宿駅の発車時刻は8時ちょうど、まさに昭和歌謡で歌われたかの「あずさ2号」の後身。高尾駅を通過してトンネルを抜けるとそこが相模原市、というのがいまだに違和感が抜けきれません…。富士急の電車を横目で見て、大月駅は通過。笹子トンネルを抜けて甲府盆地に入ると間もなく富士山の雄姿…のはずでしたが、どんよりした曇り空で姿は見えぬまま、山梨県内で最初の停車駅・甲府駅に到着。「国電」区間での事故による遅れを引きずり、この時点で10分以上の遅れ。次の停車駅・小淵沢で小海線に乗り換えるのですが、余裕の乗り換えだったのが一転駆け足の乗り換えになり、指定席が乗り換えの階段から遠かったこともあって、足腰の衰えを自覚している私にとって非常にしんどいものがありました。
小海線の列車はディーゼルの2両編成。乗った車両の番号を見ると「キハ111-111」、見事なゾロ目ナンバー! やがて樹林の中の別荘地帯へ入り、真新しい建物も見られるものの、廃屋化したようなのも目立って寂れかけているような光景が続く中、清里駅に。この清里界隈には。私も十数年前に訪れており、その頃は「水泡景気」でにぎわった全盛期の残影がまだ随所に見られた時期で、私のような「オジサン」には場違いな、若い女性を相手にした「ファンシー雑貨」の店やブティック、喫茶店などが立ち並び「高原の原宿」の異名もあった頃の空気がまだまだ濃厚に残っていたものでした。その時は、街はずれ?のステーキハウスで昼食をとっていて、結構行列ができていた記憶がありました。
今の清里は、こうした店舗の多くは店じまいし、駅やその前後の車窓からちょっと見ただけでも、「やっていない」感がありありという店が多いように見受けましたが、近年のレポート記事のいくつかを見る限り(
例)、朽ち果てて廃墟化したような建物は案外少なく、営業をやめてから久しくなっていても、外観はまだ綺麗なのが多く、不動産業者などで管理している物件が多いのでしょうか。
駅舎の脇にSLが鎮座していた清里駅を出て、しばらくすると景色が樹林から草原に変わり、JR最高地点を過ぎるのですが、昔はなかった新しい建物が建っていて、最高点の標柱を見逃してしまいました。甲斐の国から信濃の国に入り、JRの駅で最高地点にある野辺山駅を過ぎ、川上村へ。この川上村は、高原野菜の栽培が盛んで、農繁期に「お手伝い」でやってくる外国人の出入りによる不思議な人口変動について、
8~9年前の白桃さんの一連の書き込みがありました。私も列車の中で、信濃川上駅から外国人の小集団(顔立ちなどから見て、中南米系?or東南アジア系?)が乗ってきたのを見ていました。
ところで、「川上村」という名の村は、かつては全国に20か所もあったようですが(
[83666])、現在も残っているのは長野県のほかには奈良県にあるのみ。その奈良県川上村の深刻な現状は、奈良県民のあきごんさんの書き込み(
[104841],
[104847])にありました。
列車はやがて佐久市へ。旧臼田町域には、函館の五稜郭と形がそっくりで規模がだいぶ小ぶりの「信州のミニ五稜郭」龍岡城(
[96257])があり、同名の駅もあるのですが、駅から遠く車窓からも見えず、悪天候もあり諦め、中山道の宿場町として栄え、佐久市の「前身町」にもなっている岩村田で下車。この「岩村田」の読み方、いままでずっと「いわむら"た"」だと思い込んでいて(小海線には過去3度ほど乗っているのですが…)、千本桜さんの
[97039]の書き込みを見て初めて「いわむら"だ”」と濁るのが正しいと知ったのでした。駅の近くには駅伝や野球で名高い佐久長聖高校があり、駅前からも見えるのですが、駅は宿場の中心から少し離れた場所にあり、中心街に入るとアーケード街になっていましたが、ご多聞に漏れず、このような地方都市にありがちな「シャッター通り」の感がありあり。雨が激しくなり、またお昼時になったこともあって、アーケード街から横町に入ったところにある蕎麦屋で名物の信州蕎麦に舌鼓。そのあと近くにある、阿弥陀如来がご本尊の
西念寺にお参りして再びアーケード街に戻り、抜けた後、武田信玄ゆかりの
龍雲寺へ。境内には信玄公の霊廟もありました。
雨は更に激しくなって、列車の時刻の関係もあるので、他に見どころもあったのですが、宿場歩きはこの辺で切り上げて駅に戻り、小諸へ。乗った車両の番号はまたも「キハ111-111」。後で時刻表を見て運用を推測したら、小淵沢から乗った列車が小諸に着いた後、中込まで行って折り返した車両だったとわかったのでした。岩村田を出ると、次の駅は新幹線と接続する佐久平駅。駅前には大型店が立ち並び、すっかり繁栄を奪われた感のある岩村田も、市役所がある中込も引き離して、今や佐久市の玄関の駅としての地位を確立したといって間違いないでしょうか。
終点の小諸で降りると、雨は上がり、陸橋を渡って駅の反対側にある懐古園へ。今まで何度か訪れていたのですか、最後に訪れた時より十数年たっており、城門をくぐった中に入ってからの景色がどんなものだったかを覚えているか不安だったのでしたが、島崎藤村の記念館、千曲川べりの高台に建つ展望台と歌碑、城跡の遺構など、歩いているうちに記憶を呼び覚ましてくれたのでした。いったん城外に出て、この地ゆかりの画家・
小山敬三画伯の美術館とアトリエを見学。手前には「寅さん」の記念館もあったのですが、こちらは既に閉鎖されて久しいようで、外観を見てもだいぶ荒廃しているようでした。
再び陸橋を渡って小諸駅の正面側へ。小諸市の中心市街は、「DID」が消滅するなど、佐久平に商業圏を持って行かれて斜陽化が進んでいるようなのですが(
[103275])、次の列車の出発時刻まで余裕がなかったため足を運ばず、この日の宿の最寄り駅、戸倉駅で下車。駅舎内には土産物屋や立ち食い蕎麦屋もあり、駅前通りの入り口には「戸倉上山田温泉」の文字が掲げられたアーチとその横には旅館名が列記された看板?があって、温泉地の入り口の駅という雰囲気はありましたが、新幹線ができる前、上野発の特急が多数運行されていた頃、当時の隣の駅で旧更埴市の中心駅であり、今は廃線になった長野電鉄「河東線」との乗換駅でもあった屋代駅は通過する特急が多かったのに対し、この戸倉駅には特急の大半が停車し、信州有数の歓楽温泉地の玄関として賑わった栄光も今は昔、新幹線ルートから外され、第三セクター路線の一中間駅に甘んじる形になった今となっては、温泉街へ行くバスも消え、タクシーもなかなか来ず、たまたま夕暮れ時だったこともあってか、何とも言えぬわびしさを拭えなかったのでした。
温泉街は千曲川を渡った対岸にあり、このロケーションは今春の連休で投宿した伊豆長岡温泉と似たように見えました。この日投宿したのは、千本桜さんの推測(
[105939])通り、チェーン店のシティホテル。このチェーン店のホテルには、温泉でなくても大浴場があるところが多く、「三点セット」のユニットバスでは我慢ができず「せっかくの旅情が台無し」というタイプの私は、このチェーン店のホテルを予約することが多くなっています。今回宿泊したホテルには、小さいながらも温泉大浴場があり、ほのかに硫黄の香りもして温泉気分を味わうことができました。このチェーン店の「温泉付きホテル」には、6年前に上諏訪温泉でも宿泊していました(
[90510])。
この「戸倉上山田温泉」という名称ですが、地図を見ると温泉街の大部分は旧上山田町域にあり、旧戸倉町域の部分はごくわずかなもので(
地図)、旅館も3軒ほど(他に対岸の戸倉駅のある側にもあるようですが)。千本桜さんの疑問ももっともな気もしますが、範囲が上山田地域に比べ圧倒的に狭い「戸倉」が先なのは、駅があることのほかに、戸倉地域にある、この温泉街を代表する大旅館の1つで、皇室御用達であり名士の宿泊も多いSホテルの存在も大きいのでしょうか。温泉街は、以前に比べれば寂れたのでしょうが、居酒屋や風俗営業の店も、既に店じまいした感じのところも多いとはいえ、まだまだ健在のところも多く、夜になって雨もやんで風呂上がりで外出して見ると、「客引き」の姿も見かけました。
ところでこの温泉地で、その筋の「オタク」仲間で有名なスポットが、上山田地域の山裾にあった巨大廃墟「
信州観光ホテル」。無理な増築を繰り返し、山肌に張り付いた、中は迷路のような巨大ホテルになっていたようですが、「水泡景気」の崩壊とともに業績も急降下し経営破綻、長野五輪を目前にして破産宣告を受け営業停止。その後長い間廃屋状態になっていて、「廃墟マニア」の間で「名所」になって、格好の「心霊スポット」になっていたそうですが、4年ほど前になってようやく解体業者の手に渡り、建屋の大半は解体されたのですが、山肌に張り付いているコンクリートの構造体などが解体困難ということで一部が残されたままになっており、厳重立ち入り禁止になっていた敷地の入り口には「信州観光ホテル」の立て看板もまだ残っていました。
翌朝は、タクシーを呼んで戸倉駅に戻り、列車に。上田市の城跡と中心街は大河ドラマが放映された6年前に見ているので(
[90510])、パスして東御市にある「
海野宿」へ。この宿場の街並みは、私が40年ほど前に当時の信越線で通過した時、車窓から煙抜き?の「越し屋根」のある民家が連なっていた光景が気になって、のちに歩いたことがあったのですが、当時は観光施設もなく、「よくこんな見事な街並みが残っていたなぁ」と妙に感心したくらいでしたが、今回、初めて本格的な街並み歩きをすることにしたのでした。
上田市の東端にある大屋駅で下車。半世紀余り前まで、上田市の市街地の外れにあった「上田東」駅と現在は上田市の一部になっている丸子町とを結んでいた「上田丸子電鉄丸子線」が接続しており、この線にはかつて甲府駅前から現・南アルプス市を経て現・富士川町の青柳とを結んでいた「山梨交通」の電車線の車両のうちの2両が走っており、山梨交通線の廃線(昭和37年(1962))後にこの丸子線に移り、丸子線も7年後に廃線となって、「江ノ電」に引き取られて昭和61年まで活躍を続け、そのうちの1両が引退後に里帰りして富士川町内の公園に保存されています(
記事、
SV)。
今は無人駅になっているらしい大屋駅を出て東に向かうとすぐに東御市に入り、しばらく住宅地になっていましたが、ところどころに「海野宿まで○m」の道標も建っており、人の背丈ぐらいの低い柱に小型の釣り鐘のようなものがついている「消防団が鳴らす警鐘?」もいくつか建っていました。歩くこと十数分、両側に古い民家が立ち並び、道の片方に寄った水路が通っている街並みが見えて、そこが重要伝統的建造物群保存地区にも指定されている「海野宿」の街並み。資料館や案内看板も整備されて街並みの歴史を知ることができ、江戸時代には北国街道の宿場として栄え、明治になって宿場の機能が衰えると、代わって養蚕が盛んになり、「うだつ」が上がった民家はその養蚕で富を築いたその象徴とされ、その昔車窓から見て気になっていた「越し屋根」は、養蚕のときの空気抜きだと知ったのでした。宿場の東の外れにある「白鳥神社」は木曽義仲挙兵の地とされ、境内や街道筋には「木曽義仲」と大書された幟も見かけました。
宿場の街並みが途切れた後は、住宅地が続き、しなの鉄道線の踏切を渡って線路の北側に入り、歩くこと十数分で田中駅に。もともとはこの地にあった田中宿が本来の宿場で、洪水の被害を受けたために海野地区に宿場の機能が移ったといい、その後田中地区も復興したようで、明治になって直江津から開通した信越線が長野を経て軽井沢方面へと伸びてきたとき、上田の次の駅が海野でなく田中にできた(開通当時は大屋駅はまだなかった)のは、おそらく当時も田中のほうが集落の規模が大きかったという単純な理由で、海野地区が「養蚕の邪魔になる」などとして反対したようなことはなかったように思え、その後海野地区を挟んでほぼ等距離の位置に大屋駅ができたため、両駅の中間になって鉄道の恩恵から取り残された海野地区の街並みが結果として残ったのでしょうか。
田中駅は、東御市の中心駅(代表駅)という位置づけになっているようですが、駅前には大した商店街も見当たらず殺風景。駅の中には、「田中」と書く駅が台湾にもあることから、その台湾の「田中」駅と姉妹駅を締結した、という写真付き記事も張られていました。この「台湾にある日本と同表記の駅」の話題は、8年ほど前に白桃さんが
[85173]で書き込み、私もレスしていました(
[85174][85241][86731])。ホームには、「全国の田中さん大歓迎」の横断幕もありました(ついでに、全国の「田中さん」の人数は約140万人、全国ランキング4位。西日本に多く見られ、大阪・京都・兵庫・福岡など9府県で最多。長野県では2位(トップの「小林」さんにはトリプルスコアに近い大差をつけられていますが…それでも東日本(信越・東海以東)では最上位。そういえば、そんな苗字の元知事もいましたね…)。
その田中駅から列車に乗り込み、小諸駅止まりだったので乗り換えて軽井沢駅へ。駅の反対側のショッピングモールで昼飯…ですが、さすがは大観光地、雨中にも拘わらず大勢の観光客でごった返し、食事にありつくまで1時間ほど待たされることに。帰りの新幹線の指定席は発車時刻に余裕を見て買っていたこともあり、そのあと正面側のホームにある「アプト式」時代の機関車や、駅前にある「軽便」
草軽電鉄の機関車などを見て、新幹線で東京駅に戻りました。