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hmtさんの記事が10件見つかりました

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[101396] 2021年 2月 10日(水)19:44:27hmt さん
地名表記における【漢字の】異字体問題
[101383] MI さん   蘇原町?蘓原町?
引用されたとおり各務原市設置時の自治省告示が「蘓原町」であったことは以前から承知しておりましたが、これは誤植であろうと
判断していたものです。その理由は、以下の史料がいずれも「蘇原」であったことによります。【中略】

しかし ekinenpyou さんの [101381] を拝見し、あらためて各務原市例規集を確かめますと、【中略】単純な誤植では片付けられないことが分かってきました。
そこで、官報情報検索サービス(有料)で1947(昭和22)年0503以降を検索したところ、大部分は「蘇原町」としている一方で、以下の告示では「蘓原町」と表記していることが分かりました。
どうやら「蘇原」と「蘓原」両方の表記があったということのように思いますが、それ以上については分かりませんでした。

多数の事例を提示していただき、有り難うございます。

市区町村変遷情報で確認するると、「蘇原」5件、「蘓原」0件であり、「蘇原」に統一されています。
「蘇原」に統一された理由を示す記事は未発見。

常用漢字表には収録されていませんが、蘇生【よみがえる】、紫蘇などに使われている「蘇」が正字とされているようです。

同じパーツで「艸 = くさかんむり」の下の「魚」と「禾」との位置が左右逆転している「蘓」という漢字の存在。
これは 知りませんでした。

同じ漢字でも、パーツを置く位置が違う「異字体」があることは、「群馬県」の事例[36083]で心得ていました。
それと同類なのですね。
「群馬県」の「群」という字は、音符の「君」が「羊」の左に置かれた常用漢字の字体(もともと俗字)でなく、「君」が「羊」の上に置かれた本来の漢字で記されていました。

今回の「蘇」と「蘓」。3つのパーツは 農業に関係する「艸=草」と「禾=穀物」、それに漁業に関係する「魚」です。
農業主体の日本でしたから、分類を示す「かんむり」と 本体を示す「つくり」に植物を使い、修飾的要素として「魚」を「へん」に使った。
このような仕組みで 「蘇」が正字として使われることが多く、変遷情報の記載も「蘇原」に統一された。
----------こんな解釈で いかがでしょうか?
[101379] 2021年 2月 4日(木)15:42:29hmt さん
杖立と氷見と2回の 「オフ会関連記事集」を 確認できました
[101376] グリグリさん
URLも修正していますので、オフ会記録ページ自体も再読み込みしてください。

第13回杖立と 第12回氷見との 「オフ会関連記事集」の件
ご指示に従い、いずれの記事集も閲覧・記事内容を 確認することができました。ありがとうございます。

ついでに、杖立の近況を報じた[101363]の中に誤記があったので、修正します。
放送で「別の顔は男芸者」と紹介されたのは、老配管工でした。
2020年の水害で被災し 再建中の老舗旅館主人 と記したのは誤記。お詫びします。
[101375] 2021年 2月 3日(水)15:21:33hmt さん
21/2/3 Re:オフ会記録の記事集リンク不備
[101371] グリグリさん
確認し修正しました。UTF8対応時のミスだったようです。

お手数をかけましたが、私のPCでは修正を確認できませんでした。
もちろん、再読み込みはしたが、やはり修正を確認できず。
最新のWindows10機能更新プログラムにするための再起動を実施した後に、同様の修正確認を試みましたが、結果は同様でした。
[101363] 2021年 2月 1日(月)10:48:51hmt さん
杖立・昨年夏の豪雨被害
昨日 1/31朝、NHKで放送された 小さな旅:「湯けむり 守り守られて ~熊本県 杖立温泉~」。
2016年の 第13回落書き帳公式オフ会の会場として記憶に残る地名です。
番組を見て、現状を少し知ったので報告しておきます。

熊本県小国町にある杖立温泉は江戸時代から湯治場として賑わってきました。
しかし、熊本地震の後で私たちが訪れた後にも 自然災害による 厳しい試練は 続いているようです。

2020年7月11日の記録的な豪雨で 杖立川が氾濫。杖立温泉が一時的に孤立するなど、地震と台風との爪痕が残る状態。

町のすみずみまで張り巡らされた 500本以上の温泉配管網を修理しているのはたった一人の配管工。本人も助手も高齢です。

町の人たちは温泉の守り神の薬師堂を大切にしてきました。
豪雨災害で大きな被害を受けた老舗旅館で再建を目指し奮闘する主人。
温泉街再建を盛り上げている人ですが、別の顔は男芸者。湯けむりに包まれた町で支え合いながら暮らす人たちを訪ねます。

概ねこのような内容が放送されたと思います。
2016/9/18-19 開催の 第13回落書き帳公式オフ会に記録 されているように、2016年オフ会は四国・愛媛県の予定でした。
しかし、熊本大分地震被災地支援の目的から 変更され、九州ふっこう支援割引旅行券の活用もあり、例年より早めて9月に実施されました。
台風シーズンや、公共交通インフラが正常でない環境を克服して、成功裏に進めることができたことはご承知の通りです。

会場の「ひぜんや」は、大分県日田市の側から入る「県境の温泉旅館」なのですが、公式の住所は熊本県小国町です。
今回の放送では「大分県」についての言及は皆無でした。

放送によると、高温の温泉水は 食品の「蒸し場」として 町中で利用されています。
硫黄分を含まない温泉で、食品に異臭が付かないのが特徴。
しかし、高温で腐食性のある温泉水の扱いは危険を伴います。
番組に登場した配管工も、入院3ヶ月の火傷経験 がありました。

番組で知った杖立の厳しい現状のことはさておき、落書き帳オフ会の記録における「リンク不具合」を発見したので、
報告しておきます。

2016/9/18-19 開催の 第13回落書き帳公式オフ会の記録で、
「オフ会記事集」と名付けられたリンクを開いてみると、デスクトップ鉄さん出題の三番勝負関係だけでした。
これは オフ会終了後に 不参加の方のために公開された Q&A であり、本来の「オフ会記事集」ではありません。

第12回氷見の記録 にリンクされた「オフ会関連記事集」を開いてみると、
その内容は ●第10回落書き帳公式オフ会「オフ会関連記事集」であり、これも 正しいリンク先になっていません。

第11回石和の記録のリンク先は、
正しい 第11回落書き帳公式オフ会「オフ会関連記事集」でした。

このように、リンク状態不良の故に アクセス不可能になっている貴重な記事集があるようです。
よろしく 対処をお願いします。
[101338] 2021年 1月 24日(日)17:20:18hmt さん
♪兎追いし かの山
[101335] Takashi さん
平成の大合併まで存在していた長野県の豊田村

2005/4/1 に中野市になった 長野県下水内郡豊田村は、国文学者・高野辰之の「故郷(ふるさと)」で
♪兎追いし かの山 小鮒釣りし かの川
があった土地 ですね。

…ということで、高野辰之作詞・ 岡野貞一作曲という コンビの作品について語った 過去記事 [51171]をご紹介しておきます。

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国文学者・高野辰之の ♪兎追いし かの山 小鮒釣りし かの川 があった「故郷」は、昨年【2005年】中野市になった長野県下水内郡豊田村であり、「春がきた」にも遅い春の到来を待ち侘びる奥信濃の風景が感じられます。

彼は若い頃に飯山に赴任したことがあり、「おぼろ月夜」は、この付近の風景を歌ったものとされています。晩年には飯山の近くの野沢温泉村に住んでいました。
♪菜の花畑に入日うすれ…は、野沢菜 の畑だったのでしょうか。

「紅葉」は今はなき信越本線熊ノ平駅付近からの風景と伝えられています。

このように、信州やそこに向かう道筋の風景があてはめられている他の作品と一線を画するのが「春の小川」で、これは20世紀始め頃の東京の風景を歌ったものでした。
(以下省略)
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大部分が過去記事の引用ですが、豊田村の名が話題になったことを機会に、若い読者にも 作詞者・高野辰之の名を知っていただきたく、一筆したためました。

余談
[21682] ゆうさん
 平成合併当時、「故郷(ふるさと)」の作曲者 岡野貞一の故郷【鳥取県】で、「かのやま町」という候補があったとか。
[101319] 2021年 1月 16日(土)16:31:53hmt さん
小字地名
[101316] 勿来丸さん
たぶんNG:各務原市(丑ヶ橋【各務原市の小字図(旧川島町を除く)】)
参考ページ【地名に見る各務原台地の開拓史】※恐らく旧地名、現在の各務原市蘇原申子町あたり?

【括弧内】は hmtによる補足説明です。

平成16年の合併で、旧・川島町の住所表記は変更されました。参考
しかし、「住所」に使われていない「小字地名」については、合併の前後を通じて 変更がなかったものと思われます。

従って、リンクしていただいた【各務原市の小字図(旧川島町を除く)】【岐阜市域が突出した四角形から南に進み、川を越えた先に、丑ヶ橋の存在を確認】は、現在も有効な資料であると思われます。

もっと新しい資料の【地名に見る各務原台地の開拓史】(2016)の 1.各務原市の地名 (3)地名の実例:最終行 にも「丑ヶ橋」が 明記されており、小字地名は 合併後も健在 であるようです。

現在の住所表記は 「各務原市蘇原…」 が使われており、小字地名の出番は少なくなっていると思いますが、
※恐らく旧地名
と決めつけて、 NG扱い にするのは 「やりすぎ」 ではないでしょうか?
[101287] 2021年 1月 12日(火)15:38:42hmt さん
Re:新潟を含む北陸
[101163] グリグリ さん
NHKの雪の予報のニュースを見ていたら、アナウンサーが「新潟を含む北陸」と表現していました。(中略)
私としては「新潟県を含む北陸」と言って欲しいのですが、それはまた別の論点。

遅いレスになりましたが、「別の論点」の類似例として、5年前の記事 [90577] を提示しておきます。
「青森県」を省略して「青森」と表記すると…
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NHK NEWS WEB の見出し表記が気になりました。
>青森 八戸が中核市に 来年1月1日から移行

「その道に詳しい人」ならば 青森市は10年前に中核市に指定済みなので、正規の表記「青森県八戸市が中核市に」を省略したものであると理解するでしょう。
しかし、「青森」の本来の意味は都市名です。
(中略)現在では県名と市名の両方に使われているので、自明でなければ正規の「青森県」又は「青森市」という表記で区別すべきです。
区別することなしに「青森 八戸が中核市に」と並べられたら、「普通の人」ならば「青森市と八戸市とが中核市に移行する」と理解してしまうのではないでしょうか。
(中略)新聞見出しでの「必要悪」とも言える 省略表記の存在意義は 薄れているはずです。
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[84067]と 同じ意見の繰り返し と記してあり、マスコミへの同様の希望は、今回で 少なくとも三回目になります。
要するに、「誰のための省略表記なのか?」ということ考えましょう ということです。
[100892] 2020年 12月 14日(月)10:09:03hmt さん
土佐国「沖の島」関連で 三浦大介義明
[100891] ekinenpyouさん
地域おこし協力隊の方が作成したページを 興味深く拝見しました。

後半部にあった「両藩の主張する沖の島の国境の図」。
これまで、南北に分断されていたものと思っていましたが、どちらかというと、東西分断状態の沖の島 であったことを知りました。

終り近くの◆三浦家一族の墓と題する画像に「三浦大介義明孫」とあり、過去記事[41805]を思い出しました。
hmtの出身地・津久井の先祖であり、89歳まで活躍した人物です。
彼が 後世まで「三浦大介(みうらのおおすけ)百六つ」と賞賛された理由は、過去記事を御覧ください。
【記事終】
[100886] 2020年 12月 9日(水)13:21:42hmt さん
海と島(41)「沖の島」情報に感謝
[100882] ekinenpyou さん
(北部の母島は)複数回訪れたことがあるのでコメントします。

伊予国宇和郡のまま 明治7年に愛媛県から高知県に移管され、2年後に土佐国幡多郡になった「沖の島」北部の 母島部落。
その地を 何回も訪れた ekinenpyouさん から、思いがけず、貴重な情報をいただき有難うございます。

hmtマガジン 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探るで記したように、現代人は「広域地名としての県」を常用。
江戸時代の 土佐国(高知藩)・伊予国(宇和島藩)から、高知県・宇和島県→神山県→愛媛県へと変化した時期を区別して考えることに馴染まず、行政庁【県】の所管変更と、地名国郡の変更についての混乱が生じていました。

人口は減少したが、島に残っている子供たちも居ます。僻地教育問題は避けられません。
そしてイノシシなど特定鳥獣との付き合い。

過疎地の無人化問題とは違い、「人口が激減した有人島」特有の問題があることを 改めて実感しました。
[100875] 2020年 12月 6日(日)13:10:12【3】hmt さん
海と島(40)土佐と伊予とに分断されていた 沖の島
東西南北端コレクションに 「愛媛県旧南端」として、備考の記載があります。
明治7年までは 沖の島【現在は全島高知県宿毛市】に県境があった

玄界灘の沖ノ島[86161]、西彼諸島の沖之島[30575]、琵琶湖の沖島[84080]、日本最南端の沖ノ鳥島[99957]
「沖の島」と書くと普通名称を連想する故か、地名として使用される例は少ないようです。

自治体名となると、居住者数なども問われるため、町村制施行時に誕生した 高知県幡多郡沖ノ島村 が唯一の例と思われます。
「沖ノ島村」は昭和合併の際に 宿毛市新設の一部として消滅し、現在の地名「沖の島」になりました。

現在の愛媛・高知県境から かなり離れた位置にある 面積約 10km2の離島。そんな島に県境が存在した理由は?

別名・妹背島の伝説はさておき、島の南西部にある 弘瀬部落の言い伝え によれば、鎌倉幕府の権力闘争に敗れた 三浦一族の開拓・統治の歴史がありました。これが土佐勢力支配の起源。
ところが室町時代になると 伊予宇和島勢力が 島の北部を支配し、文化の伝統が異なる土佐勢力との分断が定着。

江戸時代、宇和島藩領との国境争いは 幕府の裁定を仰ぐことになったが、土佐藩の主張(野中兼山)が優位。
明治4年7月の廃藩置県で、宇和島藩→宇和島県、高知藩→高知県となり、県名改称はありながらも、その後も県境が存在したようです。

日本にもあった分断統治の島 というページには、
沖の島の愛媛県管轄区域が高知県に移管されたのは、明治9年という記載がありました。
【追記】
太政官布告明治9年21号 M9/2/25 で確認
高知県管下伊予国宇和郡沖ノ島姫島鵜来島の儀 土佐国幡多郡へ編入候条此旨布告候事

昔のことはさておき、現代の沖の島が 高知県所属ということで 有利な立場を得たのは、高知県の漁業関係でしょうか。
大戦中は四国防衛の要衝として 沖の島区域の軍事基地化が進められ、島民への強制疎開命令も。
戦時中と言えば、沖ノ島村弘瀬を誕生地とする幼児。幼児期に 高知本土>堺に移住したが、後の 横山やすし です。

現在、孤島・沖の島の陸上では 過疎化が進行しています。
戦後の一時期に最大人口千数百人を数えた弘瀬部落は、2016年時点で 100人を切っているとか。Wikipedia
「島の宝 100景」で「石垣・石段とともにある暮らし」を選定するなど、観光事業に活を求めるも、苦しいところです。


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