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シリーズ・地域の地理雑学−神奈川県編−

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記事数=10件/更新日:2003年8月25日/編集者:YSK

神奈川県内の諸地域についての雑学をまとめました。既にアーカイブ化された横浜関連などを除いた、諸地域についてまとめています。

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[180]2001年2月26日
Issie
[2797]2002年8月27日
Issie
[2812]2002年8月28日
Issie
[2813]2002年8月28日
Issie
[4944]2002年11月16日
Issie
[5101]2002年11月20日
Issie
[8203]2003年1月25日
Issie
[12462]2003年4月4日
Issie
[19249]2003年8月23日
Issie
[19305]2003年8月25日
Issie

[180] 2001年 2月 26日(月)14:03:41Issie さん
Re:相模原ネタ
「相模原」ないしは「相模野」という地名は結構以前からあったようです。ただし,台地上を漠然とさす自然地名として。

1930年代後半に入り,相模原台地に軍事施設が進出するようになって「軍都構想」に基づく町村合併が具体化し,その結果が“わが国最大の面積をもつ町”「相模原町」の誕生となるわけです。相模原市史には合併の経緯についての記述がありますが,新町名については「相模町」というのも有力な案だったようです。
合併当時の「町」は,上溝町と座間町でした。それにあと6つの村を合併したわけです。構想段階では大和町(現大和市)や,早くも町田町(現町田市中央部)も合併候補に上がっていました。
座間は当初からこの合併に不満だったようです。「軍都計画」の舞台は,北部の上溝・相原・大野の旧3町村の境界地域(現相模原地区)であり,士官学校(現米軍座間キャンプ)を核に独自の都市化が期待できる座間から見れば北に寄りすぎていたせいかもしれません。座間町には「相模原」とは別の合併構想もあったようです。
で,座間は結局「相模原町」から再独立した。今,この地域には「座間・大和・綾瀬・海老名」4市合併構想があって,こちらの方が現実味がありそうですね。
[2797] 2002年 8月 27日(火)00:56:04Issie さん
Re^2: 相模原
>もともとの中心といえば、上溝の辺です。
>しかし今や完全に没落貴族です。

1941年に2町(上溝・座間)5村(相原・大野・大沢・田名・麻溝・新磯)合併で「高座郡相模原町」(当時の“町”では面積最大)が発足した当時,このあたりで最大の人口集積があったのは上溝でした。したがって相模原町役場→市役所もしばらくは上溝にありました。
相模原・津久井学区(現在は南北に分割)で県立移管以前も含めて最も古い県立高校は「上溝高校」(当初は郡立。県立移管後は高等女学校)です。次に古いのは橋本駅裏の「相原高校」で,当初の名前は「県立農蚕学校」。ついでに,相原駅の方がわずかに近いところにある「橋本高校」は,まだ20年ちょっとの歴史しかありません。

「相模原町」は自然に現在のような形での地域的一体性が生じて合併されたのではなく,1930年代に入って初めは南部の小田急線沿いに軍関連施設がバラバラと進出してきたことを背景に浮上した「軍都建設構想」の下,人為的に作られたものです。
現在は米軍の「相模総合補給廠」となっている陸軍施設の正門と上溝市街を結ぶ道路と,これに直交する道路(現在の国道16号)を軸に,満洲の新京を思わせるような壮大な都市計画が実施されました。
けれども区画整理が終わる頃には,日本は戦争に負けてしまって「軍都」も何もなくなってしまったのですね。

>駅前の道路が放射状に広がる相模原駅の一帯なのかな。

これが,その名残です。
戦後しばらくは,区画整理されたまま畑が広がっていたようですが,結果的にはこの都市計画は1960年代から激しくなる都市化・宅地化には十分に役に立ったはずです。
ともかく区画整理の段階で軍都計画は挫折してしまったので,中心市街地も形成されずじまいでした。で,南部の小田急線沿いは原町田(町田)へ,北部の橋本地区は八王子へ引っ張られていくことになりました。

JR相模原駅前に高層ビル(ほとんどがマンション)が集積するようになったのは,ここ15年ほど,きわめて急激なできごとです。
ただ,「軍都」の想定上の“都心”であった市役所周辺(ちょうど,もとの上溝町・相原村・大野村の境界線の交点付近にあたります)には,予定通り“官庁街”が形成されました。

橋本も相模大野も長い間,せいぜい周辺住民の日常的な買い回り商店街があっただけです(橋本はかなり寂れていました)。再開発で大型の商業施設が進出したのが相模大野は10年ほど前,橋本は去年・一昨年という程度です。大野はともかく,橋本はどうだか…。

なお,軍都構想当時から都県境をはさんだ「町田町」(現町田市中央部)との合併は話題に上っていたようです(「市史」によれば「大和町」(現大和市北部)も候補に上がっていたようです)。
実際,陸軍施設で「原町田」を名乗るものは実は町田町ではなく,相模原側の小田急・相模大野駅の近くにありました。
電話も「原町田電話局」の管轄。
現在(といっても“4桁時代”の)市外局番が町田市と同じ「0427」なのは,直接にはその名残なのかもしれません(さらに,城山町と津久井町も「0427」。この2町は実際,相模原との結びつきが最も強いのです。現在の市外局番は「042」)。
ただし,南部の相武台地区・新磯地区は座間の方の管轄なので市外局番が違います。

>しかしながら延長しても採算はとれないということで橋本開通を前に免許を返上しています。

橋本駅終点の高架末端の真正面にマンションが建ってしまいました。
京王電鉄が延長を完全に諦めた何よりの証しです。
[2812] 2002年 8月 28日(水)01:46:08Issie さん
厚木
>路線網が全国規模ゆえに広域性の強い駅名を好む国鉄にあって、小田急の
>本厚木を差し置いて、厚木市の玄関口と位置付ける思惑でもあったのかな。

実は相模線は戦時下の1944年に国有化されるまでは私鉄の「相模鉄道」でした。
この“初代・相模鉄道”の目的は2つ。
1つは相模川の砂利を採取し,東京の市場へ送り出すこと。
もう1つは相模川に沿った神奈川県中央部の各都市と八王子を結ぶこと。
本当は相模川右岸の平塚・厚木あたりを通りたかったのでしょうが,相模川に橋を架けることが困難なため,茅ヶ崎から相模川の左岸を北上することになりました。
でも,やはり厚木はカバーしたいですからね,橋をはさんで“最も厚木市街に近い所”に駅を設置して「厚木駅」としました(現在の厚木駅のホームよりも少し橋本寄り。操車場のようになっている所です)。
「新潟駅」が本来の新潟市街と信濃川をはさんだ反対側にあるのと同じです。

実は(初代)相模鉄道よりもわずかに早く厚木に駅を設置したのは,横浜へ向かう「神中(じんちゅう)鉄道」でした(この段階では厚木-二俣川間)。つまり,厚木駅は最初から2つの鉄道の接点として,この位置に計画されたわけです。
この神中鉄道は,相模鉄道ともども東横電鉄の五島慶太資本下に入り,1943年にその相模鉄道と合併・編入されました。そうなったのも束の間,茅ヶ崎-橋本間の“本線”が国有化されてしまったので,相模鉄道に残されたのは横浜-厚木間の路線だけでした。これが現在の「相模鉄道」です。

厚木に最後にやってきたのが小田急でした。こちらは相模川を渡って“本当の”厚木市街を通過するのでそこに「相模厚木駅」(現在の本厚木)を,相模鉄道(現相模線)と交差するあたりに「河原口駅」を設置しました。
そこで相互の乗換えの便を図るために相模鉄道も交差点下に駅を設置し,神中鉄道もそこまで路線を延長して,3社間の乗換えができるようになりました。これが現在の「厚木駅」。
その後,戦時統合で小田急は「東京急行電鉄」に統合され,先の通り(合併後の)相模鉄道も「東急系列」に入りました。そこで,同一資本系列に入った小田急線と(現)相鉄線の連絡をさらに便利にするために厚木へ向かっていた相鉄線の末端を付け替え,相鉄と小田急それぞれの駅を統合して「海老名駅」が新設されました(相鉄線の貨物列車は従前の通り厚木へ向かいます)。この段階では,すでに茅ヶ崎-橋本間の路線は国有化されていたので「海老名駅」への統合には参加していません。
もし,相模線の国有化が行われていなければ,もっと早く電化されたであろうし,厚木・海老名での駅の統合も今のような中途半端なものにはならなかったであろう,と言われることがあります。

ところで「相模原駅」。
これは最初は小田急の駅名でした。
ところが例の軍都計画でその中心となる駅を“国鉄”の横浜線に設置することになり,その駅名は「軍都・相模原」の中心にふさわしく「相模原駅」とすることになりました。
つまり,“お国”が有無を言わさず民間企業の小田急から駅名を横取りしてしまったのです。
しかたなく,小田急はもとの駅を「小田急相模原」と改称しました。
JRと小田急で「相模原」という駅が全く違うところにある原因です。
[2813] 2002年 8月 28日(水)02:06:29Issie さん
続・厚木
>この段階では,すでに茅ヶ崎-橋本間の路線は国有化されていたので「海老名駅」への統合には参加していません。

ちょっと,時系列が変か…。
確認してみました。

海老名駅への統合は,まだ「神中鉄道」だった1941年ですね。すでに「厚木」で乗換えができるわけだから,これは横浜からの神中鉄道の列車を小田急の本厚木へ乗り入れさせることが目的のようですね。実際,戦後1964年までこの乗り入れは行われました。
[4944] 2002年 11月 16日(土)20:47:34Issie さん
たかくら川
[4943] 実は小学生 さん
>その境川の旧名なんですが、漢字はわかりませんが確か「たかくら川」だったと思います。

「高倉川」または「高座川」です。
「高倉市」などというと,藤沢市に「高倉」という地区があるからよろしくない,という輩(やから)がでてきそうですね。
「高座市」だと,これは神奈川県の郡名(相模原市の旧所属郡が「高座郡」)だから,町田側は「うん」とは言わないかもしれませんね。それに現在「高座郡」には寒川町しかなくて,相模原・町田地域からかなり離れていますから「変!」と言い出す人がいるかもしれません(昔の「高座郡」が相模川と境川の間全部という広大な郡だったことを覚えている人は多くなさそうです)。

相模原市と町田市とが合併するというのは,地名の上でも「相原」や「鶴間」などが再び一体化するわけで不自然な話ではないけれども,どんな名前にするかは確かに頭の痛い問題です。
町田は「相模」じゃないしね,「町田市の相模川で鯉のぼり大会」なんてのも何となく変な気もするしね。
ここは一発,思いっきり“変な名前”にしちゃう?

ところで,相模原市民の私が買い物に行くのは,もっぱら町田。次は新宿や神田,秋葉原といった東京都心。だって,JR相模原駅周辺や橋本には,たいした店がないから。
ただし,町田駅裏のヨドバシカメラの敷地は町田市ではなく,相模原市域です。
[5101] 2002年 11月 20日(水)00:33:14Issie さん
相武・武相
[5083] 実は小学生さん,[5079] kenさん,[5096] Firo さん
>相武というのは、相模と武蔵からだと思うのですが、実際のところ、
>神奈川県の旧国名の相模国が,さらに古い時代には、2つに分かれていて、
>その東側を、「相武」(サカム)と言われていたという説があります。

そう,律令国制が整備される以前,大和政権に服属してこの地域を支配していた者が「相武国造」(個人名ではない)と呼ばれたことがあったようですね。その意味では「相模」(本当は2文字め,“木へん”の「模」は間違い。“手ヘン”の「摸」が正解)よりも「相武」の方が古い表記による地名であるようです。
ただ,今現在,相模と武蔵にまたがるという意味で「相武」という言い方が一般的かというと,そうではないようです。むしろ,その意味では「武相」という方が耳にする機会は多いみたい。

現代の用法では,やはり「相武台」を連想しそうです。
昭和天皇が考えたことになっているこの地名(ま,明治天皇が考えたことになっている「習志野」の向こうを張っているんでしょうな),古代の「相武」を踏まえたものなのかどうかわからないのですが,その意味では「相模」の地名であって「武蔵」には直接かかるものではないのかもしれません。
(もっとも,一説に「さがみ(←さがむ)」の語源は「さがむさし」つまり「下武蔵」だというのがあります。)

「相武台」となると,本来はかなり“ピンポイント”な名称で

>昭和天皇が当時の陸軍練兵場を
>行幸した際に、命名したというのが定説

この練兵場,そして市ヶ谷からここに移転してきた陸軍士官学校を指していました。
だから,小田急や相模線の駅名に「相武台前」「相武台下」のように“前”だの“下”だのが付くのです。どちらの駅も相模原市ではなく座間市に属します。
士官学校は戦後,米軍の「キャンプ座間」になっています。
要するに,相模原市と座間市とにまたがっているのですね。発足当時は座間も加えて「相模原町」だったんですけど。
[8203] 2003年 1月 25日(土)19:05:59Issie さん
長野県の成立
[8187] ヒロオ さん
長野藩があったようですが、

ありません。
善光寺宿を含む水内郡長野村(長野町になっていたかな?)周辺は藩領でも幕府直轄領(天領)でもなく,善光寺領でした。
結論を言えば,「長野藩」などというものが存在しなかったから,長野に県庁が置かれたのです。

はじめに,1871(明治4)年7月の「廃藩置県」ではじめて「県」が設置されたような誤解がなされているようですが,以前にも触れたとおり,「府」や「県」は1868(慶応4→明治元)年春の明治政府確立直後に,まずは旧幕府から没収した政府直轄地を管轄する地方官庁として閏4月以降に順次設置されました。したがって,廃藩置県までは旧大名(諸侯)が管轄する「藩」と政府直轄の「府・県」とが併存していました。

信濃国内に関しては,松代藩や松本藩以下の大名領を除き,国内に点在する旧幕府直轄領を管轄するために1868(慶応4)年8月2日に「伊那県」が設置され,(上)伊那郡飯島にあった幕府代官所が県庁とされました。69(明治2)年6月24日には三河国内の直轄領を管轄していた「三河県」(県庁所在地は宝飯郡赤坂)が伊那県に統合されましたが,70(明治3)年9月17日に信濃を南北に分割し,南信2郡(諏訪・伊那)・中信2郡(筑摩・安曇)と三河国内の直轄領を管轄する「伊那県」が存続する一方,北信4郡(更級・埴科・高井・水内)・東信2郡(佐久・小県)の直轄領については(下)高井郡中野の旧幕府代官所を県庁とする「中野県」が新設されました。藩政時代,北信の直轄領を管轄する代官所が中野にあったからです。中野の銘酒に「天領誉」というのがありますが,それはこのことにちなむのですね。
繰り返しになりますが,この段階ではまだ東・北信には「松代藩」「須坂藩」「上田藩」「小諸藩」「岩村田藩」「竜岡藩」といった諸侯管轄地(藩)が存在していました。「中野県」が管轄するのは,それらの藩領を除いた東・北信地域内の旧幕府直轄領と善光寺や戸隠権現(戸隠神社)などの寺社領などをあわせた政府直轄地のみです(なお,「竜岡藩:大給[おぎゅう]松平氏1万6千石,藩庁所在地は現・南佐久郡佐久町田口」は71(明治4)年6月2日に廃止され,三河国内の旧領地は「伊那県」へ,佐久郡内の旧領地が「中野県」へ編入されています)。

ところが1871(明治4)年6月22日に中野にあった県庁が(上)水内郡長野に移転し,「長野県」と改称されました。
中野の県庁舎が焼失したのが直接の原因といわれているのですが,実際のところ,善光寺の門前町と北国街道の宿場町,さらに裾花川や犀川流域の山村地域を後背地とする在郷の市場町の諸機能を兼ね備えた長野が善光寺平の中心地としての発展性を備えていたことが大きな背景になっていたのだろうと思います。
廃藩置県によって「松代藩」以下の“藩”が廃止されたあと,同年11月の全国的な府県の統合・再編の結果,東・北信地域は従来から設置されていた「長野県」に統合されました。
なぜ上田や松代ではなくて長野なのかといえば,何よりもまず,すでに長野に県庁があったことが大きかったのだと思います。東・北信を管轄する県庁所在地としても適当なロケーションであると判断されたのでしょう。

一方,中・南信地域では廃藩置県ののち,この地域最大の都市・(東)筑摩郡松本に県庁を置く「松本藩」改め「松本県」が核となって11月にこの地域に,さらに飛騨国全域を加えた領域を管轄する「筑摩県」が設置されました。こちらの場合は,伊那谷の飯島に県庁を置く旧伊那県では飛騨を含む県域を管轄するのには不適当と判断されたのでしょう。とすれば,松本が最適地であることは論を待ちません。

1871(明治4)年11月の全国的な府県統合ののち,1876(明治8)年の4月から8月にかけて「第2次」の全国的府県統合が行われて,統合前の75から38へ府県の数が半減しています。この一環として8月21日に「筑摩県」が廃止されて飛騨全域は「岐阜県」へ,そして中・南信は同じ信濃国を管轄する「長野県」に編入されて現在に至ります。
このときになぜ松本でなく長野の県庁の方が存続したのかは,よくわかりません。東・北信だけならともかく,信州全体からすれば長野は誰の目にも北に偏りすぎているのがわかります。この点で,松本が県土の中心地として最もふさわしいのは明らかですよね。実際,古代の信濃国府は松本付近に置かれていました(上田付近に置かれていた時期もあるようで,国分寺・国分尼寺は上田にあります。一方,国内の神社を一ヶ所に集めた「総社(惣社)」は松本にあったようで,そのまま松本市内の地名になっています)。
けれども,“統一信州”の県庁は長野に置かれたのですね。明治政府が松本周辺で盛んであった民権運動を嫌ったからだ,という説もあります。あるいは,統合前の「長野県」と「筑摩県」とでは県政の運営のしかたに結構違いがあり,筑摩県の運営を政府が嫌った,というのもあります。

いずれにせよ,こうした経緯で成立した「長野県」ですから,長野と松本,旧長野県の東・北信と旧筑摩県の中・南信の間の対立感情は激しいものがあって,これが「長野県の百年」を一貫して続いています。松本への移庁運動から,中・南信の分県論まで,繰り返し繰り返し現実の政治問題として県議会で話題に上っているのですね。
そのピークが分県の実現寸前まで行った,地方自治法施行直後の1948(昭和23)年春の県議会でした。中・南信系の議員が退場しようとして議会が大荒れになったとき,傍聴者の誰かが歌いだした県民歌「信濃の国」に議場にいた全員が唱和して(全曲歌うととても長いです),これを境に分県論は有耶無耶になってしまった,という「伝説」があります。
「信濃の国」がほかの県に見られないほど深く長野県民に浸透していることが,このような地域対立感情を逆説的に証明している,といえるのかもしれません。

ややもすると県内第1都市の座を松本に奪われかねない長野市に編集されるいわれはない

誰がそのように思っているのですか。
篠ノ井や松代に長野から分離したいという声があるのですか。
松本市が長野市よりも勢いがある,という具体的な指標は何ですか。
そもそも,県庁所在地が県内第1の都市でなければならない理由など,どこにもないと思いますが。

当該する地域に自治体の分割という意見がない限り,第三者のよそ者が勝手な分割案を考えてみても,パズル遊び以上の意味は何もないと思います。
[12462] 2003年 4月 4日(金)23:39:44【4】Issie さん
US Army in Sagamihara
[12446] TACO さん
ところで相模原市のアメリカ軍基地の名前は何ですか?

私がいつも眺めているのは,横浜線沿いに広がる「米軍相模原総合補給廠」です。昔の陸軍造兵廠。
もう1つ大事なのは,座間市(一時期,市制施行前の「相模原町」の一部)にまたがって広がる在日米陸軍の本拠地たる「キャンプ座間」(旧陸軍士官学校)。
さらに小田急相模原駅の近くに米軍住宅がひろがっています。かつての那覇がそうであったように,米軍住宅とまわりの日本人住宅の大きさの絶望的な差と言ったら…。
その他,現在は返還されているけれども,少し前で話題になっている相模大野の伊勢丹百貨店を含む広大な敷地も米軍施設でした。元はもちろん,帝国陸軍用地。小田急の相模大野駅は一時期,「通信学校前」という名前でした。
時にベイスターズの公式試合が行われる「相模原球場」や「国民生活センター」を含む広大な敷地はかつての「キャンプ淵野辺」。ベトナム戦争当時,反戦運動の舞台になった土地です。ここも旧陸軍用地ね。
ちなみに,近くにある「星が丘」住宅,造幣廠の工員住宅を起源とするのですが,この「星」とは陸軍軍人の徽章の“星”に由来する,とはキャンプ淵野辺跡地に作られた市立博物館の学芸員さんのお話です。

相模原が「基地の町」たる所以は何よりも,市のメーンストリートがこの補給廠(旧造兵廠)の正門(通称:西門)を起点としていることです。これと直交する,もう1本の軸が国道16号。
横浜を起点とし,横浜を終点とするこの「国道東京環状線」,何を目的として計画されたか,どこを通過するかよく考えてみれば露骨にわかります。
横須賀→横浜→米軍上瀬谷通信隊(横浜市瀬谷区)→相模大野→淵野辺→相模原→横田基地→下総基地(千葉県沼南町)→千葉市(スポーツセンターほか,旧陸軍用地)→木更津(米軍→陸上自衛隊駐屯地)。
もう少し範囲を広げれば,厚木基地やキャンプ座間,所沢・入間基地,習志野駐屯地なども視野に入りますね。
(ここには駐日米軍と自衛隊と両方が含まれますよ。念のため)

キャタピラ三菱,日本電気(NEC)等々…
相模原に立地する工業も(今現在,どこを相手にしているかは別にして)軍事面と少なからず関連する分野ではありますね。

相模原は「基地の町」なのです。
[19249] 2003年 8月 23日(土)21:29:59【1】Issie さん
足柄上郡南足柄村
[19237] ゆう さん
ところで南足柄市の「南」にはどんな意味があるのでしょうか。

「南足柄」の初出は,1889年の町村制試行の際に編制された「足柄上郡南足柄村」にあるようですね。同郡内の 苅野村・弘西寺村・雨坪村・福泉村・関本村・猿山村・飯沢村・狩野村・中沼村 各村の統合の結果,「南足柄村」発足,とあります。
同時に,同郡平山村・内山村・矢倉沢村および怒田(ぬだ)村の一部をもって「北足柄村」が編制されています。

要は,東京(江戸)から西へ延びる大山街道(矢倉沢往還)が足柄峠を越えるあたり,北側の村々を「北足柄村」,南側の村々を「南足柄村」と編制したことに出発点があるように思われます。
そして,「南足柄村」は大雄山最乗寺門前の関本集落を抱え,それがそのまま都市集落として発展しつつ,写真フィルム業界の寡占資本城下町としての機能を加えつつ,従前の自治体名をそのまま伝えながら「昇格」していった“成れの果て”が「南足柄市」なのでしょう。

強いて言えば,足柄峠から松田→秦野→海老名,という古代の東海道ルートの南側に広がる市,という理解のしかたが適当なのでしょうかね。

なお,古代の東海道は平安時代初め,延暦年間の富士山大噴火にともなう熔岩大流出によって従来の「足柄ルート」が塞がれた結果,新たに「箱根越えルート」が本道となって栄えるようになったと言われています。
大噴火以前は,現在の富士川町あたりから「富士山の北側」,つまり富士五湖方面を通って,駿河小山・相模山北から現在の国道246号…,というルートが「東海道」であった,などという推定もあります。
(さらにまた,ほぼ直線の「中原街道」もまた,かつての東海道を継承するもの,という説あり。)
[19305] 2003年 8月 25日(月)19:05:04Issie さん
…の山奥で けだもの集めて相撲の稽古
[19295] ゆう さん
[19298] またーり さん
[19299] KN さん
北足柄村の方はその後どうなったんでしょうか?

KN さん が答えられていますけれど,もう1度。

1955年4月1日に,「(旧)南足柄町」が周辺各村と合体して「(新)南足柄町」となっていますが,この合併に「福沢村」と「岡本村」は全村で参加しましたが, 「北足柄村」は村内の3つの大字のうち「内山」と「矢倉沢」が「南足柄町」への合併に参加し,「平山」だけが「山北町」に編入されています。
これに先立つ1955年2月1日,「(旧)山北町」は「三保村」「清水村」「共和村」と合体して「(新)山北町」となっています。
http://homepage1.nifty.com/ishato/tiri/sityoson/03kanto/14_kana2.htm#kami

南北「両足柄」が合体に参加したわけですから,このときに単純な「足柄町」とする選択もあったかもしれません。
(実は,これに先立って「足柄村」または「足柄町」が存在したことがあります。全然,違う場所に2つも。
1つは,小田原市街の北に隣接していた「足柄下郡足柄村→足柄町」。
 1908.4.1:足柄下郡二川村・芦子村・富水村・久野村 が合体し「足柄村」発足
 1940.2.11:単独で「足柄町」に。
 1940.12.20:足柄下郡小田原町ほかと合体,「小田原市」発足

もう1つは,静岡県の御殿場の東隣に存在していた「駿東郡足柄村」。
 1889.4.1:駿東郡桑木村・竹之下村・新柴村が合体・町村制施行,「足柄村」
 1955.4.1:駿東郡小山町に編入

小田急線とJR御殿場線にそれぞれ存在する「足柄駅」は,それぞれの「足柄村(町)」を代表する駅なのですね。小田急が“前者”,御殿場線が“後者”。 )

結果として「両足柄ほか」の合体では「足柄町」が選択されず,そのまま「南足柄町」となったのでした。どのような経緯があったのかは知りませんが,「南足柄」と「北足柄」とでは色々な意味での“大きさ”にかなりの違いがあるようですから,合併の中核となった「南足柄町」の名前が選ばれたのかもしれません。
…いくら中心集落とはいえ,いまさら「関本」が浮上する,…という場面でもなかったのでしょうね。

足柄地方といえばその中心は足柄上郡・足柄路のあたり

…というふうに限定することもないかな,と思います。

実際のところ,「下郡」は現在は小田原市東部に属する酒匂(さかわ)平野南部を除けば,箱根外輪山が直接相模湾に落ちる地形のため平地が極めて乏しいので,開発はかなり遅れたものと思われます。鎌倉武士の苗字となった「(小)早川」と「土肥(どひ/どい)=湯河原」あたりが例外でしょうか。
逆に言えば,その分だけ,「峠(坂)」や「往還」に限定されることなく,より漠然と「足柄」と一括して呼んでしまうこともありのように思います。
前にあげた両「足柄村」は,もちろん明治に成立した自治体名ですが,「漠然とした足柄」を代表するような気がします。

「郡」としては,「足柄」は早くも古代の段階で「上・下」に分割され,延喜式には「足上(あしのかみ/あしがみ)郡」「足下(あしのしも/あししも)郡」として現れています。
近世には「足柄上郡」「足柄下郡」という形がメジャーとなり,この呼称が明治初年の国郡編制に引き継がれたようです。つまり,「足柄郡」の場合は,1878年の郡区町村編制法によって「上・下」に分割されたのではないのです。
「足上郡」「足下郡」という呼称で気になるのが,「芦ノ湖」その他の箱根の地名です。
「芦ノ湖」の「芦」は「足柄」の「足」に通じるのではないか,…そんなことを勝手に思い込んでいます。

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落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

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