都道府県市区町村
都道府県や地図に関する地理の総合マガジン

戦時合併 と その解体

トップ > hmtマガジン > 戦時合併 と その解体
記事数=34件/登録日:2012年7月5日

大日本帝国憲法が発布された明治22年(1889)に 市制町村制が施行され、現在の地方制度に近い形が整えられてきました。
それから約 50年後に、日本は全面戦争に突入し、やがて敗戦。
戦後は連合国軍の占領下に置かれましたが、この間の 1947年(昭和22年)に 日本国憲法施行。
地方制度は 地方自治法に引き継がれ、1889年以来の 市町村という枠組みは、戦後も継続することになりました。

市町村制度は現在まで 120年余続いているとは言え、市町村の数 については、1889年の39市、15820町村から 1727市町村(2010国勢調査)へと大幅に減少しています。
言うまでもなく、戦後の昭和大合併と平成大合併とによる減少が大きいのですが、それよりも前の時代、戦争という大きな社会変化は、市町村の数にも影響を与えたのでした。

戦争遂行を目的を掲げて実行された戦時合併。軍需合併[45417]とも呼ばれ、「紀元二千六百年記念事業」などと銘打った合併もありました。戦争が本格化してからは、自ら音頭を取り、積極的に合併を推進した県もありました[37842]
累計5以上の市町村が関与した大規模事例を[80427]で示しました。

軍需生産体制整備に応じるものであった戦時合併は、敗戦によりその意義を失いました。
もちろん、大戦→敗戦という大変革の中でも、一旦合併した後の 分立・分割は なかなか実現困難であり、戦後になってライバルと分離したいという意見が出ても そのままの合併状態を 継続した市町村が大多数でしょう[40507]
早々と自主的に合併を解消した埼玉県騎西町や美野町[56459]は、むしろ例外的事例。

例えば 編入された純農村地区が元の村に戻りたいと考えても、地方議会の少数派で議決を得ることができない。
こうした事情に配慮して制定されたのが、昭和23年改正地方自治法附則第2条[55654]で、法律施行(1948/8/1)から2年以内に限り関係住民の直接請求を認め、投票を行なうという臨時措置でした。
この措置の対象となる「戦時」の意味は [80411]で説明してあります。

この制度に助けられて 独立を獲得した代表例は、“横須賀市から苦難の独立”[37958]を果した逗子町の復活劇。
住民投票で分離賛成多数を得たものの、県議会で分離を否決された気の毒な事例 愛媛県温泉郡道後湯之町[80415]

相模原町から座間町が分離するにあたっては、この臨時措置が表向きは使われていません。
しかし、その背景では法改正が当事者間の交渉に大きな影響を与えたことが“新版”の「市史」でわかるそうです。[80429]以下
この法改正成立前に解体された志紀町以下、[80419]で×となっている事例にも、蔭の影響があったかもしれません。

富山県射水郡牧野村[15592]の事例は複雑です。
戦時合併により新湊町>高岡市になり、戦後は臨時措置で高岡市から分立し、間もなく高岡市に再編入[74310]

★推奨します★(元祖いいね)

記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[180]2001年2月26日
Issie
[1070]2002年3月10日
他力本願
[5144]2002年11月20日
NSK
[5162]2002年11月21日
白桃
[6729]2002年12月20日
N-H
[15592]2003年5月20日
TN
[28051]2004年5月8日
林檎侍
[35018]2004年11月11日
N-H
[37842]2005年2月15日
hmt
[40507]2005年5月2日
たもっち
[53580]2006年8月23日
むじながいり
[53588]2006年8月24日
白桃
[55654]2006年12月24日
88
[55656]2006年12月24日
hmt
[55681]2006年12月25日
88
[56459]2007年1月27日
hmt
[56491]2007年1月28日
hmt
[64153]2008年3月29日
Issie
[74025]2010年1月23日
白桃
[74310]2010年3月10日
グリグリ
[79475]2011年10月10日
グリグリ
[80411]2012年3月19日
hmt
[80415]2012年3月20日
hmt
[80416]2012年3月21日
hmt
[80419]2012年3月21日
88
[80421]2012年3月22日
hmt
[80427]2012年3月24日
hmt
[80429]2012年3月25日
Issie
[80430]2012年3月25日
Issie
[80431]2012年3月25日
Issie
[80434]2012年3月26日
hmt
[80441]2012年3月28日
hmt
[80444]2012年3月29日
88
[80446]2012年3月29日
グリグリ

[180] 2001年 2月 26日(月)14:03:41Issie さん
Re:相模原ネタ
「相模原」ないしは「相模野」という地名は結構以前からあったようです。ただし,台地上を漠然とさす自然地名として。

1930年代後半に入り,相模原台地に軍事施設が進出するようになって「軍都構想」に基づく町村合併が具体化し,その結果が“わが国最大の面積をもつ町”「相模原町」の誕生となるわけです。相模原市史には合併の経緯についての記述がありますが,新町名については「相模町」というのも有力な案だったようです。
合併当時の「町」は,上溝町と座間町でした。それにあと6つの村を合併したわけです。構想段階では大和町(現大和市)や,早くも町田町(現町田市中央部)も合併候補に上がっていました。
座間は当初からこの合併に不満だったようです。「軍都計画」の舞台は,北部の上溝・相原・大野の旧3町村の境界地域(現相模原地区)であり,士官学校(現米軍座間キャンプ)を核に独自の都市化が期待できる座間から見れば北に寄りすぎていたせいかもしれません。座間町には「相模原」とは別の合併構想もあったようです。
で,座間は結局「相模原町」から再独立した。今,この地域には「座間・大和・綾瀬・海老名」4市合併構想があって,こちらの方が現実味がありそうですね。
[1070] 2002年 3月 10日(日)07:43:19他力本願 さん
戦後、分立した後に市制施行した市って、
埼玉県鳩ヶ谷市(川口市から)
神奈川県逗子市(横須賀市から)
富山県新湊市(高岡市から)
山口県新南陽市(徳山市から)

他にもあります?

昭和の大合併に逆らってまで(時期的に直前ですが)分立した理由って、
戦時中の軍部の強い要請による強制合併の解消ということでよいのでしょうか。
[5144] 2002年 11月 20日(水)22:46:30NSK さん
市町村分割した自治体
はじめまして。
私は現在茨城県に住む、日本地理大好き人間です。

早速質問なのですが、
今全国的に市町村合併が大流行ですが、過去には一度合併しておきながら、分割した例もあるようですね。
私が知っている例では、

山口市→山口市+小郡町+阿知須町

があります。
このような事例は、他にもありますか?
[5162] 2002年 11月 21日(木)01:07:07白桃 さん
頭ぼんやりモーローレス
[5148]ゆうさん
 有難うございました。
[5145]YSK さん
 呑龍さん。なかなか良いところですネ。
 いつもどなたにでも品の良いメッセ―ジ、お世辞抜きで感服しております。
 ところで、YSKさんと、全角で打つといけないのですよネ。
[5144]NSKさん
 思いつくところで、
 徳山市→福川町、富田町
 川口市→鳩ヶ谷町
 相模原町→座間町
 横須賀市→逗子町
 高岡市→新湊町
[5138]ヒロオさん、[5133]いなさん
 仕事柄、観光あるいは観光地の問題は看過できないので、お二人のメーッセージに関心をもっております。白桃もこの件につき書き込みたいのですが、妻に「早く寝ろ」とおこられましたので又の機会にさせていただきます。今後もこの問題に関して書き込みをしていただければ幸いです。
[6729] 2002年 12月 20日(金)20:06:55N-H さん
山口市と小郡町
[6718] uttさん
>まさか、ここも分離したのかな?

ご明察。山口市と小郡町は1944年に一旦合併、戦後1949年に分離しています。
このように戦時中に強制的に(?)合併させられた市町村が戦後分離した
例は他にも結構あります。たとえば、
・川口市と鳩ヶ谷町(市)
・横須賀市と逗子町(市)
などです。横須賀市はこのせいもあって、首都圏にありながら戦時中の人口と現在
の人口がほぼ同じという不思議なことになっています。まあ理由の多くは戦時中は
軍港都市として多くの軍人とその家族が横須賀市民だったことによりますが。

すごいのは埼玉県の志紀町で、戦後志木町、宗岡村、水谷村、内間木村と4分割さ
れました。結局このうち志木町と宗岡村は再合併して現在の志木市へと至るわけ
です。
[15592] 2003年 5月 20日(火)16:22:41【1】TN さん
高岡市牧野地区  鵜殿村
[15552]でるでるさん
新湊市の中心市街地と、富山新港を挟んだ他の地域と射水郡4町とは、庄川の東側に突き出た感じの高岡市牧野地区がある関係で、ある意味飛び地といったところですね。その牧野地区では、新湊市との合併、もしくは境界変更を求める声もあるようですね。

地図を見てみましたが、新湊市に楔入し徒ならぬ雰囲気ですね。
牧野地区の変遷についてザッとですが。(高岡市HP参考)

1940(昭和15)12.1牧野村、新湊町へ編入
1942(昭和17)10.2新湊町、高岡市へ編入
1951(昭和26) 1.1新湊町・牧野村、高岡市から分立
1951(昭和26) 4.4牧野村、高岡市へ編入

ちなみに、牧野地区は5.03Km2におよそ9,000人暮らしているそうです。


[15550]
単独継続方針の鵜殿村は、新「熊野市(仮)」と新「新宮市(市)」に挟まれる形になりますね。

三重県鵜殿村は、高知県赤岡町・岐阜県兼山町などと共に私のお気に入りでございます。
村のHPでは
村域は(東西2km、南北1.5km)面積2.88km2と東京ディズニーランドと比べてみるとわずか4倍ほどで、日本一小さい村として知られています。
だそうで、浦安市の舞浜ぐらいの大きさでしょうかね。数字でみると小さいですが、行ってみると以外に広いのかもしれません。この鵜殿村、探すのに苦労するというか、ちょっと見落としてしまいそうな位置ですね。
[28051] 2004年 5月 8日(土)10:44:17林檎侍[花笠カセ鳥] さん
戦時中に合併したが戦後分立した自治体
[28038]夜鳴き寿司屋 さん
 また、かつては戦時中に強制合併された市町村の分離も1948年から2年間だけ住民投票で決着できる法律があったそうで、実際に全国で33件が実施され、そのうち28件の分離が住民投票で決定になったようです。(個々のリストも欲しいところですが、どなたかアップして下さい。お願いします)
私が、10年以上前に、図書館で緑色の厚い本(タイトル失念)を見て調べた内容のうち、アーカイブズ未収録のものを書きます。

秋田県大久保町、飯田川町、豊川村が17/4/1合併→25/7/1豊川村分立→25/10/1飯田川町分立
31/9/30昭和町、豊川村合併により昭和町

秋田県和田町→17/4/1豊島村を編入→25/7/1豊島村を分立→30/3/31和田町、豊島村、岩見三内村合併により河辺町

埼玉県皆野町、三沢村、国神村、日野沢村、大田村、金沢村18/9/8合併→21/12/1分割→
皆野町、国神村、日野沢村、金沢村30/3/1合併→三沢村32/3/31編入

埼玉県騎西町、種足村、高柳村、田ヶ谷村、鴻茎村18/4/1合併で騎西町→21/5/1分割→29/10/1高柳村以外再合併→30/3/20高柳村を編入

埼玉県栗橋町、静村、豊田村19/4/1合併→24/10/1分立→32/4/1再合併

岡山県加茂町、東加茂村、西加茂村17/5/27合併→新加茂町26/1/1分立→加茂町、新加茂町、上加茂村29/4/1合併により加茂町

高知県山南村、徳王子村、富家村、香宗村17/4/1合併大忍村→23/4/1分立→現在の香我美町、野市町

高知県宇佐町、新居村17/4/1合併で新宇佐町→新居村と宇佐町に24/4/1分立→高岡町、宇佐町、新居村
33/4/1合併で高岡町→34/1/1土佐市

ただし、これらは官報を調査していませんので、告示日などはわかりませんのでご了承下さい。
また、全都道府県を調査したものではありません。
ですから、他の実例を持っている方、追加をお願いします。
[35018] 2004年 11月 11日(木)16:05:55N-H さん
幻の大横須賀市
[35011]いっちゃんさん
10 横須賀 202,038 +8,680 +4.5%

戦争を挟んでのこの動き、何も言いますまい。
この表だけ見ますと、横須賀市は終戦を挟んで何事も無かったかのような印象を持ってしまいますが、実は1940年の調査とこの1945年11月の調査との間に激変がありました。
1940年当時の横須賀市は、現在の市域よりもかなり小さいもので、東京湾沿いに限られておりました。
そして、1943年に大合併があったのです。このときに横須賀市に編入されたのは、浦賀、逗子、長井、大楠の各町と北下浦、武山の各村です。そう、つまり現在の横須賀市+逗子市の市域を持つ「大横須賀市」が戦争末期に忽然と出現することとなります。
さて、その合併後の横須賀市の人口なのですが、今尾恵介氏の「地図で今昔」によりますと、1944年時点でなんと45万人ほどだったというのです。
それが1年後にはどうなったかが、いっちゃんさんの表にある数字です。
この急激な減少の理由は、空襲、疎開などの一般市民の離散・死亡もあるでしょうが、むしろ占領軍が1945年9月に出した「軍人・軍属三浦半島立退き命令」がきいているものと思われます。

ところで1944年時点での「大横須賀市」の人口ランキングですが、他の都市の1940年の人口データから類推するに、広島、札幌、仙台、福岡よりもはるかに多く、なんと6大都市に次ぐ人口規模の大都市だったことがうかがわれます。
それがわずか成立より2年で人口激減となり、さらに1950年に逗子を分離し、首都圏の衛星都市としてその後急激に人口を回復するもついに戦時中の人口を上回ることなく現在に至っているというわけです。
そして戦後もずっと今に至るまで横須賀市は米軍基地問題に悩まされます。
ペリー来航以来、ずっと軍港都市の宿命として翻弄され続けた横須賀市、ぜひ健全な発展をしていってほしいものです。
[37842] 2005年 2月 15日(火)15:13:12【1】hmt さん
戦時合併 と その解体
[37837] じゃごたろ さん
ところで、川口市、美野町、騎西町など複数の市町村が戦後に分割されているのが目に付きますが、これは戦前の合併がかなり強引だったことの裏返しということなのでしょうか。

戦時中の合併には、「紀元二千六百年記念事業」と「大東亜戦体制合併」とがあります。
埼玉県の場合、1940年に川口市や大宮市が周辺の町村を合併したのが前者の例です。もちろん皇紀2600年を口実にしていますが、都市の発展や地方団体強化の要請に裏付けられたものでした。
全国的な代表例としては、翌皇紀2601年の天長節に2町6村が合併して成立した神奈川県高座郡相模原町を挙げておきます。

「大東亜戦争」はこの傾向に拍車をかけ、1942年に埼玉県は「町村合併の手引」を配布し、その実施方策として「町村合併に関する懇談事項」を定めました。その要領の第1項を引用します。(原文は旧字体カタカナ)
一 大東亜戦争下国内必勝体制を整備する為自治体たる弱小町村の合併は刻下の急務なること
戦時合併は全国的な機運で、帝国議会にも市制・町村制の一部を改正する法律案が上程され審議されたようです。

この結果、埼玉県では1943/2/1~1944/4/1の1年余の間に 51町村が再編成され、18町村に生まれ変わりました。
一例を挙げると、北足立郡志木町は同郡と入間郡にわたる3村と郡越えの合併して「志紀町」になりました。紀元2600年から4年も経っていますが、合併日に紀元節を選び、町名に「紀」の字を使っているあたり、まだ2600年気分です。
#そう言えば、ミレニアムという言葉は、すっかり聞かなくなりました。キリバス共和国の「ミレニアム島」は健在でしょうね。

戦時合併は軍需工場の設置・拡張等による要請もあったと考えられますが、敗戦により事情が一変しました。
そこで、例えば 編入された純農村地区が元の村に戻りたいと考えても、地方議会の少数派で議決を得ることができない。
こうした事情に配慮して制定されたのが地方自治法附則第2条(1948)で、法律施行から2年以内に限り関係住民の直接請求を認め、投票を行なうという臨時措置でした。「地方制度資料」によると、本件に該当する戦時(1937.7.7~1945.9.2)合併は、全国で合併合体208(関係町村661)、編入合併188(関係町村341)とされています。

神奈川県相模原町からは1948年に座間町が分離しましたが、「軍都・相模原」で形成された枠組みは戦後も解体せずに残りました。

埼玉県に戻ると、前記の「志紀町」も、1948年に元の志木町ほか3村に戻りました。合併前には入間郡だった宗岡村と水谷村は、今度は北足立郡の村として再生したわけです。後日談ですが、水谷村は1956年の合併で富士見村として入間郡に戻っています。遡ると、水谷村になる前の針ヶ谷村は新羅(新座)郡だった時代もあるらしいから、転々と郡を移り変わっているわけです。

北埼玉郡騎西町と秩父郡美野町は、早くも1946年に解体していますから、臨時措置法より前ですね。志紀町解体も同様かもしれません。1949年には北葛飾郡栗橋町が解体。
北足立郡鳩ヶ谷町が川口市から分離した1950年で戦時合併の後始末は終りました。
ところが、1954年騎西町、1955年皆野町、1957年栗橋町と再結合しているのですから、結果的にはパラパラ地図を徒に賑わせただけ。
[40507] 2005年 5月 2日(月)12:56:12たもっち さん
RE:まぼろ市?
暦通りに出勤しております。しかし、全然やる気が出ません(笑)。

[40489] 紅葉橋瑤知朗 さん
「分離独立しようとして果たせなかった市町村」
舞鶴市が、戦時中に舞鶴市と東舞鶴市とが合併してできた市だというのは、ここの方々には有名な話だと思いますが、戦後に分離を求める動きがあったそうです。うろ覚えできちんとしたことが書けなくて恐縮ですが、確か、「西」(旧・舞鶴市)のほうが分離したがったと聞いたように思います。
ご存知のとおり、元々舞鶴と呼ばれていたのは「西」の城下町でした。それに対し、「東」はかつては一介の漁村に過ぎなかったのが、海軍の鎮守府が置かれたことで急速に発展してきた、成り上がりの町でした。戦時中、その軍事的重要拠点の体質強化のために、半ば強制的に合併させられたことに対する不満があったということですが、結果的には分離は叶わず、東西が合わさったままの形で今に至っています。

舞鶴は実は僕の妻の実家がある町です。先週末にも行ってきたところです。今の舞鶴人の中にも東と西とでライバル意識があったりするのか、また妻に聞いてみます(笑)。ちなみに、「東」のまた東の外れに実家があります。
そんなわけで、よそものではありますが何十回と訪れた者の感想としては、確かに間にちょっとした山がはさまっていて、市街地としては連続していないものの、東と西はひとつの街としてまとまっているように思います。ちょっとご飯を食べに、「西」まで行こうか、ということもよくありますし。妻の実家から東に向かうと福井県も近いのですが、そちらへ向かうよりも抵抗は少ないような気がします。
[53580] 2006年 8月 23日(水)21:17:40むじながいり さん
市町村変遷には不思議がいっぱい
[53511] 千本桜 さん
旧伊達町の合併相手として、桑折町は浮上しなかったのでしょうか。
少なくとも伊達町史の該当部には桑折町のこの字も出てませんでした。

ふと思い立って伊達町史の資料編も見てきました。載っていた合併伏黒村建設計画では、役場は確かに伏黒村役場に置くことになっているのですが、「なるべく速やかに新築するものとする」とあり、伏黒村役場に置かれたのは暫定的なものであるようにも読めます。町制後の名称については触れられていませんが、役場の経緯と同じと考え方をするならば、やはりこちらも暫定的なもので、伊達町になることは合併前から決まっていたのかもしれません。


ところで、気になった変更を2件ほど。
熊本県に畫圖(画図)村という村がありました。この村は1932/12/15に画津村に改称し、同日熊本市に編入されるという手続きをとったのでした。なぜ編入され消滅するのに改称する必要があったのでしょうか。現在の熊本市を見てみれば、画図町という改称前の名前が残っているようですが。

同じく熊本県に高橋町という町がありました。1944/02/11に池上村、城山村と合併し三和町となりました。典型的な戦時合併です。1950/05/01に三和町は分割し3自治体に戻る訳ですが、旧高橋町はなぜか高橋村として分立したのです。長野県宮田村とも似たケースです。高橋町は市制・町村制施行時から町だったわけですが、分立の段階で高橋村は熊本県でもっとも小さい自治体となってしまっていたのでした。結局単独ではやっていけないということで1953年に3村揃って熊本市に編入されています。
[53588] 2006年 8月 24日(木)00:02:43白桃 さん
佐世保市の人口、九州何番目?
[53575]白桃
東西線、武蔵野線などの開業に伴い、西船橋駅利用者が増加するにつれて、駅及び駅周辺地区の呼び方である西船橋の略称「西船」が一般化し、住居表示や京成の駅名の変更にまで至った
略称「西船」が広く浸透したのは、毎日の利用客が増加していったという理由だけではなく、南関東一帯から中山競馬場まで、わざわざお金を捨てにくる人達の功績?もあったかもしれません。

[53580]むじながいりさん
熊本県に高橋町という町がありました。1944/02/11に池上村、城山村と合併し三和町となりました。典型的な戦時合併です。1950/05/01に三和町は分割し3自治体に戻る訳ですが、旧高橋町はなぜか高橋村として分立したのです。
国勢調査人口で追ってみました。
1920年1935年1947年1950年
高橋町1,238高橋町1,031三和町9,127高橋村1,297
池上村2,543池上村3,032池上村3,767
城山村3,311城山村3,614城山村4,251
これで見ても、高橋はちょっとした町部だったのかもしれませんが、如何せん、もともと人口が少なすぎる。そのあたりも、分立時に村へ格下げになった要因とは考えられないでしょうか?

[53583]いっちゃんさん
米子ってどう見ても20万いやヘタしたら30万人が住んでいてもおかしくないような街並みですね。
そういえば、私の職場にも何故か米子行きを計画しているヒトがいます。いっちゃんさんの書き込みを今頃見ているかもしれません。(笑)

最後に:1週間以上の滞在型観光地を目指していくという、九州の五地域(別府市、熊本県小国郷、雲仙市、佐世保・波佐見、五島市)のプロモーションを聴いていたら、佐世保のプレゼンテーターが、「佐世保は九州で8番目の人口です。」と仰いました。「アレっ!那覇を除くとしても、福岡、北九州、熊本、鹿児島、大分、長崎、宮崎、久留米、9番目じゃないか!」と悲しい佐賀県の白桃、ムッときました。が、考えてみれば久留米に抜かれたことを認めたくないんだナ、と善意に理解いたしました。(佐世保の関係者が、この書き込みをご覧になりましたら、その方にそのようにお伝えください)
[55654] 2006年 12月 24日(日)01:17:3688 さん
さらに「分立」 or 「分割」 ほか
[55648] hmt さん
その1 鳩ヶ谷町
埼玉県告示ではなく、総理府告示では
――――――――――――――――――――――――――――――
● 総理府告示 第三百二十七号
市町の廃置分合
 地方自治法の一部を改正する法律(昭和二十三年法律第百七十九号)附則第二條第五項の規定により、昭和二十五年十一月一日から、埼玉県川口市のうち、旧鳩ヶ谷町の区域を分け、その区域をもつて北足立郡鳩ヶ谷町を置く旨、埼玉県知事から届出があつた。
 昭和二十五年十一月二十五日
内閣総理大臣 吉田  茂
――――――――――――――――――――――――――――――
と、「『旧』鳩ヶ谷町」でした。
なお、ご存知とは思いますが、この「地方自治法の一部を改正する法律(昭和二十三年法律第百七十九号)附則第二條」とは、
――――――――――――――――――――――――――――――
附則
第二條 昭和十二年七月七日から同二十年九月二日に至るまでの間において、市町村の区域の変更があつたときは、その変更に係る区域の住民は、第七條の規定にかかわらず、本條の定めるところにより、從前の市町村の区域でその市町村を置き、又は從前の市町村の区域の通りに市町村の境界変更をすることができる。
2 前項の処分は、政令の定めるところにより、市町村の選挙管理委員会に対し、変更に係る区域の住民で選挙人名簿に登載されている者の総数の三分の一以上の者の連署を以て、その代表から、これを請求しなければならない。
3 前項の請求があつたときは、選挙管理委員会は、請求を受理した日から三十日以内に、当該区域が從前属していた市町村の選挙人の投票に付さなければならない。
4 第二項の規定による区域が現に存する他の市町村に属していた場合においては、前項の投票に関する事務は、同項の規定にかかわらず、その市町村の選挙管理委員会がこれを管理する。この場合において必要な事項は、政令でこれを定める。
5 第三項の投票において有効投票の過半数の同意があつたときは、委員会の報告に基き、都道府縣知事は、当該都道府縣の議会の議決を経て市町村の廃置分合又は境界変更を定め、内閣総理大臣に届け出なければならない。
――――――――――――――――――――――――――――――
です(官報情報検索サービスより。なお、この法律には「項」番号がないので引用者が補記)。
簡単に翻訳すると、
「戦前・戦中にいやいや合併したところは、今なら簡単な手続きでもとの市町村に戻れます」ということでしょう。この附則第2条第1項中の「(地方自治法本体の)第7条」が、本来(通常)の手続きということです。

その2 西武町
こちらのように補足しておきました。
なお、将来、「境界変更」自体をサービスインした際には、また補足すると思います(今回はあえて変更種別に「境界変更」を使いませんでした)。


[55649] hmt さん
「市区町村変遷情報・埼玉県」 で見たら、騎西町と美野町は「分割」、志紀町と栗橋町は「分立」となっており、解体再置の方式が違うのですね。これは知りませんでした。
それにしても、志紀町から志木町・宗岡村(現・志木市)・内間木村(現・朝霞市)・水谷村(現・富士見市)の4町村が「分立」したとすると、法人格が残ったはずの「志紀町」の抜け殻は、どうなったのでしょうか?
[55646]拙稿で紅葉橋律之介さんへのレスと同じことの繰り返しになりますが、「全訂 全国市町村名変遷総覧」(1991年8月、自治省行政局振興課監修、日本加除出版)の特に「分立」「分割」の表現はあやしいものがあります。
志紀町の件は、前掲書では「分立」になっていましたが、官報情報検索サービスで告示を確認すると、
――――――――――――――――――――――――――――――
● 総理廳告示 第三十号
   町村の廃置分合
 地方自治法第七條第一項の規定により、昭和二十三年四月一日から、埼玉縣北足立郡志紀町を廃し、その区域を分けて左記の通り 志木 ( しぎ ) 町、 内間木 ( うちまぎ ) 村、 宗岡 ( むねおか ) 村及び 水谷 ( みずたに ) 村を置く旨、埼玉縣知事から届出があつた。
 昭和二十三年四月二日
内閣総理大臣 芦田  均
一、志木町 大字志木及び大字宮戸の内字大原の区域
一、内間木村 大字浜崎、宮戸(字大原を除く。)、田島、上内間木及び下内間木の区域
一、宗岡村 大字宗岡の区域
一、水谷村 大字水子及び針ケ谷の区域
――――――――――――――――――――――――――――――
という訳で、明らかに「分割」でした。冒頭の「埼玉縣北足立郡志紀町を廃し」が、「分割」の表現です。失礼しました。
参考までに、栗橋町のほうは、
――――――――――――――――――――――――――――――
● 総理府告示 第百三十五号
町村の廃置分合
地方自治法の一部を改正する法律
(昭和二十三年法律第百七十九号)附則第二條の規程により、昭和二十四年十月一日から、埼玉県北葛飾郡栗橋町のうち、大字伊坂、松永、間鎌、佐間、高柳、島川を分け、その区域をもつて靜村を、大字北広島、河原代、新井、狐塚、中里、小右衛門を分け、その区域をもつて豊田村を置く旨、埼玉県知事から届出があつた。
昭和二十四年十一月十五日
内閣総理大臣 吉田  茂
――――――――――――――――――――――――――――――
「埼玉県北葛飾郡栗橋町のうち、○○を分け」というのが、「分立」の表現です。つまり、栗橋町そのものの法人格は存続する、ということです。
騎西町と美野町は「分割」
これも、[55646]拙稿とおなじですが、「総覧」をそのままの表現です(ともに「分割設定」でした)。
「市町村名変遷辞典 三訂版」(2003年8月(3版)、地名情報資料室編、楠原佑介責任編集、東京堂出版)を見ると(今頃見るのが遅い、という話もありますが)、騎西町は「分立」、美野町は「分割」となっています。この「・・辞典」は、「分立」「分割」に関しては法人格の継続するか否かで明確に表記を区別していますから(他の文献にはない観点)、信用してもいいかもしれません。
hmtさんにお願いなのですが、[55646]で紅葉橋律之介さんにお願いしたのと同じなのですが、これらの埼玉県告示の表現を確認することは可能でしょうか? 官報情報検索サービス での確認対象外なので、苦慮しています。もし確認できるのであればとても助かります。
ちなみに私は、いまだに地元香川県ですら、戦前の告示文書を確認しておりません(反省)。


なお、「境界変更」については、私個人としてはいずれは市区町村変遷情報 で対応したい(少なくとも大字単位のものは)との野望を抱いていますので、乞うご期待。

引用が過半の長文、失礼しました。
[55656] 2006年 12月 24日(日)13:46:33【1】hmt さん
旧町村民に 戦時合併からの離脱自決権 を認めた臨時措置
[55654] 88 さん
埼玉県における「分立」「分割」「境界変更」の事例に関する件、早速の回答をいただき、ありがとうございます。

鳩ヶ谷町
総理府告示は、埼玉県知事からの届出を告示しているのに、準拠法も区域も埼玉県告示 から変わっているのですね。
県告示(1950/10/11)の段階では誤っていたものを、地方自治庁に指摘され、届出を修正したのでしょうか。
それとも県告示と国への届出とは「別の手続き」であり、準拠法も区域も異なったままで正しいのか?
“○○の区域を分け、その区域をもつて△△を置く”を短縮した言葉が「分立」であると理解します。

さて、引用していただいた昭和23年改正法の附則第二條。
簡単に翻訳すると、
「戦前・戦中にいやいや合併したところは、今なら簡単な手続きでもとの市町村に戻れます」ということでしょう。
とありますが、これは誤解ではないでしょうか。

この規定の実体は、第1項に記されている通りです。
その変更に係る区域の住民は、(中略)從前の市町村の区域でその市町村を置き、又は(中略)境界変更をすることができる。

市町村の廃置分合、境界変更をする主体は 住民 であるということが、「住民」を主語とする文章によって明確に示されています。
「民主主義」という言葉が高らかに謳われた時代です。
あくまでも、手続きを簡単にした規定ではなく、合併した自治体内で少数派になった旧町村民の自決権を認めた臨時措置であることを御認識願います。

手続き上のポイントは、関係する旧村民による直接請求(第2項)と投票(第3項)です。
当該区域が從前属していた市町村の選挙人の投票

[37842]では、このあたりの事情を次のように記しています。
例えば 編入された純農村地区が元の村に戻りたいと考えても、地方議会の少数派で議決を得ることができない。
こうした事情に配慮して制定されたのが地方自治法附則第2条(1948)で、法律施行から2年以内に限り関係住民の直接請求を認め、投票を行なうという臨時措置でした。

西武町 市区町村変遷情報の補足 了解
志紀町 分離した4町村を「分立」から「分割」に修正 了解

埼玉県告示の表現を確認することは可能でしょうか?

浦和に行く機会が少ないもので…。近場でどの程度のことがわかるかな?
[55681] 2006年 12月 25日(月)23:15:4788 さん
三たび、「分立」 or 「分割」、「下夕村」 or 「下タ村」
↑は「夕」と「タ」を使い分けているのですが、判別できますか? 前回の「日」 or 「曰」よりは見やすそう・・・・。

引用する文献を、その都度正確に表記するのも見苦しく字数ばかりかかるので、ここで一度まとめます。今後、基本的にはこの記事番号を引用します。(時々はフルに文献名を書きます。)
略称正式名称等
「総覧」「全訂 全国市町村名変遷総覧」(1991年8月、自治省行政局振興課監修、日本加除出版)
「幕末以降総覧」「幕末以降市町村名変遷系統図総覧 改訂版(1,2)(別冊)」
 (1,2)(別冊)(2000年9月、西川治監修、太田孝編著、東洋書林)
「辞典」「市町村名変遷辞典 三訂版」(2003年8月(3版)、地名情報資料室編、楠原佑介責任編集、東京堂出版)
「消えた辞典」「消えた市町村名辞典」(2000年9月、地名情報資料室編、楠原佑介責任編集、東京堂出版)
「便覧」「旧市町村名便覧」(1999年4月、日本加除出版株式会社出版部編、日本加除出版)

その1 埼玉県の分立・分割について
[55656] hmt さん
旧町村民に 戦時合併からの離脱自決権 を認めた臨時措置
鳩ヶ谷町
総理府告示は、埼玉県知事からの届出を告示しているのに、準拠法も区域も埼玉県告示 から変わっているのですね。
県告示(1950/10/11)の段階では誤っていたものを、地方自治庁に指摘され、届出を修正したのでしょうか。
それとも県告示と国への届出とは「別の手続き」であり、準拠法も区域も異なったままで正しいのか?
埼玉県告示では
地方自治法の一部を改正する法律(昭和25年法律第143号)附則第6項の規定により
となっていましたが、
――――――――――――――――――――――――――――――
地方自治法の一部を改正する法律(昭和二十五年五月四日法律第百四十三号)
附則
6 第七十六條第四項中「その総数の三分の一の数に」の下に、「、第七十四條の二乃至第七十四條の四の規定は、同項の規定による請求者の署名に」を加える。
(項番号がないので引用者が補記、また、条はなく項のみの法律です。)
――――――――――――――――――――――――――――――
第74条の2~第74条の4は、署名の有効数等の規定を同じ法律で追加したものですから、単に署名の数だけの条文で埼玉県では誤って告示してしまい、総理府告示で補正したものと思われます。
さて、引用していただいた昭和23年改正法の附則第二條。
>簡単に翻訳すると、
>「戦前・戦中にいやいや合併したところは、今なら簡単な手続きでもとの市町村に戻れます」ということでしょう。
  (↑この段、88分の再引用(引用者注))
とありますが、これは誤解ではないでしょうか。
私の文章表現不足で申し訳ありません。
「拡大後の大きな自治体の住民」ではなく、附則第2条第1項で『その変更に係る区域の住民』とあるように、「元の自治体の住民」の意思でということを「簡単な手続き」と言う表現で端折りました。
市町村の廃置分合、境界変更をする主体は 住民 であるということが、「住民」を主語とする文章によって明確に示されています。
「民主主義」という言葉が高らかに謳われた時代です。
あくまでも、手続きを簡単にした規定ではなく、合併した自治体内で少数派になった旧町村民の自決権を認めた臨時措置であることを御認識願います。
「住民」と言う言葉ですが、旧自治体も、その長も議会も存在しないのですから、「住民」という言葉しかないのでしょう。もっとも、本則であれば「新自治体全体での意思」というのが成立したばかりの地方自治法の本旨でしょう。しかし、強制合併とも言われる経緯が経緯だけに、戦前・戦中の市町村の旧来への復帰を認めた経過措置的な特例でしょう(企業も従前のように分割された時期ですし)。なお、
――――――――――――――――――――――――――――――
附則
第二條
5 第三項の投票において有効投票の過半数の同意があつたときは、委員会の報告に基き、都道府縣知事は、当該都道府縣の議会の議決を経て市町村の廃置分合又は境界変更を定め、内閣総理大臣に届け出なければならない。
――――――――――――――――――――――――――――――
とあるように、決定権は都道府県知事にあるところは、従来どおりの「市制町村制」時代を踏襲したのでしょうか? 地方自治法第7条では総理府告示(当時)で効力が発生するのですから。
浦和に行く機会が少ないもので…。近場でどの程度のことがわかるかな?
わかる範囲で、また何かの折で結構です。私もまだまだ整理が追いついていませんので・・・。

その2 北海道の分立・分割について
[55667] 紅葉橋律乃介 さん
調査費30円なり
早速ありがとうございました(経費までかけていただいて・・・)。
で、私の書き方が不十分だったのですが、官報情報検索サービスで、戦後(正確には1947(S22)年5月3日以降)の総理府等の告示は私で調査可能です。申し訳ありません。これ以前のものは、官報の紙(マイクロフィルム)や、各都道府県告示を調べるしかない、ということです。
 分かりやすい例と言うことで、昭和23年4月1日付の「佐呂間町・若佐村」(分割設定)と、昭和27年8月1日付の「安平村・追分村」(分立)を北海道告示を抜き出してみましょう。
これらは、官報情報検索サービスでは、次のとおりです。
――――――――――――――――――――――――――――――
● 総理廳告示 第八十号
村の廃置分合
 地方自治法第七條第一項の規定により、昭和二十三年四月一日から、北海道常呂郡佐呂間村の一部を分けて、あらたに若佐村を置き、その境界を次の通りとする旨、北海道知事から届出があつた。
昭和二十三年五月五日
内閣総理大臣 芦田  均
(「次の通り」は引用者略)
● 総理府告示 第二百十号
   村の廃置分合
 地方自治法第七條第一項の規定により、昭和二十七年八月一日から、北海道勇払郡安平村のうち次の区域を分け、その区域をもつて追分村を置く旨、北海道知事から届出があつた。
 昭和二十七年九月十一日
内閣総理大臣 吉田  茂
(「次の区域」は引用者略)
――――――――――――――――――――――――――――――
このとおり、総理庁・総理府告示では、両方とも明らかに「分立」です。「分割」ではありません。北海道告示とは表現が異なります。
 ところが、明らかな違いがあります。
 佐呂間町の町長は、まず昭和22年4月の統一地方選で選出されたのち、改めて23年4月1日より4年間の任期を務めています。つまり、一旦3月31日で「佐呂間町」はリセットされ、若佐村と分かれたあと、改めて設置されたものと解釈できます(設置選挙は? という疑問がありますが)。
 一方で『早来町史』(安平村は分村後「早来」へ改称)を読むと、早来村長の任期は分村後も途切れることなく続いています。つまり、早来から「追分村」が出て行った、と解釈できます。
町村長の任期との整合では、安平村の方は一致するのですが、佐呂間村は一致しません。佐呂間村長が辞職か何かして、再び選挙を行った、と言う理屈は考えられます。
また、[55654] 拙稿でも書いたように、「辞典」を確認すると(これも「今頃」なのですが)、「若佐村」「追分村」はやはり分立で、総理庁・総理府告示と一致しました。よって、若佐村追分村とも「分立」で処理させていただきます。
でも、やはり気になるのは、「市制町村制」時代の「分立」 or 「分割」です。しかも、北海道は一級町村制・二級町村制ですから、他の地域とはさらに異なるルールかも。一番間違いないのはやはり「北海道告示」でしょう。
「総覧」には、「分村により一級町村制を施行した村名」なる記載があります。例えばT8(1919).4.1に紋別郡上湧別村が上湧別村と遠軽村に分かれた際に、遠軽村がこの「分村により一級町村制を施行した村名」として挙げられています。つまり、上湧別村は『当然のこととして』一級町村制です。これも、「総覧」の本文では「分割設定」の表現なのですが、やはり「『分割』となっているが実は『分立』」と解釈するのが正答かもしれません。「辞典」も、「分割」でなく「分立」でした。このため、遠軽村は分立としてとりあえず変更して処理しました。

「分立」「分割」に限っては、資料の優先順位を、
(1)総理府等の告示
(2)「辞典」
(3)「総覧」
にしようかと思います(従来は、「辞典」よりも「総覧」を一次資料にし、適宜総理府等の告示で補足していました。一致しなければもちろん告示優先。)。「市制町村制」時代は市以外は国の告示ではなく、都道府県告示しかないということですので([55276] Issieさん)、(1)を都道府県告示と読み替えます。
なお、これは当面の話であり、もちろん有力な資料があればそれに従います(やはり特に戦前の都道府県告示を確認したい)。また、この優先順位は「分立」「分割」限定としておきます(「辞典」は、「分立」「分割」に関しては法人格の継続をよく抑えた表現のようですので)。
今後、当面、「辞典」を確認の上、「辞典」に沿って順次当面処理しようと思います。

その3 「下夕村」 or 「下タ村」について
[55663]白桃 さん
富山県上新川郡に標記の村があり、「シタムラ」と読んでいたようですが、そうなると、「タ」は夕方の「夕」ではなく、カタカナの「タ」だったのですかね?
すでに皆様からのレスもありますが、私の手持ち資料5点(冒頭のもの)及び官報情報検索サービスの告示を再確認しました。すべて、明白に「夕(ゆう)」ではなく「タ(た)」でした。よって、修正しました。ありがとうございました。

毎度ながら、長文で失礼しました。
[56459] 2007年 1月 27日(土)18:13:40【1】hmt さん
戦時合併した埼玉県騎西町と美野町の解体、旧町村再置手続き
[55654] 88 さん
騎西町と美野町は「分割」
これも、[55646]拙稿とおなじですが、「総覧」をそのままの表現です(ともに「分割設定」でした)。
hmtさんにお願いなのですが、これらの埼玉県告示の表現を確認することは可能でしょうか?

浦和に行く機会があり、宿題を解いてきました。
結論から言うと、戦時(1943年)の強制合併で成立した騎西町と美野町を戦後(1946年)に解体し、旧町村を再置した手続きは、市町村変遷情報・埼玉県 に記載されている「分割」で間違いないようです。

以下、告示文の引用。数字、漢字表記は修正を加えてあります。

埼玉県告示第163号(埼玉県報昭和21年4月30日号外)
町村制第3条第1項の規定により昭和21年5月1日から北埼玉郡騎西町を廃止しその区域を分ちて左の通りあらたに騎西町、種足村、鴻茎村、高柳村及び田ヶ谷村を設置する。
昭和21年4月30日   埼玉県知事西村実造

この後に、1町4村の区域を大字により示した部分が続くが、記載を省略します。種足村には「タナダレ」と振り仮名。
これに続く告示164号は町有財産処分、告示165号は役場の位置です。
この分割に関係する告示としては、「387号 騎西町分割町村人口の件」というのもありました。

埼玉県告示第507号(埼玉県報昭和21年12月1日号外)
町村制第3条第1項の規定により昭和21年12月1日から秩父郡美野町を廃止しその区域を分けて左の通りあらたに皆野町、三沢村、大田村、国神村、日野沢村及び金沢村を設置する。
昭和21年12月1日   埼玉県知事西村実造

この後に続く1町5村の区域を大字により示した部分の省略、続番告示の内容については同様です。

「市町村名変遷辞典」を見ると、騎西町は「分立」、美野町は「分割」となっています。この「辞典」は、「分立」「分割」に関しては法人格の継続するか否かで明確に表記を区別していますから信用してもいいかもしれません。
とありましたが、騎西町も「分割」でしたね。

ついでに「境界変更」の件。
昭和21年の「埼玉県報」をパラパラめくっていたら、告示461号に、「北埼玉郡共和村及び笠原村の入会耕地に対して耕地整理施行した結果、その区画を基礎として村境界を変更する」というのもありました。
たまたま「県報」の中から目に付いた「境界変更」の一例ですが、旧制度時代になると、拾い出しの作業も面倒となり、この種のものを市町村変更情報に網羅的に収録することは、事実上無理であると思われます。

官報情報検索サービスが利用できる現行制度時代を含めて、「境界変更」については、「境界変更告示に基づいて掲載する」という呪縛から、一旦離れてみるのがよいのではないかと思います。
[56460] Hiro(&TOKO) さんによると、境界変更告示は、昭和23年以降でも約5,550件と膨大な件数であり、軽微か否かを判断して選別収録することについては、むしろ「告示から追えるものをすべて順番に掲載」した方が作業効率上よいという指摘もなされております。

観点を「土地」でなく、市町村の「人口」関連に限定する道もあるし、「落書き帳で取り上げられた話題関連」というような、自由な収録基準を使っても差し支えないと思います。
もちろん88さんが既に準備している「総覧」を元にした「境界変更(大)」[55730]という基準を使うのも良いと思いますよ。
「都道府県市区町村」というサイトの中にあって、どんなものを収録すれば役に立つのか、自由に考えてみましょう。
[56491] 2007年 1月 28日(日)14:22:08【3】hmt さん
長瀞・寄居付近
[56459]で戦時合併した埼玉県美野町の解体手続きに触れましたが、この美野町が成立した1943年9月8日は、先に話題になった 桜沢村の寄居町への編入 と同日です。
つまり、荒川が秩父山地から関東平野へと流れ出るあたりで、この日に3件の戦時合併があったのです。

秩父郡皆野町、三沢村、国神村、金沢村、日野沢村、大田村、それに 白鳥村下田野 が合体して美野町成立。
秩父郡樋口村と白鳥村の大字岩田・大字井戸・大字風布の一部分が 野上町 に編入
大里郡桜沢村と秩父郡白鳥村大字金尾・大字風布の大部分が 大里郡寄居町 に編入

上記のように3分割されて消滅した白鳥村。名前の由来は、国指定名称「長瀞」の「白鳥島」 ですね。
見事な結晶片岩の露頭で有名な長瀞の右岸、観光客の視線で言うと「対岸」の山塊が白鳥村で、荒川はその山麓を北に回って寄居に出ます。

この白鳥村は、東斜面が 寄居町に、尾根を隔てた長瀞側の西斜面が 野上町(現・長瀞町)に、そして釜伏山の南西が 上流側に隣接する皆野町を中心として新設された美野町へと3分割されたわけです。
もともと山で隔てられた地形ですから、これが自然の成り行きと言えるでしょう。白鳥村の金尾・風布からも分村編入の陳情書が出ていました。言い換えれば、明治22年の町村制に際して作られた白鳥村は、かなり不自然な存在だったということでしょう。

桜沢村の件は[56265] Issie さんにある通りで、4度目の合併話でようやく実現しました。

最初、明治の町村制施行にあたっては、郡長の寄居合併試案に対して、地形・民情の相違が認められて独立で村制(1889年、当時は榛沢郡)。

2度目、日露戦争後の1908年に提出された合併案が内務大臣の許可を得られず不成立に終わった原因が 「基本財産問題」 にあったことも既に紹介されています。

寄居町が桜沢村と合併しても新・寄居町の基本財産が増えるわけでなく(←このあたりの理屈が今一つ理解できないのですが),これを問題とした内務大臣(←原敬でした)が合併の許可を与えず
と、すっきりしないようなので、もう一度問題を整理してみます。

要するに内務省としては、桜沢村の大字有林を基本財産に吸収して、町村財政の強化を図る目論見であったのに対して、桜沢村としては、こちらが山林を出すなら、寄居町は土地に代る金銭を拠出してこそ対等合併だと主張。

間に立った郡や県が、桜沢村所有の山林の権利を地元に残す形で調整を図った結果が、1908年の合併申請だったが、これが内務省の意向に沿わなかったために不許可に終わったということでしょう。
…若シ大字有土地ヲ新寄居町有ト為サゝレハ合併不許可相成次第ニモ候ハゝ甚ダ遺憾千万ノ儀ニ候得共…
(明治41年9月大里郡長より埼玉県内務部長への申報)

3度目の合併話は大正末期、鉄道を巡る感情的なしこりが失敗の原因になったようです。
坂戸町から高崎への計画線を寄居までに縮めて工事中だった東上線は、1923年(大正12年)11月に小川町までが開通し、1924年末という竣工期限には間に合わなかったものの、1925年7月に秩父鉄道寄居駅に乗り入れを果たしました。
実はそれよりも前、東上線乗り入れ駅の誘致を巡って、寄居町と桜沢村との競り合いがあり、その時の行きがかり上、桜沢村民は寄居との合併に反対する空気が強く、寄居町も断念に至ったと新聞は伝えています(東京朝日埼玉版1925/9/13)。

そして4度目が昭和18年の戦時合併。この時は有無を言わせず合併になったのでしょう。
日付については、前記白鳥村の3分割と同日、1943年9月8日ということになりました。
戦後は、美野町のように解体することもなく無事でした。

【追記】
寄居町風布(ふっぷ)の「北限のみかん」というキャッチフレーズを耳にしたのは ずいぶん前のこと。
最近は事情が変わっているかと調べてみたら、筑波山西麓のみかん園 の方が少し北のようです。常陸太田市のジュース工場 にも実をつける木があるらしいが、これは「産地」とは言えないか。
更に、「国見の里 みかんの実る 北限地」 というのもありました。那須烏山市のみかん園
【更に追記】
[56514] 音無鈴鹿さん から「福島県のみかん」を紹介していただきました。写真を見ると、立派に実っていますね。
[64153] 2008年 3月 29日(土)17:34:18Issie さん
市になれなかった軍都
[64148] hmt さん
「市」には「中心市街地」が存在することを当然の前提としているようです。

「地方自治法」以前の「市制」の時代ですが,1941年に上溝町・座間町ほか6村が合併してできた新自治体は,まさしくこれを理由として内務省から「待った」がかかって“市”となることができず,「高座郡相模原町」として発足した,ということが『相模原市史』には記されています。
上溝だけでは「市」を称するには足りなかったのですね。
敗戦後に座間が分離して,ようやく「相模原市」になったのは「地方自治法」下で 昭和の大合併 が進行中の1954年11月。相模原の市制施行は 昭和の大合併 の成果ではなく(発足当時,「全国で最も面積の広い“町”」と言われたほどの大規模合併を達成していますから),この間に市街地が成長した結果なのでしょうね。
大和町がその少し前に 渋谷村(旧渋谷町の北半分) と合併して市になったのが1959年,海老名町と座間町が同時に市になったのが1971年11月1日,綾瀬町はちょうどその7年後の1978年11月1日に市になっています。この時期のズレが,それぞれの“町”に新興住宅地化が波及して市街地が形成された時期の違い,ということになるのでしょう。
もちろん,実際にはこのような“社会的”な条件が整うだけでなく,“町”自体が“市”になる意思表示をしなければならないという“政治的”な条件も必要ですけれど。
[74025] 2010年 1月 23日(土)19:03:55白桃 さん
ややこしや、津山東町と加茂町
現在の津山市のエリアには面白くて複雑怪奇な「町の存亡」の歴史があります。

その1.二つの津山東町
市町村制度発足時、岡山県にはたった3つしか町がありませんでした。高梁、津山と津山東です。この「津山東町」は文字通り津山城下町の東部にあり、実態は「津山」であったと思われます。1900年に津山町に編入されましたが、自然のなりゆきだったのでしょうね。津山東町を編入した津山町は1929年に津山東町などと合併し、市制施行。このときの「津山東町」は1923年に林田村が町制施行した際に改称したものです。「東津山町」ぐらいにしておけば、ややこしさが薄まったと思うのですが・・・。
ともかく、この2つの「津山東町」は別物なのです。

その2.加茂町と新加茂町
こちらは、もっとややこしい。
1924年苫田郡加茂村が町制施行し、加茂町に。
1942年加茂町、東加茂村、西加茂村が合併。
1951年1月1日加茂町の一部が新加茂町として分立
1954年4月1日加茂町、新加茂町、上加茂村が合併し、加茂町となる
ここで、面白いのは1951年に分立した「新加茂町」とは、もともとの「加茂町」であり、残った「加茂町」というのが、旧の東加茂村と西加茂村なのですよ。
この事は今日初めて知りました。世帯主が家を飛び出して新しい世帯を作った。こんな例って他にあるのかしら?
顛末はこちらをご覧いただければ詳しいのですが、3年あまり新加茂町と加茂町は役場を共用していたというのですから何とも面白いですね。
[74310] 2010年 3月 10日(水)02:21:08オーナー グリグリ
分立データ(市の変遷)
[74303] に関連して、市の変遷に分立データを追加しました。また、北海道の市についても他の都府県と合わせてコード順に並べました。hmtさん、ご了承ください。市が関連する分立データは以下のとおりです。

■町村から市が分立(1例)
1945.09.26 沖縄県 石川市 分立/市制 中頭郡美里村の一部

■市から町村が分立(11例)
1947.11.23山口県吉敷郡阿知須町分立山口市の一部
1949.8.1山口県都濃郡富田町分立徳山市の一部
1949.9.1山口県都濃郡福川町分立徳山市の一部
1949.11.1山口県吉敷郡小郡町分立山口市の一部
1950.7.1神奈川県三浦郡逗子町分立横須賀市の一部
1950.7.1熊本県八代郡郡築村分立八代市の一部
1950.11.1埼玉県北足立郡鳩ヶ谷町分立川口市の一部
1951.1.1富山県射水郡新湊町分立高岡市の一部
1951.1.1富山県射水郡牧野村分立高岡市の一部
1952.4.1岐阜県土岐郡笠原村分立多治見市の一部
1956.9.30長野県上伊那郡宮田村分立駒ヶ根市の一部

分立した11の町村のその後の経緯が面白いです。非常にバラエティに富んでいます。

1. 元の鞘に納まった例
(1) 山口市から分立した阿知須町と小郡町は50年以上を経て山口市と再び新設合併
1944.4.1山口県山口市新設山口市, 吉敷郡 大歳村, 平川村, 秋穂二島村, 名田島村, 陶村,
小郡町, 嘉川村, 阿知須町, 佐山村
1947.11.23山口県吉敷郡阿知須町分立山口市の一部
1949.11.1山口県吉敷郡小郡町分立山口市の一部
2005.10.1山口県山口市新設山口市, 佐波郡 徳地町, 吉敷郡 秋穂町, 小郡町, 阿知須町

(2) 八代市から分立した郡築村は4年後に八代市に再び編入
1943.4.1熊本県八代市編入八代市, 八代郡 郡築村
1950.7.1熊本県八代郡郡築村分立八代市の一部
1954.7.1熊本県八代市編入八代市, 八代郡 郡築村

(3) 多治見市から分立した笠原村は50年以上を経て多治見市に再び編入
1923.10.10岐阜県土岐郡笠原町町制土岐郡 笠原村
1951.4.1岐阜県多治見市編入多治見市, 土岐郡 笠原町
1952.4.1岐阜県土岐郡笠原村分立多治見市の一部
1952.8.1岐阜県土岐郡笠原町町制土岐郡 笠原村
2006.1.23岐阜県多治見市編入多治見市, 土岐郡 笠原町
なお、最初の編入時は笠原町で分立時は笠原村。笠原村から笠原町に町制施行後二度目の編入。

2. 独立した例
(1) 横須賀市から分立した逗子町は3年9ヶ月後に逗子市として市制
1943.4.1神奈川県横須賀市編入横須賀市, 三浦郡 浦賀町, 逗子町, 北下浦村, 長井町, 武山村, 大楠町
1950.7.1神奈川県三浦郡逗子町分立横須賀市の一部
1954.4.15神奈川県逗子市市制三浦郡 逗子町

(1) 川口市から分立した鳩ヶ谷町は16年4ヶ月後に鳩ヶ谷市として市制施行
1940.4.1埼玉県川口市編入川口市, 北足立郡 鳩ヶ谷町, 新郷村, 神根村, 芝村
1950.11.1埼玉県北足立郡鳩ヶ谷町分立川口市の一部
1967.3.1埼玉県鳩ヶ谷市市制北足立郡 鳩ヶ谷町

3. 一部が独立、一部が元の鞘
(1) 高岡市から分立した新湊町は2ヶ月半後に新湊市として市制、牧野村は3ヶ月後に高岡市に再び編入。
1940.12.1富山県射水郡新湊町編入射水郡 新湊町, 牧野村
1942.10.1富山県高岡市編入高岡市, 射水郡 新湊町
1951.1.1富山県射水郡新湊町分立高岡市の一部
1951.1.1富山県射水郡牧野村分立高岡市の一部
1951.3.15富山県新湊市市制射水郡 新湊町
1951.4.4富山県高岡市編入高岡市, 射水郡 牧野村
なお、最初の編入時の約2年前に牧野村は新湊町に一旦編入されている。

4. 一旦独立後、新しい市として一体化
(1) 徳山市から分立した富田町と福川町は合併し南陽町を経て新南陽市に、その後徳山市と再び新設合併し周南市に
1944.4.1山口県徳山市新設徳山市, 都濃郡 櫛浜町, 富田町, 福川町, 大津島村, 夜市村,
戸田村, 湯野村
1949.8.1山口県都濃郡富田町分立徳山市の一部
1949.9.1山口県都濃郡福川町分立徳山市の一部
1953.10.1山口県都濃郡南陽町新設都濃郡 富田町, 福川町
1955.11.1山口県都濃郡南陽町編入都濃郡 南陽町, 佐波郡 和田村
1970.11.1山口県都濃郡新南陽市改称/市制都濃郡 南陽町
2003.4.21山口県周南市新設徳山市, 新南陽市, 熊毛郡 熊毛町, 都濃郡 鹿野町

5. 分立した状態を維持
(1) 駒ヶ根市から分立した宮田村は分立した状態を現在も維持
1954.1.1長野県上伊那郡宮田町町制上伊那郡 宮田村
1954.7.1長野県駒ヶ根市新設/市制上伊那郡 赤穂町, 宮田町, 中沢村, 伊那村
1956.9.30長野県上伊那郡宮田村分立駒ヶ根市の一部
なお、駒ヶ根市と新設合併時は宮田町だったが分立時は宮田村に戻り現在に至る。
[79475] 2011年 10月 10日(月)20:25:26オーナー グリグリ
市から分立した町村
[79472]で、
市の変遷には、鳩ヶ谷市以外にも一旦分立して復帰した町村のケースがいくつかあります。
と書きましたが、市から分立した町村を調査してみました。市の変遷ページで「分立」でサイト検索すれば洗い出せます。その町村の元の市への編入などの経緯と、分立後の変遷を含めて、以下にリストアップします。右端の★印の変遷は、市の変遷ページには現在ない項目です。

埼玉県(鳩ヶ谷町)川口市1940.4.1編入川口市, 北足立郡 鳩ヶ谷町, 他3村
北足立郡 鳩ヶ谷町1950.11.1分立川口市から
鳩ヶ谷市1967.3.1市制北足立郡 鳩ヶ谷町
川口市2011.10.11編入川口市, 鳩ヶ谷市
神奈川県(逗子町)横須賀市1943.4.1編入横須賀市, 三浦郡 逗子町, 他5町村
三浦郡 逗子町1950.7.1分立横須賀市から
逗子市1954.4.15市制三浦郡 逗子町
富山県(新湊町・牧野村)射水郡 新湊町1940.12.1編入射水郡 新湊町, 牧野村
高岡市1942.10.1編入高岡市, 射水郡 新湊町
射水郡 新湊町1951.1.1分立高岡市から
射水郡 牧野村1951.1.1分立高岡市から
新湊市1951.3.15市制射水郡 新湊町
高岡市1951.4.4編入高岡市, 射水郡 牧野村
射水市2005.11.1新設新湊市, 他4町村
長野県(宮田村)駒ヶ根市1954.7.1新設/市制上伊那郡 宮田町, 他3町村
上伊那郡 宮田村1956.9.30分立駒ヶ根市から
岐阜県(笠原村)多治見市1951.4.1編入多治見市, 土岐郡 笠原町
土岐郡 笠原村1952.4.1分立多治見市から
土岐郡 笠原町1952.8.1町制土岐郡 笠原村
多治見市2006.1.23編入多治見市, 土岐郡 笠原町
山口県(阿知須町・小郡町)山口市1944.4.1新設山口市, 吉敷郡 小郡町, 阿知須町, 他7村
吉敷郡 阿知須町1947.11.23分立山口市から
吉敷郡 小郡町1949.11.1分立山口市から
山口市2005.10.1新設山口市, 吉敷郡 小郡町, 阿知須町, 他2町
山口県(富田町・福川町)徳山市1944.4.1新設徳山市, 都濃郡 富田町, 福川町, 他5町村
都濃郡 富田町1949.8.1分立徳山市から
都濃郡 福川町1949.9.1分立徳山市から
都濃郡 南陽町1953.10.1新設都濃郡 富田町, 福川町
新南陽市1970.11.1改称/市制都濃郡 南陽町
周南市2003.4.21新設徳山市, 新南陽市, 他2町
熊本県(郡築村)八代市1943.4.1編入八代市, 八代郡 郡築村
八代郡 郡築村1950.7.1分立八代市から
八代市1954.7.1編入八代市, 八代郡 郡築村

分立後の変遷には、元の市に戻ったケースと独立したケースがあります。ほとんどが前者ですが、逗子町(逗子市)、新湊町(新湊市→射水市)、宮田村は独立したケースです。
[80411] 2012年 3月 19日(月)16:55:17hmt さん
戦時合併 と その解体 続編 (1)戦時合併
タイトルに「続編」と付けたのは、7年前に同じタイトルの記事[37842]があるからです。記事集

最初に、「戦時」という言葉の説明から。
私たちの日常用語としての使い方では、「戦時」とは 昭和16年(1941)12月8日から 昭和20年(1945)8月15日までと理解することが多いと思います。
説明するまでもありませんが、これは 「米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書」大東亜戦争終結ノ詔書 とによって、日本国民が 開戦と終戦とを 知らされた日付です。

# よく考えれば当然のことだったのですが、終戦の詔書「それ自体の日付」は8月14日でした。
8月14日「ポツダム宣言受諾」という外交上の手続き以上に、8月15日「玉音放送」という国内手続きが重要。
これにより 「事実上の戦争終結」が実現した という事実を 改めて認識しました。

更に脱線:日付が1日違う「県民の日」[55178]も、布告制定日とその公布日とのずれに由来するものと推察。

それはさておき、実は 米英との開戦よりもずっと前【1937年7月7日 蘆溝橋事件[52150]】から、中華民国との間には「宣戦布告なき戦争」が継続中でした。参考までに、当時の日本国内での呼び名は「支那事変」でした。
組織的な戦争体制が 8月15日に終結した後、降伏文書 の調印により、1945年9月2日に正式の「戦争終結日」が到来しました。

例えば、昭和二十三年法律第百七十九号「地方自治法の一部を改正する法律」 附則第二條[55654] には、このような見地に基づいて「戦時」を表現した期間が、次のように記されています。
昭和十二年七月七日から同二十年九月二日に至るまでの間において、市町村の区域の変更があつたときは【後略】

この改正法臨時措置に該当する戦時合併は、全国で合併合体208(関係町村661)、編入合併188(関係町村341)と伝えられています[37842]

変遷情報検索を利用して、昭和12年7月7日~昭和20年の「新設」と「編入」とを集めてみたら199 + 184 = 383件。上記の合体編入件数と完全には一致しませんが、ほぼ同数です。なお、昭和20年は0件。
県別の表示により、戦時合併が多数あった県(埼玉県29件、広島県21件、富山県20件など)が存在した反面、沖縄県は0件で、宮城・栃木・徳島・鹿児島各県も各1件だけでした。

[45417] eiji_t さん は「軍需合併」という言葉を使って、昭和14年の茨城県多賀町誕生を伝えています。
これは実質的に「戦時合併の最初の事例」と言えるのではないかと思います。
法律上は昭和12年からとなっていますが、戦時合併が盛んになるのは、群馬県太田町など昭和15年以降です。

戦時合併の本質は、このような「戦争体制合併」にあると思いますが、その変種として「紀元二千六百年記念事業」を銘打ったものがあることを[37842]で記し、川口市・大宮市・相模原町・志紀町を例示しました。

当時の軍需工場や軍関係施設そのものは、当然のことながら敗戦と戦後復興を経て様変わりしていますが、戦時合併で誕生した枠組みの大部分が現在の自治体に継続し、「軍関係施設」までもが残されているのが相模原町です。

もちろん紀元2601年(昭和16年、1941)の天長節に「相模原町」が誕生した当時の「軍都」構想は雲散霧消していますが、広大な陸軍造兵廠(兵器工場)跡地には米軍相模総合補給廠が鎮座しています。
「鎮座」という言葉を使ったのは、その敷地内に現在でも武神をお祀りした神社があるから[57245]

「軍都」の中には造兵廠以外にも相模大野近辺の通信学校など多くの施設がありましたが、特に有名なものとして、昭和12年に市ヶ谷台から座間に移転してきて、大元帥陛下から「相武台」[5101][19684]の名を下賜された陸軍士官学校本科がありました。

昭和16年の合併には「座間町」も加わりましたが、戦後に分立
日付から判断すると、おそらく臨時措置による手続き[55656]によらず、相模原町との「協議離婚」が成立したものと思われます。
ここには、在日米陸軍の本拠地たる「キャンプ座間」が現存 [12462]
[80415] 2012年 3月 20日(火)19:57:53【1】hmt さん
戦時合併 と その解体 続編 (2)戦後の分立・分割を助けた 臨時措置
[37842] hmt
戦時合併は軍需工場の設置・拡張等による要請もあったと考えられますが、敗戦により事情が一変しました。

このような情勢の変化に基づき、自治体内で 「協議離婚」の合意が成立すれば、地方議会が自主的に分割を議決し、戦時合併前の自治体に復帰する動きを取ることができます。
そのような事例は 埼玉県北埼玉郡騎西町や 秩父郡美野町であり、早くも昭和21年(1946)には、合併前の町村が復活しました。少し遅れましたが、同県北足立郡志紀町の分割も昭和23年に実現。

しかし、埼玉県鳩ヶ谷町(川口市に編入)、神奈川県逗子町(横須賀市に編入)、富山県新湊町(高岡市に編入)などの場合は、独立回復を望んでも、地方議会内の少数派であるために意見が通りません。

それでも独立を回復したい。このような事情を考慮した臨時措置が2年間の時限立法で作られました。
「昭和23年法律第179号附則第二條」という地方自治法改正がそれで、関係住民の直接請求に基づき 旧町村の分立(又は市町村の分割)への道を開くものでした(昭和23年8月1日施行)。
この臨時措置は、[28038][37862]で言及された後、[55654] 88さん により 法律条文が引用されています。

神奈川県相模原町からの座間町分立につき、協議離婚の合意があったと思われる趣旨を [80411]で記しましたが、これは分立の日付が、改正法施行日(1948/8/1)から 僅か1ヶ月後であったという事実から、私が推測したものにすぎません。
もしかしたら、座間町の復活は、臨時措置による分離第1号の成果であったのかもしれません。【追記により否定】

明らかにこの制度に助けられて 独立を獲得したと考えられるのは、逗子町復活ですが、“横須賀市から苦難の独立”[37958] という言葉が示すように、分離独立への道も 平坦ではなかったようです。

【追記】
逗子町再置が 前記改正法“附則第2條第5項の規定”によることは、昭和25年総理府告示第191号 に明記されていました。
そこで、座間町の場合も 再置告示確認によって、臨時措置によるものか否かの区別がつくであろうことに気づきました。
調査の結果は、通常の手続きによる分立のようでした。昭和23年神奈川県告示第360号 【追記終】

更に 気の毒な事例もあります。戦時中に松山市に編入された 愛媛県温泉郡道後湯之町は、戦後の住民投票の結果では 分離賛成が僅かに多数を得たものの、県議会において 分離案が否決されてしまったとか。第7国会参議院議事録参照

このように、大戦→敗戦という大変革の中でも、一旦合併した後の 分立・分割は なかなか実現困難なようです。

このような「分立」の希少性に着目した記事集が、落書き帳アーカイブズ 分立した市町村の実例 です。
ここには、既に主な事例が収録されているようですが、改めて 変遷情報検索機能の活用により、戦時合併からの分立・分割事例を 網羅的に集めてみることにしました。

[28038] 夜鳴き寿司屋 さん
個々のリストも欲しいところですが、どなたかアップして下さい。お願いします
[28051] 花笠カセ鳥 さん
私が、10年以上前に、図書館で緑色の厚い本(タイトル失念)を見て調べた内容のうち、アーカイブズ未収録のものを書きます。
のフォローということになります。

次の記事にリストをのせます。
[80416] 2012年 3月 21日(水)16:11:01【1】hmt さん
戦時合併 と その解体 続編 (3)戦時合併→戦後分離 の事例集
戦時中に合併したものの 戦後に分離した市町村の話題を続けます。[80411]掲載分に加筆した 記事集

[28051] 花笠カセ鳥 さんの記事にあるように、事例を紹介した本が存在するようですが、不明のまま。
88 さん のおかげで、この時代の履歴情報[55225]は 既に 2006年時点で整備済であったのですが、最近になってグリグリさんが提供してくれた 検索機能は、このテーマの事例を 網羅的に集めるにも役立ちそうです。そこで、私が試行した結果の報告です。

変遷情報データベースの中で「分立・分割」を検索する期間は、1945年~1951年と設定しました。
1945年には まだ該当例はないものと予想されますが、念の為 終戦の年から始め、昭和23年の法改正で設けられた特別措置2年間を考慮して、昭和26年までを対象としました。

検索結果 89件中には、もちろん戦時合併と無関係のノイズも多数含まれます。例えば戦時合併がなかった沖縄県。
そこで、分立・分割 89件中の「変更対象自治体名」が、[80411]で検索した戦時合併 383件(新設199 + 編入 184)に該当するものを拾い出し、次の結果を得ました。

No.県名戦時合併分離再置町村名復縁現在記事
1秋田昭和町1942分立1950飯田川町,豊川村1956潟上市[28051]
2和田町1942分立1950豊島村1955秋田市[28051]
3茨城瑞穂村1942分立1949源清田村1955河内町
4埼玉川口市1940分立1950鳩ヶ谷町2011川口市[55654]
5騎西町1943分割1946【注1】騎西町他4村1954加須市[56459]
6美野町1943分割1946【注2】皆野町他4村1955皆野町[56459]
7分割1946大田村秩父市
8志紀町1944分割1948/4志木町,宗岡村1955志木市[55654]
9分割1948/4内間木村朝霞市
10分割1948/4水谷村富士見市[55363]
11栗橋町1944分立19490静村,豊田村1957久喜市
12神奈川相模原町1941分立1948/9座間町座間市[180][64153]
13横須賀市1943分立1950逗子町逗子市[37958]
14富山高岡市1942分立1951新湊町射水市[74310]
14.1分立1951牧野村1951高岡市[15592]
15三重名張町1942分立1949箕曲村1954名張市
16滋賀水口町1942分立1948/10柏木村1955甲賀市
17木之本町1942分立1948/5伊香具村1954長浜市
18岡山加茂町1942分立1951新加茂町1954津山市[74025]
19広島西条町1939分立1950寺西村1959東広島市
20山口山口市1944分立1947阿知須町2005山口市[25065]
21分立1949小郡町2005山口市[6729]
22徳山市1944分立1949富田町,福川町2003周南市[5162]
23愛媛肱川村1943分立1951河辺村2005大洲市
24三島町1944分立1950松柏村1954四国中央市
25高知新宇佐町1942分立1949新居村1958土佐市[28051]
26大忍村1942分割1948/4【注3】山南村他3村1955香南市[28051]
27熊本三和町1944分立1949池上村1953熊本市
28分割1950城山村,高橋村1953熊本市[53580]
29八代市1943分立1950郡築村1954八代市[74310]
30大分竹田町1942分立1950豊岡村1954竹田市

【注1】騎西町,種足村,高柳村(復縁1955),田ヶ谷村,鴻茎村
【注2】皆野町,三沢村(復縁1957),国神村,日野沢村,金沢村
【注3】山南村,徳王子村,富家村,香宗村 復縁は1955年(香我美町,野市町)と2006年の2段階

【追記と訂正】
[80417] k-ace さん ご指摘のように、新湊町と牧野村とは、分立後の変遷で 異なる道を歩みました。
牧野地区については、[15592] TN さん の記事があり、更に、市から分立した後の町村の変遷経緯については、グリグリさんによる詳しいコメント[74310]がありました。(いずれも、冒頭の記事集に追加)
上記の表で1行に同居していた No.14は、分割して2行に改めました。
[80419] 2012年 3月 21日(水)22:20:2988 さん
Re:戦時合併 と その解体 続編 (3)戦時合併→戦後分離 の事例集
[80416] hmt さん
まとめていただいたご紹介のリストを基に、官報情報検索サービスで総理府告示等を調査した結果をご紹介します。とりあえず、事実のみの報告で失礼します。
告示年月日、告示番号を記載しているのは、今後、さらなる検証の際の便宜を図るためでもあります。

No.町村特別措置告示年月日告示番号施行年月日
1秋田県秋田郡飯田川町S25.11.24総理府告示第322号 S25.10. 1
南秋田郡豊川村S25. 6.12総理府告示第192号 S25. 7. 1
2河辺郡豊島村S25. 6. 9総理府告示第184号 S25. 7. 1
3茨城県稲敷郡源清田村S24. 9. 5総理府告示第62号 S24. 8. 1
4埼玉県北足立郡鳩ヶ谷町S25.11.25総理府告示第327号 S25.11. 1
5北埼玉郡騎西町他4村
6,7秩父郡皆野町他4村
8,9,10北足立郡志木町,内間木村,宗岡村,水谷村×S23. 4. 2総理庁告示第30号S23. 4. 1
11北葛飾郡静村,豊田村S24.11.15総理府告示第135号S24.10. 1
12神奈川県高座郡座間町×S23. 9.21総理庁告示第164号 S23. 9. 1
13三浦郡逗子町S25. 6.12総理府告示第191号S25. 7. 1
14富山県射水郡※新湊町S25.11.25総理府告示第328号S26. 1. 1
射水郡※牧野村S25.11.25総理府告示第329号S26. 1. 1
15三重県名賀郡箕曲村S24. 8. 1総理府告示第45号S24. 8. 1
16滋賀県甲賀郡柏木村×S23.11.20総理庁告示第207号 S23.10.10
17伊香郡伊香具村×S23. 5.22総理庁告示第104号S23. 5.10
18岡山県苫田郡新加茂町S26. 3.29総理府告示第47号 S26. 1. 1
19広島県賀茂郡寺西村S25. 6. 9総理府告示第185号 S25. 4. 1
20山口県吉敷郡阿知須町
21吉敷郡※小郡町S24.12.21総理府告示第164号 S24.12.21
22都濃郡※富田町×S24.11.15総理府告示第136号S24. 8. 1
都濃郡※福川町S24. 9.16総理府告示第73号S24. 9. 1
23愛媛県喜多郡河辺村×S26. 2. 5総理府告示第15号S26. 1. 1
24宇摩郡松柏村S25.11.24総理府告示第325号S25.10. 1
25高知県高岡郡新居村S24. 6.27総理府告示第11号S24. 4. 1
26香美郡山南村,徳王子村,富家村,香宗村×S23. 4. 2総理庁告示第31号S23. 4. 2
27熊本県飽託郡池上村S24.10.25総理府告示第110号S24. 9. 1
28飽託郡城山村,高橋村×S25.10. 4総理府告示第285号S25. 5. 1
29八代郡郡築村S25. 7.20総理府告示第235号S25. 7. 1
30大分県直入郡豊岡村S25.10.17総理府告示第300号S25. 9. 1

注釈
・特別措置欄
○:地方自治法の一部を改正する法律(昭和23年法律第179号)附則第2条第5項の規定による分立・分割
×:地方自治法(昭和22年法律第67号)第7条による分立・分割
注:この時期の地方自治法第7条は、地方自治法の一部を改正する法律(昭和22年法律第169号)による改正後のものが適用。

・郡欄
※:市の一部が分立したため、属する郡の区域を定める総理府告示が別途存在する。
ただし、4 埼玉県北足立郡鳩ヶ谷町は、川口市から分立の告示中に「北足立郡」との記載がある。


――――――――――
根拠法令(抜粋)
地方自治法の一部を改正する法律(昭和23年法律第179号)
附則
第二条 昭和十二年七月七日から同二十年九月二日に至るまでの間において、市町村の区域の変更があつたときは、その変更に係る区域の住民は、第七条の規定にかかわらず、本条の定めるところにより、従前の市町村の区域でその市町村を置き、又は従前の市町村の区域の通りに市町村の境界変更をすることができる。
2 前項の処分は、政令の定めるところにより、市町村の選挙管理委員会に対し、変更に係る区域の住民で選挙人名簿に登載されている者の総数の三分の一以上の者の連署を以て、その代表者から、これを請求しなければならない。
3 前項の請求があつたときは、選挙管理委員会は、請求を受理した日から三十日以内に、当該区域が従前属していた市町村の選挙人の投票に付さなければならない。
4 第二項の規定による区域が現に存する他の市町村に属していた場合においては、前項の投票に関する事務は、同項の規定にかかわらず、その市町村の選挙管理委員会がこれを管理する。この場合において必要な事項は、政令でこれを定める。
5 第三項の投票において有効投票の過半数の同意があつたときは、委員会の報告に基き、都道府県知事は、当該都道府県の議会の議決を経て市町村の廃置分合又は境界変更を定め、内閣総理大臣に届け出なければならない。
6 前項の場合において第一項の市町村の区域の変更に伴い処分した財産があるときは、現に存する市町村は、これが現に存する限度において、議会の議決を経てその変更に係る区域が従前属していた市町村に返還しなければならない。
7 前項の財産処分に不服がある市町村は、裁判所に出訴することができる。
8 第五項の規定による届出を受理したときは、内閣総理大臣は、直ちにその旨を告示しなければならない。
9 政令で特別の定をするものを除く外、地方自治法第二編第四章の規定は、第三項の規定による投票にこれを準用する。

地方自治法(昭和22年法律第67号)第7条
(地方自治法の一部を改正する法律(昭和22年法律第169号)によるもの)
第七条 市町村の廃置分合又は市町村の境界変更は、関係市町村の申請に基き、都道府県知事が当該都道府県の議会の議決を経てこれを定め、内閣総理大臣に届け出なければならない。所属未定地の市町村の区域えの編入も、また、同様とする。
2 都道府県の境界にわたる市町村の境界の変更は、関係のある普通地方公共団体の申請に基き、内閣総理大臣がこれを定める。
3 前二項の場合において財産処分を必要とするときは、関係市町村が協議してこれを定める。
4 前三項の申請又は協議については、関係のある普通地方公共団体の議会の議決を経なければならない。
5 第一項の規定による届出を受理したとき、又は第二項の規定による処分をしたときは、内閣総理大臣は、直ちにその旨を告示しなければならない。

告示の例
●総理府告示第三百二十七号
市町の廃置分合
 地方自治法の一部を改正する法律(昭和二十三年法律第百七十九号)附則第二條第五項の規定により、昭和二十五年十一月一日から、埼玉県川口市のうち、旧鳩ヶ谷町の区域を分け、その区域をもつて北足立郡鳩ヶ谷町を置く旨、埼玉県知事から届出があつた。
 昭和二十五年十一月二十五日
内閣総理大臣 吉田  茂

●総理府告示第百六十四号
市町の廃置分合
地方自治法の一部を改正する法律(昭和二十三年法律第百七十九号)附則第二條第五項の規定により、昭和二十四年十一月一日から、山口県山口市のうち大字小郡上郷及び小郡下郷を分け、その区域をもつて小郡町を置く旨、山口県知事から届出があつた。
昭和二十四年十二月二十一日
内閣総理大臣 吉田  茂

●総理府告示第百六十五号
郡の区域の境界にわたつて設置された町の属する郡の区域を定める処分
地方自治法第二百五十九條第三項の規定により、山口県小郡町の属する郡の区域を吉敷郡に定める旨、山口県知事から届出があつた。
昭和二十四年十二月二十一日
内閣総理大臣 吉田  茂

●総理府告示第百三十六号
市町の廃置分合
地方自治法第七條第一項の規定により、昭和二十四年八月一日から、山口県徳山市のうち大字富田を分け、その区域をもつて富田町を置く旨、山口県知事から届出があつた。
昭和二十四年十一月十五日
内閣総理大臣 吉田  茂
[80421] 2012年 3月 22日(木)15:22:30hmt さん
戦時合併 と その解体 続編 (4)戦後分離特別措置
[80419] 88 さん
早速、官報により総理府告示を調査していただき、ありがとうございます。
No.5,6,7が空欄なのは、官報情報検索サービスの対象期間(1947/5/3以降)よりも前[56459]だからですね。
No.20 阿知須町分立は、地方自治法になってからの 1947/11/23実施ですが、告示は半年以上前だったのでしょうか。

集計表により、特別措置が適用されたのは、No.25 高知県高岡郡新居村(S24. 4. 1施行)を第1号として、No.18 岡山県苫田郡新加茂町(S26. 1. 1施行)までの合計 20町村の分立であったことがわかりました。
# 施行日を使ったのは、何故か告示日の方が遅いものが多いからです。

同じ徳山市から同時期に分立したのに、No.22 福川町が ○で 富田町が × という違いがあったのは 意外でした。
分立にあたっては、個々事情の相違がある。当然のことを改めて認識させられたデータでした。

No.14.1 富山県射水郡牧野村の挙動なども、いかにも事情ありげです。
[15592] TN さん により紹介されていますが、1940年に先ず隣接する新湊町に編入。次いで、1942年に高岡市に編入と2段階の戦時合併。
戦後の特別措置で分立することになるのですが、今度は1942年の新湊町ではなく、1940年の新湊町と牧野村まで戻ります。
これが、1951年の正月元日でした。
そして正月に分立した2町村のうち、新湊町が3月に新湊市になったのはよいとして、4月には牧野村が高岡市に出戻り。
地図 を見ると、庄川の東側に張り出した高岡市牧野地区は、“第1次戦時合併当時(1940~1942)に戻りたくない”ことを語りかけているように見えます。

熊本県飽託郡三和町からの No.27 池上村「分立」 が特別措置で実現して 「三和」の一角が崩れました。
こうなれば、残る2地域No.28 も 戦前の自治体に戻ることになり、翌年「分割」。これは よく理解できます。
しかし、明治22年の町村制施行時からの「高橋町」に戻ることはできず、城山村と共に生れたのは「高橋村」でした。[53580] むじながいり さん

なかなか理解できなかったのが、No.18 岡山県苫田郡新加茂町の分立です。
[74025] 白桃 さん
1924年 苫田郡加茂村が町制施行し、加茂町(1)に。
1942年 加茂町(1)、東加茂村、西加茂村が合併。【新設合併で加茂町(2)となる】
1951年1月1日 加茂町(2)の一部【旧加茂町(1)の地域】が新加茂町として分立【旧東加茂村、旧西加茂村の地域は、加茂町(3)として残る】
1954年4月1日 加茂町(3)、新加茂町、上加茂村が合併し、加茂町(4)となる【新設合併】

理解しやすいように、4つの加茂町に番号を付けました。加茂町(2)と加茂町(3)の範囲は違いますが、法人格は継続。

加茂中心部の地図 を見ると、南流する加茂川に西から倉見川がY字型に合流。戦時合併した3自治体は、 Y字の川を境界に隣接していました。現在でも津山市役所支所のある北側が行政中心地の加茂町(1)、街道が通り因美線美作加茂駅のある東側は交通の拠点となっている東加茂村。西側の西加茂村には病院マークが見え、生活の拠点のようです。

相互に補完する機能を持つ3自治体の合併に無理な点はなかったのに、なぜ戦後になって特別措置による新加茂町分立という事態になったのか? これが謎でした。

[74025]にリンクされた 加茂分町の歴史 により、その原因が戦後の学制改革であったことを知りました。
3町村にあった小学校の1つを廃校にして中学校にする。犠牲になった旧加茂町(1)の地域からの分離運動は、住民投票で多数を得たものの、県議会でも もめた。その結果が、前記のように 20町村分立の どんじりになった理由でしょう。

このような行きがかりで、分立ということになってしまいました。
しかし、幸いにして 深刻な争いに発展せずに、2町が融和提携する道を歩んだようです。
役場も共用して経費を節約し、発端になった学校問題も2町の学校組合立3小学校へと方針転換。

1954年の昭和大合併では、上加茂村を加えた3町村の合併による加茂町(4)で、復縁を果しましたとさ。
めでたし めでたし。
[80427] 2012年 3月 24日(土)16:11:30【1】hmt さん
戦時合併 と その解体 続編 (5)戦時合併した主な自治体
話が、戦後に分離(分立・分割)が行なわれた事例[80416]や、それを助けた法的措置[80415][80421]に進んでしまいましたが、説明不足だった戦時中の合併に戻ります。

[80411] hmt
変遷情報検索を利用して、昭和12年7月7日~昭和20年の「新設」と「編入」とを集めてみたら新設合併199 + 編入184 = 合計383件。
前回はナマの検索結果は表示しませんでしたが、関与自治体数でいうと 小規模な合併(383件中 2自治体が203、3自治体が71)が多く、またこの期間内に 同じ場所で 2~3回に分けて戦時合併が行なわれたケースもありました。
下記の自治体名と府県とを入力することで、累計5以上の市町村が関与した合併を表示した 検索結果 により、主要な戦時合併を 一覧表で示します。
#16~19と#71は 1937/7/7以前、#77は #36山梨県大和村と同名の村が他県に存在したためのノイズです。

合併後の自治体:盛岡市 仙台市 秋田市 佐野市 群馬県太田町 川口市 大宮市 熊谷市 埼玉県所沢町 飯能町 騎西町【加須市】 美野町【皆野町】 川崎市 横浜市 相模原町 横須賀市 富山県桜井町【黒部市】 富山市 新湊町【射水市】 高岡市 七尾市 小松市 金沢市 甲府市 山梨県大和村【甲州市】 八代村【笛吹市】 岐阜市 沼津市 津市 四日市市 宇治山田市【伊勢市】 上野市【伊賀市】 鈴鹿市 能登川町【東近江市】 長浜市 東舞鶴市【舞鶴市】 堺市 岸和田市 大阪府枚方町 富田林町 和歌山市 浜田市 島根県出雲町 広島県西条町【東広島市】 小畠村【三次市】 高蓋村【三次市】 下関市 岩国市 徳山市【周南市】 山口市 高松市 松山市 西条市 高知市 小倉市【北九州市】 福岡市 大牟田市 長崎市 佐世保市 大村市 諫早市 熊本市 荒尾市 大分市 日田市

念の為、町村の府県名と、名称が変った自治体の現在名称とを付記しました。

【追記】 今回のリストは大規模合併に限ったので、[80411]で挙げた日立多賀は出てきません。リストには、多賀町よりも早い時期であり、しかも いかにも戦時合併と思わせる事例として、1938年の東舞鶴市誕生(5町村新設合併)がありました。

戦時合併に関与した自治体数が最多を記録したのは 横浜市(18)で、都筑郡9町村だけでなく 戸塚町など相模国鎌倉郡8町村を編入し、第六次市域拡張と呼ばれています。編入町村の人口や現在の区名については、[59657] スピカ さんの記事があります。但し、第三次の都筑郡西谷村と第四次の鎌倉郡永野村とは既に横浜市になっていたので、17町村に含まれません。

横浜に次ぐのは富山市[79563]・鈴鹿市の14、堺市・徳山市・松山市・高知市が各11、山口市10でした。
5自治体以上の大規模な合併であるだけに、大きな市への編入と、市制を伴う新設合併とが目立ちます。
相模原町、太田町、所沢町などは、もちろん「戦時」に係る重要施設の所在地ですが、“市になれなかった”という点では、戦時合併リストの中で少数派と言えるかもしれません。

シリーズのタイトルには「解体」が入っていますが、5自治体以上が合併した今回のリストの中で、戦後に全面的に解体したのは騎西町と美野町だけでした。しかも いずれも昭和合併期に復縁[56459]

一部の町だけが脱離した事例も少数です。富田町と福川町は 南陽町>新南陽市を経て 2003年徳山市と復縁して周南市。阿知須町・小郡町も 2005年山口市に戻り、鳩ヶ谷市も 昨年川口市と復縁。

結局のところ、座間・逗子・射水(新湊)の3市だけが、戦時合併を経て独立を果たした市として現存。
独り立ちする実力を備えた町は、やはり 僅か なのでした。

戦時合併も、大局的には「昭和合併の前奏曲」のような 役割になってしまった という結果でしょうか。
[80429] 2012年 3月 25日(日)17:34:59【1】Issie さん
旧座間町の分離について: 「正史」における記述 (1)
[80411] 以下 hmt さん
戦時合併 と その解体 続編

昭和16年の合併には「座間町」も加わりましたが、戦後に分立。
日付から判断すると、おそらく臨時措置による手続き[55656]によらず、相模原町との「協議離婚」が成立したものと思われます。

[80415]
【追記】
逗子町再置が 前記改正法“附則第2條第5項の規定”によることは、昭和25年総理府告示第191号 に明記されていました。
そこで、座間町の場合も 再置告示確認によって、臨時措置によるものか否かの区別がつくであろうことに気づきました。
調査の結果は、通常の手続きによる分立のようでした。昭和23年神奈川県告示第360号 【追記終】

この辺りの経緯について,「正史」である市史ではどのように記載してあるか,確認してみようと思いました。
本来であれば双方の記述にあたるべきなのですが,座間市側では現時点で「通史」の刊行は近世まで,近現代については「資料編」の刊行にとどまっている(その代り非常に詳細で,後の引用の通り相模原市側の記述の多くもこれに依っています)ので,以下は相模原市側の『相模原市史 現代通史編』(2011年,以下「市史」)によります(なお,この刊行年にあるように相模原市側でも1960年代後半から70年代初めに編纂された旧版市史は1945(昭和20)年8月15日で終わり,「相模原市」の時代が丸ごと入る戦後の記述は今回の“新版”に送られていました)。

さて,「市史」ではまず,座間町分離の前提状況として次のように記載しています(なお以下,年月日や数を表している漢数字は原則として算用数字に改めます)。

-------------------------------------------------------------------------------------
 「相模原町旧座間町地区分立嘆願書」によると,町制施行の過程において,座間町は最後まで反対であったが,県と軍の指導により,不本意ながら重圧に屈して賛成したという(『座間市史4 近現代資料編2 240』)。合併前の座間町の人口と面積は,大野村に次ぐ規模であった。1940(昭和15)年時点で田の面積は231町歩,二ケタ止まりのほかの七か町村にくらべて広く,生産価額でみても最上位に位置している(『昭和十五年 神奈川県統計書』)。農業を基軸に,旧七か町村(引用注:ママ)のなかでトップクラスの生産力を誇っていた座間町は,合併に消極的であった。
 合併後,交通網の不便さから,座間は上溝に置かれた町役場まで遠く,半日を要する状況であった。また,税金を多く払っているにもかかわらず,地元の老朽化した校舎や道路は放置される。軍都建設の要請のもと,最初から財政不均衡な八つの町村が合わさって生まれた相模原町で,各地区まんべんなく施設の充実を図ることはできなかった。
 こうした要因を背景に,相模原町では敗戦を契機として,旧町村を単位に合併前の状態を求める分離運動が起こった。「軍都」という共有の目標を失うと,合併の意義そのものが疑われ,ほころびを見せ始めたのである。(p.317)
-------------------------------------------------------------------------------------

敗戦直後の1945年9月に分離を求める地区の有志が当時の町長に申し出を行うことで具体的な分離の動きが始まるのですが,この時に動き出したのは旧座間町だけでなく,旧相原・大野両村も加わっていました。旧相原村は現在の緑区東部の橋本・相原地区および中央区の小山・清新・相模原地区,旧大野村は現中央区の矢部・淵野辺地区および南区の古淵・相模大野・上鶴間・東林間地区で,つまり国道16号線とJR横浜線,および小田急線沿いの,要するに現相模原市で人口と産業の集積の最も高い地域です。以後,この座間・相原・大野の3地区が分離運動の主役となります。
この3地区の中で特に動きが早かったのがやはり座間地区で,住民の幅広い支持を集めて分立のための「実行委員」まで選出して町会議員や地元選出の県議・岩本信行(長く県会議長を務め,1946年の衆議院議員選挙で国政に進出,のち吉田茂に抜擢されて第2次吉田内閣の国務大臣・地方財政委員長),地元選出ではないけれども県内の鵠沼に住んでいた衆議院議員(北海道選出)・坂東幸太郎らへの働きかけを積極的に進め,坂東を仲介に帝国議会(国会)への請願も行っています。これに対して相原・大野両地区では住民の意向がまとまらず,動きが鈍かったようです(ちなみに,岩本は旧大野村の上鶴間の出身です)。
こうした動きを背景に,1946年10月4日の相模原町会全員協議会に座間分離問題が上程されましたが,その場で妥協点を見出すことができず結論は先送りになりました。結局,同年11月30日に開かれた町会で分町を求める意見書が緊急動議が提出され,断続的な休憩の後,意見書は6対11で否決されました。
これに対して,座間地区では12月5日に「座間町民大会」を開き分立を求める決議文を全会一致で採択し,相模原町役場の座間出張所長までをも含めた地域の有力者を新たな分立実行委員に選び,さらに運動を強化して,衆議院議員となった岩本を仲介に県や内務省への陳情を進めました。意見書を否決した町議らへの再考要請も行っています。
こうした動きに対して,町議の多くは個人的な理解は示しましたが実際の分離には消極的であったようです。それは当然で,座間が分離した後,相原と大野がそれに続けば「相模原町」として残るのは現在の相模線沿いの地区だけで,これは事実上の「相模原町の瓦解」です。だから,1947年の新憲法施行準備の町議会議員選挙で定数36のうち20議席を分町派の座間・相原・大野地区選出議員で占め,正副議長ポストを押さえても,なかなか事態は進展しませんでした。なお,町議会議員選挙に先立って行われた町長選挙(初の住民による公選)では分町派が擁立した候補が落選しています。

(続く)
[80430] 2012年 3月 25日(日)17:37:11【1】Issie さん
旧座間町の分離について: 「正史」における記述 (2)
[80429] の続き

このように,なかなか上手く進まない座間の分離問題。その風向きを変えたのが

[80415]
「昭和23年法律第179号附則第二條」という地方自治法改正

です。
「市史」では,1947年12月に衆議院で前年8月に請願書を提出した座間分立を求める請願が認められ,翌48年2月にこの請願書を仲介した前出の衆議院議員で当時衆議院治安および地方制度委員会委員長を務めていた坂東幸太郎から上記の地方自治法改正につながる指令がGHQから出るという情報がもたらされたことが転機になったとしています。この地方自治法改正に関する記述は以下の通り。

-------------------------------------------------------------------------------------
 戦時中,軍の要請で合併させられた市町村を,従来の市町村議会の議決ではなく,住民投票により元の状態に戻すという,地方自治法の改正案は,4月15日,衆議院に提出された。審議は同月27日から,治安および地方制度委員会で始まる。委員長の坂東幸太郎は地方自治法の改正案をめぐる状況について,座間側にその都度知らせていた。分立実行委員の山田和夫に宛てた葉書のなかで,坂東は座間側が関心を寄せる改正案の提出時期と中身に関して触れている。
 審議が進むと,5月には,稲垣俊夫・山田和夫の二人が坂東議員を訪問した。かれらは今回の地方自治法の改正に,相模原町の事例も含まれるのかどうか聞いたところ,坂東から「該当する」というお墨付きを直接得ている。地方自治法の改正案は6月19日に衆議院本会議,同月28日に参議院本会議でそれぞれ可決され,7月20日に公布された。(p.324~325)
-------------------------------------------------------------------------------------

この一連の動きの中でキーパーソンであったのが衆議院議員の 坂東幸太郎 や 岩本信行 であったわけです(ともに自由党)。そして,この地方自治法改正に座間分立問題も深く関連していたことがわかります。
これに対して地元の座間・相模原では,

-------------------------------------------------------------------------------------
 国政の動向が座間にとって有利に働いたことで,座間分離問題は再燃した。48年5月には,座間地区選出の六人の町議と座間支所長が相模原町の関係者を訪問し,改正後の地方自治法を適用して分町を強行するよりも,改正前に町議会の議決で円満に独立したいという意向を伝えたという(『神奈川新聞』1948年5月5日付)。座間側は強気の姿勢に変化し,改正案の成立を待たずに解決することを急いだ。
 地方自治法の改正案の成立が確実視されると,相原・大野地区の町議との連携も進む。座間地区六人と大野地区五人の合わせて十一人の町議が,6月2日に共同で,座間の分離問題に関する臨時議会の招集を求めた(議会史 資料編II)。これまで,町議会でたびたび分離実現の機会を逸してきたが,今度は,相原・大野との共同歩調が事前に採られる。6月8日,相模原町議会が開かれると,「座間地区分離独立の件」が提案され,19対11で可決された(議会史 資料編II)。ここで,座間地区は独立する権利を手にする。(p.325)
-------------------------------------------------------------------------------------

ということになりました。
あえて“特別措置”は行使しないことを表明しながら,むしろそれを条件に町に承認を迫った,とも言えそうですね。

こうして町議会は座間の分離を承認しましたが,前年の選挙で分町派の候補を破って当選した町長の小林與次右ヱ門は,「分町問題は町発展のブレーキ」と認識し,町議会の解散権行使をちらつかせながら消極的な態度をとりました。しかし結局,7月7日の町議会全員協議会で(分町派でない5地区を含む)各地区選出の町議一人ずつと正副議長から成る「旧座間町地区分離準備委員会」の設置が決定され,同委員会でまとめられた分離に伴う財産処分案を含む具体的な座間町分離方針が8月6日に町議会に上程,「9月1日から座間町を設置する」ことが全会一致で承認されたのを受けて,8月11日に小林町長が 地方自治法第7条による町分離処分 の申請を県知事に行いました。県議会は8月30日に座間分離案を可決,翌31日に

[80415]
昭和23年神奈川県告示第360号
「座間町設置に関する県告示」

が出されました。そして翌日,1948年9月1日に座間町が再置されたわけです。

一方,座間と共同歩調をとっていた相原・大野の両地区は結局,分離を選択しませんでした。
座間が分離の実現に向けて積極的に動き出した5月半ば,両地区選出の町議は「相模原町分町問題に関する申合」を取り交わしました。その中で,両地区は相模原町に残り市制施行の実現に努力する。それに当たっては,(3段の河岸段丘である相模原台地の“中段”に位置する)上溝にある町役場などの諸施設を“上段”の横浜線沿線に移転することを求めています。それが認められなければ,座間に続いて両地区も分離をめざす,ということです。
この「申合」は座間町の分離が議決された6月8日(「市史」ママ。8月6日か?)の町議会に緊急動議として提案され,可決しました。
実際に町役場が上段の 旧相原村清兵衛新田 の現在地に移転するのは1954年4月29日。これは相模原町発足からちょうど14年めの記念日,そして同年11月20日の市制施行の7ヵ月前のことです。
現在,市役所や警察署,郵便局などが集積する相模原市の中心業務地区(CBD)となっている 中央・富士見地区 は旧上溝・相原・大野3町村の境界が交わる場所に当たります。ここをCBDとすることは「軍都計画」当初からの既定方針であったようですが,現実には相原・大野両地区の分離を思いとどまらせることの交換条件として実現したとも言えそうです。

以上が,「市史」の記述による「協議離婚」([80411] )の経緯です。
現実の「離婚」がそうであるように,たとえ円満に見える協議離婚でも,それが実現する経緯は紆余曲折があるのですね。

(続く)
[80431] 2012年 3月 25日(日)17:38:53【2】Issie さん
旧座間町の分離について: 「隋書」では
[80430] の続き

以上,相模原市側の「正史」によって座間分離の過程を見てみました。
冒頭で申し述べたとおり,これは1960年代後半に編纂された旧版を引き継ぎ,2004年の市制施行50周年を機会に編纂が進められている新版市史によるものです。わが国の正史になぞらえれば「日本書紀」に対する「続日本紀」とでも言えましょうか。
実際に国家が編纂した正史では,現政権の正統性を強調するために前政権に対する記述に政治的配慮を加えることがよくあります。645年の宮廷クーデタ(乙巳の変,いわゆる大化の改新)および672年の王位継承をめぐる内戦(壬申の乱)という2度の王位簒奪事件を経て成立した政権(天武・持統朝)で編纂が始まった「日本書紀」における蘇我氏に関する記述や,皇統が天武系から天智系に移ったのを受けて即位した桓武天皇の命令で編纂された「続日本紀」における孝謙・称徳女帝と“怪僧”道鏡とのスキャンダラスな関係なんかは幾分割り引いて読む必要がありそうです。
市史程度のものであれば,そこまで読み込む必要はないと思いますが,それでも40年前に編纂された旧版の方で座間分離問題を扱っていたら,その書きぶりは新版のそれとは少し違っていたかもしれません。何より,まだ通史編が刊行されていない座間市側の「正史」でどのように記述されるか,とても楽しみです。

ところで,倭国が派遣した使節が隋の皇帝・高祖文帝の前で演じた不調法を恥じてか,わが国の正史に記載のない600年の遣隋使をしっかり記載している『隋書』に相当する(?),県史ではこの辺りをどう記述しているか,『神奈川県史 通史編5 近代・現代(2)』(1982年)も見てみました。
当然ながら,市史と県史とでは関心の対象が違い,敗戦後の地方制度改革で最も関心を寄せているのは横浜市も対象となる「特別市」問題ですが,あわせて分離を含めた市町村の「区域変更」をめぐる問題を取り上げています。長くなりますが,ほかの興味深い事例についても触れているので,1節の前半分を以下に引用します。

-------------------------------------------------------------------------------------
 特別市問題は新しく作られる地方制度の枠組との関連で県を二分するか否かの大問題であったが,県内にはそれとは異なる型での区域変更をめぐる争いもこの時期に登場した。その一つは横須賀市内の旧逗子町の分離独立問題で,戦時中の1943(昭和18)年4月に軍の要請で横須賀市に編入された旧逗子町の町民の有志から戦後になって編入の意義は失われたとして従来の如く逗子町として独立しようとする運動が活発になってきたのであった。また,高座郡相模原町でも旧座間町の分離独立問題が動き始めていた。座間では相模原への合併後,住民生活の不便,経済負担の不均衡等を理由に,分離独立の意向を強くもっていたが,相模原町会ではこれを認めると大野・相原等が相次いで独立することをおそれてこれを承認しなかったために問題化し始めていたのである(地方課『昭和22年3月知事事務引継書』)。
 当時の地方制度では,そして制定されることとなる新地方自治法においても,市町村の配置分合は関係市町村会の議決を経て,内務大臣の許可を得たうえで知事が定めることとなっていた。しかし,住民の意思を尊重するという雰囲気が強まってくるなかで,区域の変更に関しても住民の意思を直接に聴する手続が採られる動きも見られたのである。鎌倉郡片瀬町の場合がそうであった。片瀬町と隣接する藤沢市との合併問題は戦前からあったが,敗戦後の財政の窮乏と食料の確保のため合併の気運が強くなり交渉が進められた。一方同市に隣接する鎌倉市も大鎌倉市の構想をもち隣接町村との合併を希望し,片瀬町が藤沢か鎌倉との合併を希望するとの誘いをもちかけた。同町ではこの問題を決定するために町民による町民投票を行って方向を決めたのである。1947年1月に行われた町民投票では有権者の57パーセントの3463名が投票し,結局藤沢市への合併を希望するものが,現状維持・鎌倉合併派をおさえて多数派を占め,これを基礎として両市町は合併を内務大臣に奏請した結果,同年4月1日から片瀬町は藤沢市に編入されることとなったのであった。このように“首長公選”の時と同様に法制上の裏づけはないが,住民の意向を確かめるための住民投票を経て事実上の決定を行い,それを法制に結びつけて運用するということが,過渡期の地方制度運営の現場でみられるようになっていたのである。ちなみに,逗子町の横須賀市からの分離の投票は1949年3月に行われたが,これは48年の地方自治法一部改正による法的根拠をもった投票であった(『横須賀市政時報』昭和24年2月22日)。(p.575~576)
-------------------------------------------------------------------------------------

というわけで,住民投票の行われなかった旧座間町のその後については実は触れられていません。
ところで,「県史」のこの巻が刊行されたのは1982年。当時の神奈川県は“長洲県政”の下,「革新自治体」の代表として情報公開条例の制定に取り組んでいました(これが山形県の小さい町に先を越されてしまった件,昨日(24日)の朝日新聞・夕刊に取り上げられています)。ここに引用した節の書きぶりにも,そんな県政の雰囲気が漂っているような気がします。

当たり前のことですが,県レベルの視点から見れば座間の分離問題は逗子の分離問題とも連動する案件です。結果的に,両者は違った手続きで分離・再独立を勝ち取りました。
ここで大きな働きをした「地方自治法の一部改正」は,社会・民主・国民協同3党の連立政権である芦田内閣の下で進められましたが,国会で実際に審議を進めたのは衆議院の治安および地方制度委員会委員長であった野党・自由党の 坂東幸太郎 であり,彼が座間の分離問題に積極的に関わったのは前述のとおりです。また,これも最初に登場した元県議の地元選出衆議院議員 岩本信行 も,一連の記述には登場しないけれども大きな働きをしたことでしょう。前述の通り彼は,占領下の戦後第1回衆議院議員選挙で採られた大選挙区制を1947年の新憲法準備総選挙に備えて元の中選挙区制に戻す選挙法改正審議での手腕を 吉田茂 に買われて,昭電疑獄による政権交代で成立した第2次吉田内閣で,解体された内務省から地方行政事務を引き継いだ 地方財政委員会委員長(国務大臣) に抜擢されます。「地方政治のプロ」としての抜擢ですが,それが内務官僚ではなく,長く県会の首領として君臨してきたという意味での「地方政治のプロ」なのですね。
町議会で座間分離案が可決して再独立の実現に大きく進んだとき,町議会からは分離に向けての具体的な手続について,先行して分離(というより解体)が実現した埼玉県の旧志紀町へ代表を派遣して調査してきたりもしています。

座間の分離独立は,こうしたさまざまなつながりの中で実現したのですね。
[80434] 2012年 3月 26日(月)13:12:35【2】hmt さん
戦時合併 と その解体 続編 (6)座間町分立に影響した法改正 住民投票で分離した28町村
[80429][80430] Issieさん
あえて“特別措置”は行使しないことを表明しながら,むしろそれを条件に町に承認を迫った,とも言えそうですね。

タイミング良く、昨年『相模原市史 現代通史編』が発行されていたのですね。
詳細なご紹介により、当時の実情の一端を知ることができました。

引用箇所が戻りますが、
このように,なかなか上手く進まない座間の分離問題。その風向きを変えたのが「昭和23年法律第179号附則第二條」という地方自治法改正

この改正法附則第二条は、88さんが [55654]で第5項まで、更に[80419]で第9項までを紹介されているのですが、住民による請求期間を2年間に限定した第10項が なぜか脱落していたので追加します。

昭和23年法律第179号附則第二条第10項
第二項の請求は、この法律施行の日から二年以内に限り、これを行うことができる。

【追記】
ここで、このような過去の法律を落書き帳記事にリンクする際に利用できるソースについて、一言紹介します。
2年前の記事[75018]で 「地方自治法の昭和27年改正」 をリンクした時は、国立公文書館の 原本画像 を利用しました。
ところが、最近では もっと使い勝手のよい テキストソースに 簡単にアクセスできることを知りました。
すなわち、衆議院HPに第1回国会以来の制定法律本文があり、日本法令索引からリンクされているのです。

手順を簡単に説明します。
日本法令索引 の現行法令から「地方自治法」を検索。その「法令沿革」で 昭和23年7月20日法律第179号〔第四次改正〕 の「被改正法令」をクリックすると、国立公文書館_デジタルアーカイブ【御署名原本画像】と衆議院_制定法律【テキスト】との両方へのリンクがあります。
衆議院_制定法律 を閲覧すると、原本由来ですが 項番号がありません。最後のあたりに記された附則の 行頭位置は乱れており、少し読みにくい。
しかし、テキストですから、上記のように必要部分をコピペするにも便利です。

なお、衆議院のテキストが使えるのは“第1回国会以来の制定法律”に限られ、それ以前、例えば 帝国議会による「制定当時の地方自治法」[75012] を見るのには使えません。
【追記終】

なお、“2年間だけ住民投票で決着できる”という事実だけは、ずっと前の[28038]で紹介済みでした。

[80431] Issieさん
片瀬町が藤沢か鎌倉との合併(中略)問題を決定するために町民による町民投票を行って方向を決めたのである。

1948年の法改正とは無関係ですが、1948年よりも前に住民投票が行なわれた事例があったのですね。

座間町は、事実上 1948年の法改正を見据えたものではあったが、分立手続き自体は法改正によるものでなく、住民投票も行なわれませんでした。従って、“分離が住民投票で決定”された28件[28038]の中に含まれていないのは当然です。

では、[80419]88さんの表で「○」が付けられた20町村と、上記“28件の分離”との相違とは?

特別措置による分立が行なわれた結果、「分立元」が戦時合併前の単独町村に戻ったケースが該当するでしょう。
秋田県南秋田郡昭和町【合併前は大久保町】、秋田県河辺郡和田町、茨城県稲敷郡瑞穂村【分立3ヶ月後に合併前の長竿村に改称】、埼玉県北葛飾郡栗橋町、高知県高岡郡新宇佐町【分立と同日に合併前の宇佐町に改称】で5件。

熊本県飽託郡三和町から池上村が分立した翌年の分割により 合併前の自治体に戻った城山村・高橋村。
この分割手続き自体は 特別措置によるものでなかったのですが、戦前の形に戻すという住民の意向は、前年の住民投票で示されていた可能性があります。
そして、岡山県苫田郡加茂町(2)から新加茂町分立後に残った加茂町(3) [80421]
これは戦時合併前の東西2村ですが、これも同類と数えれば 20+5+2+1=28件。

むりやり数合わせを強行したきらいもありますが、一応説明がつきました。

[28038] 夜鳴き寿司屋 さん
実際に全国で33件が実施され、そのうち28件の分離が住民投票で決定になったようです。
ということは、住民投票で分離せずの結果を出したり、県議会で分離案否決[80415]されたりの不成功 5例ということか。
[80441] 2012年 3月 28日(水)16:11:09hmt さん
国勢調査に記録された市町村変遷情報 (1)昭和24年 栗橋町を「分割」としたのは誤記?
市町村の廃置分合、境界変更及び名称変更については、基本的に ここの 「変遷情報」 に頼っています。
従って、これまで 統計局の国勢調査資料 を参照することが なかったのですが、最近話題にした 戦時合併・戦後分離 の時代について、どのように記録されているか、ちょっと調べてみました。

過去の国勢調査資料は、政府統計の総合窓口の 提供統計一覧 から探すことができます。

今回問題にした時代は、昭和22年臨時国勢調査と昭和25年国勢調査とにより、大部分がカバーされています。
昭和55年(1980)以前の資料については、当時の印刷物を PDF化した文書により提供されています。

昭和25年国勢調査>人口総数と進むと、統計表一覧の下の方から、「市町村の廃置分合,境界変更及び名称変更-昭和22年10月~昭和25年9月」のPDFファイルに進むことができます。
「保存」を選ぶと「50a-z01j.pdf」という名で保存されます。頭の50は、1950年国勢調査を意味しています。

このファイルの3/10コマが埼玉県で、昭和23年4月1日の志紀町4分割は良いのですが、その下の方に
昭和24年10月1日 北葛飾郡栗橋町を廃し、その区域をもって新たに栗橋町、静村、豊田村を設置。
とあります。

1949年の解体手続きが「分立」であることは、[55654]88さんに記されている 昭和二十四年総理府告示 第百三十五号 から明らかであり、国勢調査報告書が「分割」としているのは、誤記であろうと考えられます。

地方行政とは部署が違うが、同じ「総理府」の作った文書の中に、こんなこともあるのですね。

「50a-z01j」には、埼玉県内 19件の変更が記録されています。
「変遷情報」では省略している 一部編入 や 大字単位でない境界変更 も拾い上げているので、同じ期間内の埼玉県「変遷情報」の記録数6件(11行)よりも 多数になっています。

ついでに、埼玉県以外にも目を通してみたところ、「50a-z01j」の次の箇所も、変遷情報と相違していました。
北海道 24.1.1上砂川町【変遷情報24.4.1】、24.11.1下川町【24.12.1】、千葉県 24.11.3大柏村の市川市編入【24.11.1】、新潟県 22.11.12片貝町【22.11.3】、愛知県 23.4.1碧南市【23.4.5】、三重県 25.8.1井田村【猪田村】、岡山県 22.12.9福田町【22.12.25】、大分県 24.4.1野津町【24.7.1】

昭和22年臨時国勢調査の統計表一覧には、昭和25年にあったような 廃置分合の専用ファイルが見当たりません。
しかし、市町村別人口を記録した 9ファイルの中に、脚注の形で 廃置分合等が書き込まれています。
[80444] 2012年 3月 29日(木)00:08:47【1】88 さん
総理庁告示以前の官報広告
[80421] hmt さん
No.20 阿知須町分立は、地方自治法になってからの 1947/11/23実施ですが、告示は半年以上前だったのでしょうか。
[80441] hmt さん

実は、[80421] hmt さんの上記投稿を受けて官報情報検索サービスで再確認していると、大発見しました。
[80441] hmt さん 関係も含めて、以下に3件記します。

◎町設置
昭和二十二年十一月二十三日から山口市のうち大字阿知須を分ちその区域をもつて阿知須町を置きその属する郡の区域を吉敷郡に定めた。
昭和二十二年十二月
山口県
昭和22年12月19日 官報第6281号 209頁 「広告」欄

●町村変更
三島郡片貝村は昭和二十二年十一月三日、町となつた。
昭和二十二年十一月
新潟県
昭和22年11月17日 官報第6253号 99頁 「広告」欄

●町村変更
岡山県児島郡福田村は福田町とすることを許可し昭和二十二年十二月九日からこれを施行した。
昭和二十三年一月
岡山県
昭和23年1月19日 官報第6300号 68頁 「広告」欄

――――――――――
総理庁設置はS22.5.3であり、S24.5.31まで存在しますが、「総理庁告示」により市町村の廃置分合等がなされたのは、S23.4.2付け総理庁告示第25号による青森県上北郡大三沢町設置が最初です。
これ以前は、上述のように、府県告示?であり、官報という「公報」に掲載されたようです。
もちろん、府県の公報に掲載されたものもあるでしょう。
「公告」でなく「広告」欄です(正確には旧字体の「廣告」)。
「広告」には、「町設置」等のほかには、「公示催告」「公示送達」「漁業財団」「工場財団」「鉱業財団」などの見出しが並んでいます。
上述の3件以外にもまだ官報の「広告」欄に搭載された例があるかとは思いますが、そこまで調査が至ってません。

また、この時期の根拠規定の精査も改めて実施中ですが、整理がまだできていません。整理できればまた投稿したいと思います。

――――――――――
[80443] 紅葉橋律乃介 さん
ほぼ調査を終えましたが、少々お待ちを。
[80446] 2012年 3月 29日(木)07:55:41オーナー グリグリ
Re:戦時合併 と その解体 続編
[80411] hmtさんの記事に始まる表題の件、非常に貴重で面白い議論が続いています。資料価値も非常に高いと思いますし、うまくまとめたいなと思っています。まとまった記録としては、hmtマガジンでいずれ取り上げられると思いますが、落書き帳の書き込み記事をもう少し手軽に記録保存することができないかなと考えています。例えば、変遷情報の詳細記録ページに記事番号や記事集をリンクするのはどうでしょうか。

例えば、Issieさんの「旧座間町の分離について」[80429][80430][80431] は、相模原町の町制の詳細情報相模原町からの分立の詳細情報に、関連落書き帳記事としてリンクを貼ると有効だと思います。落書き帳には、このような記事が星のように数多く輝いていますので、変遷情報についてはこのような手法で生かしたいと考えます。いかがでしょうか。>88編集長

落書き帳の記事の生かし方として、単純な記事検索の他、編集作業を凍結している落書き帳アーカイブズや、hmt編集長のhmtマガジンのマガジン活用がありますし、落書き帳の話題から雑学ページに発展させたものもあります。私としては、編集者による特徴が出るマガジン化を推進したいと思っていますが、ハードルが高いのかなかなかhmtさんに続く編集者が現れてくれません。ROMの方、ROMになりつつある方、時々生存報告される方、お忙しい方、皆さんいろいろ大変だとは思いますが、ご自分のマガジン企画に参加していただけないでしょうか。お待ちしています。

この特集記事はあなたのお気に召しましたか。よろしければ推奨してください。→ ★推奨します★(元祖いいね)
推奨するためには、メンバー登録が必要です。→ メンバー登録のご案内


都道府県市区町村
都道府県や地図に関する地理の総合マガジン

パソコン表示スマホ表示