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山形県村山地方の複雑な成り立ち

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記事数=13件/登録日:2003年11月16日/編集者:special-week

山形県は村山地方、置賜地方、庄内地方、最上地方の4つの地方に分類され、県都山形市は村山地方に属している。ところが、山形県には村山市という市が存在しており、どうして県庁所在地でもある山形市が小都市である村山の地区区分名を拝しているのか?と疑問が沸く。その謎を解明するにはヒントは、複雑な山形県の成り立ちにあった。

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[970]2002年2月25日
Issie
[977]2002年2月26日
Issie
[7123]2002年12月30日
Issie
[8648]2003年2月3日
ken
[12833]2003年4月10日
三丁目
[15147]2003年5月13日
千本桜
[15185]2003年5月14日
三丁目
[15208]2003年5月14日
千本桜
[15376]2003年5月17日
実那川蒼
[21934]2003年11月11日
special-week
[21936]2003年11月11日
YSK
[21944]2003年11月11日
Issie
[21950]2003年11月12日
般若堂そんぴん

[970] 2002年 2月 25日(月)20:38:14Issie さん
庄内
庄内地方は廃藩置県4ヵ月後の1871年11月2日の府県統合で「酒田県」となりました。しかし,1875年8月31日付けで県庁が移設され「鶴岡県」となっています。
1876年8月の全国的な府県再編で米沢盆地の「置賜県」とともに村山・最上地方の「山形県」に統合されています。

「庄」と「荘」。
本来の漢字自体としては別々の文字でしょう。しかし実際の使用上は「同じ意味の文字」として扱われ,お互いに“交換可能”です。
とはいっても長年の習慣で,秋田県の「本荘」と埼玉県の「本庄」,一般名詞でも「荘園」と「庄屋」というように一応の書き分けが成立して定着していることも多いのですが。それでも,「本荘/本庄」「荘園」「庄屋」の「荘/庄」は全部語源が同じですね。

というわけで,本来は「荘内」も「庄内」もどちらの表記も“あり”です。
ただし現在ではもっぱら「庄内」の表記が広く行われ,公式の行政地名の表記としても採用されている,というわけですね。

> 旧制の中学や高女、特に公立校の分布も、人文地理的な考察には一部
> 資する様です。税務署や合同庁舎なども又然りですね。

そうそう。
実業学校も含めて,どこにどういう順番でどういう種類の学校が設置されたのか,というのは設置者である府県が地域をどのように把握していたかをある程度反映します。
別に旧制起源の伝統校に限らず,人口が急増した都市で小中学校や公立高校がどこに,どの学校を母体に設置されたかを追う,というのも面白いかもしれません。
[977] 2002年 2月 26日(火)21:40:06Issie さん
酒田と鶴岡
酒田には江戸時代の初めに山形の最上義光が支城を置いたことがあるのですが,1622年にその最上氏(山形藩)が改易されて酒田の城下町としての機能も失われたようです。
この短期間を除いて古代以来,酒田は一貫して最上川河口の港町として機能してきました。

> 庄内の場合、最上川の峡谷で奥羽線沿線と隔てられて居る事もあり

というよりも,この場合は最上川の水運を通じて上流の最上・村山地方との結びつきは強かったようです。
現在の奥羽線ルートではなく,雄勝峠-鳥海山-有耶無耶(うやむや)関の線で出羽国が「山形県」と「秋田県」とに整理されたのは,その意味で合理的です。
むしろ,明治初めの出羽分割の際に酒田を含む飽海郡が「羽前」でなく「羽後」に組み込まれたことが不思議です(同じように,陸奥の分割のしかたにも?なところがありますね)。

室町時代以来,最南部の置賜地方を除く出羽南部に強力な支配を確立した最上氏(足利一族の斯波氏)が1622年に改易された後,その旧領は分割されて庄内地方には譜代大名の酒井氏が送り込まれました。で,鶴岡がその支配の拠点となり城下町として発展することになります。
(ちなみに,置賜地方は戦国時代の伊達氏から豊臣時代は蒲生氏,そして秀吉の死去直前からは上杉氏が支配。)

以来,行政の中心としての鶴岡と経済の中心の酒田という機能分担が成立して現在に至ります。同時に鶴岡は庄内南部(東・西田川郡),酒田は庄内北部(飽海郡)それぞれの中心でもあります。
もっとも酒田は最上川水運が衰退し,奥羽線が開通するまでは庄内だけでなく上流の最上・村山・置賜もその勢力圏に置いていたのですが。

戦後,山形県が庄内地方南北の行政拠点を1ヵ所に統合しようとしたとき,やはり鶴岡と酒田のどちらか一方とするのには無理があったのでしょう,両者を統合した「庄内支庁」(現在は庄内総合支庁)は(JR羽越線ではなく国道で)両市のちょうど中間の三川町に置かれています。
[7123] 2002年 12月 30日(月)01:55:04【2】Issie さん
賊軍藩と県名
しばらくぶりに(旅行中に酒を飲む習慣がないもので)日本酒を5合飲んだら,前の発言を書いた後眠っちゃいました。

[7081] ken さん
>ここでは皆さんご存知と思いますが、反薩長行動を取った県は県庁所在都市名でない県名を付けられたところが多いのは有名な話。

ずいぶん前にここにも書いたことがあるのですが,
この話,明治半ばからよく言われ広く信じられていて,それなりに説得力があって面白い説明なのですが,私は少し疑問に思っています。少なくとも,これで全部の場合をすべて一律に説明できるのか。いわゆる「鉄道忌避伝説」と同レベルの,後付けの説明ではないのか。

たとえば,「福島県」。
陸奥(岩代)福島藩は幕末段階で譜代大名の板倉氏3万石。小藩ながら譜代大名として代々幕府機構の主要部分を担い,戊辰戦争でも奥羽越列藩同盟つまり「賊軍」側に立ち,あげくに戦後,2千石減封の上,三河重原(愛知県刈谷市)に飛ばされました。
「空き地」となった福島地域は政府直轄となり,「福島県」が設置されます。これが結局は現在の福島県につながるわけですが,1871(明治4)年7月(旧暦)の廃藩置県後,11月の“第1次府県統合”の段階では一旦廃止され,「中通り」は「二本松県」(旧二本松藩,丹羽氏5万石もやはり「賊軍」です)に統合される予定でしたが,すぐに福島を県庁所在地とすることに変更され,「信夫県」ならぬ「福島県」のまま,1876年の“第2次府県統合”では岩代国全域と磐城国の大部分が統合されて現在の福島県となります。
最終的な県域からすれば福島は北に偏りすぎているのですが,旧藩名そのままですね。
賊軍中の賊軍,会津(若松)藩の「若松県」も会津松平氏からの領地没収で設置された後,旧会津藩の藩域のまま(現在の新潟県東蒲原郡も含めて),そのままの名前で“第2次府県統合”で福島県に合併されるまで存続しました。

同様に,「賊軍」藩の1つである出羽(羽前)山形藩(水野氏5万石)も版籍奉還後の1870(明治3)年7月(旧暦)に近江朝日山(滋賀県東浅井郡湖北町)に移転した後,政府直轄となって設置された「山形県」が「村山県」となることもなく“第1次府県統合”で村山・最上地域統合の核となり,“第2次府県統合”では「置賜県」と「鶴岡県」とを合併して現在の山形県となりました。
この「鶴岡県」,旧庄内(鶴岡)藩(酒井氏,もと17万石から12万石に減封)と旧松嶺藩(庄内藩支藩,2万石余。同名回避のため松山藩から改称)および庄内藩からの没収地を管轄していた旧山形県の庄内地域分が“第1次府県統合”で統合されて成立(田川郡および飽海郡)した「酒田県」から1875年8月に県庁を移転したものです。実は「鶴岡藩」(「庄内藩」は通称。藩庁=旧城所在地が鶴岡なので,版籍奉還後は「鶴岡藩」が正式名称)は1869(明治2)年9月(旧暦)に「大泉藩」と改称しているのですが,酒田から県庁が移転してきたときには“旧称”の「鶴岡」が復活しているのですね。
言うまでもないことですが,庄内藩もまた「賊軍」を代表する藩です。

「愛媛県」。
伊予松山藩主の久松松平氏は薩長にとっての「仇敵」である伊勢桑名藩・久松松平氏の親戚で,やはり「賊軍」に分類されたので,それが旧藩名を奪われて郡名でもない(松山城下は温泉郡と久米郡にまたがる),こともあろうに神話から引っ張り出した「愛媛県」となった原因に見えるのですが,それも適当かどうか。
旧松山藩領を中心とする「中予」北半および旧西条藩(ここは紀州徳川家の親戚)領などからなる「東予」が“第1次府県統合”で「松山県」に統合され,これが1872(明治5)年2月(旧暦)に「石鉄(せきてつ)県」に改称されました。石鎚山にちなむ名前なのだそうですが,旧藩名とも郡名とも関係がないところは,現在の「愛媛県」と同様です。
一見,松山藩が「賊軍」であるせいにも見えるのですが,西条藩は親戚の和歌山(紀州)藩ともども,一応は「官軍」側ですよね。
それよりも,旧藩名でも郡名でもない県名,というのは伊予北半の「松山県」改め「石鉄県」だけでなく,伊予南半,つまり宇和島藩や大洲藩など「南予」地域(宇和郡)および「中予」南半(喜多郡ほか)を統合した「宇和島県」でも同様,「石鉄県」に遅れること半年の同1872年6月(旧暦)に「神山(じんざん)県」に改称されています。
説明するまでもなく,宇和島藩は幕末の改革派を代表する藩であり,旧藩主の伊達宗城は明治政府初期の高官でしたから,藩名を奪われる所以などどこにもないわけです。
にもかかわらず,北半の松山県と同じ軌跡をとり,両者を統合した県が「愛媛県」となった,というのは,単なる「賊軍」か「官軍」かという問題とは違う次元の指向性があるように思います。

近江の場合,“第1次府県統合”で湖北7郡と湖南5郡の2県に統合され,湖南の方は大津に県庁が置かれて「大津県」(廃藩置県以前に旧幕府直轄地を管轄する県として1868(慶応4)年閏4月(もちろん旧暦)に“直ちに”設置)となり,これが1872(明治5)年正月(旧暦)に郡名による「滋賀県」に改称されています。
一方,湖北の方は当初は長浜に県庁を置く予定で「長浜県」とされたのですが,結局のところ県名はそのままで県庁は彦根に置かれ,「大津県」の改称に遅れること1ヶ月,同年2月(旧暦)に郡名による「犬上県」に改称されました。
同年9月(旧暦)には,その「犬上県」が廃止されて「滋賀県」に統合されることになります。
「犬上県」が廃止され,彦根が県庁所在地としての地位を失ったことにはさまざまな経緯や思惑があったと思われます。けれども,わざわざ県名を「長浜県」から「犬上県」に改称したあたり,少なくともこの段階では「犬上県」を恒久的に設置することが志向されていたようにも感じられます。
「彦根県」でなく「犬上県」というのは,並行して「大津県」から「滋賀県」への改称が行われていますから,旧彦根藩固有の問題ではないのではないか。
(旧城下町であった膳所ではなく大津に県庁が置かれたのは,廃藩置県以前から既に「大津県」があったからでしょう。この場合とは若干性格が違うのですが,やはり「賊軍」藩を代表する越後長岡に県庁が置かれなかったのは,財政破綻によって廃藩置県前に長岡藩が「倒産」して廃止されたとき,中越地域の旧幕府直轄領を管轄するために以前から設置されていた「柏崎県」に統合されたからで,長岡藩が「賊軍」であったこととは直接には関係がありません。)

1876年の“第2次府県統合”で全国の府県の数は今よりも少ない38にまで減少しました。実はこのときに消えかけた有力県が1つあります。それは「山口県」。
規模からすれば統合されて当然と言えなくもない山口県が存続したのは,当然に長州藩系勢力の運動があったからでしょう。「佐賀県」などは“第1次府県統合”と“第2次府県統合”の2度にわたって一旦“消滅”し,2度にわたって“復活”しています。
ここらあたり,政府内部の各勢力のさまざまな力関係が反映したものであり,ほかの府県についても同じようなことがあったであろうことは想像できます。
けれども,単純かつ一律に

>反薩長行動を取った県は県庁所在都市名でない県名を付けられた

とは言えないのではないか。別に,この説を頭から否定するつもりはないけれど,個々の府県についてきちんと検証する必要があるのではないか,そう思っています。
[8648] 2003年 2月 3日(月)17:05:09ken さん
山形は
さて、明日は村山地方のとある街に出張なのですが、

>般若堂そんぴんさん、
置賜地方の足元の具合はいかがでしょうか?
都会人が、下手な対策をしても、転ぶときは転ぶのですが、先週あたりからだいぶ降ったようなので。

山形新幹線も、山形以北は、2時間に一本、時間どおり会議が終わらないと、えらいことに。
[12833] 2003年 4月 10日(木)22:13:59【4】三丁目 さん
楯岡の無念
何かと言うと、山形新幹線が新庄まで延伸された1999年に、奥羽本線楯岡駅が、村山駅に改称されてしまったことなのです。父は山形県村山市楯岡の出身ですが、我家では村山とは聞いたことがありませんでした。昨年、久しぶりにお墓参りのため「楯岡」へ行きましたが、ついでに図書館に寄り、お話を伺ったら、駅名から楯岡がなくなったのは、楯岡界隈の人にとってはショックだったという話を聞きました。すなわち、楯岡の地名が、市名にもなっておらず、また駅名でもなくなってしまったということなのであります。

そもそも、村山市は1954年に楯岡町、西郷村、大倉村、大久保村、冨本村、戸沢村の1町5村が合併して、できました。山形県下では、合併により誕生した市はほかに、寒河江市、上山市、長井市、南陽市がありますが、従前の自治体名を引き継ぐ新市名にしなかったのは、村山市と南陽市です。南陽市については後述しますが、簡単な年表を見ただけでも、合併が一筋縄ではいかなかった経緯がよくわかりました。

もともと楯岡は、江戸時代から羽州街道の宿場町であり、1876年に置賜、山形、鶴岡の3県が合併し、現在の山形県になったときには第三大区区務所が置かれ、2年後には北村山郡役所(管轄は、現在の村山市、東根市、尾花沢市、大石田町)が設置されました。周辺の村々に先がけて、町政が施行されたのは1892年のことです。ちなみに、楯岡駅の開業は、奥羽本線の延伸が進む中(全線開通前)での、1901年のことです。

だから、合併時には、他の村に比べ経済の中心地であった「楯岡」を冠する、楯岡市も候補に上がったのですが、村山地方ということで「村山」を採用することになりました。決定の理由まで調べ上げることはできませんでしたが、合併して誕生した村山市に、1ヶ月後には袖崎村、さらにその1ヶ月後に大高根村が合併してますから、いろいろと複雑だったようだなと、思いました。

市のHPに掲載されていた地域別データをご紹介しますと、
地域世帯数(戸)人口農家数農家人口事業所数商店数
楯岡3,11910,3424061,838758221
西郷1,0234,2546112,83016435
大倉4741,8952441,1419524
大久保6032,5503611,69114440
冨本6582,4983771,74011728
戸沢9303,9446352,99619338
袖崎5262,0113401,42310930
大高根5432,3454121,98810426
楯岡以外の計4,75719,4972,98013,809926221
ただし、世帯数(戸)・人口は2001年4月1日現在、農家数・農家人口数は2000年2月1日現在、事業所数は1996年7月1日現在、商店数は1999年7月1日現在、と時点は、それぞれ異なります。

世帯数は、楯岡と楯岡以外の計が拮抗していますが、人口では大きな差が開いています。このことは、楯岡以外の地域は、一家族当たりの人数が多いことを示しています。逆に、楯岡は、いわゆる都市部に見られる小人数家族の傾向があります。先ほど「経済の中心地」と述べましたが、事業所数、商店数を見るとわかりやすいかと思います。周辺が農村的な集落なのに対し、楯岡には集積しています。

楯岡のお話の最後に付け加えると、楯岡駅が改称されたのは、JR東日本からの働きかけだったという話を耳にしました。真偽のほどはわかりませんが。

それで、南陽市は、データだけご紹介しますが、
[2644]黒髪さん
山形県南陽市
昭和42年4月1日 赤湯町・宮内町・和郷村が合併して誕生。
市名の由来
当時の県知事、故安孫子藤吉氏が命名。

[9998]般若堂そんぴんさん
南陽市,という言い方はしますが,南陽と単体で使うことは少ないように思います.むしろ,赤湯,宮内などと旧自治体名またはより小さい地域名を使うことの方が多いようです.

経緯と、2000年の国勢調査ベースでの地区別人口は以下のとおりです。
表は、時系列でタテに見て頂いて、左に寄せて記したのが、合併後の自治体名になります。例えば、宮内町、漆山村、金山村、吉野村が合併して、次の行の宮内町になった、などです。

宮内町漆山村金山村吉野村梨郷村沖郷村赤湯町中川村
宮内町和郷村赤湯町
赤湯町の一部が上山市へ分町
赤湯町に高畠町の一部から合併
南陽市
8,4752,9626581,0572,0057,07612,0701,888

ややこしいですよね。南陽市のHPにも「この「南陽」によって2町1村の良識が、年来の懸案を解決して三位一体、九十九鱗悉く宇宙時代の大活躍を示してもらいたい。と命名の意味を結んでいます。」と載せているくらいですから、正直だなぁ、というのが、私の感想です。

ただ、赤湯町にとっては、温泉があるためでしょうが、JRの駅名でその名が残っていますから、楯岡の場合とは異なりますね。

念のため、寒河江市、上山市、長井市の最近の地区別人口だけは調べてみましたが、それぞれ旧寒河江町、旧上ノ山町、旧長井町(ただし、旧長井村も合わせるとですが)、地区の人口は、市全体人口の少なくとも半分を占めています。それに対し、村山市、南陽市では、どこか1地区の人口が市の半数を占めていることはありません。

ほかに、楯岡のようなお話をご存知の方がいらっしゃれば、ご教示頂ければ興味があります。弟子屈駅が、町名由来から有名観光地由来になった逆の例を、[2178]で雑魚さんがふれられておりますが。

最後になりましたが、ネットで「楯岡町」で検索していたら、IssieさんのHPに当たりました。以前、拝見したときには全ページを見たわけではなかったので、最初は便利なサイトに当たったものだと喜んでいたのですが、ン?このデータ整理のマメさはIssieさんでは?とすぐに気づきました。
[15147] 2003年 5月 13日(火)07:03:27千本桜[軒下提灯] さん
もし村山市が北村山市だったなら
[15126]三丁目さん

昭和29年、楯岡町と西郷・大倉・大久保・富本・戸沢の5村が合併して村山市になったのですが、もし、あの時、村山市じゃなくて北村山市を名乗っていたならどうだろう。楯岡は北村山地方を代表する町でしたから。

どうして市名を村山としたのか、そのいきさつや地元の方々の思いを知らずにあれこれ言うのもなんですが、楯岡市で良かったのにとさえ私は思います。さらなる発展を願って村山市と命名したとするなら、その前に、これから村山市になろうとする地域が、本当に村山地方を代表する都市になり得るのかを真剣に考えるべきではなかったかと思います。楯岡町とその周辺の村々が「村山」という広域地名を背負い込むのは、ちょっと荷が重すぎたように思います。村山と言う名は、山形に任せておいたほうが幸せかも。
[15185] 2003年 5月 14日(水)00:39:53【1】三丁目 さん
Re:もし村山市が北村山市だったなら、と市町村雑学の見やすさ
[15147]軒下提灯さん
楯岡町とその周辺の村々が「村山」という広域地名を背負い込むのは、ちょっと荷が重すぎたように思います。村山と言う名は、山形に任せておいたほうが幸せかも。
軒下提灯さんが、初めて書きこまれたのが[14419]からのようですので、拙稿[12833]「楯岡の無念」は、ご覧になって頂けてましたでしょうか?私が調べた限りでは、合併が50年近くも前であり、市名決定の経緯は、わからなかったのです。
ただ、現実的に考えると、山形県より南の地方に、当時、村山市がなかったので、北を冠する北村山市はありえなかったでしょうね。以前[12891]で述べましたが、楯岡市と名乗っていれば、市のHPで、楯岡地域の数字を間違えて掲載することはなかったのでは、と下衆の勘ぐりをしてしまいました。

全然違う話ですが、「村山」市の同名回避を確認しようと、市町村雑学を久しぶりに覗いたら、見やすく、きれいになってたのですね。書き込みを読む前は、こちらやアーカイブズを何度となく見ていましたから、ちょっと感想を言いたくて。オーナーグリグリさんのご努力には、改めて敬意を表したい、と思ったものですから。

本日は、残業のために、私の活動限界時間(0時)を越えてしまいましたが、なんとか用意していた原稿を書込みするしだいです。
[15208] 2003年 5月 14日(水)13:42:33千本桜[軒下提灯] さん
もし村山市が楯岡市だったら
[15185]三丁目さん
山形県より南の地方に、当時、村山市がなかったので、北を冠する北村山市はありえなかったでしょうね。

私が[15147]で述べた、「もし村山市が北村山市だったら」の北村山とは、武蔵村山市や東村山市に対する北村山ではなく、尾花沢から上山、さらに寒河江、月山方面にのびる広義の村山地方のうちの北部、つまり北村山郡を指すものです。

当時の楯岡町は現在の尾花沢市や東根市を含めた北村山郡の中心都市でしたから、楯岡町と周辺の村々が合併し、北村山地方を代表する都市への発展を願い、市名を北村山市と命名することも選択の1つではなかったか?と思うのです。でも、もっと分かりやすくて相応しいのは楯岡市でしょう。

三丁目さんの[12833]楯岡の無念を読ませていただきました。ほんとにどうして楯岡市じゃなくて村山市になったのでしょうね。同時期に市制施行した尾花沢市、東根市、天童市、寒河江市、上山市はみんな中心集落名と市名が一致しているのに、村山市だけは別です。それが原因かどうか分かりませんが、村山市が一番とらえどころがなくて、ぼやけて感じるのは私だけでしょうか?
[15376] 2003年 5月 17日(土)04:40:35実那川蒼[あんどれ] さん
村山市と当用漢字
[15208](軒下提灯さん)
でも、もっと分かりやすくて相応しいのは楯岡市でしょう。
楯岡市にならなくて村山市になったのは、「書きやすい」とか「当用漢字(現在は常用漢字)である」というのもあるのかもしれません。楯岡はどちらの漢字も当用漢字ではありません。

同時期に市制施行した尾花沢市、東根市、天童市、寒河江市、上山市
これらの市名は全て当用漢字で構成されています。

山形市内には「当用漢字にない」という理由でひらがな書きになった地名もあるそうなので、当用漢字を好むお国柄(?)があったのかもしれません。
[21934] 2003年 11月 11日(火)17:38:46special-week さん
山形県一周の旅
 ごぶさたしています。special-weekです。
 約2週間の行程で山形県を周回しております。山形市から始まったこの旅も、現在は鶴岡市までやってきました。ネットカフェから書き込もうと思ったのですが、駅前に無料でインターネットのできる市の施設があったので書き込みしてみました。

 ところで、山形県に滞在してみて思ったことをいくつか。
 山形県は4つの地方に分かれています。山形市を中心とする村山地方。米沢市を中心とする置賜地方。酒田市・鶴岡市などを中心とする庄内地方。尾花沢市などを中心とする最上地方。この4つです。ところで、なぜ県都でもある山形市が一地方都市の村山市の名称をそのまま引き継いだ「村山地方」に区分されているのでしょうか?もともと村山郡だったのでしょうか?
 県都の意地として山形市民は村山地方という名称をどう感じているんでしょうかね?

 さて、私が山形県に来たのは上山競馬の“ラストラン”を見に来たわけではないですよ。(正直見たかったですけどね)
[21936] 2003年 11月 11日(火)18:03:59YSK[両毛人] さん
村山は広域地名
[21934]special-weekさん
なぜ県都でもある山形市が一地方都市の村山市の名称をそのまま引き継いだ「村山地方」に区分されているのでしょうか?もともと村山郡だったのでしょうか?
そうです。山形市をはじめとしたいわゆる「村山地方」は、村山郡に属する地域だったので、今でも村山地方と呼ばれるのです。村山市の名称が地方名として発展したのではなくて、その反対なわけです。Issieさんのホームページが参考になると思いますよ。

村山市は、楯岡町他5村が1954.11.1に合併してできた町で、郡名から「村山市」を名乗ったわけですね。

過去ログでも、[12833]三丁目さん、[15147]軒下提灯さん、[15185]三丁目さん、[15208]軒下提灯 さんあたりで経緯などが述べられていますね。
[21944] 2003年 11月 11日(火)21:40:25Issie さん
Re:政治に関心はありますか?
実は,あたしたちの学年がちょうど「こんにちは赤ちゃん」の「赤ちゃん」に相当します。
あたしは“卯年”の12月生まれなので,なおさらです。

[21942] なお さん
僕は何かの番組で村上地方の地域のことを置賜(置賜郡)と聞いたことがあります。

というわけで,“前途有望”な青少年に「不惑」の年にならんとする(数え年では既に到達している)“をぢさん”から…

「村上」は山形県ではなくて新潟県ですね。
「村山地域」とは,かつて「村山郡」に属していた山形市ほか,東・西・北村山郡(南村山郡は現山形市・上山市となって消滅)一帯を指します。
つまり,最上川上中流域,すなわち山形県内陸部は「置賜地域」「村山地域」「最上地域」に三分するのが近代以降の習慣なのですね(蛇足ながら,最上地域の中心都市は新庄市です)。
これが一番よく反映しているのは,天気予報の単位となる区分ですね。
(最近,気づいたのですが,NHK東京放送局の気象情報(天気予報)では最近“注意報”の発令区域を放送していません。さすがに“警報”の場合には放送していますが。民放の天気予報ではなおさらですね。警報・注意報の発令単位が細分化されて煩わしくなったのは事実なのですが,注意報の発令を放送しないのでは本末転倒と言わざるを得ないと思います。)

最上川下流域の平野地帯は,すなわち「庄内地域」です。が,明治政府はなぜか,鶴岡を中心とする「(東・西)田川郡」を「羽前国」,酒田を中心とする「飽海郡」を「羽後国」に分割しています。
旧出羽国の分割と言い,旧陸奥国の分割と言い,この時の分割は現在の東北6県の区分にあまり反映されていません。

どうやら自民党離れは都市部で主に広がっているようです。

将来の大切な有権者ですから,

このあたり,表面的なマスコミ報道に惑わされることなく,冷静に考えてください。マスコミ報道は,得てして話題を「わかりやすく」するために細かなところを省略して単純な話題づくりに走る傾向があります。
できるだけ,多くの情報源から多くの判断材料を集めてください。その上で,自分の頭で考えて,自分の意思で参政権を行使してください。

私たちにとって,何よりも大切な「義務」は,“労働”でも“納税”でも“保護する子弟への教育”でもありません。これらは「2番目の義務」です。
「1番目の義務」は,私たちの先行者がある時には血を流しながら勝ち取った私たちの権利を「正当に」に行使することです。「参政権」の行使は,何にもましてその第1歩です。
あなたが男性であれば,それが「日本国民」が勝ち取ったのはようやく1925(大正14)年のことです。あなたが女性ならば,それは1946(昭和21)年に初めて与えられたものです。
先人の「血と汗の結晶」を絶対に無駄にしないでください。

今,私たちに保障されているさまざまな権利は何もしないで手に入ったものではありません。
世界の,過去そして現在の多くの人々の犠牲と努力の上に苦労してようやく手にしたものです。
私が,現行憲法全103ヶ条の中で最も大切だと思っているのは,第9条ではなくて,第97条の以下の条文です。

この憲法が日本国民に保障する基本的人権は,人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて,これらの権利は,過去幾多の試練に堪へ,現在及び将来の国民に対し,侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

20歳になったあかつきには,是非みずからに与えられた権利を「正しく」行使してください。
心からのお願いです。
[21950] 2003年 11月 12日(水)00:46:44般若堂そんぴん さん
山形県関連
[21934]special-weekさん
山形県は4つの地方に分かれています。(中略)尾花沢市などを中心とする最上地方。
最上地方の中心は新庄市ですね.尾花沢市は北村山になります.
また,山形市は村山郡→南村山郡ですね.Issieさんのページ
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/gun/g-tohoku.htm
が解りやすいと思います.

[21939]special-weekさん,仰るとおり,山形2区は不自然なのですが,小選挙区制を維持するためにはこの程度の不合理は許容範囲なのでしょう.西村山を介して地続きだとは言え,一体感は望めないでしょうね.
地理を切り口として観察すると,現行の選挙制度こそが
政治色まる出し
の代物であることが見えてくるように思います.

[21942]なおさん
そういえば、僕は何かの番組で村上地方の地域のことを置賜(置賜郡)と聞いたことがあります。
どうやら、現在の村上市・南陽市・長井市の範囲で構成された郡のようです。
確か置賜(おいたま)管区か何かありませんでしたか?
[21944]Issieさんと重複しますが……
置賜(おきたま)郡は山形県南部に位置し,明治以後の郡名でいえば南置賜・東置賜・西置賜の3郡になります.
上記,Issieさんのページが参考になります.
明治の一時期,置賜県がおかれました.
遡(さかのぼ)れば,出羽国が設置されたときに陸奥国か最上・置賜の2郡が出羽に編入されたのですが,現在の村山地方がその何(いず)れであったのか,残念ながら存じません.

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