しばらくぶりに(旅行中に酒を飲む習慣がないもので)日本酒を5合飲んだら,前の発言を書いた後眠っちゃいました。
[7081] ken さん
>ここでは皆さんご存知と思いますが、反薩長行動を取った県は県庁所在都市名でない県名を付けられたところが多いのは有名な話。
ずいぶん前にここにも書いたことがあるのですが,
この話,明治半ばからよく言われ広く信じられていて,それなりに説得力があって面白い説明なのですが,私は少し疑問に思っています。少なくとも,これで全部の場合をすべて一律に説明できるのか。いわゆる「鉄道忌避伝説」と同レベルの,後付けの説明ではないのか。
たとえば,「福島県」。
陸奥(岩代)福島藩は幕末段階で譜代大名の板倉氏3万石。小藩ながら譜代大名として代々幕府機構の主要部分を担い,戊辰戦争でも奥羽越列藩同盟つまり「賊軍」側に立ち,あげくに戦後,2千石減封の上,三河重原(愛知県刈谷市)に飛ばされました。
「空き地」となった福島地域は政府直轄となり,「福島県」が設置されます。これが結局は現在の福島県につながるわけですが,1871(明治4)年7月(旧暦)の廃藩置県後,11月の“第1次府県統合”の段階では一旦廃止され,「中通り」は「二本松県」(旧二本松藩,丹羽氏5万石もやはり「賊軍」です)に統合される予定でしたが,すぐに福島を県庁所在地とすることに変更され,「信夫県」ならぬ「福島県」のまま,1876年の“第2次府県統合”では岩代国全域と磐城国の大部分が統合されて現在の福島県となります。
最終的な県域からすれば福島は北に偏りすぎているのですが,旧藩名そのままですね。
賊軍中の賊軍,会津(若松)藩の「若松県」も会津松平氏からの領地没収で設置された後,旧会津藩の藩域のまま(現在の新潟県東蒲原郡も含めて),そのままの名前で“第2次府県統合”で福島県に合併されるまで存続しました。
同様に,「賊軍」藩の1つである出羽(羽前)山形藩(水野氏5万石)も版籍奉還後の1870(明治3)年7月(旧暦)に近江朝日山(滋賀県東浅井郡湖北町)に移転した後,政府直轄となって設置された「山形県」が「村山県」となることもなく“第1次府県統合”で村山・最上地域統合の核となり,“第2次府県統合”では「置賜県」と「鶴岡県」とを合併して現在の山形県となりました。
この「鶴岡県」,旧庄内(鶴岡)藩(酒井氏,もと17万石から12万石に減封)と旧松嶺藩(庄内藩支藩,2万石余。同名回避のため松山藩から改称)および庄内藩からの没収地を管轄していた旧山形県の庄内地域分が“第1次府県統合”で統合されて成立(田川郡および飽海郡)した「酒田県」から1875年8月に県庁を移転したものです。実は「鶴岡藩」(「庄内藩」は通称。藩庁=旧城所在地が鶴岡なので,版籍奉還後は「鶴岡藩」が正式名称)は1869(明治2)年9月(旧暦)に「大泉藩」と改称しているのですが,酒田から県庁が移転してきたときには“旧称”の「鶴岡」が復活しているのですね。
言うまでもないことですが,庄内藩もまた「賊軍」を代表する藩です。
「愛媛県」。
伊予松山藩主の久松松平氏は薩長にとっての「仇敵」である伊勢桑名藩・久松松平氏の親戚で,やはり「賊軍」に分類されたので,それが旧藩名を奪われて郡名でもない(松山城下は温泉郡と久米郡にまたがる),こともあろうに神話から引っ張り出した「愛媛県」となった原因に見えるのですが,それも適当かどうか。
旧松山藩領を中心とする「中予」北半および旧西条藩(ここは紀州徳川家の親戚)領などからなる「東予」が“第1次府県統合”で「松山県」に統合され,これが1872(明治5)年2月(旧暦)に「石鉄(せきてつ)県」に改称されました。石鎚山にちなむ名前なのだそうですが,旧藩名とも郡名とも関係がないところは,現在の「愛媛県」と同様です。
一見,松山藩が「賊軍」であるせいにも見えるのですが,西条藩は親戚の和歌山(紀州)藩ともども,一応は「官軍」側ですよね。
それよりも,旧藩名でも郡名でもない県名,というのは伊予北半の「松山県」改め「石鉄県」だけでなく,伊予南半,つまり宇和島藩や大洲藩など「南予」地域(宇和郡)および「中予」南半(喜多郡ほか)を統合した「宇和島県」でも同様,「石鉄県」に遅れること半年の同1872年6月(旧暦)に「神山(じんざん)県」に改称されています。
説明するまでもなく,宇和島藩は幕末の改革派を代表する藩であり,旧藩主の伊達宗城は明治政府初期の高官でしたから,藩名を奪われる所以などどこにもないわけです。
にもかかわらず,北半の松山県と同じ軌跡をとり,両者を統合した県が「愛媛県」となった,というのは,単なる「賊軍」か「官軍」かという問題とは違う次元の指向性があるように思います。
近江の場合,“第1次府県統合”で湖北7郡と湖南5郡の2県に統合され,湖南の方は大津に県庁が置かれて「大津県」(廃藩置県以前に旧幕府直轄地を管轄する県として1868(慶応4)年閏4月(もちろん旧暦)に“直ちに”設置)となり,これが1872(明治5)年正月(旧暦)に郡名による「滋賀県」に改称されています。
一方,湖北の方は当初は長浜に県庁を置く予定で「長浜県」とされたのですが,結局のところ県名はそのままで県庁は彦根に置かれ,「大津県」の改称に遅れること1ヶ月,同年2月(旧暦)に郡名による「犬上県」に改称されました。
同年9月(旧暦)には,その「犬上県」が廃止されて「滋賀県」に統合されることになります。
「犬上県」が廃止され,彦根が県庁所在地としての地位を失ったことにはさまざまな経緯や思惑があったと思われます。けれども,わざわざ県名を「長浜県」から「犬上県」に改称したあたり,少なくともこの段階では「犬上県」を恒久的に設置することが志向されていたようにも感じられます。
「彦根県」でなく「犬上県」というのは,並行して「大津県」から「滋賀県」への改称が行われていますから,旧彦根藩固有の問題ではないのではないか。
(旧城下町であった膳所ではなく大津に県庁が置かれたのは,廃藩置県以前から既に「大津県」があったからでしょう。この場合とは若干性格が違うのですが,やはり「賊軍」藩を代表する越後長岡に県庁が置かれなかったのは,財政破綻によって廃藩置県前に長岡藩が「倒産」して廃止されたとき,中越地域の旧幕府直轄領を管轄するために以前から設置されていた「柏崎県」に統合されたからで,長岡藩が「賊軍」であったこととは直接には関係がありません。)
1876年の“第2次府県統合”で全国の府県の数は今よりも少ない38にまで減少しました。実はこのときに消えかけた有力県が1つあります。それは「山口県」。
規模からすれば統合されて当然と言えなくもない山口県が存続したのは,当然に長州藩系勢力の運動があったからでしょう。「佐賀県」などは“第1次府県統合”と“第2次府県統合”の2度にわたって一旦“消滅”し,2度にわたって“復活”しています。
ここらあたり,政府内部の各勢力のさまざまな力関係が反映したものであり,ほかの府県についても同じようなことがあったであろうことは想像できます。
けれども,単純かつ一律に
>反薩長行動を取った県は県庁所在都市名でない県名を付けられた
とは言えないのではないか。別に,この説を頭から否定するつもりはないけれど,個々の府県についてきちんと検証する必要があるのではないか,そう思っています。