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福島と郡山の関係は、長野と松本の関係と同様、当掲示板でも色々と話題になりましたね。浜通りや
会津に至る磐越道、国道49号線、JR磐越東西線の軸との接続や県央部という地勢から考えれば、
福島より有利性が推定されなくもないのですが、歴史的経緯を勘案すると、微妙な点が多く、良く
判らない感じです。
まずは福島市の沿革。県庁舎が城址らしいのですが、中通りの主要城下町といえば、白河と二本松。
Issieさんによれば、廃藩置県直後は、一瞬 「二本松遷都」 があったと言いますが、当事の福島は
県都たり得る程の街だったのかどうか。
一説によれば、福島遷都は戊辰戦争で賊軍となった会津地方から県都を遠ざける牽制策の結果と
言われますが、廃藩置県直後は若松県も設置されていますね。福島県への帰属はいつだろう?
元々は二本松藩の小さな商業街だった郡山が発展したのは、「開成社」 の下、官民挙げての一大
開拓事業 (安積疎水の整備もこの頃?) 以来の事だそうで、
[2753] で言及した様に、県内最古の
中等学校が 1889年に福島から当事の安積郡桑野村に移転したのは、開発の目玉と位置づけた
政治的戦略の可能性も考えられます。そうして見ると、郡山が明治初期より県都候補地たり得た
必然性は薄いのかも。
なお、阿武隈川流域の平坦地は明らかに郡山の方が広いですね。福島の場合、市南部の本流は
渓谷の趣をも呈し、ちょっとした 「気候帯」 の境界となる東北道の福島トンネルの前後における
地形差は結構大きいし。(ここは宮城県堺の国見峠と同様、荒天時の運転では要注意箇所です。)
東北線撮影地のロケハンという個人的事情に加え、福島大移転やニュータウン開発の進捗を
考慮すると、
[1538] で言及した様に、松川PAあたりにICがあっても良い様に感じます。
ところで、東北線は 1887年夏に郡山に到達し、同年末に福島、仙台を経て塩竃まで延びました。
という訳で、鉄道の有無による地勢の優劣は、郡山と福島の間では無かったものと考えられます。
ここで云う塩竃とは、仙石線本塩釜駅付近にあった貨物駅の事と思われ、現在の利府支線経由で
岩切-盛岡が開通したのが 1890年ですから、当事の塩竃港の要衝性が推定されます。ちなみに
この貨物駅は確か大型店舗の駐車場に化けましたね。 (それにしても、あの辺の国道45号線の
クランクはどうにかならないのかな。)
景観で郡山と福島を比較すると、前者は猪苗代湖南端の舟津浜から見る磐梯山、後者は盆地から
仰ぐ吾妻連峰が、それぞれ冬晴れの冠雪時期に見事で、甲乙をつけ難いですね。舟津浜の場合は、
GWに訪れたところ、意外や喜多方北方の飯豊連峰まで見えました。この一帯は、郡山方面からの
湖水浴客が多いらしく、という事は三森峠の屈曲区間は改善されたのかな。安積疎水と繋がるも
水系的には日本海側に属する猪苗代湖畔にあって、この湖南地区が阿武隈川流域を中心域とする
郡山市に属する必然性として、猪苗代町とは間の湖岸が急峻で、断絶性が高かったと思われる点や
こうした行楽需要の所産が挙げられるかも知れません。
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直接ジャスコと関係無い、遊園地や温泉施設などの近接性を加味した商業集積度でいうと、数年前、
三八上北地区全域を商圏として見据えた立地と思われる、青森県下田町 (だったかな?) の店舗が
元気印の企業を紹介する特集として、 「ブロード・キャスター」 で紹介された事がありましたね。
ある幹部が 「敢えて山林などの郊外地に造る。」 とインタビューに応えていたのが印象的でした。