[20893] miki さん
[20866] ありがたきさん
[20870] じゃごたろ さん
小笠原氏と南部氏は、ともに甲斐源氏と呼ばれるている一族ですね。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ogasa_k.html
新羅三郎源義光の曾孫の
加賀美遠光の次男長清が甲斐国中巨摩郡小笠原に拠り、小笠原氏を称したのが始まり。
加賀美遠光の三男光行が甲斐国南巨摩郡南部に拠り、南部氏を称したのが始まり。
武田信玄の武田家も新羅三郎源義光の孫から始まる甲斐源氏ですが。
小笠原氏の嫡流は、信濃深志にあった小笠原氏が一応嫡流のような感じで、戦国大名としての小笠原長時は武田信玄に攻められ、摂津芥川まで逃げて、そこも信長に攻められ、上杉謙信に身を寄せたり、会津芦名氏を頼ったり、流転しますが、長時の子の貞慶と孫秀政が信長、および家康に仕えて、徳川家では譜代扱いとなって近世大名として存続し、豊前小倉の殿様になったりしてます。
親戚だったので、いろいろ、分家とかは、互いに交錯してるのだと思いますが・・・。
南部氏は、頼朝の奥州藤原氏征伐の功績で、陸奥に領地を与えられ、赴任しますが、南部氏には、甲州譜代七家、という甲州時代から南部氏に付き従ってきた重臣家七家があり、その中でも、特に三家を以って、甲州譜代三管領家といい、その一つが小笠原氏ですね。
二戸釜沢城主となってます。
http://members.at.infoseek.co.jp/QTluv/index.html
釜沢小笠原氏は、戦国末期の九戸正実の乱の時期に南部信直によって滅ぼされてますが。
九戸正実の乱は、実質的には南部家の後継争いで、釜沢小笠原氏は、九戸正実方に与したわけではないのですが、やや強引に南部宗家を横領した感じの南部信直にとっては、自分の支配権強化のためには、やはり古くからの重臣家は目障りだったのか、滅ぼされてますね。
ですが、これも滅ぼされたといっても、分家とか庶流とかは、多々あると思いますので、明治までの近世大名の南部家の家臣に小笠原氏がいた可能性は高いと思います。
これは近世大名の家臣は、大きい図書館行って調べればすぐわかるのですが、ここでは趣旨でないので(面倒くさいので)省略させていただきます。
金田一は、甲斐の地名の移植ではなく、南部氏の分家の四戸氏のさらに分家に武田氏がいて、その武田彦三郎が金田一を所領として与えられて、姓を金田一と改めたことに由来するようです。
この武田姓が、甲斐源氏の総領家たる、信玄の武田家と関係あるのか、は不明。
http://www.shokokai.com/ninohe/kinsyoko/mukashi/rekisi/34.html