[37787] miki さん
[37786] 北の住人さん
[37803] Issie さん
身分の低い武士が勝手に名のることもよくあったようです。
一応、近世史担当?として、マメ知識、補足すると、戦国時代は箔を付けるために、○×守を勝手に名乗っていた人物も多いです。
江戸幕府体制下では、「守」「頭」「正」など、「かみ」官名を名乗るためには、本来朝廷の役職ですが、武家に関しては、幕府が、発給権限を代行していて、勝手に名乗ることは許されていませんでした。
国名+守の「国司」だけではないのですが、例えば「樅の木は残った」の原田甲斐、などのように、大名の陪臣などになると、「守」「頭」「正」の付かない「甲斐」、「大膳」、「刑部」などは勝手に名乗ってOK。
幕末の長州藩家老、「長井雅楽(うた)」もいますね。
また「守・頭・正(かみ)」官でなく、(大石)「内蔵助」など、「介・助」官名なら、勝手にOK。
おなじ「内蔵司」の官職名でも、長官の「内蔵頭(くらのかみ)」は、正式に許可を得ないと名乗れませんし、そもそも、武家なら大名本人or嫡子でないと、名乗れない名前ですが、内蔵助はOK。
主税〔ちから〕寮でも、主税頭(ちからのかみ)は許可必要ですが、大石主税(ちから)の主税の部分でとめておけば、勝手に名乗ってOKです。
では大石内蔵「助」が勝手だから、といって、吉良上野「介」も同様かというと、さにあらず。
上野の国の極官が「上野介」だからです。
上野守、常陸守、上総守は存在しません。
歴史小説か何かに、上記3か国の「守」が出てきたら、その著者は相当、薄学と思ってよろしい。
この3ヶ国は、「親王任国」で、(概念上)皇室直領とされていて、守官には、「親王」が就任して、「上野太守(こうずけのおおかみ)」となり、臣下が国司長官になることは出来ません。
江戸期には実際に、例えば、戊辰戦争時の征討大総督になった有栖川宮幟仁親王(陸軍大将)の父、有栖川宮韶仁親王は「上総太守」に任官しています。常陸、上野も同様です。
ですので、「上野」「常陸」「上総」では「介」が臣下では極官ですので、他国の「守」と同じ扱いなのです。
平手造酒(ひらてみき)なんて名前も、造酒司(みきのつかさ)には、造酒正(みきのかみ)という官職があって、この長官名は、幕府許可必要ですが、ただ、造酒(みき)、と名乗る分には、勝手。
国名もそうですが、主水(もんど)、釆女(うねめ)、大膳(だいぜん)、主馬(しゅめ)、舎人(とねり)、主殿(とのも)、図書(ずしょ)、内匠(たくみ)、縫殿(ぬい)、主計(かずえ)、修理(しゅり)、外記(げき)、左京、右京なども、武士の名乗りとして、多様されるものですね。
これらも、長官名でなければ、勝手に名乗ってOK。
蛇足ながら、江戸時代では、大名はやはり、領国の支配者という観点から、官職の名乗りでも国司の長官である、「国名+守」を好んで申請する傾向がありました。
自分で好きなのを申請して良いんですが、
武蔵守は武蔵国が幕府の所在地であることから遠慮、陸奥守は伊達家独占なので不可、薩摩守、大隅守も島津家独占で不可、阿波守も蜂須賀家独占で、他人が名乗ることは許されません。
同姓で同官名は、事務手続き上、不都合が多いため禁止されており、特に松平姓は大名以外にも旗本や松平姓を許された外様大大名もありますので、大変な数で、好きな名前を申請してよいと言っても、空いている名前を探すのに苦労した、という話も。
他にもいろいろ制限ありますが。
自分の領地の国名を名乗って良いのは、伊達、島津、前田、などの大大名、対馬の宗家など特殊な例に、限られており、結構、制約が多いものでした。
石田三成の名乗りだった治部少輔も遠慮、尾張守は「終わり」に通じて縁起が悪いので、使用例なし、など、いろいろあります。
さて、マメ知識という割には、ヘビーな板違いの書き込みになってしまいましたが、
[37787] miki さん
確か宮本武蔵は「たけぞう」と呼ばれていたそうですね。
[37803] Issie さん
これは,もしかしたら 吉川英治 の創作では
宮本武蔵の初名は、弁之助ですので、私も「たけぞう」は吉川英治の創作だと思います。
宮本武蔵に関しては、江戸初期から、数々の評伝が出され、出生地も生い立ちも、そもそも江戸期から、真偽入り乱れているのですが、
播磨国印南郡米堕村(現兵庫県高砂市米田)に田原家貞の子として生まれ、黒田藩士、新免(しんめん)無二之助(むにのすけ)一真(かずまさ・・・か?)の養子となる。
播磨国揖東郡宮本村に居し、元服時に姓を居所の宮本とし、宮本 武蔵 玄信(はるのぶ)、または宮本 武蔵 政名(まさもと か?)と名乗った、ということのようです。
播磨ではなく、従来、美作生誕説も根強く、英田郡大原町の智頭急行には宮本武蔵駅もあり、生家跡もありますが、近年の研究では播磨生誕説の方に分がある感じで、宮本武蔵駅はガセビアのおもむき強し。
武蔵は晩年は、細川家の客分となり、武蔵には実子はないので、養子の宮本伊織が継ぎますが、この宮本伊織なる人物からしてが、悪意はなかったと思いますが、養父武蔵の粉飾「伝説化」に貢献した功績が大なので、武蔵はすでに子の代にして、真偽定かでない伝説の人物になってしまっていたようです。
そこから、孫引き曾孫引きの諸伝が流布。
まあ、謎に満ちたところが武蔵の魅力かも。
武蔵で、ずいぶん引っ張って失礼しました。
ところで、
相模国と武蔵国が、「むさかみ」「むさしも」であった、というのは、ガセビアでしょうか?