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hmtさんの記事が5件見つかりました

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[98219] 2019年 9月 1日(日)19:00:16hmt さん
ヤルタからマルタへ(4)鉄のカーテン
既に死語状態になっていますが、「鉄のカーテン」という言葉がありました。コトバンク
これは、ヤルタ会談に3首脳の一人・イギリス首相として参加した ウィンストン・チャーチルが、1946年の演説に使った言葉です。
バルト海のステッティンからアドリア海のトリエステにいたるまで 鉄のカーテンが大陸を横切って降ろされている。
その線の背後には中央ヨーロッパおよび東ヨーロッパの古い国々のすべての首都がある。
こうしたすべての有名な都市とその周辺の住民はソ連の勢力範囲内にある。

チャーチルは名文家でもあり、大戦回顧録など 文筆活動により、1953年ノーベル文学賞を受賞しています。

それはさておき、
20世紀後半の大部分、ヨーロッパをこのように二分割する結果をもたらした第二次大戦の開始【注】は、1939年9月1日、ナチスドイツのポーランド侵攻 でした。
ポーランドの同盟国であった英仏両国も、これに応じて宣戦布告しました。
今日 2019/9/1は、1918年に収束した欧州の戦乱が、僅か21年弱の平和を経て再発してから 80年目でした。

なお、大戦開始後間もない 1939/9/17には、ソビエト連邦も東から侵攻してポーランドを挟み撃ちする形になりました。最初は獲物を分割したドイツとソ連。
この両国が戦争状態になったのは、1941/6/22でした。

【注】第二次大戦の開始
日本が 中国で起こしていた 宣戦布告なき戦争【当時の呼び名は支那事変】は、ドイツとの同盟とは無関係です。日本とソ連との間には、1941年に日ソ中立条約が結ばれていました。

今回のシリーズ第1回で、「ヨーロッパ・ピクニック」を、”遠い東ヨーロッパのニュース”と書いていました。
しかし、チャーチル演説にあるように、「中央ヨーロッパ」の方がよさそうだと、後で気が付きました。
鉄のカーテンの東から西への脱出事件のため、意識せずに「東ヨーロッパ」と書いてしまったようです。
[98212] 2019年 8月 24日(土)17:29:37hmt さん
ヤルタからマルタへ(3)ベルリン封鎖(1948-9)、ベルリンの壁(1961-1989)
第3回で、ようやく本題の 東ドイツに移ります。
言うまでもなく、1945年5月 第二次大戦に敗れたナチスドイツの ソ連占領地区に 1949/10/7 建国された「ドイツ民主共和国」Deutsche Demokratische Republik; DDR の通称なのですが、今回は、東ドイツの中の「西側の飛び地」のように存在した「西ベルリン」を原因として発生した2つの出来事を主として記します。

首都ベルリンは、周辺のソ連占領地域とは別の 米英仏ソの四ヶ国による分割占領地でした。
[15618] Hermitさん
ベルリンはドイツにあらずということで、…「壁」が出来るまではS-Bahnの運行も東西通しで行われていましたし。

ここで、落書き帳初期の記事を引用しました。実は このシリーズ開始後に検索したところ、ベルリンや東ドイツについて、Hermitさんによる貴重な記事が 多数収録されている ことを発見しました。
投稿当時の Hermitさんは カナダ在住でしたが、[15686]には、次のように記されていました。
その当時公私両面で東ドイツにかなり「どっぷり」関わっていたので,このあたりの事情はよく知っているつもりです.

ソ連にとっては目障りな存在である「西ベルリン」を西側3国に放棄させることを狙って開始された「ベルリン封鎖」は 1948年に始まった更に昔の事件です。

この頃 東側は 東ドイツマルクの発行を計画しており、西側3国も占領地の通貨を統合。
通貨をカギとして、西ベルリンに対する東ドイツの経済封鎖が実行されました。
これに対して、「大空輸」によりベルリン放棄を強く拒否した西側の対応は見事に成功。
陸上の物資輸送封鎖は 1949/5/12に解除されました。

1949/5/23には、西側3国統治の各州に ドイツ連邦共和国臨時政府(ボン政府)が成立。
東側のソ連統治地域には、1949/10/7 ドイツ民主共和国成立。

1949年、ドイツに誕生した2つの国。
ところが、ベルリン市内の境界線は自由に通れるので、ここを通って西側へと流出する人口が年々増加し、問題になってきました。

1961/8/13 東ドイツは突如として東西ベルリン間の通行をすべて遮断しました。
一夜にして西ベルリンの周囲を外側から囲んだ有刺鉄線は、間もなくガッチリしたコンクリートの「壁」に改築され、足掛け 29年も存在して、ドイツ分断の象徴的存在になりました。
[98211] 2019年 8月 24日(土)16:31:17【1】hmt さん
ヤルタからマルタへ(2)1945年のヤルタ会談と密約
[98206]で付けた シリーズタイトルについて。

保養地として知られる「ヤルタ」は クリミア半島にあります。
クリミアは 19世紀の戦争はともかく、数年前のオリンピック冬季大会【1】の直後とも言える頃(2014/4/1)の ウクライナからロシアへの所属変更でも 記憶に残る地です。

【1】開催地ソチ[85076]も 黒海沿岸ですが、 クリミアと違い 歴史的にもジョージア[92785]【グルジア】に近く、ヤルタの東 約500km離れたリゾート地でした。

しかし、日本に直接の影響を及ぼした歴史的事件は、何と言っても ヤルタ会談でしょう。

第二次大戦末期の 1945年2月、連合国3首脳【ルーズベルト、チャーチル、スターリン】による戦後処理構想の会談が行なわれた地がヤルタでした。
その時代など背景を説明しておきます。

イタリアが 1943年に降伏して枢軸国から脱落した後、1944年になると ナチスドイツも東部戦線での敗北に加えて、ノルマンディーに上陸した連合軍に攻め込まれていました。
太平洋戦線でも 1945年になるとフィリピン陥落。
沖縄など日本領土が次の目標になり、本土空襲も近づいていた時期でした。

それと共に重要なのが 3首脳の一人・米国大統領ルーズベルト【FDR】の状況でした。

[49312] むっくん さん
病魔に侵されたアメリカ大統領ルーズベルトが事理弁識能力を欠いた(意思無能力)ままヤルタ会談に出席したため、ソ連のスターリンが主張した、第二次世界大戦後に東欧諸国がソ連の影響下に入る(これは、著しくアメリカ合衆国の国益を損ねました)ことに異議を唱えられなかったことによります。

病状は、日本心臓財団のページその他の本にも記されています。

そして 首脳間の会談は 欧州の戦後だけでなく、太平洋戦争での日本降伏に必要な協力を得るために、ソ連の要求に応じる形で、日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連対日参戦を促した「極東密約」に及んでいたのでした。

「ヤルタ」へのコメントが長くなってしまいましたが、簡単に「マルタ」を説明します。
「マルタ」は、地中海の小島・イギリス海軍の拠点・戦後に独立したミニ国家です。

東西冷戦の象徴になっていた 「ベルリンの壁」崩壊直後の 1989年12月に、米ソ2大国首脳会談が行なわれました。
パパ・ブッシュとの会談で冷戦を終結させたのは ミハイル・ゴルバチョフ大統領です。

いずれも 世界史では有名な地名ですが、国内地理中心の落書き帳では登場する機会が少なく、ヤルタ会談を取り上げた記事は、[49312]の他には Issieさんの[11570]だけ。[66685]は冗談です。
マルタへの言及も古い海軍墓碑[86112]だけでした。
[98206] 2019年 8月 19日(月)20:37:29【1】hmt さん
ヤルタからマルタへ(1)瓢箪から駒?
タイトル変更:
第二次大戦後のヨーロッパを舞台とした シリーズタイトル を付けました。
大戦末期 1945年のヤルタ会談から始まった 東西両陣営の対立時代。
それを象徴する「ベルリンの壁」が崩壊し、冷戦終結が宣言された 1989年のマルタ会談も 30年前の昔話になっています。
世界が新たな対立時代を迎えているのは残念ですが、書き込みの内容は、相変わらずの hmt歴史雑文です。

最初は、冷戦終結時の劇的な歴史展開に出会った記録ですが、「瓢箪から駒?」というタイトルを使いました。

1989/8/19 ハンガリーの辺境ショプロンで、「ヨーロッパ・ピクニック」という名の集りが開かれました。
この集まりは、軽い冗談をきっかけに 計画が始まりました。

もともと 第一次大戦まで、ハンガリーとオーストリアとは 一つの国でした。
この企画は、両国の国境地帯でバーベキュー・パーティを開くというものです。

国境フェンスを囲んだ両国民が 御馳走を交換する姿を世界に示すことで、「鉄のカーテン」と呼ばれたヨーロッパの東西分断も、事実上無視することができる。
そのような平和的示威行動という趣旨だったようです。

ところが、このパーティを本格的に実行し、単なるピクニックでなく、大きな出来事にしようと考える人物が出て、ハンガリーの政治局員などへの根回しを始めました。

こうして、夏も終りに近づいた 1989/8/19 に、東ドイツ国民をハンガリーからオーストリアに脱出させる計画が実行に移されました。

この事件は、もちろん当時のニュースでも伝えられたでしょうが、遠い東ヨーロッパのニュースだけならば、私が 30年後の今日まで記憶している筈がありません。

この事件がきっかけになり、同じ1989年の11月の「ベルリンの壁崩壊」に繋がり、更にNHKスペシャルで8月の「ヨーロッパ・ピクニック」との関係が紹介されたことが、強い印象を残したのでした。

30周年である今日の記事は、私の印象に残る事件になった理由の紹介だけで終りますが、続報で補足するつもりです。
[98178] 2019年 8月 11日(日)11:09:58【1】hmt さん
度量衡の話(3)容積の単位 寛文9年 一升を 64827立方分 に統一
度量衡シリーズの第一回は キログラムの定義変更[98033]、つまり「衡」から始めました。
7月の第二回は メートルの定義[98077]、つまり「度」に関する話。
8月になった第三回は 当然のことながら 体積をはかる「量器」=「枡」の話になります。

…と言っても、長さの基準さえ確立していれば その組み立てにより定義することができる「体積」については、前2回とは異なる視点の話になります。

基本単位でない体積が、長い間「度量衡」の一角という重要な地位を占めていた理由。
それは、経済活動の基礎を支えてきた 「お米」の計量 に用いられた単位だったからです。

現在は kg単位 で取引され、その都度計量する必要もない包装商品になっている「米」ですが、農業生産が経済活動の主流を占めていた時代には「年貢米」という納税対象とされ、地域の経済規模を示す「石高」の算出にも使われていた、最も重要な生産物でした。

【追記】
解りやすくするために「米」を例示しましたが、誤解を防ぐために [58062]okiさんの注意書きを追記しておきます。
石高を持つのは農村だけではなく、また石高の内容は米だけではありません。
また、白米ではなく、玄米や籾で扱われるのが普通でした[72071]。【追記終】

その「お米」を計量する基準は 体積を量る「枡(ます)の寸法」でした。

子供の頃に、ある殿様がこんなアイディアを考えたという昔話を耳にした記憶があります。
年貢米を集める為政者としては大きい枡を使いたい。
そこで、5寸四方・深さ2寸5分という一升枡の形を、4寸9分四方・深さ2寸7分に変えた。
つまり、2辺を1分ずつ減らして 小さな枡に見せながら、深さは2分増した。

これならば、納税者を納得させながら 増税することができるのではないか…という論法。
計算してみれば、62500立方分から64827立方分へと 3.7%以上大きくなっていることはバレバレでしたが、この増税を強行した結果、現在の一升枡の寸法になったという説明でした。

この話は、本能寺の変後の政変に巧みに対応し、近畿地方の政治統一を果した 豊臣秀吉が 浅野長政に命じて統一した「京枡」の由緒と理解していました。
最近見たブログには、もう少し後の江戸幕府による仕業という説明もありました。
当業者のものですが、肝心の枡の寸法記載など疑問があり、信用できない説と思われました。

私としては、コトバンクに紹介された百科事典の解説により、寛文9年(1669)江戸幕府による「京枡への再統一」が正しいように思っています。京枡/江戸枡/一升枡など資料による用語の混乱もあり、いささか当惑しましたが、「京枡への再統一」前に使われた深型の江戸枡(47.5*47.5*29=65431.25)についての記載【世界大百科】もありました。

64827立方分として統一された一升枡の寸法は、江戸幕府から明治政府に引き継がれ、明治8年太政官達第135号度量衡取締条例に、詳細に規定されています。
403-4コマを見ると、旧器斗量と新器斗量とにつき、それぞれ穀量【米用】、水量【酒用】に細分された枡の規格が示されており、水量の一升枡で 64827立方分、穀量では 深さが1厘大きいものの、弦積差引 64827立方分という数字を確認できます。

折衷尺に代ってメートル原器との関連が付けられたのは、明治24年法律第三号度量衡法の第二条であり、ここでも 9コマの末行(第三条)に記された「升」の定義【むしやふな】を確認することができます。
六萬四千八百二十七立方分

枡の産地・大垣市
京都と江戸の枡座時代はさておき、明治時代になると、木曽ヒノキの集積地・名古屋で、枡の生産が盛んに行なわれていました。
奉公を終えて名古屋から大垣に戻った職人が伝えた枡作りの技術。
11社あった大垣の「木枡」生産者も半減したとのことですが、年間200万個を生産し、全国の8割をつくる産地とのことです。
大垣には 2012年岐阜オフ会の前に立ち寄りましたが[82261]、枡のことは知りませんでした。

大橋量器 枡の知識


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