もちろん現役の富士見村のことではありません。
群馬県勢多郡富士見村は、明治22年の町村制施行時から117年の歴史があります。
更に古く、筑摩県時代の明治7年に誕生した富士見村(現・長野県諏訪郡富士見町)もありました。
富士見市の
難波田城資料館 に足を向けたら、このような展示を開催していたので、タイトルを借用しました。
気がついてみれば、昭和の大合併を実現させた3年間の時限立法「町村合併促進法」が満期になった1956年(昭和31年)9月30日から50年が経過していたのですね。辛くも、この最終日に合併を実現させた村の一つに「埼玉県入間郡富士見村」がありました。
市町村合併情報日付順一覧 によると、この最終日の合併件数は全国で335件を記録。もっとも、昭和合併3年間のちょうど半ば、1955年4月1日は369件でしたから上には上があります。参考までに、平成合併の記録件数は、2005年10月1日の50件。
50年前に富士見村が誕生した時代には、私は会社に入ったばかりで初めての関西暮らし。というわけで、この合併とは全くの別世界にいましたが、現在の居住地という縁で、昭和合併のプロセスの一例を記してみます。
Occupied Japan時代1949年に「シャウプ勧告」がありました。正式名は「国及び地方の税制に関する報告書」で、その基本理念は、国と地方公共団体の間の事務の再配分を実現した上で、地方公共団体の財政を強化することにありました。
市町村が学校、警察その他の活動を独立して維持することが困難な場合は、比較的隣接した地域と合併することを奨励すべきである。同様に…市町村または府県の合併が行政の能率を増すために望ましい時にもまたこれを奨励すべきである。
1951年頃からは現実に地方財政の赤字化が顕在しており、全国町村会から、合併に伴なう財政上の優遇措置を法律で定める要望が強く出されました。議員立法による「町村合併促進法」が制定されたのは、独立の翌年1953年のことです。
小規模行政による地方財政の不利益を克服し、合理的な運営を可能にする適正な規模は、人口8000人程度とされ、これを3年間で実現しようというわけです。
以下、主として展示資料によります。
埼玉県が最初に示した試案によると、鶴瀬ブロックは5村合併でしたが、実質的な合併協議は、福岡村(試案では川越ブロック)を加えた6村で行なわれました。うち柳瀬村は当初から所沢との合併を希望してすぐに離脱。
人口が他村の倍近くあり、農業主体の他の村と住民構成が異なる福岡村は、合併の条件として新庁舎の村内設置を強く主張し、他の村から反発を受けました。
大井村は福岡村と鶴瀬村とにそれぞれ近い両派が内部対立。
三芳村は隣接する鶴瀬・大井との合併を希望するも、上富地区は所沢編入を希望し、これも内部対立。
水害常襲地帯で鉄道かも遠い南畑村は将来に危機感を持ち、鶴瀬との合併を希望。
鶴瀬村議会の申し合わせ(1954/12/28)を見ると、昭和30年(1955)3月1日を目標に、南畑・三芳・水谷・大井との5村合併とあります。これによると、福岡村との合併は既にあきらめ、当時北足立郡だった水谷村が視野に入ってきています。
水谷村はもともと入間郡でしたが、戦時中の強制合併
[37842]から戦後の分離独立という経歴で別の郡になっており
[41711]、志木(足立町)との合併を望む住民と鶴瀬との合併を望む住民とが1956年の住民投票による決着まで対立していました。
1955/3/24鶴瀬村長からの協力願いでは、“現在の情勢は、三芳鶴瀬及南畑の合併が強く打ち出され”とあり、その翌月4/15になると、まだ可能性が残されていた大井村を含む4ヶ村合併が遂に不調に終わったことが報告されています。
三芳村との合併は、町村合併促進法失効期限のギリギリまで持ち越されたようです。1956年9月20日付の三芳・鶴瀬両村長の名による「誓約書」(の案?)なるのものが展示されていましたが、その翌日になると次のように断念が表明されています。
昨日の誓約書について本日午前中回答あるものと待っておりましたが、三芳村に於ても難航の様子のため未だ回答がありませんので、本村としては委員会の協議の結果、この誓約書の件は打ち切ることに決定したしました。 昭和31年9月21日 鶴瀬村町村合併協議会
#「誓約書破棄」の事情が書いてないだろうかと「三芳町史」を確認してみたら、“9月24日に関係各村と取り交わしたが、その2日後に破棄するに至った”とありました。日付が違い、事情の記載なし。
三芳村との最終交渉と同じ頃に並行して鶴瀬村との合併交渉が進められていたた水谷村については、9月19日の住民投票(投票率97.14% !!)によって、鶴瀬村・南畑村との合併に賛成849票、足立町との合併に賛成533票で方向が決まりました。
こうして、9月22日に鶴瀬・南畑・水谷3村の「富士見村」への合併同意が成立。翌23日に各村議会は合併を決議しました。
昭和31年9月24日、埼玉県知事あての「富士見村設置申請書」。これは活版印刷物です。これまでに紹介した展示資料は、ほとんど全部が謄写版印刷でした。
“…を廃し、その区域をもって富士見村を設置することとしたので” というおなじみのスタイルの文言が初めて顔を出します。
“土質豊じょうにして農業を主体とする産業…土地改良事業…多角的農業経営” などの文言からもわかるように、当時は農村の富士見村でした。
おまけ
合併した頃の鶴瀬駅時刻表。基本ダイヤは1時間に3往復で、毎時00分に池袋を出る寄居行準急は志木まで通過で24分発、池袋20分40分発の川越市行準急は成増から止まるため、鶴瀬発46分、06分。朝7時台の上りは準急4本、普通2本。