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埼玉県入間郡域

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記事数=42件/更新日:2016年4月17日

hmtマガジンに、「埼玉県入間郡域」という特集を作ってみました。
最初に、「埼玉県入間郡」でも「武蔵国入間郡」でもなく、「郡域」という言葉を特集名に使った理由を説明します。
最大の理由は、この特集がカバーする地域が、現在の住所地名「埼玉県入間郡」でなく、もっと広い範囲だからです。

現在「埼玉県入間郡」を構成する町村は、三芳町・毛呂山町・越生町の3町です。地図 をご覧になればわかるように、三芳町と他の2町とは離れています。
何故、こんな不自然なことになっているのか? 年配の方ならご存知ですが、「昔の埼玉県入間郡」はもっと広い範囲だったのです。

1922年(大正11年)、入間郡川越町に「市制」という法律が施行され、埼玉県内では川越が最初の「市」になりました。
この法律の原型である旧「市制」の第一条には、“此法律は市街地にして郡の区域に属せず別に市と為すの地に施行するものとす”と記されていました。すなわち、当時考えられていた「市」とは「人口 25000人以上の大きな市街地そのもの」であり、全国の40市は郡部から分離した別扱いになったのです。
川越が市になった頃、全国の市は92に増加していましたが、同じ扱いで、川越市は入間郡に属さないことになりました。

1950年(昭和25年)には入間郡所沢町が所沢市になりました。この時代には既に法律も「市制」でなく「地方自治法」に変っており、また「郡」の制度も行政機関としての実体が失われ、住所を示す機能だけになっていたのですが、戦前に引き続き市になれば郡から離れる扱いは変っていませんでした。

所沢に続き、入間郡の領域内では、飯能1954・狭山1954・入間1966・富士見1972・上福岡1972【現・ふじみ野】・坂戸1976・鶴ヶ島1991・日高1991の各市が誕生しました。戦後生まれ9市のうち8市が単独市制であることは、東京大都市圏が入間郡域に拡大したことを反映しています。
平成合併で大井町が抜けた入間郡は、前記のよう3町を残すのみになってしまったのです。

この特集は、拡大した「市部」によって埼玉県の「郡部」が減り始めた1922/12/1より前、入間郡が最大であった時代の領域を対象にします。
実は昔からの入間郡というイメージを出すために、埼玉県武蔵国入間郡も考えました。しかし、明治29年(1896)の統合前には、現在の鶴ヶ島・日高・飯能付近は高麗郡だったのですから、広い入間郡を示すのには不適当でした。入間郡の最大領域時代は、1921/7/1【名栗村等編入】からの僅か1年5ヶ月だけだったのでした。

埼玉県の紹介 というページにある 10地域に区分地図と対応させると、入間郡域は 南西部・西部・川越比企の3地域に分散しています。現在の埼玉県行政では、入間郡域という概念は、実質的に使われていないようです。

入間郡域の過去記事には、アーカイブズ 上福岡 があり、一部を重複収録しました。
合併関係では、不成立に終った 第一次ふじみ野市 時代も含めて 多数の記事があります。今回収録したのは一部ですが、[59419]に記事集をリンクしてあるので、関心のある方はどうぞ。

この特集を収録するテーマとして、「郡と支庁」を新設します。

★推奨します★(元祖いいね)

記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[3457]2002年10月1日
TN
[3461]2002年10月1日
でるでる
[18579]2003年7月24日
ありがたき
[19388]2003年8月28日
hmt
[22395]2003年11月30日
hmt
[39241]2005年4月1日
hmt
[41695]2005年5月28日
hmt
[42697]2005年6月30日
hmt
[42742]2005年7月2日
まかいの
[42802]2005年7月4日
スナフキん
[46239]2005年10月27日
TN
[49898]2006年3月17日
hmt
[51725]2006年6月12日
スナフキん
[51745]2006年6月13日
hmt
[55364]2006年11月26日
hmt
[55377]2006年11月27日
hmt
[55380]2006年11月28日
hmt
[55438]2006年12月4日
hmt
[55530]2006年12月13日
hmt
[55542]2006年12月15日
アルバトロス
[55628]2006年12月21日
hmt
[55648]2006年12月23日
hmt
[58848]2007年6月4日
hmt
[59419]2007年6月25日
hmt
[72830]2009年11月12日
hmt
[74245]2010年3月2日
hmt
[74271]2010年3月6日
hmt
[74285]2010年3月7日
hmt
[75353]2010年6月15日
播磨坂
[75355]2010年6月15日
mul-sa
[75357]2010年6月15日
hmt
[75370]2010年6月20日
播磨坂
[75513]2010年7月20日
Issie
[79670]2011年11月27日
白桃
[79671]2011年11月27日
hmt
[80512]2012年4月8日
hmt
[80514]2012年4月9日
hmt
[85152]2014年3月3日
hmt
[87268]2015年2月9日
hmt
[88659]2015年8月16日
hmt
[90100]2016年3月23日
hmt
[90105]2016年3月24日
hmt

[3457] 2002年 10月 1日(火)17:18:24TN さん
三芳町のこと
 さいたま市の西隣に位置する入間東部二市二町(富士見市・上福岡市・大井町・三芳町)で合併協議が2年以上行われている事は皆さんご存知でしょうが、20年住んでいた我が三芳町についてお話させて下さい。
 埼玉県入間郡三芳町は明治22年に藤久保(ふじくぼ)・竹間沢(ちくまざわ)・北永井(きたながい)・上富(かみとめ)の4ヶ村が合併して誕生しました。町名の由来は伊勢物語に登場する「三芳野の里」から付けられたものです。旧村名は大字名として残り、のちに土地区画整理で誕生した2町(住居表示未実施)を加えても6つの町名しかありません。ちなみに面積15.30平方キロ、人口35,700人です。
 昭和30年代の工場誘致条例により事業所の数が多く、財政力指数は1.01であり埼玉県内では3つしかない地方交付税交付金不交付団体の1つです。(他に和光市、戸田市)合併対象の3市町は0.6台(富士見)0.7台(上福岡、大井)なのです。
 三芳町の林孝次町長もそのあたりは心得ているらしいのですが、「今は良くてもなあ・・・」と完全にムードに飲まれています。苦しい財政なのに箱物バンバンの富士見市、団地都市で急激な高齢化が予測される上福岡市、新駅「ふじみ野」設置による都市基盤整備の求められる大井町(そのおかげで固定資産税収入や人口が増え、単独市制を狙えるまでになった)これらの近隣自治体と一緒になっても焼け太りになるのは目にみえています。合併協議会は粛々と協議を重ね、来年の夏には住民投票の実施なんていう話もあるようですが、現在も実家があり、いざ自分の身近な問題となれば、机上の線引きのように簡単なことではないような気がするのです。よきアドバイスがあればお願い致します。長くてすみません。追伸:先日ご訂正くださった黒髪さんご高配に感謝。
[3461] 2002年 10月 1日(火)19:04:26でるでる さん
三芳町
[3457]TN さん

確かに三芳町は他の3市町(富士見市・上福岡市・大井町)に比べて、さほど都市化の波に呑まれず、「三富(さんとめ)新田」に代表される様に屋敷と耕地が規則正しく地割りされた独特の農村景観が現在においても残っていますね。私も小学時代に、社会科見学で当地に寄ったことがあります。江戸時代に山も川も無い平坦な武蔵野の地を開発し、都市計画された村が成立したと習った様な記憶があります。「三富新田」を構成する上富・中富・下富地区の内、確か上富地区が三芳町域で、中富と下富地区は所沢市域でしたね。

TNさんのご指摘通り、三芳町は埼玉県で3市町しかない地方交付税の不交付団体ですね。他の戸田市は先日、川口市・蕨市・鳩ケ谷市と4市で政令指定都市を目指す協議には加わらない意向を表明しました。住民アンケートでも、合併に反対の意見が多くありましたし、市北部の美女木地区を中心にかつての合併による”しこり”が残っていることもあるようですね。そして何より、TNさんのご心配と同様に、戸田市の豊かな財政が他の3市に持っていかれるのでは、という懸念もあったようです。ちなみに川口市・蕨市・鳩ケ谷市は、3市での合併を目指しで近々具体的な協議に入る意向とのこと。

もう一つの不交付団体である和光市は、朝霞市・新座市・志木市と4市で法定協議会を設置し具体的に合併協議を行っていますね。こちらでは、4市とも東武東上線やJR武蔵野線が通っていることもあり、都市化(というよりベットタウン化)が進んでおり、市街地もほぼ一体化しておりますね。「朝霞4市」という呼称もある様にそれなりに一体感のある4市においては、このまま合併に進みそうな気がします。

富士見市・上福岡市・大井町・三芳町では、東武東上線を中心に昭和30~40年代より急激に人口が増加した地域ですね。大井町では最近の新駅設置の効果もあり現在でも人口が増加し、将来的な単独での市制施行も実際に視野にある様です。一方上福岡市は、今後団地住民を中心に急激な高齢化の進行が予想され、また子供達も一斉に成人となり市外に移り住むケースも目立ち、それが人口の停滞、しいては人口及び税収の減少にも繋がっている印象がありますね。
今後各市町単位では、税収の伸び悩みもさることながら、急激な高齢化に伴う福祉問題、大井町内や富士見市ないにおいては現在でも続く開発・人口増加による都市基盤の整備がおぼつかない状況にあるのではないかと推測します。一方三芳町では、近年人口はほぼ横ばいながらも、豊かな財政(町内の事業所税収入は勿論、健全財政の賜物でしょうね)により、都市基盤整備も一段落していること、また豊かな財政が他の地域に回されてしまう(ツケを払う)ことになってしまうのではないかと懸念が、他の3市町に比べて、合併に対しては慎重に成らざるを得ない理由なのではないかと推測いたしますが、いかがでしょうか。

住民投票についてですが、「朝霞4市」でも来年実施の予定だそうです。最近は合併特例法に間に合わせようと、合併することを前提の様に、性急過ぎる合併協議の進展させ、住民に合併の是非を判断するほど充分な判断材料が示さない中で、安易に住民アンケートをとったり、住民説明会を開催したりして、挙句のはてはそれによって住民の意向は把握できたと言われてしまう箇所が散見されております。

幸いにも三芳町他3市町では2年前より、合併を前提としてではなく、合併の是非を含めた協議がなされており(本来、法定協議会は合併の是非を含めて協議する場なのに、ほとんどの場合は合併を前提にして協議され、合併しないの選択肢は事実上無い様に思われます)、先日合併を是(推進)としての意見が出された様ですが、もし合併するとしたら例えばこの様な将来計画になりますよといった、住民が判断出来る様な資料をまとめた上で、来年住民投票を実施する意向の様です。
私の個人的な考えとしては、充分な判断材料が無い中での住民アンケートや住民投票は反対ですが、充分な判断材料(勿論正確な)がある中でしたら、大賛成です。

三芳町他3市町の法定協議会は、元々は4市町の住民による住民発議の結果設置された協議会です。確か4市町とも有権者の1割強位の署名だったかと。
もし、結果的に合併をする、しないのいずれにしても、住民にとって最善の選択が出来る様にして欲しいと、心から願っております。
[18579] 2003年 7月 24日(木)00:56:26ありがたき さん
上福岡を考える(special-weekさんの口上お借りしました!)
[18524]スナフキんさん
[18537]Issie さん
[18576]ゆう さん
[18422]オーナー グリグリ さん

「上福岡」問題、まだいろいろと思考中です。まとまったらまた書きます。
とはゆうさんのコメント。わたしもいろいろ頭をひねっているのですが、インターネット経由の調べものでは行き詰まりました。昭和47年の市制施行および大正5年の駅開業き関する名称決定の経緯については行くところまで行った感があります。

以前にどなたかが「図書館の紙の本にてまず調べたい」旨のコメントをなされていましたが、まったくそう思いました。実際、とある東武東上線の駅名をコメントしている個人サイトを見かけたのですが、個人的な意見と断っているものの、上中下の板橋とか上福岡とか、結構とんちんかんなコメント(例えば、上福岡は福岡市のパクリとか)でして。しかし、明らかに資料性が無いものは一目瞭然としても、もっともらしいものの真偽を判断するのは至難の業ですね。

というわけで、近々まとまったお休みに入るので、一度上福岡市(もしくは埼玉県の大きな図書館)を訪れてみて、実地を見たり図書館にて調べ物してみるのも一興かな~とか思っております。
実は、この一連の「上福岡」問題ですが、ツボにはまりまして、調べていくうちにどんどん面白くなってきたんですよ。最終目標は「上福岡」の「上」の意味解明ですね。

上福岡駅前できょろきょろしてる人を見かけたらわたしかも知れないですw
[19388] 2003年 8月 28日(木)23:51:26hmt さん
上福岡
はじめまして。
隣接する「上福岡」と同様に、市名に昇格?する予定の駅名を持つ「ふじみ野」(この地名は10年前の駅開設時から)の住人です。
[18247]
上福岡市の「上」はどのような感覚で付けられたものでしょうね。
前身の福岡村は5村の合併で生れましたが、その中に「上福岡村」の名はありません。
歴史的には、新河岸川に臨む段丘周辺に形成された福岡村(本村)が、約2km下流の自然堤防地帯(下シモ)にも進出。17世紀に支流の福岡江川北側に開発した福岡新田が成立。18世紀に3集落の間に更に中福岡村が成立。
明治14年測図の迅速測図を見ると、福岡新田と中福岡村(両者逆位置に記入)の北東、下福岡地区に福岡村と記され、本村には地名が記されていません。しかし、ハケ地区と滝地区とから成る本村こそが「福岡」の名にふさわしい台地であり、下福岡、中福岡、福岡新田は沖積地です。福岡村成立後の明治39年測図5万分の1地形図も、大正3年鉄道補入で「かみふくをか」駅はあるものの、「上福岡」の地名はありません。地形図に「上福岡」の地名が登場するのは大正13年測図 昭和元年12月25日(昭和の初日!)発行の2万5千分の1地形図で、滝地区の北側に見えます。
このような経過から考えると、「上」は中福岡、下福岡との対比から、上流側にある本来の「福岡(本村)」に付加された言葉のようです。では、どの時代から? 明治の村名や地図に使用されず、大正3年の駅名に使われていることから、明治後半かと推察しながら、上福岡市立歴史民俗資料館 http://www.city.kamifukuoka.saitama.jp/hyakka/siteibunkazai/bnkazai_4.htm で尋ねてみました。その結果、僅かながら江戸時代から「上福岡村」の使用例があるとの教示を受けました。長宮氷川神社文書H5-1「宝暦4(1754)年6月吉日 大山石尊講帳 上福岡村」。
この「上福岡」が1914年に駅名に採用されるにあたっては、東上鉄道を推進した星野仙蔵代議士の意向が働いていると思われます。星野家はもともと福岡河岸の回漕問屋福田屋を営んでいましたが、河川改修と鉄道の出現で新河岸川舟運を見限りました。福田屋の建物は福岡河岸記念館として公開されています。 http://www.city.kamifukuoka.saitama.jp/hyakka/siteibunkazai/bnkazai_1.htm
「東武鉄道・駅長さんが書いた駅名由来(平成4)」という本があるようですが、見ていません。
更に1972年に市名に採用されたわけですが、これについては、上福岡市教育委員会市史調査報告書第19集「20世紀を語る古写真―上福岡and新河岸川舟運+東上線」188頁に「市の名称選定風景(昭和46.10.3)」の写真があり、次の説明文がありました。
市の名称を募集し、上位5種の「上福岡」「武蔵福岡」「東福岡」「新福岡」「上岡」の市名の中から市制審議会で総合的に判断して現在の「上福岡」に決定する。
32年前にも同じことをやってたんだなあ。
[22395] 2003年 11月 30日(日)18:57:11【1】hmt さん
お久しぶりの上福岡です
この落書き帳に出会ったきっかけは、ふじみ野2市2町合併が議論されていた頃の検索からで、嵌り込んで書き込みを始めたのは3ヶ月前の「上福岡」地名論議でした。上福岡市の名も、目出度く?残ることになったので、少し新資料を交えてまとめておきます。

[19388] では「市の名称選定風景」の写真説明を紹介しましたが、より公式の資料である、福岡町公報113号(上福岡市史資料編第4巻140頁)に、新市名の公募結果と決定手順が載っていました。
応募総数734通、市の名称206種、上位5点は、上福岡市215通、武蔵福岡市93通、東福岡市52通、新福岡市13通、上岡市12通。
これを市制審議会で検討し、市名に対する郷土愛、象徴性、知名度、読み具合、書き易さ等を総合的に判断し、他を圧倒して上福岡市(かみふくおかし)と決定し、町長に答申した とあります。この後、町議会の議決を得て決定し、知事の認可を得ることになっている由。

この記事には現れていませんが、福岡県福岡市との同名回避は当然の要件であり、私鉄駅名由来であることも公式には書けないので、「象徴性、知名度」という言葉で置き換えたものと推測します。

その駅名ですが、「東武鉄道創立百周年記念別冊マンスリーとーぶ」は、「大正3年5月開設。駅名は公募によって付けたものである。九州の福岡に対し武蔵福岡をという案もあったという。」と記しています。星野仙蔵氏は停車場開設にあたり 1,600円(停車場敷地代1,920円80銭の時代です)というダントツの額を寄付していますが、ボスが決めるのでなく、公募駅名だったことには感心しました。

ついでに、上福岡市史資料編第3巻で「既定線ヲ本村内ヘ変更ニ要セシ諸費」1,100円が計上されているのを見つけました。東上鉄道の予定路線を川越街道沿いから、少し新河岸川寄りに変更したものと思われます。侵食谷に邪魔されずに台地上を通りたい鉄道側との間の妥協の結果が現在の路線なのでしょう。

停車場は亀窪道が鉄道と交差する場所に作らました。ここは「ハケ」[19232] の下に位置する福岡河岸と川越街道亀久保とのほぼ中間点で、それまで集落のなかった地域です。「上福岡」は明治大合併の前にも後にも、正式の村名になったことはありませんが、[19388]で挙げた文書から、少なくとも18世紀には通称として使われていたことがわかります。福岡河岸付近の福岡本村は、中福岡村や下福岡地区に対して新河岸川の上流に位置します。

これで、福岡地区では上流に位置する通称地名としての「上福岡」>駅名>市名という連鎖が一応でき上がったと思います。福岡県との同名回避だけからすると「武蔵福岡」も対抗馬でしたが、いかにも新出来の複合地名よりも、通称ながら地元で長く用いられてきた「上福岡」の方がすんなりと受け入れられたということではないでしょうか。

前記「別冊マンスリーとーぶ」ふじみ野駅の項には、「市名の冠をいただき、他社線にも同名駅がなく、明るくなじみやすいということから駅名になった。」とありました。やはり鉄道会社としては、中央本線富士見駅などを意識したようです。これは [22008] の補足です。


【1】 追記
「別冊マンスリーとーぶ」の「九州の福岡に対し武蔵福岡」との記載は、同一駅名回避論というより、実務上の混乱回避でしょう。九州の福岡市は博多駅ですから。もっとも、駅名としては北陸本線福岡駅(富山県)の存在も問題になります。また、市名公募の件と混乱している可能性もあります。
[39241] 2005年 4月 1日(金)12:41:07【1】hmt さん
東上鉄道「上福岡駅」の由来
[39176] kenさん
日本鉄道と、官営鉄道に、九州の福岡以外の場所に、堂々と「福岡駅」が2つ並立してあったのなら、新出来の東上鉄道なる郊外電車が、3つめの「福岡駅」を作っても、場所も離れていることだし、格段もめることもなかったような気もしますね。
そもそも東上鉄道の過剰防衛の産物だったのか?

日露戦争後に行なわれた幹線鉄道17社の国有化の結果、日本鉄道の「福岡」(1891年、岩手県)と官設鉄道の「福岡」(1898年、富山県)のように、同じ企業体である鉄道院(1908~1920)の内部に同名の駅が50組以上できてしまいました。
東北本線の駅は1909年に「北福岡」に改名というように、一応は同名駅解消への努力をしていたようですが、なかなか折り合いがつかず、「大久保」(山陽本線、中央本線、奥羽本線)のように3つの同名駅が現在まで共存したままという駅もあります。
#近鉄京都線の大久保駅は除外。

そんな状況の中で、1914年(大正3年)の東上鉄道開業。
この鉄道が、kenさんの言われるように、本当に “郊外電車” だったのなら、岩手県や富山県の「福岡駅」との同名を気にすることはなかったのかもしれません。

しかし、そうでもないようです。
この東上鉄道、第一期の免許区間は東京の大塚辻町から川越・高崎を経由して上州の渋川までと、名前の通り東京と上州とを結ぶものでしたが、第二期として越後の長岡まで全長237kmを計画する幹線鉄道でした。
実際には、第一期区間でさえ完成させることができず、現在では、東上線の「上」の字が浮いてしまっていますが。
池袋付近の一部を除いて、軽便鉄道法でなく、私設鉄道法に基いて建設されたことも、本格派をめざしていた証拠です。

東上鉄道は、鉄道国有法の例外である“一地方ノ交通ヲ目的トスル鉄道”ぎりぎりの大計画をふまえた幹線鉄道であり、全国的な連絡運輸(特に貨物が重要)もありますから、鉄道院線との同名駅回避は、決して“過剰防衛の産物”とは言えないと思います。
なお、電化は1929年ですから、上福岡駅開業当時はもちろん“郊外電車”ではなく、蒸気機関車が客車(並等運賃は1マイル2銭、特等3銭)や貨車を牽引する「汽車」でした。

そこで院線に2つあった「福岡」[39170] (ゆうさん)との同名回避は必要だったとして、なぜ「上福岡」なのか?

本題に入る前の予備知識として、「上福岡」と同時に開業した東上鉄道「下板橋」駅を頭に入れておいてください。
もちろん、山手線(当時)にあった先輩の駅名「板橋」との同名回避。所在地の東京府北豊島郡板橋町大字下板橋は、石神井川の上流にある上板橋(1914年には上板橋駅もできました)に対応する地名です。
「板橋」駅[18020]は、それより僅かに下流側(巣鴨村・板橋町・滝野川町の境界)ですが、これは北品川より北の高輪に「品川」駅がある[38442]ようなものです。
#当時の下板橋駅は、0キロポストある留置線の場所で、大戦末期に移設した現在の下板橋駅は板橋区でなく、豊島区です。

鉄道開通前の明治14年迅速測図を見ると、駅になった場所は雑樹林で、その周囲は畑や松林。最も近い集落は川越街道沿いで、宿場町だった大井村に属する鶴ヶ岡や亀久保です。「大井」駅にしても中央本線(現・恵那、岐阜県)に同名駅があります。
#同じ頃、東京に「大井町」駅が誕生。
それよりもなによりも、この東上鉄道の誘致に尽力し、用地取得にも尽力した福岡河岸の星野仙蔵[19388]としては、駅所在地でもある福岡村の名を使いたいところです。

川越鉄道(現・西武鉄道)川越駅との同名を回避する「川越町」駅と同じ流儀で、「福岡村」駅も一つの案だったのではないかと想像しますが、江戸時代から通用していた「上福岡」が採用されました。

「上福岡」とは、本来は、新河岸川沿いの下福岡や中福岡村に対応して、上流にある福岡河岸付近の福岡本村(「ハケ」[19232]と滝の2地区あり)のことでしょう。非公式ながら「上福岡村」という使用例(長宮氷川神社文書[19388])もあります。
「宝暦4(1754)年6月吉日 大山石尊講帳 上福岡村」

その「上福岡」が、福岡本村の勢力圏にある亀窪道沿いの台地(ここに駅ができた)に拡張して使用されることは、自然のなりゆきと思われます。

このようにして、大正13年測図 昭和元年12月25日発行の2万5千分の1地形図に、「かみふくをか」の駅名が現れます。駅付近に現れた僅かな家屋記号は、東上線の重要な役割だった貨物輸送に関係する運送店や倉庫かと思われます。
#地形図の発行日は昭和の初日です。この日付が印刷されているということは、後日増刷された地形図であるという証拠でもあります。平成になっても、しばらくの間、昭和64年と印刷された特許公報が発行されていたことを思い出しました。

この地形図では、滝地区の北側に「上福岡」の地名も現れ、「中福岡」、水田を隔てて「下福岡」とのトリオが 新河岸川の南側に並びました。参考までに、江戸時代の“三福岡”とは、福岡村・中福岡村・福岡新田の3村でした。
たまたま西から東へと上中下が並んでいますが、もちろん“この川をたどれば京都”というわけではありませんから、支配者の内裏・都を基準にする上下(「お上」の感覚で名付けた官製地名[19527])とは、無関係です。念のため。

TOBULANDや「東武鉄道創立百周年記念別冊マンスリーとーぶ」[22395]には、駅名公募説や武蔵福岡案が記されていますが、新市名の公募(福岡町公報113号[22395])と混同している可能性があり、鵜呑みにするのは危いと思います。“九州にあるため断念”とあるのが、駅名でなく市名選びである何よりの証拠。
より信頼できそうな「東武鉄道百年史」(1998)269頁には、駅名が行政上の名称に先行したことは記されていますが、駅名公募などという現代的な行事?があったことについては、全く触れておりません。

「上福岡」の由来となると、ついつい長文を書いてしまう準地元住民 hmtからのレポートでした。
[41695] 2005年 5月 28日(土)19:03:48【1】hmt さん
砂利鉄道(入間川編)
砂利鉄道の立地条件は、砂利の出身地の関東山地と、コンクリート骨材として骨を埋める?東京との両方に近い河川です。
多摩川[41599]、相模川[41660]と共にこの条件にあてはまるのが、入間川です。
入間川は、外秩父を水源とする名栗川、越辺川、市ノ川などの水を集めて江戸の隅田川に至る流れでしたが、「荒川西遷」[38111]で、支流の和田吉野川→市ノ川に、荒川の本流を受け入れることになり、現在は、川越の東で荒川に合流する支流ということになっています。

入間川の砂利鉄道で最も有名なのは、川越の南郊にある西武鉄道安比奈線(1925年開業)でしょう。
現在の西武新宿線南大塚駅から入間川の河原に向かって伸びていた3.2kmの貨物線で、1967年に砂利採取が禁止された後は事実上廃線になっていますが、名目上は休止路線として余命を保っています。

安比奈線についての言及もあるスナフキんさんの記事[15736]には、高麗川近辺のセメント専用鉄道が語られています。この日本セメント(現・太平洋セメント)は、[41599]で言及した浅野セメントの財閥解体による改名で、埼玉工場は1955年にできました。現在は秩父の武甲山からの長距離ベルトコンベアにより、原料は輸送しています[28586]

砂利とは無関係の話になりますが、日高市は、ごみ焼却場を閉鎖して、市民の出したごみは、この工場のロータリーキルンで燃料として使用されています。焼却灰もセメント製品の中に入って、完全利用されます。

安比奈線よりも古く、1920年に入間川の対岸にできた砂利鉄道があります。これは私鉄ではなく、埼玉県が道路用の砂利を自給するために作った専用鉄道でした。1926年の地形図を見ると、東上線の的場(現・霞ヶ関)駅から入間川河岸までの線路が確認できますが、1949年修正測量の地図では消えていますから、スナフキんさんご幼少の頃には、既に廃線跡もなかったのでしょう。

東上線と言えば、最初(1914年)の開業区間は、池袋-田面沢(たのもさわ)でした。田面沢は入間川河畔。川越町を終点にせずに、ここまで伸ばした理由は、砂利輸送があったからではないかと思ったのですが、東武鉄道百年史には砂利輸送の記述はなく、同資料編によると入間川舟運連絡用とのことでした。

入間川を飯能近くまで遡ると、西武池袋線の元加治駅にも入間川から採取した砂利積込用の貨物駅がありました。

東上鉄道は、坂戸町-小川町間の路線として松山町経由と越生町経由とを比較し、結局は現在の東松山経由にしたのですが、越生(おごせ)はその後も誘致運動を続け、東武鉄道の傍系会社として越生鉄道が作られました。
1932年開業当初は、坂戸町-高麗川右岸で、砂利運搬用の貨物鉄道でした。砂利列車の行先は、東上線下板橋か、池袋経由飯田町か? その後、越生まで開通して旅客扱いも開始。
戦時中の1943年に戦時統合で東武鉄道に合併された越生線は、ガソリンカーの燃料が木炭になったり、軍部から不要不急線として運休命令が出たりという苦労をしています。

造園用に、「越生砂利」というブランドがありますが、これは、越辺川(おっぺがわ)に産出する砂利のようです。前記の高麗川は、坂戸の北で越辺川に合流します。いずれも入間川水系。
[42697] 2005年 6月 30日(木)15:24:34【1】hmt さん
上空から三富新田を見る
[42685] まかいの さん
Google Mapsでも三富開拓地割が良く見えますが、惜しいかな、ぎりぎり大縮尺画像地域から外れてしまってます。

上空からの画像ネタと地元ネタとが重なり、思わず飯能(誤変換ですがそのままにしておきます)。

国土画像情報ならば、画面中央、街道の両側に沿って並んだ1軒1軒の農家の背後に、細長い短冊状の耕地が並ぶ様子がよくわかります。まかいのさん推薦のけやき並木と屋敷林の樹冠に覆われて、街道の路面は見えません。画面右側の高速道路は、関越道です。屋敷・耕地の更に背後にある自家用林も短冊状地割になっていますが、これも樹冠に覆われて地割りは見えません。

この空中写真は、三芳PAの約1km南にある三芳町上富付近が主体になっていますが、画像の左下(南西)隅に、上富と直角方向の短冊状地割が少しだけ見えます。これは、所沢市の中富地区の一部です。

この上富と中富の地割の向きの違いは、確かに中縮尺の衛星画像にも反映されているのですが、知っていないと、このことを読み取ることはできないでしょうね。その点、大縮尺の国土画像情報ならば、一目瞭然です。
衛星画像には、中富地区の北にある下富地区(中富と同じ向きの地割)も見えますが、やや不明瞭。

更に北に見える緑色の濃い山林は、ダイオキシン事件で問題になった焼却炉銀座(リンク文書にマップ)の「くぬぎ山」。
ここは、狭山市・川越市を含む3市1町の境界地帯です(更に大井町も近い)。

参考までに、三富(さんとめ)新田に関する落書き帳記事を拾ってみました。
三芳町(でるでるさん)、郊外考(TNさん)、三富新田訪問記(YSKさん)、官製上下地名(hmt)、日曜サイクリング(スナフキんさん)。
[42742] 2005年 7月 2日(土)02:57:37まかいの さん
予想通りでした
[42697]hmt さん
上空からの画像ネタと地元ネタとが重なり、思わず飯能(誤変換ですがそのままにしておきます)。

[42685]拙稿で
こんな所知っている人少ないだろうなぁ
と書いておきながら、「hmtさんはきっと反応してくれるはず」と思っていましたが、予想通り
でした(ニヤリ)。

国土画像情報では短冊状地割がきれいに見えますね。
おかげさまでまたひとつお気に入りが増えました(嬉)。
[42802] 2005年 7月 4日(月)13:22:11スナフキん さん
日本のオンスケール鉄道地図レス
[42688]かぱぷうさん
[42699]YASUさん
[42719]星野彼方さん
私の新刊紹介が、何だか「買ってみたら?」の文言に見えてしまったかもしれませんね。[42662]で私が書いた「楽しめる内容」「一見の価値はある」「面白いかも」というクダリは、最大限の皮肉を込めたネガティブな表現のつもりでした。楽しいもの、一見の価値があるものがイコール「いい地図」ではありませんので…。中にはダメ地図を「ダメだダメだ」と楽しんでしまう私のようなひねくれ者もいますから(汗)。

ダメな部分は前述以外にも、例えば増刊号の巻末地図においては文字の重なりが多すぎる、図郭部分での文字追い込みが全く不完全である、ところどころに配置されている写真やコメントの位置が不適切である、文字の体裁や色使いも決して見やすく工夫されているとは言えない、などなど突っつけばいくらでもホコリが出てきます。無料のオマケならこの程度のクォリティでも…という言い分もあるのですが、奥付には地図の制作元名称までしっかり入っているわけで、それなりの責任を持ってほしいような…これ以上述べてしまうと地雷を踏みそうなので、以下訳あっての自主規制とさせてください。

地図のデータベースと言うと今ふうでトレンディーで格好よく、様々な図が生成できて便利な点がある反面、使いこなす側、メンテナンスする側、実作業に当たる側がそのベースに関する知識や特性を幅広く認知していないと、再利用してはみたものの全然おかしな図ができてしまうことがあります。カテゴリ分け一つとっても、高速道路と自動車専用道路、有料道路は分けた方がいいのか、分けるならばどのような基準で線引きをするのか、このあたりの認識をデータベースに向き合う人間が共有する必要があります。今回の増刊号オマケ図で言うなら、そこがしっかりしていないから、例えば米軍三沢基地への引き込み線が私鉄で表現されてしまったり、小坂製錬の末端部分だけが見えていたり、札幌の市電が地下鉄と同じ表現になって何が何だか分からなくなったり、そういうことが起きてしまいます。生成する図をベースから作ろうとする場合、ベースにあるデータをどのような表現にするのがふさわしいかを考える作業をはしょってしまうと、「あ~あ」な図になる傾向が強いですね。ホントは、ベースがあるから地図は早く安く作れるわけではないのです。ベースから作るにあたって新たに必要となる作業が発生するのですが…ほとんどの場合クライアントにそんなことなど分かってもらえません。だから、地図の制作代は安くなり、一定の努力をしても地図屋は儲からないのです(泣)。

返信が、最後は愚痴になってしまいました…スミマセン。

別件ですが、
[42685]まかいのさん
三芳町上富 県道56号のけやき並木

三富開拓地割も良く残っている地域であり、これぞ武蔵野って雰囲気が好きなのですが、こんな所知っている人少ないだろうなぁ。
私、非常によく知っています。自転車で10分ほどで辿り着くので、めちゃくちゃ近所です。hmtさんも当然ご存じでしょう(その後、関連レスがありますね)。主要地方道56号さいたま上福岡所沢線ですが、厳密には途中の上富交差点でケヤキ並木からはそれて所沢方向へ曲がってしまいますが、並木自体はそのまま道路が突き当たる南永井(所沢市境)まで延々と続いています。並木全体が三芳町域に含まれ、樹木の大半が町で保存の対象としている指定樹木のプラカードをぶら下げていますね。通りかかったら見てみるといいでしょう。道中ほどの旧島田家住宅では、資料を見ようと昨年のゴールデンウィークに立ち寄ったところ居着いた猫がじゃれついてきて、管理の方が名産のお茶を出して下さいました。何だかホッとする空間です。
[46239] 2005年 10月 27日(木)22:19:46TN さん
三芳
平成の大合併を乗り切り、わが三芳は元の静けさを取り戻しました。三富新田以外に三芳に関する話題はあまり無く、役場のHPもいまいち、そうですね敢えて取り上げるとすれば関越道三芳PAスマートICでしょうか。実験期間が延長されているそうですが、便利なのでこのまま本設置してもらいたいところです。
三芳は、道にはこだわっております。川越街道松並木、上富のけやき並木、関越道だって三芳部分は景観に配慮して掘割構造になっているのです。

[46223]hmt さん
「ふじみ野」という地名はますます拡散してゆくことでしょう。
町内に「東京証券総合運動場」とそれに隣接する形で「時事通信社三芳園」という施設があったのですが、数年前に閉鎖されました。町が買い取りそのまま公園に、という話もあったようですが叶わず、沢山の木々が伐採され更地になりました。仮に2市2町の合併が現実となっていたなら、この場所が「ふじみ野市 合併記念公園」になっていた可能性はあります。そこは現在、某住宅販売メーカーによる開発が進められ販売が始まっているようなのですが、その名称がチェルシーガーデン ふじみ野といいます。
[49898] 2006年 3月 17日(金)23:21:12hmt さん
埼玉県の台地
「台地」コレクション に地元・埼玉県の分がアップされたので、補足記事を少し。

埼玉県は、その西部に秩父山地や丘陵があり、これらと荒川や利根川の低地との間に台地があります。
最大の台地は東京都から続く武蔵野台地です。
その北側に位置する台地は、川や丘陵によって分断されていますが、入間川と越辺川との間を入間台地、越辺川よりも北にある台地群を総称して北武蔵台地と呼ぶようです。
また、武蔵野台地から荒川低地を隔てた東側、埼玉県の中央部とでも言える地域には、武蔵野台地の支台とも言える大宮台地が広がり、これもその中を刻む河谷によって更にいくつかの台地に分かれます。

このように、列挙された台地の中には階層関係があり、その結果、埼玉県の台地コレクションのリストは、かなりにぎやかなものになっています。
既に坂戸台地の備考欄に“入間台地の北部”と記されておりますが、その他の台地も含めて、階層関係を示しておきます。

北武蔵台地に属する台地
本庄台地、櫛引台地、荒川の南には江南台地、比企丘陵の東側に松山台地(東松山台地)、都幾川の南に高坂台地。

入間台地に属する台地
北部の坂戸台地、西部の毛呂台地、南部の飯能台地。
狭山市や入間市の市街地は入間川の右岸、つまり武蔵野台地側にあります。たしかに左岸にも狭山市域はありますから、入間台地のところに狭山市と書いてあっても間違いとは言えないのですが、やはり入間台地の主な市町村は、坂戸・鶴ヶ島・日高・飯能の各市でしょう。

武蔵野台地に属する台地
リスト既出のものでは川越台地、所沢台地、野火止台地がそれに該当します。広いM面台地の中に少し高いS面台地(金子台、所沢台、淀橋台、荏原台)や少し低いTc面台地(立川段丘)があるわけですが、「○○台地」という名でないので、そこまでは立ち入らないことにしましょう。
落書き帳で話題になった「ふじみ野」付近は、所沢台と不老川(としとらずがわ)沿いのTc面の間にあるM面台地ですが、格別の呼び名のない“武蔵野台地の一部”です。

武蔵野台地は、東京都までつながっている大きな台地であり、その中には、この台地を作った多摩川が削り残した狭山丘陵が島のように残っています。この丘陵の谷間を利用した東京の水甕が、村山貯水池・山口貯水池です。
東京都側は、都県別を改めてリストアップされると思いますが、山の手台地というと、およそ山手線の内側でしょうか。谷で細分化された23区内の台地には、○○台地でなく、豊島台、淀橋台、本郷台など○○台という地名が目立つようです。

大宮台地に属する台地
大宮台地本体の他に、南東部に芝川で分断された安行台地、東部に綾瀬川を隔てた岩槻台地、更に元荒川の東側の慈恩寺台地、蓮田台地、白岡台地が挙げられています。

下総台地から人工的に切り離された台地
以上、西部の北武蔵・入間・武蔵野の各台地、中部の大宮台地の他に、埼玉県の東端に宝珠花台地と金杉台地があります。
この台地は、本来は下総台地の一部でしたが、17世紀に江戸川の開削によって下総台地の本体から切り離され[46981][11153]、小さな台地として独立?しました。
明治になって千葉県から埼玉県に移管された後も下総国のままだったのですが、1896年に武蔵国北葛飾郡に統合されました[36159]
[51725] 2006年 6月 12日(月)00:10:36スナフキん さん
ちょっと超高層ビルを考える
先週から、自宅近くの駅前に完成した超高層賃貸住宅のモデルルーム公開が始まりました。オープンは来週末まで続きます。今や都心部では超高層ビルは当たり前であり、何をもって「超」なのかは意見が分かれそうですが、自分はおおむね20階建て以上なら超高層かな、とかあいまいに考えています。もっとも、昨今の高層化はこれを上回る規模で進んでいて、都心部ではもはや30階建てクラスも珍しくなくなってきており、20階では基準が甘いかもしれません。特に、今まではオフィスビルが圧倒的に多かった超高層ビルに、賃貸または分譲のマンションが次々と加わっていますね、時代は変わったものです。

私は、山登りの経験があるにもかかわらず高いところはあまり得意でないのですが、それでも飛行機搭乗中に上空から、超高層ビルの上層から、周りの景色を眺めるのは結構好きです。真下を見ちゃうともうダメですが、視線をなるべく水平にすれば、多少へっぴり腰(汗)でも長いこと眺めていられます。あるいは、地図屋たる職業がそうさせているのかもしれませんが、メンバーの中にもたぶん、そんな人がいるのでは?

しかも新しもの好きな私は、モデルルームオープン初日に最上階へ行って、新調したてのデジカメでもって手当りしだいに景色を撮りまくってきました。警備で巡回している人からは「なんじゃこいつ?」みたいな目で見られはしましたが、絶景なることこの上なかったです。ましてや、この建物は立ち上がる前から、私がほぼ1週間ごとにでき上がり高くなっていく様子を画像で記録し続けた建物。たぶん眺める景色は他の人とはまた違うように見えたことでしょう。

都心部では増殖した超高層ビルも、埼玉のこの辺りまでくるとさすがに相当まばらになります。まとまって背の高い構造物が望めたのは、さいたま新都心と大宮駅周辺、隣のふじみ野駅周辺と新所沢駅周辺くらいなもの。よく考えたらこの建物より北側には、ここ以上に高い建物ってないのかもしれません。さすがに新所沢変電所が立地する土地柄、高圧線の鉄塔はやたらに林立していますが、ビルとなると…ひょっとしたら沿線はおろか、終点の寄居を通り越してさらに北、群馬県庁くらいまで超高層ビルはないのではないか? というくらい、逆に北側の眺めは遮るものも少なく、すばらしいものでした。

間取りがまた、最上階の天井高を活かしたデュアルフロア構造で、ロフトがあったり床下収納があったり、中には風呂場に窓があって展望風呂だったり、それでいて四六時中得られるワイドビュー…競争率の激化は必至です、どの間取りもほとんど1部屋しかないですし…。ところで、住居の「ロフト」って考え方は日本固有のものではないように思うのですが、どうなのでしょうね? 「屋根裏部屋」と言ってしまえば確かにそう見えなくもないですけど…。部屋の中に数段の段差がある生活、毎日にメリハリがつくと捉えるか、いちいちの昇り降りは億劫と捉えるか…日本での住まい選びも多様化してきたようですね。ちなみに、私はこの最上階、家賃を払おうにも収入不足で、入居できません(号泣)。
[51745] 2006年 6月 13日(火)19:39:46hmt さん
新所沢駅と新所沢変電所とは16kmも離れている
[51725] スナフキん さんの記事に、「新所沢」が2回出てきます。

まとまって背の高い構造物が望めたのは、さいたま新都心と大宮駅周辺、隣のふじみ野駅周辺と新所沢駅周辺くらいなもの。
こちらは、西武新宿線の行先でもおなじみの「シントコ」[4759] [25170]です。

この線の前身・川越鉄道は、古い歴史のある蒸気鉄道で、所沢駅や入間川(現・狭山市)駅は19世紀に開業していますが、その間にあるこの付近は昭和30年頃の地図を見ても、目立った集落はありません。

それでも明治44年(1911)に開設された日本最初の飛行場のために、昭和13年(1938)に「所沢飛行場前」駅ができました。
1941年に“防諜上の配慮”[28850] から「所沢御幸町」と改称されたのは、小田急の「士官学校前」や「通信学校」と同じことです。
「御幸町」という地名は、大正元年(1912)の陸軍大演習に、大正天皇が行幸されたことに由来。

第2次大戦後、所沢市が発足した翌年の1951年に少し北寄りに移転して「北所沢」駅となり、更に日本住宅公団の団地ができ、入居直前の1959年2月に、団地名と同じ「新所沢」駅に改称されました。
戦後の飛行場跡は、米軍基地になっていましたが、ベトナム戦争終結後の1971年になって通信基地以外の医療廠、兵站センターが返還されました。

この建物より北側には、ここ以上に高い建物ってないのかもしれません。さすがに新所沢変電所が立地する土地柄、高圧線の鉄塔はやたらに林立していますが、ビルとなると…
この「新所沢変電所」(東京電力)は、上福岡よりも北(北西の方向)・鶴ヶ島市にあります。
所沢市の「新所沢駅」(西武鉄道)は、もちろん上福岡よりも南(南西の方向)です。

新所沢変電所は、新所沢駅から16kmも離れた場所です。それなのに、なぜ「新所沢」という名なのか?
私にとっては長年の謎だったので、この機会に教えてくださる方があれば幸いです。

新所沢変電所の近くの「中東京変電所」(日高市)も、東京の「中」とは言えない場所です。
しかし、こちらの名前は、東京の外周を巡る送電線の中で、西東京変電所(電源開発)(町田市)と北東京変電所(東京電力)(南埼玉郡白岡町)との中間に位置する変電所として命名されたと理解することができます(1958年新設)。
[55364] 2006年 11月 26日(日)22:15:20hmt さん
富士見村誕生から50年
もちろん現役の富士見村のことではありません。
群馬県勢多郡富士見村は、明治22年の町村制施行時から117年の歴史があります。
更に古く、筑摩県時代の明治7年に誕生した富士見村(現・長野県諏訪郡富士見町)もありました。

富士見市の難波田城資料館 に足を向けたら、このような展示を開催していたので、タイトルを借用しました。

気がついてみれば、昭和の大合併を実現させた3年間の時限立法「町村合併促進法」が満期になった1956年(昭和31年)9月30日から50年が経過していたのですね。辛くも、この最終日に合併を実現させた村の一つに「埼玉県入間郡富士見村」がありました。

市町村合併情報日付順一覧 によると、この最終日の合併件数は全国で335件を記録。もっとも、昭和合併3年間のちょうど半ば、1955年4月1日は369件でしたから上には上があります。参考までに、平成合併の記録件数は、2005年10月1日の50件。

50年前に富士見村が誕生した時代には、私は会社に入ったばかりで初めての関西暮らし。というわけで、この合併とは全くの別世界にいましたが、現在の居住地という縁で、昭和合併のプロセスの一例を記してみます。

Occupied Japan時代1949年に「シャウプ勧告」がありました。正式名は「国及び地方の税制に関する報告書」で、その基本理念は、国と地方公共団体の間の事務の再配分を実現した上で、地方公共団体の財政を強化することにありました。
市町村が学校、警察その他の活動を独立して維持することが困難な場合は、比較的隣接した地域と合併することを奨励すべきである。同様に…市町村または府県の合併が行政の能率を増すために望ましい時にもまたこれを奨励すべきである。

1951年頃からは現実に地方財政の赤字化が顕在しており、全国町村会から、合併に伴なう財政上の優遇措置を法律で定める要望が強く出されました。議員立法による「町村合併促進法」が制定されたのは、独立の翌年1953年のことです。
小規模行政による地方財政の不利益を克服し、合理的な運営を可能にする適正な規模は、人口8000人程度とされ、これを3年間で実現しようというわけです。

以下、主として展示資料によります。
埼玉県が最初に示した試案によると、鶴瀬ブロックは5村合併でしたが、実質的な合併協議は、福岡村(試案では川越ブロック)を加えた6村で行なわれました。うち柳瀬村は当初から所沢との合併を希望してすぐに離脱。
人口が他村の倍近くあり、農業主体の他の村と住民構成が異なる福岡村は、合併の条件として新庁舎の村内設置を強く主張し、他の村から反発を受けました。

大井村は福岡村と鶴瀬村とにそれぞれ近い両派が内部対立。
三芳村は隣接する鶴瀬・大井との合併を希望するも、上富地区は所沢編入を希望し、これも内部対立。
水害常襲地帯で鉄道かも遠い南畑村は将来に危機感を持ち、鶴瀬との合併を希望。

鶴瀬村議会の申し合わせ(1954/12/28)を見ると、昭和30年(1955)3月1日を目標に、南畑・三芳・水谷・大井との5村合併とあります。これによると、福岡村との合併は既にあきらめ、当時北足立郡だった水谷村が視野に入ってきています。
水谷村はもともと入間郡でしたが、戦時中の強制合併[37842]から戦後の分離独立という経歴で別の郡になっており[41711]、志木(足立町)との合併を望む住民と鶴瀬との合併を望む住民とが1956年の住民投票による決着まで対立していました。

1955/3/24鶴瀬村長からの協力願いでは、“現在の情勢は、三芳鶴瀬及南畑の合併が強く打ち出され”とあり、その翌月4/15になると、まだ可能性が残されていた大井村を含む4ヶ村合併が遂に不調に終わったことが報告されています。

三芳村との合併は、町村合併促進法失効期限のギリギリまで持ち越されたようです。1956年9月20日付の三芳・鶴瀬両村長の名による「誓約書」(の案?)なるのものが展示されていましたが、その翌日になると次のように断念が表明されています。
昨日の誓約書について本日午前中回答あるものと待っておりましたが、三芳村に於ても難航の様子のため未だ回答がありませんので、本村としては委員会の協議の結果、この誓約書の件は打ち切ることに決定したしました。 昭和31年9月21日 鶴瀬村町村合併協議会

#「誓約書破棄」の事情が書いてないだろうかと「三芳町史」を確認してみたら、“9月24日に関係各村と取り交わしたが、その2日後に破棄するに至った”とありました。日付が違い、事情の記載なし。

三芳村との最終交渉と同じ頃に並行して鶴瀬村との合併交渉が進められていたた水谷村については、9月19日の住民投票(投票率97.14% !!)によって、鶴瀬村・南畑村との合併に賛成849票、足立町との合併に賛成533票で方向が決まりました。
こうして、9月22日に鶴瀬・南畑・水谷3村の「富士見村」への合併同意が成立。翌23日に各村議会は合併を決議しました。

昭和31年9月24日、埼玉県知事あての「富士見村設置申請書」。これは活版印刷物です。これまでに紹介した展示資料は、ほとんど全部が謄写版印刷でした。
“…を廃し、その区域をもって富士見村を設置することとしたので” というおなじみのスタイルの文言が初めて顔を出します。
“土質豊じょうにして農業を主体とする産業…土地改良事業…多角的農業経営” などの文言からもわかるように、当時は農村の富士見村でした。

おまけ
合併した頃の鶴瀬駅時刻表。基本ダイヤは1時間に3往復で、毎時00分に池袋を出る寄居行準急は志木まで通過で24分発、池袋20分40分発の川越市行準急は成増から止まるため、鶴瀬発46分、06分。朝7時台の上りは準急4本、普通2本。
[55377] 2006年 11月 27日(月)18:52:50hmt さん
度重なる合併や分村の嵐に耐えて独立の道を守った「三芳村」
[55364]で、半世紀前の埼玉県入間郡東部地区における町村合併事例を紹介しました。
最終的な結果としては、鶴瀬ブロックの大同合併は成らず、当初から合併志向だった鶴瀬・南畑の組み合わせに、志木との間に挟まれていた水谷村が加わった3村合併だけに終わりました。

「富士見村設置申請書」に添付された「合併の経過」には、5ヶ村の町村合併推進研究会で鋭意努力したが
庁舎設置問題で大同団結の妥結点に至らず、不幸本研究会は昭和31年9月5日に解散し…たのであるが、…南畑村鶴瀬村は…水谷村の同調を得、更に隣接村の第二段階に於ける合併を期待し、9月22日3ヶ村の合併協議会を結成し…
とあります。

庁舎位置にこだわり合意できなかった福岡村はともかくとして、三芳村・大井村との合併については、まだまだ未練があります。

三芳村の方でも、最終段階で破棄したものの「誓約書」まで交わした合併の仲間からはずれ、
三芳村は大井村・福岡村とともに合併から取り残されることとなった。(三芳町史)
感じていました。

このような未解決町村の合併を処理するために、1956年6月に施行された「新市町村建設促進法」に基づいて、県知事が合併勧告をすることになりました。
埼玉県の場合は、昭和32年に18件の勧告がなされ、三芳村も、大井村・福岡村との合併勧告を受けました(1957/3/27)。

しかし、当初から動きのあった上富地区の所沢編入運動は一段と活発になり、これに対して他の地区は上富が分村するなら、こちらは誕生したばかりの富士見村と合併するとの姿勢を示しました。
そして、1957/4/9には県知事の合併勧告を返上し、上富の所沢編入を村議会で議決。更に6月には議員提案により上富を除く三芳村(藤久保・北永井・竹間沢)が富士見村と合併するとの決議を賛成12、反対2で議決するに至りました。

このようにして、三芳村は分村して消滅するのかと思われましたが、分村を避けたい人々の気持ちも強く、村内は所沢寄り、富士見寄り、大井・福岡寄り、自主独立の4派の動きで、なかなか事が決しません。
埼玉県は1959年1月の最終処理方針でも、三芳・大井・福岡の合併実現に期待をしていますが、無理強いはせず。
その後も難航を続け、分村には一部からの強い反対や村有財産の分割などの困難があることを理由に、1959年4月16日に村長が分村合併取消議案を提出して、三芳村の昭和合併騒動は白紙に戻りました。


そして、1960年代を迎えます。この時代になると工場の進出がはじまり、農村の風景が変り、三芳村も住民もふところ具合も豊かになってゆきます。日本新都市開発による「13万都市建設計画」は、1966年の反対請願可決で「まぼろし」となり、三富地区の自然は守られましたが、それでも三芳村の人口は1960年代後半には急増して1969年には1万人を越え、翌1970年には「三芳町」を名乗ることになります。

このような次第で、昭和合併が目標にした「人口8000人規模」は、合併することなく実現してしまったわけです。
このことは、隣接する大井村(1966年から大井町)にしても同様。
鉄道駅のある福岡村(1960年から福岡町)については言わずもがな。

鉄道駅という観点から付記しておくと、三芳町にとり最寄りの東上線「みずほ台駅」が開業したのは1977年です。西口を出て500mも行けば三芳町であり、駅の開業を挟んだ時期に富士見市に続いて「三芳町みずほ台特定土地区画整理事業」が行なわれ(1975~1981年)、新しい市街地が出現しました。

このようにして、昭和の“合併から取り残され”、県知事から合併勧告を受けた 三芳・大井・福岡の3村は、人口の面では小規模自治体から脱して、 独立独歩の道 を歩むことができたのでした。

平成になって、またもやこの地区の2市2町合併が計画され、2003/10/26の住民投票で消えたことは、先刻ご承知の通りです。3年前、私が落書き帳に参入して間もない頃でした[22008]

昨年になって大井と福岡は合併しましたが、分村の危機を乗り越えた三芳だけは、118年目になった独立路線を進んでいます。
[55380] 2006年 11月 28日(火)22:09:54hmt さん
航空写真で眺める産業の推移
「市部」になってしまった埼玉県大井町は、千本桜さんのスーパータウン[55378] 失格なのでしょうが、せっかくの機会なので、この地の産業構造が第三次産業へと移行してゆく様子を、航空写真によって眺めてみます。

ふじみ野駅(右端矢印)から旧・大井町にかけての現在の航空写真 において、左中央に見えるレンズのような形のビルが「オリコ」です。

ほぼ同じ範囲を写した1974年の国土画像 と比較すると、オリコのある場所は、かつての東燃中央研究所(写真の左上隅)に付属する社宅の横にあったグランドであることがわかります。

現在の写真で「オリコ」の北にある茶色の建物は講談社の倉庫です。川越街道の沿線は、都心から小石川の出版社に向かう方角の延長線上にあり、出版物の倉庫が数多くあります。更に北に見える白い建物群は、巨大なホームセンターを中心とした商業施設です。

というわけで、1960年代に三芳村の場合[55377]と同様に第二次産業が進出したこの地帯も、現在では第三次産業地帯へと変貌しました。もっとも第二次産業とは言っても、この付近では工場よりも研究所が目立ちました。

1974年の写真を見ると、川越街道旧街道に沿った大井宿の町並みの両側、特に東側の国道254と東上線(図外)との間は、完全に第一次産業地帯です。この付近は「入間牛蒡」の産地でした。
[55438] 2006年 12月 4日(月)19:49:50【1】hmt さん
文化財になった村役場(旧大井村役場庁舎)
ふじみ野市の川越街道沿いにある「旧大井村役場庁舎」が補修・復元され、公開中 です。

民家とも思えるような小さな建物ですが、第二次大戦前の昭和12年(1937)、宿場町の古い家並の中にアイボリー色モルタル壁の姿を現わした西洋風の建物は、東京日日新聞S12.5.9が「モダーン新庁舎」と報じたように評判になりました。

スケッチ画 に見える塔屋は、 鶴岡の「旧西田川郡役所」 のような明治の役所建築を思い出させますが、そんな由緒のあるものではなく、1940年頃に寄贈されたサイレン小屋のようです。この正午を告げるサイレン、間もなく突入した戦時下では警戒警報・空襲警報に使われることになります。

当時の大井村役場1階の配置図を見ると、左手に村長室、正面の事務室にはカウンターの左から厚生主任・庶務・戸籍・兵事・税務・勧業の各係の机が並び、右手の収入役の奥には金庫が鎮座するという具合でした。職員は14~15人。照明は白い傘の裸電球で、暖房は火鉢。
2階は村議会の議場で、壁には「御真影」の奉安殿が設けられていました。

埼玉大学の内田青蔵助教授は、昨日の記念講演会で、この間取りが大正10年(1921)に建築された「旧府中町役場庁舎」 と極めて類似していることを指摘しておられました。

参考までに:当時の大井村の人口は、スーパータウン[55359]になった近年の人口の1割もない数でしょう。住民4000人に役場職員14人とすると、1000人あたり3.5人。合併前には人口48000人に町の職員347人で、住民あたりの職員数は60数年で倍増。
# 埼玉県の人口あたり職員数は、明治初年からの130年余で10倍になりました[36047]

タイトルに書いた「文化財」ですが、1996年に改定された文化財保護法の第五十七条で国の「登録有形文化財」制度 が発足しています。
「旧大井村役場庁舎」が国(文化庁)に登録されたのは2002年。

「登録有形文化財」制度は、学術的な価値が高いものを厳選指定した「国宝」「重要文化財」という従来の制度が、強い規制と手厚い保護を加えるものであるのに対して、国土の歴史的な景観に寄与しているものなど多様な価値観の中から歴史的建造物を再発見し、登録することにより緩やかな保護措置を講じるものであるとされます。

現在までに全国で5593件が登録されており、国指定文化財等データベース の「登録有形文化財(建造物)」を見ると、分類別・都道府県別の件数が示され、リストにリンクしています。
官公庁舎に分類された103件の中には、「旧役場」もありますが、「キング」の塔がある「神奈川県庁本庁舎」 のような現役の庁舎もあります。
同じく昭和3年に作られ、昭和初期の庁舎建築の規範的作品として知られた「群馬県庁舎」は、1999年に現庁舎が完成するまで本庁舎として使われ、改修を経て研修・展示施設の「昭和庁舎」 として再利用されています。

なお、先に触れた「旧西田川郡役所」は、この103件中に入っていません。これはランクが違う「重要文化財」です。
国指定文化財等データベースによると、重要文化財に指定された官公庁舎は21件。
博物館明治村に移築された「旧三重県庁舎」 など、すべてに「旧」の字が付いています。

中央官庁ですが、「法務省旧本館」[49301](明治28年の旧司法省[35034])は重要文化財ですね。
「重要文化財」でも、全く「手を触れることができない」というわけではなく、厳しい制約の下で復元された明治建築の外観は、法務史資料展示室として現代に利用されています。
[55530] 2006年 12月 13日(水)23:20:50【1】hmt さん
川越街道の大井宿
[55522] アルバトロス さん
落書き帳に「新宿角筈」の書き込みがあり、それを読んでこのサイトにはまりました。

ようこそ アルバトロス さん。197人目の登録メンバーですね。78人目のhmtです。どうぞよろしく。
既に[48626]で紹介してありますが、角筈・三光町・新田裏に関する記事とアーカイブズ新宿・角筈散歩 です(重複あり)。
ご参考まで。

ところで、[53049]
35年前頃(年がばれちゃう(笑))に、旧大井町に住んだことがあるので

35年前頃というと、[55438]で書いた 旧大井村役場庁舎 が大井町役場として使われていた時代の末期で、現実に訪問されたことがあるのかもしれませんね。
参考までに、この建物は1972年1月、新庁舎(現ふじみ野市大井総合支所)に移転するまで35年間使われ、この間に私も旧大井村に住んだことがあり(1960年代)ます。現住所も近くなので、これに反応して、大井宿の歴史を記してみます。

アルバトロスさんのお好きな戦国時代[51969]新井家文書(北条氏御家人の吉良氏宛)には、“大井四人衆という在地の有力農民が、大井郷の開墾開発に励んでいる”と記されています。
「本村(ほむら)遺跡」(東原小学校付近)の発掘調査によって、13~17世紀初頭の遺構が確認されています。

その次の塩野家文書。文書に捺された「虎之朱印」にご注目下さい。秀吉の小田原征伐に備えた動員令です。
そして小田原が敗れ、天正18年(1590)八朔に徳川家康江戸入府。
この付近では将軍の鷹狩もあり、上福岡には 権現山の地名が残されています。

江戸時代になると「川越街道」が整備され、中山道の下板橋[39287]と川越の間に、上板橋・下練馬・白子(和光市)・膝折(朝霞市)・大和田(新座市)・大井(ふじみ野市)の6宿が開かれました。
17世紀中頃、川越藩主が松平伊豆守信綱の時代に完成したと思われます。

伊能忠敬の測量に基づく「官板実測日本地図」では江戸日本橋から川越城までの距離は10里34町32間半とされています。
# 川越藷のCMとして伝えられる“九里四里うまい十三里半”は、実際の距離と違うようですね。

川越街道の整備で、前記した本村の集落も400mほど西の川越街道沿いに移転し、宿場の町並みになりました。
元禄11年(1698)に川越藩領になると、大井村から大井町(または大井宿)と呼ばれるようになります。
この年の「御伝馬相勤申村々書上」によると、馬次村として毎日馬6疋を待機させているとあります。

kenさん(最近ご無沙汰ですね)のサイトにあるように、川越藩には、酒井忠勝、堀田正盛、松平信綱、柳沢吉保、秋元喬知など幕政の中心を担う老中などが次々に封じられていました。
彼らの在職中は定府(江戸勤務)であり、参勤交代の大名行列はありませんでしたが、1767年に前橋から転封してきた松平朝矩以後の川越藩主は定府の職でなく、大井宿は参勤交代の道筋になりました。
幕末に奥州棚倉から来た松平康英も老中でした。

江戸時代を通じて大火の記録はないものの、明治になってから明治14年(1881)正月に大火があり、その1年後にも再び焼けました。新河岸川の舟運が盛況を呈していた時代で、宿場町大井は、大火から復興するだけの経済的基盤を失っており、衰退しました。
明治22年の町村制で「大井村」となり、「町」の呼称を失ったことは、幹線交通路から外れてしまった大井の姿を物語っています。

大正になって、幹線交通路が鉄道に移った時も、東上鉄道誘致に成功したのは福岡村[22395](上福岡駅[39241])。
取り残された大井村は、1950年代から新駅の設置運動をしていましたが[22008]、1993年に開業した新駅・ふじみ野の所在地は富士見市。

大井町はこれではならじと、「ふじみ野」を先ず住居表示に取り込み[18983]、次いで上福岡と合併した新市の名称にしてしまいました[36793]
この乗っ取り劇、落書き帳の読者ならご存知の通りです。
[55542] 2006年 12月 15日(金)15:17:30【1】アルバトロス さん
RE:川越街道の大井宿
[55530] hmt さん
ようこそ アルバトロス さん。197人目の登録メンバーですね。
残念! もう少し待てば200人目になったかもしれませんね。「新宿角筈」で目に留まったのは、勤務先が新宿界隈だったから。アーカイブズ新宿・角筈散歩などこれから読んでみようとおもいます。ご助言ありがとうございます。

35年前頃というと、[55438]で書いた 旧大井村役場庁舎 が大井町役場として使われていた時代の末期で、現実に訪問されたことがあるのかもしれませんね。
村から町に変わった頃に居住していましたので、何回か、訪問しています。町制記念で、硯箱を貰いました。まだ、家にあります。役場が移転し、その後に警察署になったのは、知ってましたが、国登録有形文化財になったのは知りませんでした。最近のことですから、無理もありません、合併に興味があっても。

取り残された大井村は、1950年代から新駅の設置運動をしていましたが[22008]
当時、"苗間駅"が出来る予定地として、杭が打たれた西側の野原を、自動車教習所に行くため歩いたことがあり、ふじみ野駅は、そこに出来たとおもっていました。ずれているのですね。地図を見ると、大変化しているようなので、一度再訪したいと思っているのですが、実現してません。

アルバトロスさんのお好きな戦国時代[51969]
そんなに深く知りませんです(冷や汗)、ただ単に、武田織田豊臣徳川が好きなだけなんです。
でも、おかげで大井町の歴史などを知り、あの頃がなつかしく思い出されてしまいました。hmtさん、ありがとうございました。

記事一部追加、訂正
 
[55628] 2006年 12月 21日(木)20:06:47hmt さん
埼玉県の台地・丘陵
地形コレクションの 「台地」 関連記事[49898] 「埼玉県の台地」の補足です。 「丘陵」 コレクションにも関係します。

最初に、埼玉県地形区分の概略図 (彩の国統計情報館)を示しておきます。詳しい資料は、埼玉の地質地盤環境(pdf) の「文献1」をご覧ください。

先ず、地形コレクションに収録されている台地・丘陵の名は、おおむね この文献1「埼玉県の地形区分」に記された名称と一致しておりますが、この中には、従来から使われてきた名称の他に、1974年度当時に関係地理学者の協議で新たに名付けられた名称も含まれているようです。
例えば、東京都から埼玉県に及ぶ「武蔵野台地」については、“その細分名称はあまり使われていないが、広すぎるので、(埼玉県内の武蔵野台地を)柳瀬川を境に川越台地と野火止台地に分けた。”と記されています。

さて、埼玉県の丘陵。
主要なものは、秩父山地東麓の丘陵群です。北から児玉丘陵、松久丘陵、比企丘陵、岩殿丘陵、毛呂山丘陵、高麗丘陵、加治丘陵。そして多摩川が削った武蔵野台地の中に取り残された狭山丘陵。
加治丘陵は、阿須山丘陵(埼玉県・東京都に収録)とも言われてきたようです。なお、江戸時代の阿須村は、明治22年からの加治村を経て現在は飯能市になっています。
その他に、秩父盆地の中に吉田丘陵(未収録)、尾田蒔丘陵、羊山丘陵があります。長尾根丘陵は尾田蒔丘陵の別名、琴平丘陵は羊山丘陵の別名と思われます。

埼玉県の台地。
越辺川よりも北の北武蔵台地には、北から本庄台地、櫛引台地。荒川の南の江南台地は、1974年当時の新命名のようです。比企丘陵の南には東松山台地、高坂台地。
入間台地は、越辺川と高麗川との間の毛呂台地、高麗川と小畔川との間の坂戸台地、小畔川と入間川との間の飯能台地に分かれます。
そして、入間川より南東の武蔵野台地は、前記の通り柳瀬川を境に川越台地と野火止台地に区分されました。

前記「埼玉県の地形区分」では、所沢台地の名称は使われていないのですが、 埼玉県土地分類基本調査 では、下末吉ローム層を持つ所沢台地(S面台地)が、武蔵野ローム層以後の武蔵野台地(M面台地)と区別して使われています。
地形を主として区分するか、地質まで考慮するかで区分も違ってくるようです。

広義の大宮台地が川で分断されて、狭義の大宮台地の他に、芝川と綾瀬川の間の安行台地、綾瀬川と元荒川の間の岩槻台地、元荒川より更に東の白岡台地、慈恩寺台地となっていることは既に記しました。

17世紀に江戸川の開削によって下総台地の本体から切り離された[46981][11153] 宝珠花台地と金杉台地については、「埼玉県の地形区分」では東部台地という総称が付けられていましたが、あまり通用していないのではないかと思います。
[55648] 2006年 12月 23日(土)16:28:10hmt さん
埼玉県 分立で生まれた鳩ヶ谷町 と 境界変更・町制・名称変更で生まれた西武町
市区町村の「区域の変化」の1種である「境界変更」は、その数の多さだけでなく、河川改修による境界手直し[39514]など軽微な内容のものまで含まれることが障碍となって、「市区町村変遷情報」に入れてもらえません。
「境界変更」を収録するとしたら何らかの基準が必要になるであろうことはよく理解できます。

そんなことを考えながら、彩の国統計情報館の中にある埼玉県の「市町村の廃置分合等の沿革」 という資料を見たら、
人口に関係のない境界変更は収録を省略した。
となっています。人の居住地域に限る、これも一つの基準ですね。

この資料には、戦時合併[37842]させられた北埼玉郡騎西町、秩父郡美野町(現・皆野町)、北足立郡志紀町(現・志木市他)、北葛飾郡栗橋町の解体再置が一段落した後の1950年頃から2002年までが収録されています。
1950年からの50年間を集計してみると、次のような件数でした。
合体 69件。  編入 38件。  分立 1件。

最後の「分立」は、戦時合併の後始末の最後、1940年(紀元2600年)に川口市に編入された鳩ヶ谷町の復活です。

昭和25年10月11日 埼玉県告示第397号には
地方自治法の一部を改正する法律(昭和25年法律第143号)附則第6項の規定により、川口市の区域を分け、旧鳩ヶ谷の区域をもって、北足立郡鳩ヶ谷町を置き、昭和25年11月1日から施行する。
とあり、「分立」「分割」いずれの言葉も使っていませんが、これは「分立」なんでしょうね。

もう一つ、この告示では “旧鳩ヶ谷の区域” とあります。1940年に編入する前の「旧鳩ヶ谷町」の区域ではなく、分離前まで「川口市鳩ヶ谷」だった区域という意味でしょうか?

なお、この資料の中には、「分離」と記されたものが3件ありましたが、うち1件は鳩ヶ谷町の「分立」の重複記載であり、他の2件も「境界変更」との重複記載なので無視します。

話題を区域変更の種別に戻すと、合体69件、編入38件、分立1件に対して、境界変更は65件。
なるほど、集落のある地域だけに限っても、かなりの件数がありますね。

[55583] 88 さん
「大字の全区域が移動」=「藩政村単位での移動」
65件の境界変更の中から、大字の全区域が移動したと思われるものを拾い出すと12件くらいでしょうか。

大字の全区域というか、もっと大きな明治の行政村が移動した「境界変更」の1例として、元加治村(西武町)を挙げておきます。

入間郡元加治村は、戦時合併で飯能町に編入されていましたが、1954年4月1日に市制後間もない飯能市から分離して、東金子村との合併により西武町になりました。

この合併に際しては法人格の消滅・生成はありませんから、境界変更のはずですが、同時に町制を施行し、名称も変更したので、「市区町村変遷情報」には収録されています
例により「経過等」の部分に、“同時に飯能市から旧元加治村の区域が編入された”旨の境界変更情報を記載しておかれたらよいと思います。

# 武蔵町発足よりも前ですから、「西武町」の名は「武蔵町の西」ではなく、「武蔵国の西部」に由来するのでしょうが、企業の名が有名なだけに、それに押された印象を受けます。

2年半後の1956年9月30日(昭和大合併の最終日[55364])、西武町の南部にある旧東金子村の地区は、北部と分離して、豊岡町などと共に新設合併による武蔵町発足に加わり、結局のところ西武町は、旧元加治村の区域だけになりました。

最終的には、武蔵町が入間市になった後、1967年4月1日に西武町も編入されました。
このような複雑な経過による誕生・段階的消滅の故か、前記資料(埼玉県の[「市町村の廃置分合等の沿革」)からは、西武町ができた沿革が抜け落ちています。
[58848] 2007年 6月 4日(月)22:15:10【1】hmt さん
川越城・江戸城の築城から 550年
昨日は、地元富士見市の「難波田城公園まつり」ということで、川越藩火縄銃鉄砲隊保存会による演武などがありました。
その鉄砲が種子島に伝来した天文12年(1543)の3年後に、「河越夜戦」がありました。もちろん鉄砲はまだ実戦兵器として普及するに至っていない時代ですが。

南西から流れてきた入間川が、武蔵野台地の北端で向きを変えて南東へと回り込み(現在は荒川)、東・北・西の三方からは文字通り川を越えた先の「川越」。
中世には「河越」と書かれたこの地に城を築いたのは扇谷上杉(定正)の家宰・太田道灌(とその父道真)で、河越夜戦より1世紀前の長禄元年(1457)というから、今からちょうど 550 年前でした。
そういえば、同じく太田道灌による江戸築城も同じ年で、江戸東京博物館では築城 550年記念の 特別展 を開催していました。

河越城・江戸城を築いた扇谷上杉は、当時の利根川から東に拠っていた古河公方(足利成氏)の勢力に対抗しており、北部(上野国)を拠点とする関東管領(山内上杉)を含めて3者鼎立状態でした。

# 扇谷(おおぎがやつ)も山内(やまのうち)も、関東公方配下の時代に館があった鎌倉の地名由来です。
河越・江戸と共に道灌が築城したと伝えられてきた岩付(岩槻)城については、近年発見された史料により、すこし後の古河方による築城説が有力です。

歴史的な流れの概略を記した [21598] Issie さんの記事にもあるように、関東は、応仁の乱より一足先に、長い戦乱の時代に入っていました。
古河公方・関東管領・扇谷上杉の3者が抗争する中で勢力を伸ばしてきたのが、伊豆から相模の小田原に進出した北条早雲で、2代目の北条氏綱が天文6年に河越城を奪取しました。

天文15年(1546)、河越城は 旧3勢力の連合軍に包囲されましたが、救援に赴いた3代目の北条氏康が 小勢で奇襲をかけ、包囲する大軍を打ち負かしました。
この 「河越夜戦」 は、毛利元就の厳島の戦(1555)、織田信長の桶狭間の戦(1560)と共に、日本3大奇襲戦とされています。

この戦いで当主朝定を失った扇谷上杉家は、事実上滅亡しました。
冒頭に記した 難波田城公園 は、扇谷上杉の重臣・難波田氏の居館跡ですが、その難波田弾正善銀も、この戦いの最中に
燈明寺口の古井戸へ落て水におぼれて死去也(北条記)
と伝えられます。

地名について補足しておくと、「難波田」は入間川(現・荒川)と新河岸川に挟まれた水害常習の低地帯であり、地名による災いを理由として、江戸時代の安永元年(1772)に村名を「南畑」に改名することを願い出て、許されています。
明治の町村制で上南畑村+3村が南畑村へ、50年前に鶴瀬村などと合併して富士見村へ[55364]

1590年の小田原攻めの後、近世初期の川越城には、江戸に近い要衝として、酒井忠勝、堀田正盛、松平信綱、柳沢吉保、秋元喬知など、老中・大老クラスの人物がかなり頻繁に入れ替わりました。
[59419] 2007年 6月 25日(月)14:53:56hmt さん
「富士見」と「ふじみ野」
[59401] らるふ さん
地名を持つ多くの地域には、そこに住み、あるいはそこを故郷として、誇りを持っている方々がおられるはずです。

ということなので、富士見市民でありながらこの落書き帳における最初の書き込み記事[19388]において
「ふじみ野」(この地名は10年前の駅開設時から)の住人です。
と名乗ったhmtと、
新しい行政地名に対して
私はふじみ野市民になるのだろうか…
という違和感を表明されていたスナフキんさんと、
地元のメンバーを中心とした 発言集 を紹介し、「富士見」と「ふじみ野」についての考えを汲み取っていただきます。

最後の部分には、50年前の旧富士見村の誕生、そして4年前の 破綻した2市2町合併 関係の記事も参考までに収録してあります。TNさんは、この枠組みの中の三芳町と縁があるとのことです。

最近の「どっちが有名?」シリーズでは、[59358] [59367] [59377] [59387] [59388]で登場しています。
「有名」といえば、「famous」だけでなく、昨年夏の「notorious」な事故を含めて「ふじみ野」に軍配が上がるのでしょうが…

地元関係から目を転じると、江戸時代に流行した「富士見十三州輿地全圖」という絵図がありました。
「富士見十三州」が何処か分かりますか? 答は、画像 から数え上げてみてください。

[22008]にも書いたように、「富士見」という地名は、静岡県と南関東には多数あり、その他にも各地に存在します。
その中で、「富士見」の名に最もふさわしい土地を私が一つを選ぶとなれば、信州の富士見でしょう。
八ヶ岳と赤石山脈の間から見える富士山。
どこからでも富士山が見える関東平野と違い、「周辺では見えない富士が、この村では見える」というメッセージを感じさせる地名です。
[72830] 2009年 11月 12日(木)18:45:27【1】hmt さん
転勤大名の悲哀 松平大和守
[72803] 油天神山 さん
【十番勝負問十で】例えば川越市を答えると地雷を踏むことになります。文久三年といえば大政奉還の5年前、もう幕末と言っても良い時期ですが、その5年間の変動に引っかからずに済んだのはラッキーでした。

リンクしていただいた 文久3年石高ランキング の 24位には、武蔵川越 17万石 松平直克 と記されています。
実は、準地元住民の hmt としては、川越藩 17万石という数字に、少し意外という印象を受けたのでした。

「川越の殿様」は幕府の要職を務める 10万石前後の譜代大名。
これは、川越藩主8家の大部分にあてはまる「常識」であると思っていたですが、例外的と考えていた 15~17万石の御家門である松平大和守家の時代は、年数を数えてみれば、江戸時代後期の 100年(1767~1867)もの期間を占めていたので、上記の「常識」は、必ずしも正しい認識ではなかったのでした。

譜代大名時代よりも一回り大きな石高を有したこの時代は、川越藩にとって栄光の時代だったのでしょうか?

とんでもない。家系だけは御家門筆頭の越前松平家出身なのですが、江戸時代の前期・中期には度重なる国替え。
家臣を引き連れての引越しは費用がかさみ、その借財に苦しみました。
そしてようやく落ち着いたと思った前橋では、利根川の浸食で城を放棄せざるを得なくなりました。
幕府にお願いして、空き城になった川越に借家住まいをさせてもらったものの、肩身の狭い境遇でしょう。

300諸侯の中でも、比類のない転勤歴だと思われるので、松平大和守家の国替えの歴史をたどってみます。
初代の松平直基は、越前松平家の始祖秀康(家康の次男)の五男で、結城家の5千石を相続した11年後、1624年越前勝山の3万石で大名になりました。その後、越前大野5万石、山形15万石、姫路15万石と移りましたが、直基の時代は、石高が増加し、重要地を任せられる栄転に伴なう国替えでした。

不運は2代の松平直矩から始まります。父の死去で5歳で相続したものの、要地の姫路は任せられぬと越後村上に国替。
長じて姫路に戻れたものの、越後騒動に連座して日田7万石に左遷。
その後山形 10万石を経て白河で 15万石を回復したが1代で5回も引越し、借財を負うことになりました。

4代の松平明矩の時に、3度目の姫路に戻れましたが、彼の急死で5代を継いだ朝矩は、またも若年の 11歳。
同じ頃、同じ 15万石ながら豊かと考えられた姫路への転封を図った譜代大名の前橋藩・酒井雅楽頭家の画策もあり、両者の領地替えということになりました(1749)。
領地替えの結果、姫路に移った酒井家の方も思惑通りの財政改善には結びつかなかったようですが、松平大和守家にとって 11番目の任地となった前橋は、更に悲惨な状況でした。
利根川の浸食により前橋城本丸は崩壊しはじめ、放棄せざるを得ないことになったのです。

1767年になると、田沼意次の独裁に反発して対立した老中・秋元涼朝が山形に左遷され、川越が空き城になりました。
松平朝矩は、そこで幕府に頼み込んで、川越に入れてもらったのでしょう。

松平大和守家としては、借家生活から戻りたいが、前橋城の復旧をする資金などありません。
そこで、8代の松平斉典が目をつけたのが、実質20万石とも噂された豊かな出羽庄内への転封計画です。
すなわち、庄内の酒井氏を長岡へ、長岡の牧野氏を川越へと移し、松平氏が川越から庄内に移るという三方領地替えを画策し、天保11年(1840)に幕府の命令を出すことに成功しました。
しかし、庄内の百姓の反対運動や将軍家斉の死去があり、この転封計画は中止されました。藤沢周平作品の題材
庄内移転は実現しなかったものの、川越藩は2万石を加増してもらい、17万石になりました。

転勤大名の松平大和守も、緊急避難という形で入城した川越で7代を重ね、11代の松平直克になりました。
そして、文久3年(1863)に幕府の許可を得て前橋城の再建を開始しました。
時代は幕末。この年に、松平直克は第2代で最後の政事総裁になっています。(初代政事総裁は本家福井の松平慶永。)
親藩になってからは、川越藩主も幕府要職と無縁でしたが、久しぶりの復活です。

前橋城は、慶応3年(1867)に完成して、松平大和守家は、100年ぶりに前橋に戻ることができました。
でも、この年にはもう大政奉還ですね。
最後の最後まで運の悪かった大名家は、明治2年(1869)に版籍を奉還することになり、明治政府の前橋知藩事になりました。
転勤を重ねた松平大和守御家中は、13番目の任地である前橋で終焉を迎えました。

版籍奉還より2年前の慶応3年に、 17万石の松平大和守家は前橋帰還を果たしたので、十番勝負問十では、前橋市[72668]が該当することになりました。
入れ違いに川越城に入ったのは、外国奉行などを勤め、欧州出張も経験した後に老中になった松平康英です。三河以来の譜代家臣で、松井松平家と呼ばれます。
現在の東松山市など比企地方は前橋藩領になり、今度の川越藩領は8万石。
だから、[72803]油天神山さん ご指摘のように、文久3年のデータで川越市と答えたら不正解。

【追記】
冒頭で引用した文久3年石高ランキングを見直したら、56位にも“武蔵川越 8万4千石 松平康英”がありました。
本文に記したように、これは幕末の川越藩ですから、文久3年のデータとしては間違いです。
松平康英は、41位に“陸奥棚倉 10万石”で記されています。
[74245] 2010年 3月 2日(火)22:14:22hmt さん
川越領福岡村の土地と年貢 (1)寛文四年 河越領福岡村 年貢割付
季節の話題として、税金の話を取り上げてみます。…と言っても、所得税確定申告に役立つようなお話ではありません。

都道府県市区町村を名乗るこの掲示板において、現存する自治体の基礎を作った「近世の村」への関心も深いものがあります。
藩政村・近世の村については、既に88さん、okiさんその他の方による記事もありますが、今回は村の姿を探る資料の一つとして、年貢に関する記録を紹介してみます。

最初に紹介するのは、ふじみ野市上福岡歴史民俗資料館で展示中の古文書です。
2005年9月までは近世の村の名「福岡」を残す 「上福岡市」 を名乗っていましたが、平成の大合併の結果、不動産屋さんが付けた地名 が市の名になってしまいました。

枕噺はこのくらいにして、17世紀の徴税令書を見ましょう。

河越領福岡村辰之年貢可納割付之事
一高三百四拾五石七斗九升 田畑屋敷野共
 米七拾弐石壱斗七升
  内四拾七石四斗 小検見引
  残弐拾四石七斗七升 可納分
此取
 永三拾壱貫九百弐拾九文 定納
  内五百六拾文 定引
   拾五文 卯辰苗木留ニ引
   弐貫九百五拾四文 検見 但壱貫文ニ付百文引
  残弐拾八貫四百文 可納分
一高弐拾九石九斗八升七合 武蔵野開
此永弐貫八百拾四文 定納
 内弐百八拾四文 損免 但壱貫文ニ付百文引
 残弐貫五百三拾文 可納分
右如期相定上者拾月十日ヲ切而急度可致皆済、若其過於無沙汰者以譴責可申付者也因如件
寛文四年
辰十月十八日(印)  右名主百姓中

寛文四年は 1664年。この徴税令書を発行した川越藩主は、2年前に死去した松平信綱の長男・松平輝綱です。
年貢とは無関係ですが、この家は 徳川家光の小姓[73680]から大名になった信綱以来 代々が伊豆守ですが、2代の輝綱だけが甲斐守でした。
「知恵伊豆」と呼ばれた松平信綱は、老中として国政にあたり、島原の乱を鎮圧した功績で 1639年に川越藩主になりました。
川越城下町、舟運の新河岸川、野火止用水の整備など、藩政でも治績を残しています。
父と共に従軍した折に「島原天草日記」を書いた 松平輝綱が継いだ川越藩は 7万5000石。

年貢割付状を見ると、福岡村の石高は 345.79石。これは 信綱時代の慶安元年(1648)検地 による値です。
川越の殿様の支配地 7万5000石とは 村々の石高を合計した値ですから、領内には 数百の村があったことになります。

江戸時代の税制は、現在の個人単位でなく村請制です。
上記の年貢割付状の受取人である名主百姓は、納税の連帯責任を負うことになります。
割付状には、“此御割付小百姓迄不残見申候也御年貢ノ致上納候、…”と 28人が連判裏書をしています。

村側では個人割当・収納により、怠け者の存在を許さない仕組みを作っていました。納税(10月18日の書面なのに、納付期限が「拾月十日」となっているのは読み違い?)が完了したら、領主側から年貢皆済目録が発行されます。

現在の地方自治体は、国からのおすそ分け(地方交付税)を頂く状態ですが、近世の村は自らが納税者として統治システムの基礎を支える「真の主権者」であったことがうかがえます。

所定の年貢米 72.17石は村高の 21% にあたりますが、この年は凶作だったのでしょうか、「検見」によって、約 3分の1の 24.77石に減額されています。
年貢米そのものは、ずいぶん少ないと思ったら、米納以外に金納が割付られています。

福岡村は[19388]に記したように新河岸川に臨む段丘周辺に形成された村で、少し下流の下福岡近辺を含む水田地帯もありますが、名前の通り段丘(岡)の村です。
段丘上に開いた畑作地帯の税金は金納ですから、年貢米だけで負担が軽かったと考えてはいけないのでした。

「永」と書いてあるのは永楽銭が通用していた時代からの公式通貨の呼び名で、実際に用いられたのは寛永通宝でしょう。
こちらにも「検見」の文字がありますが、一割引ですから定率減税程度で、納税額は 28貫400。
この他に武蔵野開拓地分の金納もあります。

この文書だけでは、田畑の全貌をとらえることができないようなので、別の文書を調べることにします。
[74271] 2010年 3月 6日(土)13:53:45【1】hmt さん
川越領福岡村の土地と年貢 (2)宝暦五年福岡村諸色明細帳
&KIXふじみ野市上福岡歴史民俗資料館の展示文書から、近世の村の税金や 徴税の基礎になっている田畑についての関心をそそられたので、更なる情報を求めて「上福岡市史」を開いてみました。

上福岡市史資料編第2巻には、[74245]で紹介した展示資料を含め、いくつかの年貢・村明細関係の文書がありました。
その中の宝暦五年(1755)「武州入間郡川越領福岡村諸色明細帳」には、現在の市勢要覧のように、いろいろのデータが掲載されています。その筆頭に記されているのは、やはり土地に関する情報です。

五拾七年以前松平美濃守様御検地
一 高五百廿五石七升  入間郡福岡村
 惣反別百拾町七反拾弐歩
内 廿町八反六畝六歩 田方
  八拾九町八反四畝六歩 畑方

冒頭に記載されているように、松平美濃守こと柳沢保明(吉保)時代の元禄検地で、福岡村は 525.07石になっています。
この数字でも信綱の慶安検地(元禄の50年前) 345.79石[74245]の 1.5倍ですが、詳しく調べるとそれ以上なのです。

元禄検地の後で柳沢吉保が甲府に栄転した際に福岡村の一部は幕府領になり、後に入った秋元喬知の領地である福岡村からは除かれており、宝暦の福岡村にはこの分が含まれていません。
ここは後の加増により再び川越領に戻るのですが、御加増地福岡村→中福岡村として別勘定になったので、慶安の頃の福岡村に対応する元禄石高は、福岡村 525.07石 + 中福岡村311.727石 = 836.797石ということになります。慶安石高の実に2.4倍という驚くべき高度成長を実現していたことになります。

このことから、この落書き帳でも度々話題になった 三富新田 だけでなく、福岡村の付近でも17世紀後半に盛んに新田開発が行なわれたことがわかります。
しかし、耕地に関する高度成長はこの時代に終わったようで、明治政府が引き継いだ資料に基づく 歴博の「旧高旧領取調帳データベース」 [57484]にも、上記の元禄石高と同じ数字が記録されています。

それにしても、元禄の石高が約170年後まで通用していたことにも驚きます。増税につながる土地の再評価に対しては領民側からの抵抗があり、容易に検地を実施できなかったという事情はわかりますが。

それはさておき、福岡村の水田と畑に関するデータを表で示します。単位は、面積が畝、米が升、銭が文です。
種別基準面積収穫量米納金納税額
上田120449.175390502245.8
中田100338.903389401355.6
下田80433.133465351516.0
下々田60865.005190302595.0
田合計2086.2174347712.4
上畑801112.28897.411012233.8
中畑601113.46680.49010020.6
下畑401530.56122.07010713.5
下々畑204863.59727.14019454.1
屋敷100364.63646.01104010.6
畑合計8984.235072.956432.7
合計11070.452507

面積基準で田が 19%に対して畑が 81%、収穫量基準で田が 33%に対して畑が 67%と、福岡村は畑作を主とする村であることが示されています。
上田では1反あたり1石2斗の収穫が見込まれ、年貢は5斗。四公六民と言われた公定相場に近い比率です。
畑の場合は上畑の収穫量を1反あたり8斗と見込み、110文の金納。40文で1斗と換算すると2.75斗で、やや低い比率。
しかし、上田や上畑は少なく、低い等級の田畑が主体でした。

データを省略しますが、他村よりの入作、他村への出作が数十石の規模であり、かなりの比重があります。
「出作」については「飛び地」がらみの 発言 もあり、上福岡における事例は [44818]でも触れています。

「村明細帳」には、耕地以外の情報もあります。例えば用水・堤・橋・道路などの公共施設、神社仏閣関係。
畑方作物之品として記されたのが、麦・粟・稗・大豆・小豆・大角豆・蕎麦・菜・大根・芋・木綿・たばこ。
芋という字はありますが、「川越藷」が有名になる前でしょう。「入間牛蒡」もありません。

当村より江戸へ八里、川越江弐里、岩槻へ九里、騎西江七里、熊谷へ九里、八王子へ八里

惣家数九拾四軒 大部分が本百姓の家で、職人は1軒だけ。別のところに書いてあった商人6軒は百姓の兼業らしい。
人別四百六拾四人(男女童の他に出家・道心) 馬数三拾壱匹(毛色で分類)
人口は、最後になってやっと出てきました。江戸時代の国勢調査は、現在のそれとはポイントが違うようです。
[74285] 2010年 3月 7日(日)16:00:01hmt さん
川越領福岡村の土地と年貢 (3)Re:石高に関する若干の補足
[74277] oki さん
いろいろと教えていただき、ありがとうございます。
【慶安の石高は】川越藩領だけの数値で、ほかに相給で旗本榊原氏(200石)・同布施氏(188石)の石高があります。

確かに天正19年(1591)に榊原喜平次政成が武州於福岡村之内弐百石を拝領。寛永2年(1625)に布施五兵衛正長が武蔵国高麗郡【誤記?】福岡村之内…合百八拾八石六升を拝領していました。小栗氏への知行宛行状は未確認。
これらの旗本知行地を含めて、正保年間の「武蔵田園簿」にある福岡村742石余だったのですね。
旗本が知行替えになり、福岡村全域がすべて川越領になったのは元禄11年でした。

それよりも前、慶安年間に福岡新田が開かれ、その少し後から川越領武蔵野開福岡新田村御検地水帳が残っています。
承応2年(1653)には下々畑8反ほどですが、延宝3年(1675)になると、畑合14町9反2畝3歩。それでも oki さんの表にある福岡新田の石高に比べるとだいぶ少ないので、まだまだ開発途上だったのでしょう。

福岡村の耕地面積、村高、年貢等に関する表

明細帳の原文は、[74271]に記した“内 廿町…田方、八拾九町…畑方”に続く記載で

此訳ケ
十二上田四町四反九畝五歩   反五斗
  此分米五拾三石九斗
(中略)
八つ上畑拾壱町壱段弐畝五歩   反百拾文
  此分米八拾八石九斗七升四合
(中略)
十 屋敷三町六段四畝拾八歩   反ニ百拾文
  此分米三拾六石四斗九升

のようなスタイルで記されていました。税額欄は私が計算して補ったものです。
ご指摘のように、屋敷を書き落としていたので、[74271]は修正しておきます。

「永」というのは、畑作年貢を金額に換算するための、一種のバーチャル通貨です。
金貨との換算では、永1貫文(1000文)=1両と設定されています。また、永1貫文=畑作年貢2.5石です。

なるほど。寛永通宝の1貫文(1000文)=1分とは異なる、4倍の評価額のバーチャル通貨ということでしょうか。

[74245] における寛文4年の年貢割付状に、村高345石の福岡村(川越領のみ)の年貢が、定納分で米72石、永31貫929文(=31.929両)とありますが、これも以上のような計算から導き出されたものだと思います。

永31貫929文は畑作年貢約80石に相当するので、米の72石と合計して152石。川越領村高に対する定納の税率は44%でした。
oki さんが書き直してくれた宝暦の表で、合計の最後に記された「免 0.42」つまり42%と対応するものですね。
畑合計の税額56.44貫を畑作年貢に換算して141石。これと田合計の税額77石との合計218石。村高525石に対する比が0.42。

以上、建前はまさに四公六民。
実際には[74245]にあるように減税が行なわれ、寛文4年には、米 24.77石と永 28貫400文(米71石相当)とを納税することになりました。
合計納税額 95.77石の 村高に対する税率を計算すると、武蔵野開の分を除外して 28%でした。
[75353] 2010年 6月 15日(火)00:29:06【1】播磨坂 さん
武蔵国高麗郡
こんばんは。

つかんぼやとさんの市町村変遷パラパラ地図で埼玉県を眺めていたのですが、1つ妙だと思うことがあったので。

明治29年の入間郡への編入を以て消滅した高麗郡ですが、当地図を見ていると高麗郡が入間郡を2つに分断しているんですね。最近では飛び地合併もよく見られますからそこまで珍しくもないんですが、近世以前で飛び地(しかも郡)ってのはかなり珍しいのではないかと思いまして(藩だと無数にありますが…)。

wikipediaで高麗郡の項を見てみると、どうやら入間郡の一部(今の日高市と飯能市の一部)を割いて高麗郡を設置したのが始まりのようで、それが徐々に北東へと拡大したことで入間郡を分断するに至ったものと推測します。

それにしてもこのような例は他にも存在するのでしょうか。郡域が大きく2つに分かれているのも珍しいと思い、つい投稿しました。以上です。

【追記】
普通、西入間郡・東入間郡のように郡名も分けるものじゃないですかねえ。
[75355] 2010年 6月 15日(火)07:14:19mul-sa さん
高麗郡と入間郡
[75353]播磨坂さん

「二つに分かれた入間郡」、確かに不思議ですよね。

>どうやら入間郡の一部(今の日高市と飯能市の一部)を割いて高麗郡を設置したのが始まり

とのことですので、

1.当時の地理的なまとまりを単位として入間郡を設置
2.入間郡の一部に渡来人が数多く移住
3.従来の住民とは大きく異なる人々が住むことになった地域について、別々の行政単位を設けた方がよいと判断され、高麗郡を設置

ということなのかなぁ、と勝手に想像しています。

wikipediaの「高麗郡」の項にも、

>716年、朝廷が駿河など7ヶ国に居住していた旧高句麗の遺民1799人を武蔵国に移したことにより高麗郡として設置されたのが最初である。

とあります。

ところで、一つの郡を複数に分けて「東」「西」等つけるのは、近代になってからの動きではないでしょうか。
高麗郡は新座郡(郡役所は北足立郡と同じ浦和町)と同様、郡内に郡役所がおかれず、入間郡川越町におかれていました。
高麗郡を早晩入間郡に編入し、分断状態を解消することが想定されていたので、特に分けられることもなかった……
そんな経緯だったのでは、と推察します。
[75357] 2010年 6月 15日(火)15:40:23hmt さん
高麗郡は入間郡を2つに分断していたか?
[75353] 播磨坂 さん
つかんぼやとさんの市町村変遷パラパラ地図で埼玉県を眺めていたのですが、1つ妙だと思うことがあったので。
明治29年の入間郡への編入を以て消滅した高麗郡ですが、当地図を見ていると高麗郡が入間郡を2つに分断しているんですね。

問題の場所は、現在では国道254号(東京側では川越街道と呼ぶ道路です。この付近での通称は知りません)が入間川・小畔川・越辺川(おっぺがわ)の三川をまとめて渡る落合橋のすぐ上流です。
越辺川の北が入間郡川島町で、南は別の支流を境に東が川越市、西が坂戸市という境界地帯になっています。
この場所を、明治二十二年四月改正「埼玉縣菅内全図」[37601]で確認してみました。

入間郡川越町から比企郡松山町に通じる街道が越すのは、現在の越辺川に相当する西から東への流れ1本だけです。
南から流れてきた入間川はというと、この地点のすぐ上流で越辺川と合流していました。
その後の河川改修により、入間川はこの合流点よりも手前で越辺川と並行する新河道を約2km流れた後で、越辺川と合流するように改められています。

高麗郡が存在した時代は入間川改修前で、当時の地理を単純化して理解してみます。
西から東に流れる越辺川に、入間川が南から直角に合流。更に合流点めがけて南西からも支流の小畔川が合流。
この小畔川沿い(入間川西岸)が高麗郡名細村(なぐわしむら)でした。現在は 川越市

結局のところ、T字型をなす川の北岸は比企郡伊草村(現・川島町)、南岸は上流側が入間郡三芳野村(現・坂戸市)、下流側が入間郡山田村(現・川越市)なのですが、三芳野村の南、山田村の西に、小畔川に沿って高麗郡名細村が割り込んだ形です。

町村制施行時に埼玉県が作成した地図によると、三芳野村と山田村とは、合流点から南にかけて、200mほどですが、入間川を介して隣接していると認められます。
つまり、入間郡は高麗郡名細村により2つに分断されていなかったことになります。

現在の地図で、この関係を確認してみようとしたのですが、河川改修で入間川と小畔川とが東に向きを変えたために、判然としません。
Mapionで表示される字名ではどうなっているかというと、川越市大字平塚のようです。落合橋南詰の川越市大字福田ならば間違いなく旧・山田村ということになるのですが、平塚は旧・名細村だった大字です。
結局のところ、Mapionに現れる字名では、入間郡三芳野村由来の坂戸市大字紺屋と入間郡山田村由来の川越市大字福田とは隣接しておらず、高麗郡名細村由来の川越市大字平塚で分断されているということになりました。

入間郡が分断されていないことを当局が示した明治22年埼玉県管内図と、分断を疑わせる現代の大字のデータ。疑問は解けていません。

関連して、入東・入西。

[75353] 播磨坂 さん
普通、西入間郡・東入間郡のように郡名も分けるものじゃないですかねえ。
[75355] mul-sa さん
一つの郡を複数に分けて「東」「西」等つけるのは、近代になってからの動きではないでしょうか。

中世に入間川を境に東西に分けて入東郡・入西郡と呼んだことがあったようです。
正式のものではなく 通称かもしれませんが、1954年まで存在した 入間郡入西村 は、入西郡に由来すると思われます。
[7260][68432] Issie さんの記事もご参照ください。入西くどき という言葉もあるようです。

落書き帳を検索すると、幻になった2003年の2市2町合併構想の際に、「入東市」という名が7票が入っていたという記事[19277]があります。
[75370] 2010年 6月 20日(日)02:58:18播磨坂 さん
高麗郡と入間郡
こんばんは。

[75355]mul-sa さん
[75357]hmt さん
反応が遅くなって申し訳ありません。

1.当時の地理的なまとまりを単位として入間郡を設置
2.入間郡の一部に渡来人が数多く移住
3.従来の住民とは大きく異なる人々が住むことになった地域について、別々の行政単位を設けた方がよいと判断され、高麗郡を設置
これに関してはほぼ同じ認識です。最近司馬遼太郎氏の著作で、白村江後の百済人の関東への集団移住が坂東武士の始まりではないか、という興味深い説を見ました。大陸からの渡来人は西国ばかりかと思ってましたが、意外にも東国に多く移住しているようです。

ところで、一つの郡を複数に分けて「東」「西」等つけるのは、近代になってからの動きではないでしょうか。
たとえば、現在の姫路市域に当たる飾磨郡は、明治29年まで飾西郡・飾東郡として分かれておりましたが、wikipedia情報によりますと、鎌倉後期には既に分割されていたとあるので、近代になってからとは限らないかと。

町村制施行時に埼玉県が作成した地図によると、三芳野村と山田村とは、合流点から南にかけて、200mほどですが、入間川を介して隣接していると認められます。
つまり、入間郡は高麗郡名細村により2つに分断されていなかったことになります。
2つの入間郡が皮一枚でつながってるって感じでしょうか。分断されていないのなら、東西に名称が分かれていないことも当然なのでしょう。それにしても、改めて昔は郡やら村やらの領域が複雑になっていることを再認識しました(和歌山県は那賀郡上岩出村の例を思い出しました)。
[75513] 2010年 7月 20日(火)23:55:57Issie さん
郡を分ける
私がお休みしていた間の少し古い話題で,もしかしたらもう収束しているのかもしれませんが,少し蒸し返して…

[75355] mul-sa さん
ところで、一つの郡を複数に分けて「東」「西」等つけるのは、近代になってからの動きではないでしょうか。

[75357] hmt さん
中世に入間川を境に東西に分けて入東郡・入西郡と呼んだことがあったようです。

郡が一番激しく分割されたのは中世です。
とりあえず思いつくものを列挙してみましょう。

 下総国印旛郡 → 印西郡,印東郡
 下総国葛飾郡 → 葛西郡,葛東郡 ※「東葛」「葛南」は近代の呼称
 上総国夷隅郡(伊甚郡) → 伊北郡,伊南郡
 上総国市原郡 → 市西郡,市東郡
 上総国海上郡 → 海北郡  ※海南郡はあまり見られず。上総海上郡は近世に市原郡に統合。
 上総国周淮郡 → 周西郡,周東郡
 安房国安房郡 → 安西郡,安東郡  ※むしろ「安房国」を分割したとも
 武蔵国入間郡 → 入西郡,入東郡
 武蔵国多摩郡 → 多西郡,多東郡
 尾張国海部郡 → 海西郡,海東郡
 大和国曽布郡 → 添上郡,添下郡
 大和国磯城郡 → 式上郡,式下郡
 大和国葛城郡 → 葛上郡,葛下郡
 河内国丹比郡 → 丹北郡,丹南郡
 摂津国三島郡 → 島上郡,島下郡
 摂津国難波大郡 → 西生郡(西成郡),東生郡(東成郡)
 因幡国八上郡 → 八上郡,八東郡
 播磨国賀茂郡 → 加西郡,加東郡
 播磨国飾磨郡 → 飾西郡,飾東郡
 播磨国神崎郡 → 神西郡,神東郡
 播磨国揖保郡 → 揖西郡,揖東郡
 美作国勝田(かつまた)郡 → 勝北郡,勝南郡
 美作国苫田郡 → 苫東郡(→東南条郡,東北条郡),苫西郡(→西北条郡,西西条郡)
 美作国久米郡 → 久米北条郡,久米南条郡
 阿波国名方郡 → 名西郡,名東郡
 讃岐国香川郡 → 香西郡,香東郡
 筑前国朝倉郡 → 上座(かみつあさくら→かみくら→じょうざ)郡,下座(しもつあさくら→しもくら→げざ)郡
 筑後国八女郡 → 上妻(かみつやめ→かみつま)郡,下妻(しもつやめ→しもつま)郡
 豊前国三毛郡 → 上毛郡,下毛郡

ほかにももっとあると思います。
これらの中には,すでに律令制下の奈良時代末期の段階で分割されていたものもあります。しかしこれらのうち,あるものは近世初期の段階で「古の状態に戻す」という精神から元の形に統合されています。下総国印旛郡がその例。上総国市原郡は勢い余って海上郡(海北郡)まで統合してしまいました。
次に「古の姿に戻す」機会となったのが明治半ばの郡制施行です。このときに,たとえば 播磨国神崎郡 や 揖保郡 が“復活”しています。
一方で,1878(明治11)年の郡区町村編制法では中世とは別の理屈で分割された郡も多数あるわけで,下総国・武蔵国葛飾郡 が中世の 葛西郡・葛東郡 ではなく 東葛飾郡・西葛飾郡・中葛飾郡・北葛飾郡・南葛飾郡,武蔵国多摩郡 が 多西郡・多東郡 ではなく 東多摩郡・西多摩郡・南多摩郡・北多摩郡 と分割されるわけです。葛飾5郡の場合は,郡制施行の際に統合されて3郡になるのですね。

中世に郡が細分化されたのには深い背景があって,話すと長くなるのでここでは控えます。
ただ,このときに国府経由の支配単位である「郡」と荘園経由の支配単位である「荘(庄)」をさらに細分する単位として多用されたのが「条」でした。上に挙げた美作国苫田郡に極端な例が見られますが,「上条・中条・下条・北条・南条・西条・東条」という地域呼称の多くがこれに由来することを申し添えておきます。
ただし,地名などというものは読み方も表記も私たちが思い込んでいるよりも遥かに「いい加減」で「適当」で「融通無碍」なものです。読みが同じならいくらでも違う漢字で表記され得るし,同じ漢字で書いてあっても読み方はいくらでもあります。そもそも「2文字の漢字」で表記することを基本とする地名は,奈良時代の有名な「縁起の良い文字2文字で書け」という命令で無理に無理を重ねた当て字に始まったものですから。

ま,そんなわけで,郡を分割するのは明治に始まったことではない,ということを再確認しておきましょう。
 
[79670] 2011年 11月 27日(日)16:03:09白桃 さん
入間郡の設置日
オフ会の準備をしていて気がついたのですが、市区町村変遷履歴情報では
「1896.4.1.埼玉県入間郡、高麗郡、比企郡の一部の区域をもって入間郡を設置」となっておりますが、「1896.3.29.」という資料が多いのですが・・・
非常に細かいことで申し訳ありませんが、事情に詳しい方がおられましたらお教えください。

なお、オフ会と本件は何の関係があるかと言うと、それは秘密です。(笑)
[79671] 2011年 11月 27日(日)17:31:07hmt さん
Re:入間郡の設置日
[79670] 白桃 さん
市区町村変遷履歴情報では「1896.4.1.埼玉県入間郡、高麗郡、比企郡の一部の区域をもって入間郡を設置」となっておりますが、「1896.3.29.」という資料が多いのですが・・・
非常に細かいことで申し訳ありませんが、事情に詳しい方がおられましたらお教えください。

地元のことで、ある程度事情に詳しい hmtがお答えします。
埼玉県では明治29年8月1日の(旧)郡制の施行[62662]に先立ち、同年4月1日施行で郡の再編成が行なわれました。法令全書 を引用します。
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朕帝国議会の協賛を経たる埼玉県下国界変更及郡廃置法律を裁可しここに之を公布せしむ
御名御璽
明治29年3月29日
法律第40号(官報3月30日)
埼玉県武蔵国北足立郡及新座郡を廃し其の区域を以て北足立郡を置く
埼玉県武蔵国入間郡及高麗郡を廃し其の区域と比企郡を廃し其の区域の一部(植木村)とを以て入間郡を置く
【比企郡、児玉郡、大里郡、北葛飾郡関係の廃置分合省略】
附則
此の法律は明治29年4月1日より施行す
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「1896.3.29」は裁可日であり、翌日公布ですが、施行は「1896.4.1」であることが明記されています。

明治29年の再編成より前の入間郡は、間に高麗郡が挟まって東西に分断されたような姿をしていました。[75353] 播磨坂 さん
もともと入間郡と高麗郡とは同根ですから、何かの都合で分かれていた両郡が再びドッキングしても不思議はありません。

[75353]へのレス[75357]でも参照した明治22年埼玉縣菅内全図[37601]を見ると、比企郡植木村は既に入間川とそれが合流した荒川の右岸に描かれています。ずっと前には入間川左岸だったために比企郡に所属していたと推測される植木村の入間郡編入は、河川改修の事後フォローによる「郡境変更」でしょう。
[80512] 2012年 4月 8日(日)12:10:30hmt さん
荒川の両岸・データに見る自治体の変遷 (1)荒川西岸6市1町
4月3日には 春の低気圧による暴風が 全国を吹き荒れました。
私の住む 「ふじみ野」でも、関東ローム層から舞い上がった 細かい土埃が アルミサッシの隙間から 屋内に侵入。
でも、この家に住み始めた 1970年代に 度々経験した被害に比べたら、強風にしては 予想外に軽微でした。
これは、午後からの雨のせいもあるのですが、都市化によって 裸地が少なくなった影響が あるものと思われます。

その関東ローム層に覆われた武蔵野台地。北東を流れる 荒川沿いの低地を隔てて、東岸にも同じような大宮台地が拡がっています。[49898]

最近の記事で 自治体データベースについて触れ、国勢調査資料の利用[80487]や、いくつかの基準時点を設定した自治体変遷の概観[80498]についての考え方を披露しました。

全国的なデータベース整備は、それを得意分野とされる方にお任せするとして、私としては、限られた地域と時代ではあるものの、自治体名称・人口・面積のデータを手掛りとした 事例研究を試みることにしました。

その事例として取り上げるのが、上記の大宮台地・武蔵野台地の一部を含む 荒川の両岸地域です。
現在の自治体名で言うと、2001年 荒川東岸に「さいたま市」はが出現し、2003年には 政令指定都市になりました。

同じ時期に 荒川西岸にあった6市2町については、住民発議により 旧新座郡4市流産したふじみ野市 との 2組の法定協議会が生れたものの、いずれも 最終的には住民投票で否認されました。
上福岡市と入間郡大井町だけは、その後 再度の合併協議で 現在の ふじみ野市が成立

今回は、6市1町となった上記荒川西岸の自治体に限り、戦前唯一の「全国市町村別面積調」が整備された昭和10年【1935】から、最新の国勢調査【2010】までの期間につき、[80498]で設定した各基準時点の面積(km2)・人口データを上下2段で表示しました。
1935年当時の3町11村と並び、半数になった現在の6市1町に相当する合計値も記載して、対比させました。

【1935】km2/人----【1947】----【1960】km2/人----【1990】km2/人----【2010】km2/人
福岡村6.79 福岡村 福岡村5.38 上福岡市6.81
3192 6883 16652 58761
大井村8.14 大井村 大井村8.04 大井町7.86
3355 4388 4949 39213
2村計14.93 2村計 2村計13.42 2市町計14.67 ふじみ野市14.67
6547 11271 21601 97974 105695
【1935】km2/人----【1947】----【1960】km2/人----【1990】km2/人----【2010】km2/人
鶴瀬村7.23鶴瀬村
29594199
南畑村7.85南畑村
31223702
水谷村4.58
2193
3村計19.66富士見村19.98富士見市19.70富士見市19.70
8274 12030 94864 106736
【1935】km2/人----【1947】----【1960】km2/人----【1990】km2/人----【2010】km2/人
三芳村15.42三芳村三芳村15.56三芳町15.30三芳町15.30
3684427343293506738706
【1935】km2/人----【1947】----【1960】km2/人----【1990】km2/人----【2010】km2/人
宗岡村5.74
2308
志木町3.08
4368
2町村計8.82志紀町足立町8.96志木市9.06志木市9.06
6676【注】14882122596349169611
【1935】km2/人----【1947】----【1960】km2/人----【1990】km2/人----【2010】km2/人
内間木村8.14
2601
朝霞町10.80朝霞町
520211313
2町村計19.94朝霞町17.78朝霞市18.38朝霞市18.38
780324182103617129691
【1935】km2/人----【1947】----【1960】km2/人----【1990】km2/人----【2010】km2/人
大和田町13.88大和田町
46456700
片山村8.98片山村
29894091
2町村計22.862町村計新座町22.89新座市22.80新座市22.80
76341079114401138919158777
【1935】km2/人----【1947】----【1960】km2/人----【1990】km2/人----【2010】km2/人
新倉村4.15
1663
白子村6.80
3177
2村計10.95大和町大和町11.57和光市11.04和光市11.04
484010563172425689080745
【1935】km2/人----【1947】----【1960】km2/人----【1990】km2/人----【2010】km2/人
3町11村111.584町6村4町4村110.166市2町110.956市1町110.95
4545851780106044590822689961

【注】志紀町 は、志木町、宗岡村、水谷村、内間木村の戦時合併による。1948年分割。[37842]
[80514] 2012年 4月 9日(月)17:01:34hmt さん
荒川の両岸・データに見る自治体の変遷 (2)荒川西岸6市1町 考察
全国の市町村数は、戦前の 1935年に 11,545でした。2010年、平成大合併後には 1727 になりましたから、75年間に 15%に激減したことになります。
もちろん 荒川西岸の自治体数も減りました。しかし、それは [80512]のデータが示すように、同じ75年間に 14町村から 7市町へと、半減したに留まりました。

この間にあった最大の合併は 4町村が戦時合併した志紀町でしたが、戦時枠組の耐用年数は 僅かに 4年間でした。
これに次ぐ唯一の3村合併は 昭和大合併時に実現した 富士見村[55364]でした。
この時に、ギリギリまで持ち越されて、土壇場で不調に終ったのが三芳村との合併でした。

三富新田の一つである 三芳村上富地区は 所沢への志向が強く、荒川西岸の鶴瀬村との合併を模索した地区との間で 分村の危機もありました。
しかし、結局は 明治の大合併で誕生した 三芳村の枠組み を維持する 独立路線を選ぶことになりました[55377]

このようにして 昭和大合併の嵐を乗り越えた三芳村は、その後の高度成長環境に恵まれ、国勢調査人口は 1965年の 5911人が 1970年には 14475人になり、昭和合併が目標にした「人口8000人規模」を、合併することなく軽く実現してしまいました。

1970年に三芳町になった後も順調で、1993年からの連続 18年間、財政力指数 が 1を超え、普通交付税を支給されずにすむ豊かな自治体でした。

残念ながら 最近は少し陰りが見えていると伝えられますが、明治22年の町村制施行以来、本年度で 123年目になった独立路線は、全国でも稀な存在と言えるでしょう。
落書き帳アーカイブズ 純血主義を守る市町村 参照。この仲間であったが、平成大合併の影響を受けてしまったところも多数。

三芳町のことはこのくらいにして、荒川西岸 14町村の関係した合併事例は、概ね荒川からやや離れた自治体と、荒川に近い自治体とのペアと言えそうです。ここには、「野方の村と里方の村」との合併というよりも、東上線の駅から離れた村が 交通路の拠点を持つ町と合併した という姿が見えるような気がします。

上福岡・鶴瀬・志木・膝折の各駅は、1914年の東上鉄道開業時に4km間隔で設置された駅です。膝折駅は 1918年に朝霞駅と改称。朝霞駅と東京の末端である成増駅との間も4km離れていましたが、東京市街地の拡大を示すように 1934年に中間駅の新倉が開業しました(1951大和町→1970和光市と改称)。
これで、今回のスタート時点 1935年には、現在の6市に対応する5駅がすべて開業していたことに成増。

志木駅の現在の所在地は、よく知られているように新座市ですが、もともと開設された駅舎は北端の志木町にありました。現在の呼び名は、南口に対する北口でなく「東口」になっているのですね。知りませんでした。
志木街道の踏切を渡れば、すぐに大和田町(後の新座市)ですから、両方の玄関口として機能していました。
南口が開設されたのは、1960年立教高校移転時だそうです。
「新座市にある志木駅」になったのは、池袋寄りの橋上駅になった 1970年で、更に10年後です。

三芳町の最寄り駅は「みずほ台駅」です。この駅は 1977年開業と、だいぶ後です。駅所在地は富士見市ですが、西口正面から約500m先は三芳町で、駅前には三芳町のモニュメントもあります。

東京への通勤圏内ですから、当然のことながら、顕著な人口増加を見ることができます。
現在の自治体に相当する区域について、戦前人口【1935】に対する倍率を計算すると、
【1947】は ふじみ野1.7倍、三芳1.2倍、新座1.4倍、和光2.2倍(富士見、志木、朝霞は計算できず)ですが、
【1960】には、ふじみ野3.3倍、富士見1.5倍、三芳1.2倍、志木1.8倍、朝霞3.1倍、新座1.9倍、和光3.6倍となっています。

東京から最も遠い(現在の)ふじみ野市に相当する区域が、戦前の3.3倍もの人口になっているのは、この時代に住宅公団の大規模団地が上福岡に作られ[46258]、通勤圏に組み入れられたためと思われます。
この傾向には、その後一層の拍車がかけられ、【1990】の統計では、ふじみ野15.0倍、富士見11.5倍、三芳9.5倍、志木9.5倍、朝霞13.3倍、新座18.2倍、和光11.8倍と急増しています。

【2010】になると、ふじみ野16.1倍、富士見12.9倍、三芳10.5倍、志木10.4倍、朝霞16.6倍、新座20.8倍、和光16.7倍と上げ止まり。
バブル崩壊もあるのでしょうが、6市の 2010年人口密度は 5400~7700人/km2に達しており、飽和状態に近づいているようでもあります。
[85152] 2014年 3月 3日(月)16:56:38hmt さん
東上線の急行停車駅が「ふじみ野」になるまで
[85150] 伊豆之国 さん
同じ東武でも「せんげん台」と同様に新設の駅をいきなり急行停車駅にした「ふじみ野」の例も、同様なやり方だったように思えます(「ふじみ野」のほうは宅地開発が先行したという点で「せんげん台」とは様相が異なりますが)。>hmt さん。

1993年11月富士見市に開業した東武鉄道東上線の「ふじみ野駅」については、これまでに何度も話題に取り上げました。
最近も[59419]でまとめた発言集「富士見と ふじみ野」が、グリグリさんにより紹介されたばかりです[85136]
しかし、せっかく ご指名をいただいた機会なので、急行停車駅設置についての 私の観測を少し記します。

[46198] hmt
ふじみ野駅開設はこのマンション【アイムふじみ野】事業と事実上一体のものであり、駅の開業時期も、このマンションの第1期に合わせたものでした。
アイムふじみ野第5期の建設着手を報じる 東武鉄道報道資料 を見つけたので、参考までに リンクしておきます。

東武が「ふじみ野」と命名した「いきさつ」は不詳です。
しかし、富士見市と事前協議する過程で、「富士見」の名を付けてほしいという要望を受けたことは、推察できます。
少し変形した表記の「ふじみ野」。これが、1967年の「せんげん台」の手法を踏襲したことは、[85150]により認識しました。

アイムふじみ野事業と新駅開設事業とは一体的に進められており、どちらが先ということはないと思います。
東武鉄道が清水建設と共同で作った シティヴェールふじみ野 は、アイムふじみ野と線路を隔てた東側で、少し後です。写真右上がふじみ野駅。

東上線の遠距離通勤客増加に対応して、志木-川越市間の中間点、池袋起点24~25km付近に 緩急接続設備を作りたい。
これは東武鉄道が以前から考えていた構想であると思われます。既存駅では、上福岡駅と鶴瀬駅の中間です。
もし、この両駅のいずれかに 十分な敷地の余裕があったならば、もっと早い時期にその駅で拡張工事が行なわれ、急行停車駅が誕生していた可能性も考えられます。
しかし、両駅共に若干の貨物設備跡地があったものの、緩急接続設備を作る余地はありませんでした。

1986年に、上記両駅の中間で、富士見市勝瀬原土地区画整理事業 が動き出しました。
ここで区画整理との同時進行という形を取るならば、東武が付近に所有していた土地を集約して大規模マンションを作り、緩急接続設備を備えた新駅を設置することもできます。

上福岡と鶴瀬が急行停車駅を争い、ふじみ野に漁夫の利を占められたというよりも、既存駅は付近の市街地化が先行し、緩急接続駅を作る用地を取得できなかったというのが実情ではないか。私はこのように推測しました。

[85150]で紹介された「せんげん台」駅の事例も、大袋・武里両駅周辺住民の争いよりも、緩急接続設備を備えた急行停車駅の用地問題という視点が決定打になったと思われます。
武里駅への準急停車運動が実現しなかったのは、大袋駅周辺住民のせいではなく、緩急接続設備を作るための武里駅拡張用地が得られなかったためと考えられます。

地図 を見ると、武里団地は武里駅の南側にあります。してみると、
両駅の中間付近の当時周りに何もなかった越谷・春日部両市境付近に新駅を設置し、こちらを準急停車駅とする
という東武鉄道の方針は、決して「苦肉の策」ではなく、武里団地に近く、緩急接続駅を作る用地の取得も可能という条件を満たす正統的な案であったと理解することができます。

結局のところ、優等列車停車駅問題というよりも、緩急接続駅問題であると理解すれば、「せんげん台」と「ふじみ野」の共通点がわかります。

富士見市に戻ると、鶴瀬西口駅前の都市化は、現実にはずっと後でした。
にもかかわらず、鶴瀬には緩急接続駅が作られなかったので、そのあたりの事情を一応考察します。
緩急接続駅は 不動産開発事業と関連する 中間の新駅 にする。
東武鉄道としては、このような方針を早々と固めていたのかもしれません。
また、鶴瀬駅西口は、区画整理のタイミングも遅すぎ、勝瀬原【ふじみ野】に後れを取っています。

2件の事例を顧みて、東武鉄道にとり より重要と認識された課題は、「どの駅に急行を止めるか」 ではなく、公共交通機関としての 輸送力確保とサービス提供に資する「緩急接続駅をふやす」ことだったのではないか ということです。
このような東武鉄道側の事情に加えて、都市化の進行や、地元が区画整理を行う時期も絡んだ結果、東上線に追加された急行停車駅は、「ふじみ野」に決まったように思われます。

地元のこととて、つい長くなりました。
最後に緩急接続駅の出現で大きな変貌を遂げた ふじみ野駅付近の航空写真を紹介した [81721]をリンクしておきます。
2007年撮影の写真 だけは貼り直しました。1993年11月の ふじみ野駅開業から 14年目で、 ほぼ完成した街の姿になっています。
過去の写真は、1975年(昭和50年)撮影の写真 から始まり、区画整理前の1984年、区画整理中の1989年を収録してあります。
[87268] 2015年 2月 9日(月)16:12:30【2】hmt さん
貴賓室があった 武蔵高萩駅
[87263] 伊豆之国 さん
西側の川越~高麗川間(中略)士官学校の最寄り駅であり、皇族方のために貴賓室が設けられていた武蔵高萩駅の駅舎も、改築により惜しくも取り壊されてしまいました([70706]スナフキん さん)。

連載された十番勝負関連テーマである「市駅」とは無関係ですが、かねて私が抱いていた小さな疑問が、この記事をきっかけに解明されたと思い、飛び付いてこの記事を書きました。
しかし、書いた後で再検討したら、根拠としたサイトの記載を文字通り信じることができなくなりました。
私の小さな疑問は未解明のままですが、地元 入間郡域 の歴史1コマとして、記事を残しておきます。

失礼ながら「こんな駅」と言いたくなる 武蔵高萩駅【埼玉県日高市高萩、1956年までは入間郡高萩村】。
こんな駅に 何故 貴賓室があったのか?

世間に伝えられていたのは、陸軍航空士官学校【修武台】の存在です。例えば Wikipediaには、かつて近くに存在した「航空士官学校の卒業式に臨席した昭和天皇が利用した貴賓室」との記載があります。
私自身も、1941~44年の「修武台」への行幸は川越線の武蔵高萩駅から行なわれたと記していました[34701]

脇道にそれますが、修武台という名について一言説明。
明治7年(1874)から東京の 市ヶ谷台 にあった陸軍士官学校が 神奈川県の座間に移転したのが 昭和12年(1937)で、昭和天皇から「相武台」の名が与えられました[19684]。この時代になると航空兵科の将校を養成する必要が増してきて、所沢飛行場内に士官学校の分校ができ、豊岡町への移転後 陸軍航空士官学校として独立しました(1938/12)。
「修武台」の名を下賜されたのは 昭和16年(1941)とのこと。参考

その航空士官学校があった地は 現在の航空自衛隊入間基地です。滑走路など広い敷地の大部分は 西武池袋線と西部新宿線とに挟まれた 狭山市入間川ですが、(本部の)所在地は 西武池袋線西側の 狭山市稲荷山 となっています。その他、入間市に属する地域もあります。
戦後は米軍のジョンソン基地だった時代がありました。更に遡った航空士官学校の発足時には 陸軍士官学校豊岡分校 という名でした。入間郡豊岡町【現在の入間市】の部分に 正門があったのでしょう。

武蔵高萩駅が 航空士官学校への行幸に使われたという通説について、私が抱いていた小さな疑問。
それは、お召し列車を大宮・川越経由で運転して、目的地の北北西(数km)にあるこの駅を使うのは、いかにも回り道であり、不自然だということでした。

ところが、リンクしていただいた[70706]により、この付近に詳しかった スナフキん さんが、
(陸軍女影原演習場所在を存在理由とした)皇室専用貴賓室
と説明していることを知りました。

女影原を手掛りに探したら、「武蔵高萩の里山を歩く」という探訪記に行き当たりました。
この 探訪記 の後半部分に
戦前高萩にあった陸軍の飛行場に昭和天皇が行幸したことを伝える昭和14(1939)年の新聞のコピー
が、高萩公民館に展示されている という記載がありました。

この探訪記によれば、1939年に女影原【高萩村、現・日高市】への行幸があり、その際に作られた貴賓室ということになります。
明治29年統合前の入間郡と高麗郡との関係で言うと、入間川右岸・武蔵野台地にあった修武台は 元からの入間郡域で、入間川左岸・飯能台地[55628]にあった女影原は 旧・高麗郡の領域です。
航空士官学校以外の行幸目的地があったのならば、駅に貴賓室を設けられた理由も納得できます。

これにて一件落着
…と思ったのですが、再検討の結果、致命的な問題点を発見してしまいました。

川越線の開業は昭和15年(1940)7月ではないか!! 
行幸を伝える「昭和14(1939)年の新聞」に、武蔵高萩駅の利用が記されていた筈がない。
Webに示された新聞では小さい字が読めず、日付や記事の詳細の不明ですが、どうも航空士官学校の卒業式への行幸を伝えるもののようです。

では、航空士官学校への行幸に使われた交通路は何だったのか?
それこそ 推測になりますが、学校敷地内を通過していた 武蔵野鉄道【西武池袋線の前身】 を使う可能性もあります。
目的地である航空士官学校敷地内に「臨時乗降場」を設ける。これが最も合理的です。

もっとも、国有鉄道【鉄道省線】優位の時代に、私鉄を使うことができたのか? とか、武蔵高萩駅の貴賓室の謎が解けていないなど、問題を残したままです。
参考までに、相武台への行幸には、私鉄の小田急や相模線【国有化前の相模鉄道】は使われず、省線【横浜線】原町田駅が使われました。原町田にあった宮廷ホーム[34522]は 私の記憶にあります。
引用した探訪記に記された「高萩にあった陸軍の飛行場」の裏付けも取れていません。

新聞記事が昭和14年というのが誤記かもしれず、開業前の川越線を特別に使ったのかもしれず、…
妄想は尽きることがないので、このへんでやめておきます。
[88659] 2015年 8月 16日(日)16:41:49hmt さん
災害を連想する文字を嫌って 表記を変えた村
[88656] 瀬戸家さゞなみ さん
城山トンネルではないのですが、初投稿の記事[21334]に記されていた難読地名に関係したレスを書きます。
兵庫県宍粟郡一宮町【10年前から宍粟市一宮町】「百千家満」

「宍粟市」も なかなかの難読ですが、「百千家満」を「おちやま」と読むのには脱帽です。
百千家満自治会 には、江戸時代には「落山」と書かれていたが、風水害による落石を嫌い、「百千家満」の表記が現れたと記されています。
「ちやま」に「千家満」を宛てたのはよいとして、「お」を「百」に変えたのは荒療治。

災害を連想する文字を嫌って改めた事例は、私の地元にもあります。埼玉県入間郡南畑村、現在の富士見市南畑地区。
ふじみ・発見No.27
『新編武蔵風土記稿』には、「村名は元 難畑 或は 難波田 と書せしが、當村は荒川と新河岸川の下流に添し地にて、屢水災に罹りしを、土人憂ひて 村名の文字悪き故ならんと 改めたき由、安永元(1772)年 御代官久保田十左衛門が支配たりし時、公に訴しかば 松平右近將監より下知ありて、今の如くに書改めしと云、」とあり、この地が 水難を受けることが多かったことを憂いて 現在の文字に改めたとされています。

こちらは幕府の代官に願い出て、公式に改名した記録が残っているようです。
その結果、読みやすい村名になりましたが、もちろん改名したから 水害がなくなる というわけではありません。
明治43年8月の水害では、宗岡村のすぐ上流にあたる南畑村の小学校沿革にも大洪水が記されています。
現代になってからは、治水事業がようやく実を結び、殆んど水害のない南畑地区が実現しています。
[90100] 2016年 3月 23日(水)19:57:11hmt さん
大きな人口異動を伴う境界変更 (1)入間市と狭山市
「人口異動を伴う境界変更」のリリース[90092]ありがとうございます。人口のからむ境界変更に関する過去記事を検索してみたら、2012年9月[81821]から10月にかけて急増した時期があったのですね。
その頃から始まった YTさんによる情報提供も、今回の形で結実に至ったことをお祝いいたします。

このサイトにおける境界変更の取り扱いについては、それより前から 変遷情報との関連で問題にされていました。2007年の[56539]あたりが、代表的な記事と言えるでしょう。

それはさておき、人口異動と言っても、その数は 1桁と2桁が大部分です。今回示された1980年以降の国勢調査で該当するとされた77組の中で人口異動の値が100人以上になる組み合わせは僅か14組でした。
その中で突出して多かったのが、1983/4/1 入間市と狭山市との境界変更で生じた数百人の人口異動でした。

狭山市の増加887と入間市の減少877の差 10人の行方もさることながら、それ以上に「境界が変更された場所」が気になります。

数百人もの異動にもかかわらず 市区町村変遷情報からは無視されているので、自治省告示で地名を確認しました。
狭山市に編入する区域は「入間市大字黒須」の一部でした。
入間市に編入する区域の中には、「狭山市入間川字飛地」という地名もありました。

現在の地図では入間市駅の北側にある「黒須」の方が目立ちますが、線路沿いに池袋方に約2km進んだ入間基地南端付近にも大字黒須が残っています。
黒須は扇町屋と共に豊岡町の市街地を形成した地名のようです。参考:黒須銀行

航空自衛隊入間基地の前身は米軍のジョンソン基地です。
戦前にあったのは 陸軍航空士官学校(修武台)ですが、現在の入間市である豊岡町黒須で開校後に、敷地が入間川町【現在の狭山市】側に拡張され、現在では本部所在地も狭山市になっているものと思われます。[87268]参照

入間市の基地跡地利用に関する年譜には、昭和57年に「ジョンソン基地跡地内行政境界変更案」について入間・狭山両市が合意し、翌年実施されたとあります。
異動した数百人の人口は、入間基地内宿舎の住民たちであったと理解できます。
[90105] 2016年 3月 24日(木)19:05:47hmt さん
大きな人口異動を伴う境界変更 (2)埼玉県入間郡東金子村 改め 西武町
[90100]を書いているうちに西武池袋線入間市【豊岡町から改称1967】と飯能の間、仏子(ぶし)・元加治という駅が続くあたりに「西武町」という自治体があったことを思い出しました。[12847][55648]

タイトルに記した関係市町村の変遷情報を もっと詳しく書くと 次のようになります。
1889/4/1(明治合併、町村制) 高麗郡(野田村+仏子村→)元加治村、飯能町、入間郡東金子村、豊岡町など成立
1896/4/1(郡再編) 入間郡・高麗郡など→入間郡【以下、郡名省略】
1943/4/1(戦時合併) 飯能町、元加治村など→飯能町新設
1954/1/1(市制) 飯能町→飯能市
1954/4/1(境界変更) 飯能市の一部【旧・元加治村の区域】が東金子村に編入
1954/4/1(町制) 東金子村→東金子町
1954/4/1(名称変更) 東金子町→西武町
1956/9/30(昭和合併最終日) 豊岡町、西武町の一部【旧旧・東金子村の区域】など→武蔵町新設
1966/11/1(改称/市制) 武蔵町→入間市
1967/4/1(編入) 西武町【旧・元加治村の区域が残っていた】→入間市に編入

複雑な変遷ですが、ポイントになる1954/4/1の境界変更に注目し、国勢調査記録によって人口異動を調べます。
[81919]には統計局からの情報が紹介されています。1954年のデータは昭和30年国勢調査です。
左端の昭和30年から統計表一覧を開き、末尾の13に掲載された「付表2…境界変更…一覧表」を見ると、注釈と県別データで合計4ファイルになっていることがわかります。これが右端の「PDF1,PDF2,PDF3,PDF4」に対応するので 埼玉県のデータは「PDF2」にあると判ります。これを開いてみると「55ah02b.pdf」というファイルで、飯能市は25/32コマに掲載されています。
29.4.1 (境)  一部の地域が入間郡東金子村へ   昭和25年人口 △5155
これで、昭和25年に飯能市として数えた人口は、境界変更により5155人減ったことが知れます。

念の為に人数の増加を東金子村のデータで確認したいところですが、昭和30年国勢調査時には既に消滅しています。そこで次コマの西武町を見ると
29.4.1 (名)  入間郡東金子町 34)が西武町になる   昭和25年人口 8627
注記の 34)【28コマ】には、東金子村イ) が東金子町になったこと、続くイ)の4行目には「飯能市の一部(5155)が東金子村に編入」が記されています。

S25の人口3472人だった【面積5.80km2の】東金子村には、【面積は4.78km2とやや小さいが、人口は1.5倍近い】旧・元加治村の区域の人口5155人が S29の境界変更により加わり、8627人【西武町境域のS25人口】になりました。
なお、面積は戦前唯一のデータである 『昭和十年全国市町村別面積調』 の値です。

このシリーズのタイトル「大きな人口異動を伴う境界変更」の極端な事例のように思われます。

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