私の住んでいる 荒川西岸6市1町の面積・人口データを、1935~2010年の 75年間から選んだ5つの時点について表示し、若干の考察を加えました
[80512][80514]。
次は荒川東岸ということになります。
東京の近郊、そして自然条件が荒川低地と その背後の台地とよりなるという点では、東岸も西岸と共通するところがあります。
明治4年(1871)に 埼玉県庁の所在地になりましたが
[20917]、それにより大都市への歩みが始まったわけではなく、浦和市が誕生したのは 62年以上後の 1934年2月、47道府県庁所在地の最後でした。
浦和市誕生の2年前、1932年は
「大東京市」 が実現した年ですが、東京の都市圏拡大は、近隣のこの地にも 影響を及ぼしていました。
一例として「省線」と呼ばれていた 国有鉄道の整備拡充 を挙げると、田端-赤羽間が電化されて 1914年開通の京浜間電車
[39140] が 東北線まで延長運転されるようになったのは 1928年2月でした。
1932年9月になると 大宮から南は 旅客・貨物の複々線になり、旅客線の電車運転区間は 大宮-桜木町間に拡大しました。
浦和は、これにより “汽車の止まらない県庁所在地”(門田勲『日本拝見』)
[41770]になったわけですが、この頃から浦和・大宮の吸引力は増し、1932年4月からの10年間に合計9町村を編入し、浦和(1934)・大宮(1940)と2つの市が誕生します。
検索期間を全期間に拡大し、浦和・大宮以外に与野・岩槻も加えた
変遷情報検索結果
明治(No.1-5)・昭和(No.13-16)・平成(No.19-20)の3大合併期と並んで、昭和前期の浦和・大宮拡大期(No.7-12)が存在することが示されています。
1935年以降の 75年間に、荒川西岸では 14の自治体が半減するに留まった
[80514] のに対して、荒川東岸では 28自治体(1市3町24村)が 単一の「さいたま市」を形成するに至りました。
# 参考までに、荒川西岸7自治体の平均面積は 15.85km2で、小さかった昔の自治体規模を反映しています。
さいたま市の面積は 217.49km2です。偶然ですが 2010年の全国 1727市町村の平均面積 218.85km2と近い値でした。
埼玉県の中では第2位ですが、全国的には「並みの広さ」なのですね。
さて、さいたま市。2003年から 政令指定都市ですから 行政区があります。
区別人口・面積
荒川西岸では上流(北)からの順でデータを表示しましたが、今回は複雑な地理的分布に対応して、
コード順 [80472] を使います。
北西端の西区が11101で、北区、大宮区、見沼区と旧大宮市を東に進み、旧与野市の中央区が11105。
続いて桜区、浦和区、南区、緑区と旧浦和市も西から東へ。最後が2003年の編入で加わった岩槻区11110。
西から東へを加味していますが、北から南へという順序は荒川西岸と同じであり、違和感がないのでこれを採用。
例えば岩槻区には旧7町村がありますが、その配列も基本的には同じ考えを踏襲します。
旧28市町村の人口・面積データを 現在の10区と対応させようと思うのですが、範囲の不一致など問題があります。
中央区と与野市との場合は さいたま新都心地域設定のためで、面積の違いも僅かなので気にしないことにします。
もっと本格的な範囲の不一致は、例えば昔の村と現在の区との割付の違いによって生じます。
例1:【1935】データのある大砂土村(1940年に大宮市に編入)
町村制施行前の7村 のうち、芝川より東にあった4村(大和田,堀崎,島,砂)の地域は見沼区に、西の3村(今羽, 西本郷, 土呂)は北区になりました。
例2:さいたま新都心に近い木崎村
これは、1932年に分割編入されたので【1935】データには現れませんが、昭和十年面積調の浦和市(18.63km2)には 次のように注記されています。
昭和7年4月1日北足立郡大宮町へ編入されたる旧北足立郡木崎村大字北袋の区域を含む
地形図が未修正のためと思われますが、範囲不一致への対処法を示しています。
国土地理院と言えば、改測による面積の違いもあります。2010年さいたま市面積は217.49km2ですが、昭和十年面積調による1市3町24村合計面積(ほぼ同じ範囲だが、
内間木村からの編入分 を含まず)は225.64km2で、一致しません。
このようなわけで、細かいことを気にすると何もできません。
75年前の市町村人口・面積から、最新国勢調査による さいたま市10区 に至る対比は、細かい食い違いを気にせずに、ざっくりと進めることにします。