全国の市町村数は、戦前の 1935年に 11,545でした。2010年、平成大合併後には 1727 になりましたから、75年間に 15%に激減したことになります。
もちろん 荒川西岸の自治体数も減りました。しかし、それは
[80512]のデータが示すように、同じ75年間に 14町村から 7市町へと、半減したに留まりました。
この間にあった最大の合併は 4町村が戦時合併した志紀町でしたが、戦時枠組の耐用年数は 僅かに 4年間でした。
これに次ぐ唯一の3村合併は 昭和大合併時に実現した 富士見村
[55364]でした。
この時に、ギリギリまで持ち越されて、土壇場で不調に終ったのが三芳村との合併でした。
三富新田の一つである 三芳村上富地区は 所沢への志向が強く、荒川西岸の鶴瀬村との合併を模索した地区との間で 分村の危機もありました。
しかし、結局は 明治の大合併で誕生した 三芳村の枠組み を維持する 独立路線を選ぶことになりました
[55377]。
このようにして 昭和大合併の嵐を乗り越えた三芳村は、その後の高度成長環境に恵まれ、国勢調査人口は 1965年の 5911人が 1970年には 14475人になり、昭和合併が目標にした「人口8000人規模」を、合併することなく軽く実現してしまいました。
1970年に三芳町になった後も順調で、1993年からの連続 18年間、
財政力指数 が 1を超え、普通交付税を支給されずにすむ豊かな自治体でした。
残念ながら 最近は少し陰りが見えていると伝えられますが、明治22年の町村制施行以来、本年度で 123年目になった独立路線は、全国でも稀な存在と言えるでしょう。
落書き帳アーカイブズ
純血主義を守る市町村 参照。この仲間であったが、平成大合併の影響を受けてしまったところも多数。
三芳町のことはこのくらいにして、荒川西岸 14町村の関係した合併事例は、概ね荒川からやや離れた自治体と、荒川に近い自治体とのペアと言えそうです。ここには、「野方の村と里方の村」との合併というよりも、東上線の駅から離れた村が 交通路の拠点を持つ町と合併した という姿が見えるような気がします。
上福岡・鶴瀬・志木・膝折の各駅は、1914年の東上鉄道開業時に4km間隔で設置された駅です。膝折駅は 1918年に朝霞駅と改称。朝霞駅と東京の末端である成増駅との間も4km離れていましたが、東京市街地の拡大を示すように 1934年に中間駅の新倉が開業しました(1951大和町→1970和光市と改称)。
これで、今回のスタート時点 1935年には、現在の6市に対応する5駅がすべて開業していたことに成増。
志木駅の現在の所在地は、よく知られているように新座市ですが、もともと開設された駅舎は北端の志木町にありました。現在の呼び名は、南口に対する北口でなく「東口」になっているのですね。知りませんでした。
志木街道の踏切を渡れば、すぐに大和田町(後の新座市)ですから、両方の玄関口として機能していました。
南口が開設されたのは、1960年立教高校移転時だそうです。
「新座市にある志木駅」になったのは、池袋寄りの橋上駅になった 1970年で、更に10年後です。
三芳町の最寄り駅は「みずほ台駅」です。この駅は 1977年開業と、だいぶ後です。駅所在地は富士見市ですが、西口正面から約500m先は三芳町で、駅前には三芳町のモニュメントもあります。
東京への通勤圏内ですから、当然のことながら、顕著な人口増加を見ることができます。
現在の自治体に相当する区域について、戦前人口【1935】に対する倍率を計算すると、
【1947】は ふじみ野1.7倍、三芳1.2倍、新座1.4倍、和光2.2倍(富士見、志木、朝霞は計算できず)ですが、
【1960】には、ふじみ野3.3倍、富士見1.5倍、三芳1.2倍、志木1.8倍、朝霞3.1倍、新座1.9倍、和光3.6倍となっています。
東京から最も遠い(現在の)ふじみ野市に相当する区域が、戦前の3.3倍もの人口になっているのは、この時代に住宅公団の大規模団地が上福岡に作られ
[46258]、通勤圏に組み入れられたためと思われます。
この傾向には、その後一層の拍車がかけられ、【1990】の統計では、ふじみ野15.0倍、富士見11.5倍、三芳9.5倍、志木9.5倍、朝霞13.3倍、新座18.2倍、和光11.8倍と急増しています。
【2010】になると、ふじみ野16.1倍、富士見12.9倍、三芳10.5倍、志木10.4倍、朝霞16.6倍、新座20.8倍、和光16.7倍と上げ止まり。
バブル崩壊もあるのでしょうが、6市の 2010年人口密度は 5400~7700人/km2に達しており、飽和状態に近づいているようでもあります。