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落書き帳

岐阜オフ会

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[82224] 2012年 11月 21日(水)15:48:33hmt さん
ギフチョウの名が付けられた地
「阜」という字は岐阜以外に使われることが少ない字で、変遷情報検索でも 長野県下伊那郡泰阜村があるだけです。
読みの「やすおか」から解るように「阜」の意味は「丘」です。丘の大きなものは山ですから、岐阜は岐山に通じるわけです。

岐山は、中国の西安より少し西にある地名ですが、「周の文王、岐山より起り、天下を定む」という故事は、わが国でもよく知られていました。稲葉山城を手に入れた織田信長は、稲葉山を岐山に見立てて、山麓の井口(いのくち)を岐阜と改めたと伝えられています。岐阜県の概要

もともと都市名として使われてきた岐阜ですが、明治4年(1871)に美濃 73万石を管轄する岐阜県が成立し、広域地名としての用法が生れるきっかけができました。もっとも、最初の県庁所在地は 笠松[75499]であり、岐阜の隣接地に作られた 2代目県庁舎が岐阜市内になったのは、町村制施行時でした[81195]

筑摩県の分割編入により、飛騨国が岐阜県の管内に入ったのは明治9年(1876)ですが、これにより行政区画として美濃・飛騨2国に及ぶ「岐阜県」が、すぐに広域地名としての地位を獲得したわけではありません。「岐阜提灯」や「岐阜団扇」は都市名由来の熟語であり、広域地名由来の熟語には、「美濃紙」や「飛騨匠」のように国名が古くから通用していました。

ここで、明治時代に「岐阜」が広域地名として熟語に使われた 例外的とも言える事例 「ギフチョウ」 を挙げておきます。

グリグリさんの 蝶切手の魅力 にアクセスしたところ、種類別展示の中にはギフチョウの姿が見当たらず、発行国別の 日本 収録されていました。
1980年には国際昆虫学会が京都で開かれたのを記念してギフチョウを描いた切手が発行されました。

日本固有種であり、この切手が世界唯一の事例なのでしょうね。(韓国や北朝鮮には近縁種のヒメギフチョウの切手が展示されていました。)

ギフチョウの名前は岐阜県で最初に発見されたことに由来しています。

“名和靖氏により1883(明治16)年に岐阜県祖師野で初めて採集され、岐阜県にちなんでギフチョウと名付けられた”と、岐阜県HP にも記されています。

名和哲夫 『ギフチョウ』(名和昆虫研究館1988)によると、「ギフテフ」の呼名が世間に広まったのは 明治22年4月発行の『動物学雑誌』だそうですから、まさに町村制施行と同じ時代だったのでした。

明治16年、名和靖 による「発見」は、実は「再発見」であると考えられているようです。その根拠として「錦蝶」を描いた享保16年(1631)作の図(国立国会図書館所蔵)などが挙げられています。

それはさておき、その「発見地」岐阜県祖師野は、美濃と飛騨との境界付近にあります。
明治16年当時は美濃国郡上郡祖師野村でした。岐阜県での明治大合併は、町村制施行8年後の明治30年(1897)に郡の再編成と共に行なわれたので[68561]、祖師野村は馬瀬川流域の村々と共に郡上郡東村になりました。

そして昭和大合併の1955年。ギフチョウの名の由来になった郡上郡東村は、馬瀬川が合流する飛騨川流域の村々と合併することになりました。東村と同じ美濃国である武儀郡金山町と菅田町、それに飛騨国に属する益田郡下原村とが合併して、新しい 金山町 が誕生しました。

2国3郡4町村にまたがる合併[28154]で、中心となる金山町を名乗ったのは順当ですが、所属する郡は本来は飛騨国である益田郡に変りました。実は、高山本線の駅は飛騨川対岸の下原村にあり、最初から「飛騨金山駅」を名乗っていたのでした。この合併により、従来美濃側の郡に属していた地域も、名実共に「飛騨の入口である金山」の仲間入りをしたと言えるでしょう。
2004年の合併で下呂市になっています。

余談ですが、飛騨金山駅と言えば名物駅弁の「栗こわい」 がありましたが、残念ながら現在は入手できないそうです。栗菓子の記事[80114]では言及していませんでした。

美濃と飛騨は、かなり明確に分かれているのかと思っていたのですが、ギフチョウ由来の地を探った結果、美濃に属しながらも、実質的に飛騨の一部になった地域もあったことを知りました。
[82261] 2012年 11月 25日(日)16:28:59hmt さん
第9回落書き帳公式オフ会(岐阜オフ会2012) (1)大垣に寄ってから 長良川北岸の会場へ
オフ会記録ページ には、毎回のオフ会の中で行われた企画が紹介されるだけでなく、参加者の感想など関連記事が集められています。

岐阜オフ会2012についても、筑波山オフ会2010会津オフ会2011 に続いて、hmtの参加記録を残しておきましょう。

場所と日取りの提案[81568]、アンケート[81662]、ML開設[82009]に続き、JR東海の「ぷらっとこだま」というルート情報[82010]を教えていただいたのが10月27日。
まだ1ヶ月近くあるというのにMLによる予約状況で、連休初日の売れ行きにびっくり。切符の手配を急がなければ…

ご無沙汰気味の東海道新幹線ですが、絶滅危惧種?になってしまった「ひかり」に乗ってみたくなりました。
往路は豊橋停車の「ひかり」、復路は「ぷらっとこだま」のグリーン車に決めて足を確保。往路乗車券は、岐阜で下車した後手元に残るように、同一運賃(400km以内)の西岐阜まで。国鉄末期の1986年に開業していたのですね。知りませんでした。

当日は小雨模様の中を出発したものの天気は回復。
豊橋では 途中下車印を記録した後、駅前で市内線の 連接トラム を眺めた程度。
新快速は大垣行だが、岐阜で下車して切符を買い直して 水都・大垣へ。「○都」と呼ばれる都市

大垣城と郷土館とを見学。関ヶ原の合戦までは戦いの城であったこの地も、江戸時代になってからは 戸田氏大垣藩により治水、水運、陸運に 安定した行政の成果が挙がり、繁栄しました。
大垣を通るのは脇街道なのですが、東海道の弱点である木曽三川河口・七里の渡や、中山道の山道を避けて 江戸と京都を結ぶことができるため、参勤交代の大名行列、朝鮮通信使、お茶壷道中にも利用されました。

大垣城の北から西へと流れ水運に使われた水門川には 芭蕉の「奥の細道むすびの地」がありますが、そこ迄は行けませんでした。

岐阜に戻り駅前のバス乗場で待つ間に、連節バス を見かけました。
これが 清流ライナー(だんなさん[82255])に使われている車両なのですね。

岐阜駅前から長良橋方面へとバスが進む国道256号。
私は乗車経験がありませんが、これが1988年まで走っていた路面電車のルートだったのですね。
自動車交通の増加に対して乗客の安全を確保するホームを設置することもかなわず、廃止されたようです。

# 路線番号が、意外にも自宅近くの川越街道(国道254号、終点は松本市)と近い数字なのに驚きました。
調べたところ 岐阜市から郡上八幡・飛騨金山[82224]・中津川を経て長野県飯田市に至る国道でした。
共に本州中央部の太くなっている部分を、ほぼ東西に近いルートで結ぶ道路なのですね。

「すぎ山」に到着。入浴してしばらく待てばオフ会の開始時刻。
オフ会本筋の紹介は別にあるでしょうから、とりあえず「鵜匠の家・すぎ山」について。

長良川の鵜飼は、世襲による6人の鵜匠により引き継がれているとのこと。
12羽の鵜を操って鮎を捕獲する鵜匠は、宮内庁式部職に任ぜられているそうです。そういう家なのですね。

徳利に付いていたのが 「輪違い紋」
長谷寺の寺紋に使われている紋章ですから、これも鵜飼と同様に千年以上の歴史のあるものでしょう。
もっと後の人物ですが、高師直などの武家にも使われた紋章です。

現代の会社では日本冶金工業の社紋。
鉄道好きには知られている加悦鉄道(1985廃線)>カヤ興産もこの輪違社紋を使っています。
これは 1934年に大江山でニッケル鉱石が発見され、それを輸送する加悦鉄道が、日本冶金の子会社になったから。
京都府与謝郡加悦町(現・与謝野町)は、丹後縮緬の産地です。
[82265] 2012年 11月 26日(月)16:42:49【1】hmt さん
第9回落書き帳公式オフ会(岐阜オフ会2012) (2)助けてもらいながら 金華山と木曽三川公園へ
岐阜オフ会の第2日。前日に集合時刻を決め、早出の方もいなかったおかげで、20人が揃って朝食の席に着くことができました。
小さなことですが、これはオフ会史上初?

第2日は「成り行き」ということで、帰路名古屋からの「ぷらっとこだま」以外のスケジュールなし。
濃尾平野で行ってみたいところ。前々から漠然と考えていた所は、木曽三川です。
もちろん 長良川は宿の眼前に見えているのですが、もっと下流。人々が自然の力の脅威を感じながらも治水技術を積み上げて、日本有数の沃野を作り上げてきた地帯を目にしたいのです。

ところが、地図で眺めてもかなりの広がりのあるこの地域。ピントを絞ることができないままに、今回のオフ会参加となりました。

朝食の席で、こんな漠然とした希望を述べたところ、EMMさんが金華山の後で海津に行く予定とのことだったので、この海津行きEMM号に同乗させていただくことになりました。

金華山の麓までは、徒歩の海津行のグループとは別に、菊人形さんが車を出してくださいました。
ロープウェイの山上駅からは、予想されたことながら、足の弱い hmtには かなり困難な階段道の連続。
菊人形さんや 中島悟さんには ずいぶん気を使わせ、助けていただきましたが、手摺を掴みながら、どうにか 岐阜城往復を歩くことができました。単独行だったら、昨年帰路の龍王峡[79718]のように、途中で安易にギブアップしたところです。

菊人形さんには「すぎ山」まで送っていただき、ロビーで海津行EMM号・ラガー号を待ちます。ここで、新幹線岐阜羽島駅の時刻を調べておいたのが、後で役に立ちました。

EMM号には星野彼方さんと同乗。岐阜の市街地からは少し外れた岐阜県庁[81195]の近くを過ぎて、木曽三川と共に南下。
大きな岐阜県の中で見るとそんなに離れていないようですが、実際に走ってみると 岐阜県最南端の海津市までは かなりの道程があることを実感しました。

帰ってから調べて 気がついたのですが、ML00048号(2012/11/18)に“EMMのやぼう(笑)”が記されていました。
どうしても次の場所に行ってみたいから。空中写真リンク
東側に名鉄、西側に養老鉄道の駅がありますから、電車で岐阜に行くことになった場合でも行く気は満々なのですが、やはり場所的に車の方が行きやすそうです。

国営木曽三川公園のアクセスマップによると、公共交通機関は“養老鉄道石津駅より海津市コミュニティバス「木曽三川公園」下車”ですが、時刻表を見ると石津駅 9:42発の1本だけしかありません。タクシーを使えば、養老鉄道多度駅 or 名鉄尾西線佐屋駅から行くことができそうですが、基本的に自動車を使わないと行けない場所のようです。
帰宅後に知った情報ですが、オフ会朝食の時に希望を述べなければ、一生涯 hmtの行けそうもない場所だったのでした。

国営木曽三川公園は、3県にまたがる国営公園で、北は岐阜県各務原市、東は愛知県江南市、南は三重県桑名市に及ぶ 11の施設 があります。
中心的な施設と思われる「木曽三川公園センター」の位置。東側の木曽川と背割堤を介して並流する長良川。そこに西側から揖斐川が近づく地点で、岐阜県の最南端・海津市海津町油島という地名です。

ところで、ここから南は、並流する揖斐川と長良川とを分ける背割堤で、治水神社から宝暦治水碑までの間、1km余は千本松原と呼ばれる見事な景観になっています。この 「油島千本松原」 が、EMMさんの目的地でした。

センターで合流し昼食をすませた6人は、水と緑の館の展望タワーに登りました。
360度広がる木曽三川の眺めは、まさに この地ならではの絶景で、堪能しました。1階には 展示室 もあります。
なお 入場料には「JAF割引」があり、やはり自動車で来る所のようです。

施設の南に出ると、すぐに 治水神社。ここから始まる千本松原は、宝暦治水工事 【5/7コマ】の完成を記念して、薩摩藩士が油島締切提の上に植えた千本の「日向松」の苗が、二百年以上の年輪を積み重ねて成長したものと伝えられています。
5人は松林の中をどんどん進みますが、hmtは これに追従できずに落伍しました。
一本道ですから、戻ってくるまで待てば はぐれる心配なし。先に治水神社に戻って待ちました。
後で聞けば、5人は松原の終る 宝暦治水碑 まで行ったとのこと。ここが正真正銘の岐阜県最南端で、東側の長良川水面上が 岐阜・三重・愛知の「三県境」(28番)になります。

足の弱い hmtが参加したために、皆さんのペースを落してしまったようです。
センター北側の駐車場で ラガー号の3人(小松原ラガーさん、かすみさん、まなちゃんさん)と別れたEMM号。
岐阜羽島駅も結構遠く、ホームに上ると同時に、予定した列車が入ってきました。
EMMさんと星野彼方さんには 気を揉ませてしまったことと思いますが、岐阜羽島・名古屋と順調に乗り継ぐことができ、無事に帰ることができました。

多くの方に助けられましたが、とても楽しい岐阜オフ会になりました。ありがとうございます。

【誤記訂正あり】 誤変換に気づかず、失礼しました。


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