[27531]湾岸太陽族 さん
『裏横浜』ってなんじゃ?!と思ったのですが、どうやら横浜駅東口から、こないだ廃止された東急高島町駅を通り、相鉄平沼橋駅あたりまでの一帯をそのように呼ぶ向きがあるのだそうです。
なんだか裏原宿の二番煎じのようですし、わざとらしい感じがして個人的には好きになれないのですが(笑)、隠れ家・隠れ街的な売り出し方(?)というのはまあ面白いかな、と思ったのも事実。
[27542]ズッキー さん
鉄道関係の本で、横浜駅が出来た当時は東口が表口だったという記述を見ましたし、昭和40年の飛鳥田市長の都市計画提案時にも東口を表口として出されていたようですが、タウン誌の記者はそういった事実確認無く、ただ見た目だけで、表口側を裏横浜と表現したのですね!
[27543]Issie さん
私は今だって当然に東口こそ「表」と思っていましたが…。
「本当の横浜」(関内+元町に伊勢佐木町と野毛・山手・本牧,あとはせいぜい大岡川デルタ一帯)に対して高島町のあたりが「裏」というならわかるけど。
「横浜のドはずれ」の「西口」は“表”横浜ではなくて,「裏神奈川」ですよぉ…。
横浜って大きい都市ですし、いろんな顔があるもんですね~
せっかくなので、横浜駅の変革をちょっとまとめてみましょうか。
横浜駅が現在の場所に移ったのは昭和3年のこと。(それまでの横浜駅は2代目で高島町駅付近にありましたが、関東大震災で焼失してしまいました。)当時の駅玄関は現在の東口にありました。
一方の西口ですが、今でこそデパートやホテル、電器量販店などが立ち並ぶ立派な駅前をしていますが、昭和30年頃まで石油会社が所有する砂利置き場がある意外には何もなく、とても駅前といった風貌ではなかったそうです。
その西口の開発を推進したのは相鉄でした。複雑な所有者の区画を整理し、運河(新田間川)を埋め立てて駅前広場の用地を確保しましたが、開発の核となるデパート誘致は難航しました。元々砂利置き場の何もない所からの開発ですから無理もありませんね。いきなりのデパートはあきらめ、高島屋が高島屋ストアを出店し、同時期に名店街が出来ました。昭和31年のことです。その後、昭和34年に高島屋ストアがデパート(横浜高島屋)になり、昭和37年には東急ホテルとステーションビル(現在のシャル)が、昭和39年にはバスターミナル直下にダイヤモンド地下街が、昭和43年には横浜おかだや(現在の横浜岡田屋モアーズ)が、昭和47年には当時市内で最大の高層ビルだった天理ビルが、昭和48年には相鉄ジョイナスと三越横浜店が、昭和53年にはニチイ横浜店(現在の横浜ビブレ)ができ、高度経済成長の後押しも手伝って西口は開発から約20年で急速に発展しました。
さて、話は東口に戻します。急速に発展する西口に対し、東口には360度回転する展望レストランを擁するスカイビルと中央郵便局があるだけで、立派な駅舎の割にはどこか寂しい感じの駅前だったようです。そんな東口が変わったのは昭和55年のこと。駅ビルのルミネ横浜とポルタ地下街がオープンしたのです。ルミネは俗に4代目横浜駅と呼ばれますが、西口のステーションビルはカウントされていませんね。同時に東西自由通路が完成し、それまで駅によって東口と西口に分断されていたものが広い通路で結ばれたのです。さらに昭和60年には横浜そごうがオープンし、東口もほぼ現在の形になりました。
平成に入ってからの主だったものとしては、平成2年に東急ハンズ横浜店が西口に、平成8年に新スカイビルが東口に、平成10年には横浜ベイシェラトンが西口にオープンしています。
今では東西どちらを表玄関とするかというのは愚問ですね。東口が明確に「表」であった名残をしいて挙げるとすれば、今でもバスの行先は「横浜駅」と言えば東口バスターミナルを指すことでしょうか。(西口バスターミナルは「横浜駅西口」です)
時代と共に変化を遂げている横浜駅、先日はみなとみらい線開業で東急の駅が地下に切り替わったところですが、近々京急横浜駅も下りホームが独立し、単独駅舎もできるようです。仮設感のありありなみなみ通路の本開業はいつのことやら。いずれにしても、一横浜市民としてはいろんな意味で楽しみなところです。