失われた「トライアングル」が横浜にありました
[49796]。この機会に横浜駅の歴史を振り返ってみます。
よく知られているように、日本の鉄道のはじまりは明治5年です。
初代の「横浜駅」(現・桜木町駅)は、品川-横浜間が仮開業した明治5年5月7日(1872/6/12)に誕生した“日本最初の鉄道駅”です。
4ヶ月後には新橋駅も完成し、重陽の節句を期して正式の開業式が行なわれる予定でしたが、暴風雨のために3日後の明治5年9月12日となりました。太陽暦換算
[49122]で1872年10月14日(鉄道記念日→鉄道の日)。
満20歳になる直前の明治天皇は、1時間の乗車(仮開業時代にも乗車経験あり)の後、横浜駅で
東京横浜間ノ鉄道朕親シク開行ス 自今此便利ニヨリ貿易愈繁昌庶民益富盛ニ至ランコトヲ望ム
という勅語を発せられました。
これを事始めとして、鉄道建設は東海道を西へと進み、やがて京都・大阪に達した……わけではありません。
この鉄道は、あくまでも首都と開港場とを結ぶ「東京横浜間鉄道」であり、横浜駅は外国人居留地に突き当った町はずれの地に設けられました。そう言えば、新橋駅も明石町の外国人居留地
[35134]に近い場所でした。
新橋駅・横浜駅共に、市街地を突っ切らなければ鉄道の延長ができない立地であり、文字通りのターミナルでした。
東京の市街高架線が通じたのは1910年。電車唱歌の時代
[35062]よりも後です。横浜の根岸線に至っては1964年になってようやく実現しました。
では、西京と東京とを結ぶ鉄道は?
もちろん東西両京を結ぶ鉄道の必要性は認められていましたが、資金がなくては着工できないし、東海道経由と中山道経由との利害得失も考えなければなりません。
西南の役などを経て、鉄道の軍事的価値も認識され、地域開発や防備上の見地から中山道ルートの鉄道が選ばれて着工しました。しかし、やがて山岳地帯の工事困難や輸送力低下が明白になり、明治19年(1886)に至ってコロッと方針を変更します。
こうして、ようやく東海道鉄道を建設する体制になりました。
そうなると、行き止まりの横浜駅からどのようにして西へ進むのか?
止むを得ず、スイッチバックで東海道の程ヶ谷に向かったのですね。このようにして、横浜-国府津間は明治20年7月に開業。
他方、神戸-京都間から鉄道敷設が始まった西側では、中山道鉄道時代の明治17年には琵琶湖の汽船連絡を含めて大垣までが開通し、武豊から名古屋へと進んだ工事も、明治20年4月には木曽川橋梁で西からの鉄道と結ばれていました。
御殿場ルートの足柄越え、伊吹越えルートの変更、汽船に頼っていた湖東線部分の建設を含む残りの区間の工事を終えて、東京-神戸間が全通したのは明治22年7月でした。
横浜駅の話に戻ります。
Old Map Room で明治24年測量を選び「↓」により表示位置を切り替えてみてください。
神奈川方面(上方)から南下してきた鉄道線路が、下端に近い初代横浜駅でスイッチバックして、程ヶ谷方面(左方)へと伸びている様子が示されています。高島町から程ヶ谷(現・保土ヶ谷)へと向かう線路は、ほぼ現在の国道1号沿いです。
「↑」によって分岐点よりも北を見ると、横浜駅と
神奈川駅(横浜駅の1ヶ月後に開業、地図の北端近くで緑色の東海道と青木橋で交差)との間の鉄道線路は、細長い埋立地を何個も連ねて、入り江を弧状に横断した築堤の上に敷設されたことがわかります。万里橋はこのような埋立地を結ぶ橋の一つでした。神奈川の港があった湾入は、「平沼」に変っています。この埋立を請け負ったのが高島嘉右衛門で、鉄道用地などの官有地を除いた部分の土地を取得しました。高島町の名は、もちろん彼に由来します。
この地図から3年後の明治27年に日清戦争が勃発すると、陸軍は青山練兵場
[35062] (現・神宮外苑)の軍用停車場に集結させた兵士を鉄道で西に送ることになりました。ところが、新宿・品川・横浜とスイッチバックが続いて、すこぶる非能率です。そこで品川線の大崎から大井へと短絡させて品川スイッチバックを解消しました。大井には、後に新橋から鉄道工場が移転して現在に至っています。
本稿の主題である横浜にも、神奈川駅から程ヶ谷駅へと直線で結ぶ軍用列車直通線を建設しました。
日清戦争は翌1895年に終わりましたが、鉄道局はこれを横浜スイッチバック解消の好機ととらえ、直通線を複線化して東海道線に転用します(明治31年=1898)。このようにして、神奈川駅・横浜駅・程ヶ谷駅という「トライアングル」が出来上がりました。
しかし、本線から外れて、神奈川または程ヶ谷での乗換を強いられることになった横浜の商業会議所はもちろん猛反対です。
妥協の産物として、明治34年に直通本線上に平沼駅を開設することになったのですが、この駅も横浜からの交通の便が悪くて不評だったそうです。
Old Map Roomには、この時代の地図はありませんが、大正11年に切り替えてみると、平沼を埋め立てた土地にできた石油タンクやゴム会社の付近に「旧直通線」という表示が見えます。
スイッチバックは解消しなければならないが、横浜の立場を無視するわけにもゆかない。そこで、神奈川からの線路を程ヶ谷への直進でなく横浜の方へねじ曲げることになり、高島町に2代目横浜駅が誕生することになりました。東京駅が完成して、京浜間が高速電車の専用線(現・京浜東北線)で結ばれた
[39140] 翌年、大正4年(1915)のことです。
この時に初代横浜駅は桜木町駅と改名され、高島町から延長された電車のターミナルとして再出発しました。
このようにして、「トライアングル」の時代は17年間で終り、不評の平沼駅は廃止されました。
Old Map Roomの大正11年の地図は、この2代目横浜駅時代です。埋立てが進み、貨物駅、造船所などが目立ちます。
大正11年という年代からわかるように、翌年には関東大震災に襲われ、1年先輩の東京駅と同じように赤煉瓦造りだった
2代目横浜駅も、新築後わずか8年で大きな被害を蒙ります。
震災復興にあたっては、平沼中央駅計画案などもあったようですが、結局のところ、本線は直通するが桜木町への電車線は残し、両者の分岐点に3代目横浜駅を造ることになりました。
大正11年の地図で、ライジングサンとスタンダードの油槽所の間を「旧直通線」が通っていた場所で、昭和3年(1928)10月開業。
昭和23年と平成11年の地図にある通り、これが現在の横浜駅であり、横浜駅と近くなりすぎた神奈川駅は廃止されました。新しい地図でも万里橋とその付近の道路のカーブが、最初に鉄道を敷設した弧状の埋立地の痕跡を残していますが、古い地図と比較しなければ、なかなかこの事実に気付きません。
三代記と銘打ちながら、明治、大正の「トライアングル」の時代を中心としたので、現・横浜駅が生まれたところで終わります。
戦後を中心とした「ステーション物語」は、ありがたき さんの
[27546]をご覧ください。