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hmtさんの記事が5件見つかりました

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[98540] 2019年 10月 16日(水)17:54:30hmt さん
海と島(36)歯舞群島
[98539]で記した国土面積は、もちろん国の機関である国土地理院が用いる公称面積です。
例えば根室市の面積は 506.25km2 と記されていますが、下記の注釈により、第二次大戦後に日本の実効支配が及ばなくなった「北方地域」(5003.05km2)との関係が示されています。
★歯舞群島の面積94.84km2を含む

…というわけで、歯舞という地名、歯舞村、群島の名。この3つについて記します。

「はぼまい」の語源は、アイヌ語の「アプ・オマ・イ」で、意味は“流氷のあるところ”という意味とか。日本の島へ行こう

本来の歯舞は 離島ではなく、 根室半島先端近くの漁港集落です。
昆布などの 海産物輸送を目的を目的として、昭和4年(1929)に、根室との間 約15kmに 根室拓殖鉄道【ナローの軌道>1945年鉄道に変更】が開通しました。自動車用の道路が整備されていない時代のことです。

歯舞駅は 日本最東端の駅でしたが、路線の環境は過酷でした。
1959/4/1 歯舞村が根室市に編入された約半年後、自動車輸送に敗れた鉄道は廃止されました。

次に「歯舞村」について… 
鉄道より前の時代に遡りますが、Wikipediaの歯舞村には 【もちろん町村制ではないが】1897年に発足し、1915年(大正4年)に5村を合併して二級町村になったと記されています。
変遷情報では、1915年の花咲郡歯舞村新設の記録が、「歯舞」のデビュー記事になります。

この時に合併した一員に「珸瑤瑁村」がありました。
「ごようまい」と読みますが、この村が 根室半島と色丹島との間に連なる離島【珸瑤瑁諸島】です。
歯舞村になった後に「歯舞諸島」が使われるようになり、国土地理院の地図にも使われていました。
そして、根室市からの変更要望により、歯舞群島に変更(2008/3/21)。

昭和十年全国市町村別面積調によると、1935/3/31 歯舞村面積は 165.00km2です。
歯舞群島の最新面積は前記のように94.84km2ですが、Webで遡れる1988年面積調には「歯舞諸島 101.60km2」と記されています。出典の8コマ

約100km2の離島部は、歯舞村役場のあった本体、つまり半島部(約65km2)よりも 明らかに面積が大きかったことがわかります。
[98539] 2019年 10月 15日(火)15:08:01【1】hmt さん
令和最初の面積発表
[98538]の変更を受け、早くも 令和最初の国土面積が発表されています。国土地理院

令和元年7月1日時点の 国土面積は、377,974.92km2
都道府県市区町村面積
[98536] 2019年 10月 13日(日)16:33:17【4】hmt さん
相模・武蔵国境の地名「鶴間」
[98529] 伊豆之国 さん が 町田市民から相模原市民となって最初の書き込み
私の新居も、その昔は「上鶴間村」の一部だったらしいようで

鶴は千年、亀は万年。目出度いツルは、鎌倉の鶴岡八幡宮など全国の地名・名所にも使われてます。

でも、首を伸ばして飛ぶコウノトリの姿は、タンチョウヅルとよく似ており、首を縮めて飛ぶサギとは区別されます。コウノトリは 漢字では「鸛」と書き、「鸛鶴」こうづる とも呼ばれるそうです。出典

決定的な違いは脚の指。コウノトリは前3本・後1本の指で木の枝を挟み、樹上に巣を作る。
ツルは後指が短くて枝を掴めないので、産卵用の巣を地上に作らざるを得ない。天敵の危険があるので、孵化後に早々と巣を放棄して、親子で放浪生活をする。

人家の近くに巣作りをして、村人に親しまれ、「つる」と呼ばれて地名に使われた鳥は、コウノトリであったのではないか と言われているようです。
「鶴の一声」を発することはなく、嘴をカチカチ鳴らすクラッタリング。いきもの通信
尾上の松に飛来するとされ、縁起のよい図柄になっている「鶴」の実像に コウノトリ疑惑。 

鶴間は私の現住地の近くにもあるが、出身地・相模の地名でもあります。
落書き帳では、初期 Issieさんの記事[844]で、川を挟んだ境界地名、そして相模と武蔵との国境地名として 取り上げられています。

その記事によると、鎌倉時代頃の相模/武蔵国境は 現在の境川ではなく、その北側の多摩川・鶴見川水系との分水界であったようです。
江戸時代になってからの国境確定で、高座川が相模国と武蔵国との「境川」になりました。
だから今の町田市の西部から南部一体は「相模国高座郡」。
「鶴間」の場合はさらに相模国に残った側が「上鶴間村」と「下鶴間村」に分かれ,その後の曲折を経て現在は「町田市鶴間」「相模原市上鶴間」「大和市下鶴間」となっているわけです。

町村制施行直前の神奈川県廃置分合等で確認。
#79 南多摩郡鶴間村など5村→南多摩郡南村【1893年東京府→1954年町田町と合併→1958年町田市】
#152 高座郡上鶴間村など5村→高座郡大野村【1941年相模原町→1954年相模原市→2010南区設置】
#153 高座郡下鶴間村など4村他→高座郡鶴見村【1891年改称大和村→1943大和町→1959年大和市】

3村を色分けした図があったのでリンクしておきます。出典Wikipedia


「自治体越えの地名」コレクションは、吉崎を例示した [75229]グリグリさんの記事を契機とした 2010年6月初旬の大ブレイク後、【自治体を越える地名】から【自治体越えの地名】に改称され、[75298][75331]で詳細な定義も示されて 1245件の大コレクションに発展しています。

相模と武蔵、更に2都県・3市へと分属する結果となった「鶴間」の記事[844]は、[36145]以降の吉崎の記事[36220][75229]よりも古く、このコレクションの歴史を語る上で、特筆に値するものと思われるので、この機会に紹介した次第です。

ところで、この記事を書きながら気が付いたのが、町田市鶴間という地名の近年の変化です。

地名コレクションの参照記事欄に記載されている[75235]に従い、Mapionで3市境を表示させると、町田市側は鶴間にならず、コレクションの下記記載が正しいことがわかります。
[75270]町田市鶴間と南区上鶴間は非隣接

Wikipediaの3色図を現在の Mapionとを比較すると、南町田駅付近の「鶴間」が現在の「鶴間1丁目~3丁目」になり、3色図「町田市大字鶴間」の南半分は「鶴間4丁目~8丁目」に、北半分は「南町田1丁目~5丁目」に変ったことがわかります。
推測ですが、現在金森5~6丁目になっっている3市境界の町田側も大字鶴間の時期があり、3市の「鶴間」が接していたのかもしれません。[75235]の記事は その当時の状態を記憶?

【追記】
鶴間関係3市境界の町田市側に現在の金森5~6丁目が誕生した 2012/10/8実施の町田市住所変更の旧住所には、鶴間が含まれていました。
しかし、住居表示新旧対象では鶴間からの変更を確認できず。
遡れば「3市の鶴間隣接」時代が存在したかもしれず、都県/3市の境界を越えた3鶴間[75235]の可能性は否定できませんが、追跡はここで断念。【追記終】

町田市内では、町字変更だけでなく、駅名変更もありました。

これまで「南町田駅」と書いてきましたが、東急田園都市線の南町田駅は、2019/10/1に「南町田グランベリーパーク駅」という長い名に改称されていました。地理院地図は長い名前に修正済。関係記事

南町田駅の「南」は、方角による便宜的な接頭語ではありません。
1954年に町田町と合併する前の村名です。
1893年の三多摩移管前の「神奈川県南多摩郡南村」時代から使われていた地域名「南」の駅を表していました。
その「南」が、長い新駅名称の中で希釈されてしまった。これは残念なことです。
[98525] 2019年 10月 5日(土)17:27:17【2】hmt さん
東京臨海部の陸地化2 (2)東京湾「中央防波堤埋立地」の帰属問題決着へ
2年前の記事ですが、発端は [93551] k-ace さんが 朝日デジタルを引用して 伝えた記事です。
(2017年)6月に大田区と江東区が壮絶バトル 中央防波堤帰属巡り【東京都の】調停へ

これに対して、東京都は江東区に86.2%、大田区に13.8%を帰属させるとする調停案を提示。
しかし 大田区はこれに不満で、調停は打ち切られて裁判になりました。[94347] Takashiさん
松原忠義大田区長の主張:埋立前は区民が ノリの養殖をしていた場所。羽田空港と臨海部を一体として活用したい。

【2】地理院地図により道路を確認。
都心へのアクセス:江東区青海縦貫道と第二航路海底トンネルで結ばれている。
更に有明と結ぶ臨港道路(南北線)も整備中とのこと。 
東側は、2012年に東京港臨海道路の東京ゲートブリッジ開通[80265]で、江東区若洲と結ばれた。
その東京港臨海道路。西側は 大田区城南島との間を臨海トンネルで連絡。2002年開通だが、歩道が併設されておらず、歩行者は通れない。自転車など軽車両は全線不可。

帰属問題のフォロー記事 [95490] hmt
西側の大田区は明らかに劣勢です。何とかして、勢を回復したいという大田区の思いが、調停案を蹴り、裁判に迄持ち込ませた動機なのでしょう。

先日2019/9/20 東京地裁が判決。20.7%を大田区に、79.3%を江東区に帰属させる境界線が示されました。
2019/9/21読売より抜粋
中央防波堤埋立地(中防、約500ha)には住民はおらず、東京五輪…競技場などがある。今回の判決が確定すれば、これらのエリアは全て江東区に帰属する。(中略)
判決は、中防内の施設が区境で分断されないように調整し、競技会場を江東区に、コンテナ関連施設などを大田区に帰属させた。結果的に大田区への帰属部分が増えた。

そして、注目された大田区の対応は「控訴せず」 帰属割合確定へ
【朝日2019/10/4】説明図
東京地裁の判決について、大田区の松原忠義区長は 3日会見を開き、控訴しない方針を明らかにした。
江東区はすでに判決を受け入れることを発表しており、地裁判決の境界が確定する見通し。
都有地で、1970年代から都のゴミの埋立場としている。

報道記事はオリンピック会場が江東区に帰属することを中心に伝えていますが、長期的視野からすると、恒久的な港湾施設が設けられる地域の大田区帰属が、もっと注目されてよいのではないかと思います。

大田区になる中防外側埋立地で実施中の「国際海上コンテナターミナル整備事業」
東京港の整備事業2007年度~2024年度
 世界の標準となる新たな国際海上コンテナターミナル整備(水深16m)や直背後の臨海部物流拠点の形成等を通じて、欧米基幹航路を含めたシームレスな物流網を形成することにより、首都圏全域の産業基盤の強化を図る。
また、外貿貨物の施設能力は既に限界に達しているため、特にアジア・中国からの国際コンテナ貨物等の需要の増加に対応する。スライド3枚
[98523] 2019年 10月 3日(木)11:02:40【1】hmt さん
ヤルタからマルタへ(5)東西ドイツ統合 29周年
冷戦時代のヨーロッパを振り返る このシリーズの名は、1945年の米英ソ・ヤルタ会談と、1989年の米ソ・マルタ会談とに由来するものでした。

…で、主役はと言うと 1939年に第二次大戦を開始し[98219]、1945年の敗戦・分割占領時代を経て 1949年から 40年以上に及ぶ東西分断国家時代を経験したドイツです。

東西ドイツの統合は、ベルリンの壁崩壊から冷戦終結へと進んだ 1889年 の翌年、1990年10月3日に実現しました。
今日は、東西ドイツ統合から 29周年です。

都道府県市区町村で御馴染みの廃置分合用語を使うと、東西ドイツ統合は「新設合併」ではなく、東ドイツ地域の5州とベルリンとが、ドイツ連邦共和国【分断時代の西ドイツ】に加盟するという、いわば「編入」方式の統合です。

単純に「ドイツ統一」と言うと、1871/1/18のドイツ帝国成立を意味しています。
「ドイツ再統一」も、実質的な編入合併を適切に表現するものではないようです。Wikipedia


ここで、今回のシリーズに関する略年表を作ることにします。
ドイツを中心とした東西冷戦とその終結 に関する主な出来事を中心に拾いました。

日付 出来事   説明
1939/9/1第二次大戦開始[98219]ナチスドイツがポーランド侵攻 
1940/6/22西部戦線でフランス降伏参考:連合軍ダンケルクで撤退[97637][45385]
1944/8//25パリ解放ド・ゴールのフランスが連合国の正式メンバーに
1945/2/4-ヤルタ会談[98211]米英ソ首脳会談、大戦後にドイツを分割占領、極東密約
1948/5-東西ドイツの通貨改革東西がそれぞれに実施 マーシャルプランの西側通貨が優勢
1948/6/24ベルリン封鎖[98212]西ベルリンへの陸路を完全封鎖、西側は大空輸で対抗
1949/4/4西側12ヶ国でNATO結成西側諸国の軍事同盟:北大西洋条約機構
1949/5/12ベルリン封鎖解除
1949/5/23ボンに西ドイツ臨時政府西ドイツの人口5095万
1949/10/7東独SED書記長ウルブリヒト東ドイツの人口1838万
1950年西独エアハルトの奇跡西ドイツ 経済急成長で戦前の水準を超える
1953/3/5ソ連 スターリン死去東ベルリン暴動6/17 鎮圧
1955/5/5西ドイツが主権を取得パリ協定発効
1955/5/14東側ワルシャワ条約機構パリ協定の西ドイツ再軍備・NATO加盟に東側が反発
1955年雪どけムードソ連のフルシチョフが演出、アデナウアー訪ソで捕虜帰還
1956/3/19日ソ国交樹立鳩山一郎訪ソ/1959年にはケネディ・フルシチョフ会談
1956/2スターリン批判フルシチョフ
1956/10-ハンガリー動乱ソ連は武力鎮圧し、ナジ政権を排除
1957/3/256ヶ国でEEC設立欧州経済共同体→1967/7 欧州共同体EC、1973拡大EC
1958-1961年東から西への人口流出働き手がベルリンの境界を通り流出
1961/8/13東西ベルリンの交通を遮断冷戦の象徴的存在ベルリンの壁は 1989年まで存在
1962/ -10/28キューバ危機 緊張核ミサイル基地発見>海上封鎖>ソ連が撤去を約束
1963/6/26ケネディが西ベルリン訪問Ich bin ein Berliner.
1968/4/-8/20プラハの春ブレジネフ時代のソ連介入でチェコの改革は頓挫
1969/10西独ブラント首相東方外交 1971年Nobel平和賞
1970/12/7西独・ポーランド国交西独がオーデル・ナイセ線を認めた、条約批准は1972年
1970/8/12三国間領土問題解決ソ連・西ドイツ武力不行使条約
1972/12東西ドイツ基本条約相互承認1973/6発効、1973/9国連同時加盟
1973拡大ECイギリス加盟
1976/10東独 ホーネッカー議長東ドイツ国家評議会議長
1982年西独 コール首相西独はシュミット首相から交代
1985年ソ連 ゴルバチョフ書記長ソ連共産党書記長に就任、ペレストロイカとグラスノスチ
1961-1989年東独脱出人数統計Leben in der DDR 下から4つ目の●をクリック 表示単位千人 
1989/5/ ハンガリーの西国境オーストリア国境の鉄条網撤去
1989/8/ 東独市民行動東欧の西独大使館に東独市民がビザを求めて殺到
1989/8/19欧州ピクニック [98206]数百人の東独市民がハンガリーからオーストリアへ脱出
1989/8/23プラハ騒動西独大使館閉鎖後も東独市民が駆け込み
1989/ 東独出国を認めた言葉ホーネッカー曰く「出ていきたいなら出してやる」
1989/10/1東独からの列車出国西独のゲンシャー外相がプラハに飛んで伝えた。東独国籍剥奪
1989/10/7東独建国40年ゴルバチョフに見捨てられたホーネッカーは10/18辞任
1989/11/9ベルリンの壁崩壊シャボウスキーが記者会見で勘違い
1989/11/17ビロード革命チェコの共産党体制(1948-)崩壊
1989/12/2-3マルタ会談44年間続いた東西冷戦終結
1990/9/12ドイツ最終規定条約2プラス4条約調印 事実上の平和条約
1990/10/3東西ドイツ統合手続的には東ドイツ地域各州が ドイツ連邦共和国(西独)に加入
1991/8/19ソ連8月クーデター、共産党解散
1991/9バルト三国独立回復
1991/12/25ソ連解体ゴルバチョフ大統領辞任
1993/1/1ビロード離婚チェコスロバキアCSSRが解体
1993/11/1欧州連合マーストリヒト条約発効 European United, EU
2001/5/2 ドイツ首都ボンからの移転が完了し、首都ベルリンとして完全復帰


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