[89928] グリグリさん
測量が行われる前に写真撮影に行こうかな。
ということで、2016/2/7再訪時
[89961]の写真を
[89972]で紹介していただき、興味深く拝見しました。
2010/11/21に行なわれたオフ会3県境探訪会の時には水路周辺の地表は雑草や枯草で覆われていたのですが、今回の写真では その大部分が取り除かれ、露地状態になっている。第一印象は、この変化でした。
私なりの感想を記し、それから派生した新しい知見を記しておきます。
2枚目と3枚目が水路合流点です。「土管のような」
[89928] 円筒形の杭も確認できますが、それよりも注目に値するのは、その左下に頭を覗かせている標柱です。
これは、毎日電子版記事
[89961]で「目印の標柱」として紹介された物であろうと思われます。
用水路の接点で、積み重なった泥を取り除いて目印の標柱をあらわにし、3県の接点と確認した。
オフ会探訪時には大勢で合流点付近を視察したのですが、誰も「目印の標柱」の存在につき発言をしていません。水中に堆積していた泥や草によって 目に触れにくい状態だったのでしょうか。
そんなことを考えながら
オフ会探訪ルート写真集を見直してみました。
ルート図には、丸数字1番から20番までの他に、左部に2列、下部に1行の写真が収録されています。
下部右から3枚目に水路合流部の写真があり、確かに枯草のために今回の写真よりも見えにくい状態です。
しかし、よく見ると埼玉県という紙の先に標柱の頭らしきものがあるように思われ、その位置も前記円筒形の杭の左下に見えた標柱の先端と一致するようです。
そのような目で見ると、群馬県領の先端、栃木県領の先端にも柱状構造が見えますが、こちらは細すぎます。
埼玉県側にある柱は、次の4枚目の写真で カメラをかざした手の下方にも見え、やはり人工物のようです。
私達一行は、決定的な証拠を見逃していたのかもしれません。
オフ会探訪ルート写真集に記録されている その他の標石についても記しておきます。
ルート図左部2列目上から7番目は「基点」標石の写真です。地上に現れているのが文字(基点)だけなので、
[76876]では標石という言葉を使いましたが、地下に埋められている部分を含めれば、「標柱」の形をしていると思います。最初に挙げた2016/2/7の写真では緑色の看板柱の背後に見えている柱がそれであると思われます。草だけでなく表土の一部が除かれたらしく、見た目が高くなっています。
ルート図上で 11番のすぐ北にある「基点」標石から水路に沿って少し北に進むと、ルート図 12番の「群馬県」標石です。これも 1980年の群馬県区画整理事業(
[88961]毎日記事)によるものと思われますが、栃木県側の岸に設置されています。その事情については、88さんが
[76925]で考察を加えています。
もう一つ、私が知らなかったもので その位置も意味も不明ですが、ルート図左部2列目上から6番目に「板巾」と読める標石がありました。
2016/2/7の1枚目の写真は
看板でした。
朝日デジタルの記事によると、栃木市の古沢さんが手作りの看板を立てたのは約20年前とのこと。風雨に晒された手書きの看板は何度も書き換えられたと思われます。
一見すると今回撮影された写真はWEBにある2014年埼玉県民の日(11/14)に撮影された
写真と同じように見えます。しかし、栃木市藤岡町下宮(旧谷中村)・邑楽郡板倉町間田・加須市小野袋の3つの字名に振られた読み仮名が平仮名から片仮名に変更されており、新版であることがわかります。
2014年の写真には「基点」標石の写真もありますが、杭の文字がかすれていて読めなかったと記されています。2010年撮影のオフ会ルート図掲載写真と比べると、不明瞭な文字の下に露出した部分が長くなっているようです。
2014年の写真では、合流点付近が綺麗に整備され、はっきりと直線状の水路である様子が注目されます。
草に覆われていた2010年とは大違いの印象です。
管状の柱も既に立てられていますが、その横には今回掘り出されたとされる標柱らしきものが見えません。
謎は深まるばかりですが、この写真により、右側(北)からの水路と、東に向う左下側の水路との中心線が少し食い違っている様子がわかります。北の栃木群馬県境線と東の栃木埼玉県境線との食い違いが見える
mapionは、この水路に沿って描かれているものと理解されます。
88さんの
[76925]には
元は三尺(≒90cm)の土羽(どは、盛り土で作ったの斜面)の水路であり、それを、「群馬縣」の境界柱付近では、コンクリート構造物の水路に改修したものでしょう。3県境付近では「土羽」のままでした。
と記されていましたが、2014年の写真では群馬県側だけでなく、埼玉県側のコンクリート構造物も はっきりと見えます。してみると、「埼玉県」の標柱も見えて当然と思われるのですが、どうしたのでしょうか?
それはさておき、水路と県境の位置関係についても、
[76925]は詳細に論じています。要点を記すと
水路の中心線が県境ではなく、この水路【水流だけでなく護岸を含む】が属する県は、3県境から北方向が群馬県、東方向が埼玉県の所属と推定しています。
従って、標石のある護岸までが群馬県である という推測でした。
でも最後に記された言葉は次のようになっていました。3市町による今回の作業は、これなのでしょう。
土地の境界というものは、当該土地の所有者(及び機能管理者ら)が、現地で、境界確定協議の上、測量し、境界確定書(民法上の契約にあたる)を交わすことが必要、となってしまいます。