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落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

シリーズ・地域の地理雑学−千葉県編−

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記事数=10件/更新日:2004年4月9日/編集者:YSK

既にアーカイブ編集済みの千葉市関連・習志野関連等を除いた、千葉県内諸地域の雑学集です。

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[1644]2002年5月27日
Issie
[2104]2002年7月7日
Issie
[2106]2002年7月7日
Issie
[2533]2002年8月12日
Issie
[3415]2002年9月29日
Issie
[6697]2002年12月19日
Issie
[19975]2003年9月18日
ken
[20003]2003年9月18日
Issie
[23453]2004年1月6日
Issie
[27070]2004年4月9日
Issie

[1644] 2002年 5月 27日(月)20:15:32Issie さん
千葉県の成立
現在の千葉県の領域(ついでに茨城県も)がほぼ確定したのは1875年5月のことです。

廃藩置県が行われた明治4(1871)年7月の直後は,それまでの「藩」がそのまま「県」になっただけで,そこらじゅうに飛び地が散在する状況でした。それが4ヵ月後に国郡単位に再編されて,現在の都道府県に直接つながる区画(75府県)が成立しました。

このとき下総は東西に分割され,西部の千葉・印旛・埴生(はぶ)・葛飾・相馬・猿島・岡田・豊田・結城の9郡が「印旛県」(県庁予定地は印旛郡佐倉。しかし実際には暫定的に葛飾郡本行徳(市川市)を経て流山),東部の海上・匝瑳・香取の3郡は常陸南部の鹿島・行方・信太・河内・新治・筑波の6郡とともに「新治(にいはり)県」(県庁所在地は新治郡土浦)に所属することになりました。
同時に上総・安房の両国は「木更津県」(県庁所在地は望陀郡木更津),真壁・茨城郡以北の常陸は「茨城県」(県庁所在地は茨城郡水戸)となっています。
翌々年の1873年6月,印旛県と木更津県とが合併されて新たに千葉郡千葉に県庁を置く「千葉県」が発足します。このときの千葉県はまだ下総の西半だけを領域としていて,下総最北部の結城が千葉県に属する一方,東部の佐原や銚子は新治県の所属でした。
それが1875年になって利根川が県境とされることになり,新治県は解体されて利根川以南の下総3郡が千葉県に編入される一方,以北の結城・豊田・岡田・猿島4郡および葛飾郡と相馬郡の利根川以北部分が新治県の残りとともに茨城県に編入されます。
分割された「下総国葛飾郡」のうち千葉県に残った区域が「東葛飾郡」,茨城県に編入された区域は「西葛飾郡」となり,同様に「相馬郡」も「南相馬郡」と「北相馬郡」となりました。後に西葛飾郡は猿島郡に,南相馬郡は東葛飾郡に編入されています。

くわしくは,こちらをご覧になってください。
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/huken/k-kanto.htm
[2104] 2002年 7月 7日(日)20:36:13Issie さん
浦安
昨日,浦安市の郷土博物館に行ってきました。某漫画に触発されたんですけどね。
展示内容は漁師町らしくかつての干潟や海苔養殖,そして東京の市場を一手に握っていたアサリやシオフキ,バカガイ(アオヤギ)など貝漁と行商についてが主なもの。圧巻はかつての,40年くらい前かな,浦安の町並みを屋外に再現したコーナー。水路(モデルは猫実[ねこざね]地区と堀江地区の間の境川でしょうね)にはベカ舟が浮かんで,たぶん昔は漁師だったお爺さんが子どもたちを舟に乗せていました。屋外展示コーナーに面した1階部分は船工場のようになっていて,ここでさっきのベカ舟も建造されたようです。
屋外展示と舟は別にして,屋内展示コーナーは,たとえば相模原市立博物館に比べてもずっと小さなものなのですが,それはそれで“小さな漁師町”である浦安をよく表しているようでもありました。
舟を漕いでいたお爺さんもそうですが,古くから住んでいる住民のたくさんの協力の上にこの博物館が成り立っているようです。

そこで考えたのは,もし浦安が40年ほど前に市川市に編入されていたとしたら,市川市が郷土博物館を作るとして,これだけの視線を浦安に向けてくれただろうか,ということ。
いや,結構目を向けてくれて,よくできた展示コーナーを作ってくれたかもしれません。でも,その逆である可能性も多分にある。
だとすれば,この博物館は浦安市が単独の極小自治体であるからこその賜物かもしれません。

はっきり言って,博物館などという代物は“ハコもの”そのものです。こんな“立派過ぎる”ものが小さな自治体の1つ1つに作られて,莫大な維持費がかかるとしたら,それを手放しで礼賛することには若干の躊躇を覚えます。
けれども,巨大自治体に市内のごく小さな地域の1つ1つについて“きめ細やかな”内容を,といってもそれを期待するのは無理なような気がします。
でね,これは独り博物館に限らず,一般行政サービスについても言える場合があるのはないか,と思うのです。

当然,行政サービスの中には大きな単位で実施する方がはるかに効率的で効果のあるものが多いことに異論ははさみません。自治体が自分の意志と責任で担うべき事務が増えて,それに対応するためにも“より大きな”自治体を編成するべきである。これはわかります。
一般的な流れとして,これから望まれる地方自治の中で自治体の合併は避けられない。これも,わかる気がします。
でも,小さな自治体に中には小さい中で地域住民と密接に結びつきながら“きめの細かい”サービスを積み上げてきた所が少なくありません。それが合併後の巨大自治体に引き継いでもらえるか。絶対にそうならない,とは言いません。でも,そうならない可能性は多分にある。
少なくとも,合併がいつでも是とは言えないし,逆にいつでも否とも言えない。要は当該地域の住民の意思が最大限反映するものであってほしい,という“お決まり”の結論になってしまう。もっとも,住民の意思をどのように代表するのか,という問題がありますが(長野県議会,どれほど長野県民の意思を代表しているのでしょうね)。

つまりね,何が言いたいか,って言うと,前にも言ったけど,合併話を聞いても私としては期待に胸をふくらませる気にはどうしてもなれないな,ということなのでした。

おしまい。
[2106] 2002年 7月 7日(日)23:53:59Issie さん
続・浦安
[2104]で言い忘れました。

現在の浦安は明治の大合併で江戸川河口,東葛飾郡最南部の当代島(とうだいじま)・猫実(ねこざね)・堀江の3村が合併して成立したのですが,何しろ江戸川デルタのわずかな高まりに成立した集落のこと,たび重なる洪水やしばしばの津波などのせいで古い文書が流されてしまい,残っていないのだそうです。
だから展示内容も近世以前についてはほとんどなくて,つまり近代の浦安に限られる。

そういう所もあるのか,と新鮮な驚きを感じました。
[2533] 2002年 8月 12日(月)18:02:34Issie さん
Re:谷津田
>習志野市の谷津とは何か関係あるのかな。

恐らくそうだと思います。
千葉県北部の下総台地には習志野市の「谷津」(旧町名「津田沼」の「津」)を初めとして「○○谷津」という地名が多く分布します。

>丘陵が複雑に絡み合った地形の低地部分に広がる田圃

大抵がこういう地形です。
習志野市の「谷津」もかつての谷津遊園のネームバリューのせいか,千葉街道(国道14号)沿いの海岸集落(今は内陸になってしまいましたけどね)が中心と思ってしまうのですが,古くからの集落は少し内陸に入った京成線沿いにあります。

千葉県側で「ヤツ(谷津)」と呼ばれるのと同じような地形を武蔵(埼玉県・東京都)南西部では「ヤト(谷戸)」と呼び,「○○谷戸」という地名が多く分布します。
鎌倉周辺では「谷」と書いて「やつ」と読んでいますね。
以前に話題になった関東の「谷:や」もこの系列に入る地名だと考えています。

グリグリさん
>Issieさん、勝手に紹介させていただき URL もトップ以外を出しました。まずければご指摘下さい。

いいえ,全然問題ないですよ。
[3415] 2002年 9月 29日(日)14:13:56Issie さん
市川と松戸
[3403]
>ただ、市川市は衛生都市として発展したって色んな場所に書いてあるんですけど、松戸市はなんか、ただの東京のベッドタウンであるような感じに言われてます。

「衛星都市」と「ベッドタウン」とは使われ始めた時期と意味合いに若干の違いがあるのですが,結局のところ意味する中身に大きな違いはありません。
この場合はどちらも,「東京」という大都市の圧倒的な影響下で独自の都市圏を持たず大都市圏の機能の一部を担っている(「ベッドタウン」ならば,“寝る”という機能。…もちろん,それだけでなく“住まい”“生活する”という機能だけど)都市ということになります。
現在では市川市も松戸市も「ベッドタウン」という機能が一番大きくなっているけれども,元々はお互いにかなり性格の違う都市(集落)でした。

松戸は江戸時代に水戸街道の宿場として発展をしました。市川(および八幡・中山)は佐倉街道が通過するわけですが,宿場としてはここを飛び越えた船橋(および海神)の方が発展していて,この点で松戸とは比較になりません。もっとも,市川は江戸川を渡る渡津(としん)集落,八幡は木下(きおろし)街道との交差点,中山は日蓮宗の名刹である法華経寺の門前町,という独自の機能をそれぞれ持っているのですが。
(蛇足ながら,「佐倉街道」は現在の千葉街道(国道14号)・成田街道(国道296号)の前身です。ただし,江戸川以西の東京都内で,両国橋から小松川を経て小岩にいたる現在の国道14号(千葉街道)のルートは明治になって新設されたもの。江戸時代の佐倉街道は奥州街道・水戸街道の北千住宿から水戸街道とともに東へ向かい,葛飾区の新宿(にいじゅく)で水戸街道と分れて小岩へ至り江戸川を渡る,というルートでした。葛飾区の柴又4丁目にある「桜道中学校」というのがその名残を伝えています。)

というわけで,明治・大正期までは松戸の方がずっと優勢でしたから,「東葛飾郡役所」をはじめとする行政機関は松戸に置かれました。この構造は現在も変わらず,「東葛支庁」をはじめとする県や国の出先機関の多くが松戸にあります。
東葛飾郡内の東京湾岸地域(葛南地域:現市川市・浦安市・船橋市)については船橋が行政機能の一部を分担していますが,多くの場合,それは松戸のワンランク下,東葛地方北部の中心である野田と同格であるように思われます。市川は,さらにワンランク下ですね。

市川が成長するきっかけになったのは1923年の関東大震災です。
それ以前から東京市の都心3区(神田・日本橋・京橋)から周辺への人口の移動が始まっていたのですが,地震と火災で壊滅した下町住民の中・上層の郊外へ流出が加速されました。
このとき,現在の東急各線や小田急沿線とともに優良な住宅地として開発されたのが京成沿線の市川から海神にかけての地域でした。このことを背景に,市川・八幡・中山の3町と国分(こくぶん)村が合体して,千葉・銚子に続く「県内3つめの市」として1934年に「市川市」が成立します。
こうして成立した「市川市」は中山の毛織物工場などを除けば産業の集積度は小さく,経済的には東京に従属する典型的な「衛星都市」として人口を増加させていきます。都心へのアクセスは当初,京成の方が優位にたっていましたが,国鉄総武線が電化されて御茶ノ水への乗り入れが実現して以降,徐々に総武線が優位に立つようになります。
こうして東京との結びつきが強まる一方,行政機関の従属関係以外での松戸との結びつきは細っていくことになります。

松戸は長い間,常磐線の電車区間の終点として東京の通勤圏には入っていたのでしょうが,住宅都市としての発展は市川に遅れをとりました。松戸町が馬橋・高木の2村と合体して「松戸市」になったのは1943年。船橋・館山・木更津につづく「県内7つめの市」ですね。
むしろ松戸は戦中から戦後にかけて江戸川沿いに進出してくる工場を背景とする工業都市としての性格の方が目立っていたかもしれません(江戸川沿いへ工場の進出は市川も同じですが,1955年に編入されるまで,そこは「行徳町」でした)。
松戸が本格的に住宅都市となるのは,1950年代以降,常盤平をはじめとする公団の大規模な住宅団地が新京成沿線の台地上に次々と建設されるようになってからですね。以後,急速に松戸市は「ベッドタウン」としての性格を強めます。

私は市川市の市川地区に住んでいたこともありますが,松戸との結びつきを実感したことはありません。バス交通がずいぶんと細ってしまった現在でも市川駅と松戸駅の間に京成バスが頻繁に運転されていますから,沿線の局地的なつながりは強いかもしれません。でも,私自身の経験もそうですが市川駅と松戸駅とを乗り通す乗客はそう多くはないと思います。
上記の通り,行政機関の従属関係を除けば,市川と松戸との結びつきは現状ではかなり薄い,あっても局地的なものに限られるように思います。

蛇足ながら,
総武線沿線で育った私にとって,常磐線沿線は同じ千葉県でも“別の県”のように感じていました。房総半島の先端や銚子方面以上に。
[6697] 2002年 12月 19日(木)22:43:36Issie さん
映える我らの袖ヶ浦
[6675][6677] N-H さん
[6676] 雑魚 さん
[6684] ken さん

私の中学校の同級生には千葉高へ進学した者が多いのですが(私は違うけど),私の中学校の校歌でも「袖師ヶ浦に富士を見て」います(この場合の「袖師ヶ浦」と「袖ヶ浦」は同じものと思ってかまいません)。
“愛校心”がないもので自分の出身校の沿革に全く関心がないのですが,何でも元は千葉高の近くの亥鼻台にあったものが,四街道にあったもう1つの学校の統合して西千葉の現在地に移転した(最近,新校舎を建てて隣へ移転した),とのことですが,この校歌は亥鼻台時代以来のものか,西千葉へ移転して以降のものか…。少なくとも,西千葉からは富士山は苦しいですねぇ。

実は私の小学校の校歌にも「袖ヶ浦」が登場します。
そもそも,1966年に習志野市に編入された第1次埋立地に編成された“町名”が「袖ヶ浦」ですから。
小学生の頃の私たちは,当然,自分たちの方が「袖ヶ浦」のオリジナルだと思っていて,小3でのマザー牧場への遠足で市原市の先に「袖ヶ浦町」があるのを見て,みんなで驚愕しました。
以前に書いた記憶があるのですが,「袖ヶ浦」というのはおおよそ千葉県の東京湾岸,船橋沖のあたりから木更津沖くらいの海岸の呼称として用いられているようです。…だけでなく,東京の品川沖や大森沖の海岸を「袖ヶ浦」と呼ぶこともあったようなので(現在は埋め立てられて,そう呼ぶことはないと思われます),ごく大雑把に東京湾奥の海岸の呼称としてもちいられると思っておいてよさそうです。

これも以前に書いたことですが,
「君津」という地名は大変に新しいものであるようです。
現在は消滅してしまった「君津郡」(木更津市・君津市・富津市・袖ヶ浦市)というのは,千葉県で「郡制」施行のための郡の再編が行われた1897年に,それまでの「望陀(もうだ))郡」「周准/周淮(すす/すえ)郡」「天羽(あまは)郡」の3郡が統合されて“初めて”創作された“新地名”です。それまで,この地域に「君津」などという地名は存在しなかったようです。
現在の「君津市」,その中心になった「君津町」は1943年に「周西(すさい)村」と「八重原村」とが合併して新設されたものです。合併後の新自治体の名称を決めるにあたって,所属郡の名称を採用するという無難な方法によるものですね。これにあわせて,房総西線(現内房線)の「周西駅」も「君津駅」と改称されています。

>日本武尊がなかなか立ち去れず「君去らず 袖しが浦に立つ波のその面影を見るぞ悲しき 」

これ,私も小学校の時に聞いた話なのですが(長らく思い出せなかった“下の句”がわかって感激),「古事記」にも「日本書紀」にもこのような歌は収録されていません。出典は何なんでしょうねぇ。“下の句”を見ると,どうも記紀万葉の時代の歌というよりは平安末期以降の歌のような感じがしますが(もっとも,私は和歌についてド素人です)。

ところで制服の話。
私の高校の場合も「制服」という厳格な決まりはなかったような気がしますが,漠然と“学生服”という決まりはあったような気もします。要は,さして意識するほどのものではなかった,ということ。学ランだったら,そこらじゅうで売っていた「菅公」の学生服でも何でもよかったのだから。はっきり決まっていたのは「黒のボタン」とバッジだけ。あと,夏服のYシャツの胸ポケットに校章のプリントをする,ということだけだったかな。
女子はいないので,念のため。
校歌に登場するのは「葛飾の空」と「真間の流れ」。これは万葉以来のいわれのある由緒ある地名ですからね。
[19975] 2003年 9月 18日(木)00:48:24ken さん
長南のこと
私の主たる興味の対象として、先日「図説 房総の城郭」なる書籍を購入し、読んでおりましたところ、上総「長南城」の項があり、長南の名は長柄郡の南半を意味し、その中心地として現在の長南町大字長南の名ががおきたものであろう、とし、はじめは平氏系の長南氏が領するところであった、としています。
現「長南町」の字面だけを見ると、お決まりの広域地名+方角なのですが、命名方法は同じでも、中世にまで遡れる地名とすると、これは立派な「歴史的地名」なんでしょうね。

Issieさんのサイトで、「長南宿」となっているのが、長南の主邑と思われ、現在、大字長南で、長南城址もこの集落に隣接しています。
ですが、Issieさんのサイトでは、長生郡のうちでも、「長南宿」は旧長柄郡ではなく、旧上埴生郡の所属。
これは、近世の間に郡界が変わったものでしょうかね。
現長南町を構成する、明治22年時の村のうち、ほとんどが、上埴生郡所属で、深沢村,笠森村のみが、旧長柄郡所属だったようですね。
深沢村が長柄郡ということは、「長南宿」も接してますので、ちょうど郡界あたりですね。

まあ、何が言いたかったというと、地名は所詮、いつか誰かが何かの根拠でつけるわけなので、馴染んじゃうか、いつまでも違和感残るか。
方角+広域地名は安易との論もありますが、中世以来の地名でも、そういうところはあるんだなあ。と「図説 房総の城郭」を読んでの雑感として項を立ててみました。
[20003] 2003年 9月 18日(木)18:48:10Issie さん
Re:長南のこと
[19975] ken さん
長南の名は長柄郡の南半を意味し、その中心地として現在の長南町大字長南の名ががおきたものであろう

ややこしいことに,町村制施行のための「明治の大合併」で長南宿ほか2村を以って発足した「武丘村」が1890年に単独で“町”になったときの町名は「庁南町」と表記するのですよね。
「昭和の大合併」の下,1955年に周辺各村と合体して新設された町が現在の「長南町」です。
現在の長南町の大字「長南」は,直接には明治の大合併以前の「長南宿」の表記を継承したものでしょう。1890~1955年の間は「庁南町長南」という表記であったのでしょう。

だからといって,「庁南>長南」(←本当は“集合”の“含まれる”という記号を使いたいところですが)という包摂関係が元からあるわけではなくて,「庁南」も「長南」も中世以来均しくほぼ“等価”で使われてきた,つまり「てうなん/ちやうなん(チョーナン)」という1つの地名に対してともに用いられた表記のバリエーションであったのだろうと理解しています。
ウロ覚えですが,「長南氏」や「長南城」にも「庁南」という表記があったのではなかったかな。
1955年以降の「長南町」は中心集落である「長南(宿)」を意識しつつ,これは現在の「長生郡」の南部,ということを踏まえたものなのでしょうね。あえて「庁南」としなかったのは,あくまでも対等合併による新設であることを意識したのかな。

方角+広域地名は安易との論もありますが、中世以来の地名でも、そういうところはあるんだなあ。

「印西」というのは“印旛郡の西部”という意味ですが,これも中世以来の地域呼称です。「印東(いんとう/いんどう)」という呼称もありましたが,これは近世以降は廃れました。
何回か触れたことがある「市西(しさい)」「市東(しとう)」というのも,中世に「市原郡」を分割した呼称に由来します。「市東さん」というのは,千葉県では比較的よく出会う苗字ですね。
近世に「市原郡」に含まれるようになり,現在も市原市の一部である養老川西岸あたりは,古代の「(上)海上国造」の領域に由来する「海上(うなかみ)郡」とされていました。この郡もまた中世には南北に分割されて「海北(かいほう)」という呼称が行われました。これも名字(苗字)になっています。「海南」の方はあまり行われなかったようですが。

「方角+広域地名」というのは,近代以降の地名の粗製濫造法というわけでは必ずしもなく,むしろ中世以来かなり普遍的に行われた地域呼称の生産法なんですね。
「伊東さん」「海東(かいどう)さん」「安西さん」などなど,名字(苗字)になっているものも全然珍しくないですから。
[23453] 2004年 1月 6日(火)12:42:08Issie さん
市川あたり
[23447] 月の輪熊 さん
市川~船橋あたりが下町の延長というのは、同感ですね。

この20年程の間のバブル下での地上げや相続税などのせいで急速に雰囲気が崩れてしまいましたが,千葉街道(国道14号)の北側,国府台から海神にかけての京成線沿いの砂洲上は千葉県内でもトップクラスの高級住宅街でした。
関東大震災後,主に日本橋など下町商業地区の旦那衆が移り住んできて形成されたものです。
同じ頃,城南地区では現在の東急資本の前身が田園調布などの宅地開発をしていますから,これと同世代の住宅地と言えるかもしれません。

京成線は,向島から荒川・足立・葛飾・江戸川といった住工混在地区を走っているので「下町」(というよりは“場末”。「下町」と言えるのは,旧15区の本所・深川まで。柴又をはじめとする旧南葛飾郡は下町には入らないよな,というのが私の感覚です)のイメージが強いのですが,江戸川を渡り,海神を過ぎて船橋の手前のガードで総武線を乗り越すまでの区間は,ずいぶんと雰囲気が違っていました。
もう1箇所,千葉線の稲毛~新千葉間も,「県都千葉」の住宅街という雰囲気を醸していました。

千葉街道をはさんだ総武線の走るあたりは砂洲の南側の低湿地で,おそらく総武線はかつて田んぼの真ん中を走っていたのでしょう。私が記憶している30数年前は既に市街地になっていましたが,市街化したのはおおよそ戦後になってからのことです。
こちらは,新小岩・小岩と続く“場末”の雰囲気がそのまま延長していますね。

ともかく,こうした都内から連続する町の雰囲気は船橋で断絶していました。
ここで地形が変わることもあって,台地上を走る総武線でも海岸を走る京成線でも次の津田沼までの間で市街地が途切れてていたのです。
奇しくも,旧東葛飾郡と旧千葉郡の郡境(現船橋・習志野市境)に一致します。

ついでに…
1969年に西船橋に乗り入れた頃の地下鉄東西線は,南砂町の手前で地下にもぐり込むまで,ひたすら“人煙まれ”な田んぼの真ん中を走っていました。荒川・中川(放水路)の最下流を渡る鉄橋のあたりは「地の果て」という雰囲気でいっぱいでした。
例外は,昔の漁師町の上をまたぐ浦安駅周辺だけ。とにかく,寂しいところを走っている,というイメージが強烈にあります(快速が西船橋から東陽町までノンストップだったのは当然です)。
あまり気にせず利用していて,1975年ごろ,ふと行徳駅のあたりにマンションが建ち始めたのに気づいて「あれっ?」と思った途端,見る間にすき間なく住宅やマンションで埋まってしまいました。
今では,開通当時のあの雰囲気はとても想像できません。
[27070] 2004年 4月 9日(金)01:17:30【1】Issie さん
本千葉 → 京成千葉 → 千葉中央
[27052] faith さん
かつては本当に「中央」にふさわしいところだったようです。

実は,現在「千葉中央」駅となっている旧京成千葉駅は,もともとは国鉄・房総東線(現外房線)の「本千葉」駅でした。
戦後に行われた千葉都心区域再開発のメインは,もちろん1963年の国鉄千葉駅の移転による対房総方面スイッチバックの解消(←これは国鉄の要望)と新駅前の中心業務区域整備(←これは千葉市の要望)にあるわけですが,これが千葉市中心区域の交通体系に玉突き的な変動をもたらしました。

1:国鉄千葉機関区の移転。ここが(新)千葉駅の予定地。
2:房総東線・本千葉駅の蘇我方面への移転 →現・本千葉駅。
3:房総東線を乗り越え,千葉市都心部に乗り入れていた京成千葉線の付け替え。旧交差地点手前から房総東線に並行し,旧本千葉駅の位置に京成千葉駅が移転。
4:国鉄千葉駅の移転。千葉駅移転の代償として,総武本線上の旧千葉駅佐倉方に東千葉駅開設。
5:移転と同時に房総東線の付け替え。(新)千葉~都川間の高架化。
6:やや遅れて,並行する京成千葉線も高架化。
7:国鉄千葉駅脇に,京成線国鉄千葉駅前駅開設。

千葉駅の移転が行われるまでは,国鉄千葉駅前と県庁とを結ぶ栄町・千葉銀座の通りがメインストリートでした。そしてこの通りと,登戸(のぶと)方面から入る国道14号線とが交差するあたりが最も繁華な交差点であったようです。
この交差点の,まさに前に元の京成千葉駅がありました。

一連の再開発で最も割を食ったのは,やはり京成と言わざるを得ません。
都心撤退の代償として国鉄から旧本千葉駅の位置を譲られたものの,それまでの位置よりワンランク落ちるのは否めません。
ただ,わずかに幸いしたのは,国鉄千葉駅の移転によって,(新)千葉駅から新しいメインルートが整備され,(新)京成千葉駅から見て千葉銀座通りよりも1本手前の通りに重心が移り始めたことでした。
結果として1960年代後半から70年代にかけて,(当時の)京成千葉駅から千葉銀座にかけての一帯が都心としてにぎわいました(ただし,千葉銀座通りは裏通り化してゆきます)。

ところが80年代以降,セントラルプラザや京成千葉駅の周辺の停滞ないしは衰退が急速に目に見えてきました。
それに比べれば国鉄千葉駅周辺はまだそれほど顕著でもなく,「そごう」は確かに“巨大化”したけれど,じゃあ,センプラ周辺の分も発展したのかと言うと…

どうも,そうではないような気もしますね。
90年代以降はごくたまにしか千葉へ行くこともなくなったのですが,むしろJR千葉駅周辺も含めて,千葉市の都心自体が停滞傾向にあって,その中で千葉中央駅周辺の衰退が目につく,ということではないか,とも思います。
指定都市となった千葉市の“発展”は,都心への集積ではなくて,都心の拡散なのではないか。
都賀駅周辺や埋立地の変貌は,私の知っている頃と比べて目を疑うばかりです。

旧幕張…は,あいかわらずですが。

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