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>ただ、市川市は衛生都市として発展したって色んな場所に書いてあるんですけど、松戸市はなんか、ただの東京のベッドタウンであるような感じに言われてます。
「衛星都市」と「ベッドタウン」とは使われ始めた時期と意味合いに若干の違いがあるのですが,結局のところ意味する中身に大きな違いはありません。
この場合はどちらも,「東京」という大都市の圧倒的な影響下で独自の都市圏を持たず大都市圏の機能の一部を担っている(「ベッドタウン」ならば,“寝る”という機能。…もちろん,それだけでなく“住まい”“生活する”という機能だけど)都市ということになります。
現在では市川市も松戸市も「ベッドタウン」という機能が一番大きくなっているけれども,元々はお互いにかなり性格の違う都市(集落)でした。
松戸は江戸時代に水戸街道の宿場として発展をしました。市川(および八幡・中山)は佐倉街道が通過するわけですが,宿場としてはここを飛び越えた船橋(および海神)の方が発展していて,この点で松戸とは比較になりません。もっとも,市川は江戸川を渡る渡津(としん)集落,八幡は木下(きおろし)街道との交差点,中山は日蓮宗の名刹である法華経寺の門前町,という独自の機能をそれぞれ持っているのですが。
(蛇足ながら,「佐倉街道」は現在の千葉街道(国道14号)・成田街道(国道296号)の前身です。ただし,江戸川以西の東京都内で,両国橋から小松川を経て小岩にいたる現在の国道14号(千葉街道)のルートは明治になって新設されたもの。江戸時代の佐倉街道は奥州街道・水戸街道の北千住宿から水戸街道とともに東へ向かい,葛飾区の新宿(にいじゅく)で水戸街道と分れて小岩へ至り江戸川を渡る,というルートでした。葛飾区の柴又4丁目にある「桜道中学校」というのがその名残を伝えています。)
というわけで,明治・大正期までは松戸の方がずっと優勢でしたから,「東葛飾郡役所」をはじめとする行政機関は松戸に置かれました。この構造は現在も変わらず,「東葛支庁」をはじめとする県や国の出先機関の多くが松戸にあります。
東葛飾郡内の東京湾岸地域(葛南地域:現市川市・浦安市・船橋市)については船橋が行政機能の一部を分担していますが,多くの場合,それは松戸のワンランク下,東葛地方北部の中心である野田と同格であるように思われます。市川は,さらにワンランク下ですね。
市川が成長するきっかけになったのは1923年の関東大震災です。
それ以前から東京市の都心3区(神田・日本橋・京橋)から周辺への人口の移動が始まっていたのですが,地震と火災で壊滅した下町住民の中・上層の郊外へ流出が加速されました。
このとき,現在の東急各線や小田急沿線とともに優良な住宅地として開発されたのが京成沿線の市川から海神にかけての地域でした。このことを背景に,市川・八幡・中山の3町と国分(こくぶん)村が合体して,千葉・銚子に続く「県内3つめの市」として1934年に「市川市」が成立します。
こうして成立した「市川市」は中山の毛織物工場などを除けば産業の集積度は小さく,経済的には東京に従属する典型的な「衛星都市」として人口を増加させていきます。都心へのアクセスは当初,京成の方が優位にたっていましたが,国鉄総武線が電化されて御茶ノ水への乗り入れが実現して以降,徐々に総武線が優位に立つようになります。
こうして東京との結びつきが強まる一方,行政機関の従属関係以外での松戸との結びつきは細っていくことになります。
松戸は長い間,常磐線の電車区間の終点として東京の通勤圏には入っていたのでしょうが,住宅都市としての発展は市川に遅れをとりました。松戸町が馬橋・高木の2村と合体して「松戸市」になったのは1943年。船橋・館山・木更津につづく「県内7つめの市」ですね。
むしろ松戸は戦中から戦後にかけて江戸川沿いに進出してくる工場を背景とする工業都市としての性格の方が目立っていたかもしれません(江戸川沿いへ工場の進出は市川も同じですが,1955年に編入されるまで,そこは「行徳町」でした)。
松戸が本格的に住宅都市となるのは,1950年代以降,常盤平をはじめとする公団の大規模な住宅団地が新京成沿線の台地上に次々と建設されるようになってからですね。以後,急速に松戸市は「ベッドタウン」としての性格を強めます。
私は市川市の市川地区に住んでいたこともありますが,松戸との結びつきを実感したことはありません。バス交通がずいぶんと細ってしまった現在でも市川駅と松戸駅の間に京成バスが頻繁に運転されていますから,沿線の局地的なつながりは強いかもしれません。でも,私自身の経験もそうですが市川駅と松戸駅とを乗り通す乗客はそう多くはないと思います。
上記の通り,行政機関の従属関係を除けば,市川と松戸との結びつきは現状ではかなり薄い,あっても局地的なものに限られるように思います。
蛇足ながら,
総武線沿線で育った私にとって,常磐線沿線は同じ千葉県でも“別の県”のように感じていました。房総半島の先端や銚子方面以上に。