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ものづくりに生きる! —世界に轟く町工場—

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記事数=21件/更新日:2004年12月11日/編集者:special-week

ものづくり産業は、都市を根底から支えている産業である。ものをつくることこそが、産業の基礎であり、ものづくりなくしてまちは発展しないといっても決して過言ではない。以前なら町工場はまちの至るところで見ることができたが、第1次産業が斜陽化した今では、その光景をなかなかみることはできない。しかし都心でもなお中小の町工場が世界に名を馳せるようなものづくりを行っている。

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[1235]2002年4月10日
深海魚
[1621]2002年5月25日
Issie
[1999]2002年6月26日
YSK
[3415]2002年9月29日
Issie
[3740]2002年10月10日
ニジェガロージェッツ
[5137]2002年11月20日
YSK
[6535]2002年12月16日
Issie
[7555]2003年1月11日
TN
[8788]2003年2月6日
ペーロケ
[9563]2003年2月21日
BANDALGOM
[9585]2003年2月21日
ペーロケ
[9594]2003年2月21日
YSK
[9607]2003年2月22日
ペーロケ
[9763]2003年2月25日
かつ
[9765]2003年2月25日
まがみ
[9810]2003年2月25日
かつ
[14858]2003年5月7日
三丁目
[14938]2003年5月8日
三丁目
[35649]2004年12月10日
じゃごたろ
[35650]2004年12月10日
N-H
[35659]2004年12月10日
猫使い

[1235] 2002年 4月 10日(水)12:53:48深海魚[雑魚] さん
>>1234
大根の印象が強過ぎるのか、練馬区は不当に田舎視されて居る
側面が強い様に感じます。(光が丘を除く。) 品川ナンバーは
確かに人気ですね。多分、港区(麻布、高輪)、渋谷区(松涛)、
世田谷区(成城)辺りの高級なイメージが先行するのでしょう。
町工場が密集して日本の工業を陰で支える、大田区なんてのも
在るんですけどね。

斯かる事情から、大手私鉄にもブランド意識は反映されており、
やはり小田急や東急が人気処ではないかと。
[1621] 2002年 5月 25日(土)11:13:00Issie さん
人名地名:つづき
もし人名に由来する自治体名を列挙しようとするなら,取り上げる基準は明確にしておいたほうがいいかもしれませんね。
漠然と「昔のこのあたりのり領主」にちなむ名前とするときりがない。
外国のレニングラードとかスターリングラード(ありゃ,どちらもソ連だ。しかも今は改称されちゃった)と同じ意味での“人名地名”であるなら,「この町の礎を作り,この町を発展させた“誰々”の偉業を顕彰して,彼の名前をわが町の名前としよう」と明確に意識して付けられたものに限ったほうがいいでしょう。

その意味で「豊田市」はどうか,というと…
よく人名にちなむと考えられているけど,ここの「豊田」は豊田一族の具体的な人の名前ではないですね。トヨタの基礎を築いた「豊田佐吉」かっていうと,実はこの人は挙母町(豊田市の旧名)には全然関係がない。
挙母町がトヨタとつながりを持つのは,ここに系列の自動車工場がやってきてから。もちろん,自動車会社の経営者は豊田一族だけど,その自動車会社はもはや豊田○○氏個人の人格ではない。あくまでも「企業」の名前ですね。
「豊田市」というのは「豊田○○」という個人の名前ではなく,「トヨタ」という自動車会社の名前をとったと考えるべき。人名ではなくて,企業名による地名とするべきです。
実際,豊田市のHPでは“自動車の町”ということは強調されているけど,豊田一族の個人名は出てこないのですね。
[1999] 2002年 6月 26日(水)21:59:44YSK さん
南浦和についていろいろありがとうございます
レス拝見しました。

南浦和について、たくさんの意見をいただき、興味深く読ませていただきました。
ほんとうに、ありがとうございました。

私は、「城南」というと、大田区蒲田~羽田付近の工業地域を指す「城南工業地域」を連想します。
このあたりは、大きな工場などはあまりないのですが、中小の町工場が集積し、切磋琢磨して技術を磨いてきた歴史があります。

近現代の日本の高度成長を底辺から支えた職人と技術のまちです。
[3415] 2002年 9月 29日(日)14:13:56Issie さん
市川と松戸
[3403]
>ただ、市川市は衛生都市として発展したって色んな場所に書いてあるんですけど、松戸市はなんか、ただの東京のベッドタウンであるような感じに言われてます。

「衛星都市」と「ベッドタウン」とは使われ始めた時期と意味合いに若干の違いがあるのですが,結局のところ意味する中身に大きな違いはありません。
この場合はどちらも,「東京」という大都市の圧倒的な影響下で独自の都市圏を持たず大都市圏の機能の一部を担っている(「ベッドタウン」ならば,“寝る”という機能。…もちろん,それだけでなく“住まい”“生活する”という機能だけど)都市ということになります。
現在では市川市も松戸市も「ベッドタウン」という機能が一番大きくなっているけれども,元々はお互いにかなり性格の違う都市(集落)でした。

松戸は江戸時代に水戸街道の宿場として発展をしました。市川(および八幡・中山)は佐倉街道が通過するわけですが,宿場としてはここを飛び越えた船橋(および海神)の方が発展していて,この点で松戸とは比較になりません。もっとも,市川は江戸川を渡る渡津(としん)集落,八幡は木下(きおろし)街道との交差点,中山は日蓮宗の名刹である法華経寺の門前町,という独自の機能をそれぞれ持っているのですが。
(蛇足ながら,「佐倉街道」は現在の千葉街道(国道14号)・成田街道(国道296号)の前身です。ただし,江戸川以西の東京都内で,両国橋から小松川を経て小岩にいたる現在の国道14号(千葉街道)のルートは明治になって新設されたもの。江戸時代の佐倉街道は奥州街道・水戸街道の北千住宿から水戸街道とともに東へ向かい,葛飾区の新宿(にいじゅく)で水戸街道と分れて小岩へ至り江戸川を渡る,というルートでした。葛飾区の柴又4丁目にある「桜道中学校」というのがその名残を伝えています。)

というわけで,明治・大正期までは松戸の方がずっと優勢でしたから,「東葛飾郡役所」をはじめとする行政機関は松戸に置かれました。この構造は現在も変わらず,「東葛支庁」をはじめとする県や国の出先機関の多くが松戸にあります。
東葛飾郡内の東京湾岸地域(葛南地域:現市川市・浦安市・船橋市)については船橋が行政機能の一部を分担していますが,多くの場合,それは松戸のワンランク下,東葛地方北部の中心である野田と同格であるように思われます。市川は,さらにワンランク下ですね。

市川が成長するきっかけになったのは1923年の関東大震災です。
それ以前から東京市の都心3区(神田・日本橋・京橋)から周辺への人口の移動が始まっていたのですが,地震と火災で壊滅した下町住民の中・上層の郊外へ流出が加速されました。
このとき,現在の東急各線や小田急沿線とともに優良な住宅地として開発されたのが京成沿線の市川から海神にかけての地域でした。このことを背景に,市川・八幡・中山の3町と国分(こくぶん)村が合体して,千葉・銚子に続く「県内3つめの市」として1934年に「市川市」が成立します。
こうして成立した「市川市」は中山の毛織物工場などを除けば産業の集積度は小さく,経済的には東京に従属する典型的な「衛星都市」として人口を増加させていきます。都心へのアクセスは当初,京成の方が優位にたっていましたが,国鉄総武線が電化されて御茶ノ水への乗り入れが実現して以降,徐々に総武線が優位に立つようになります。
こうして東京との結びつきが強まる一方,行政機関の従属関係以外での松戸との結びつきは細っていくことになります。

松戸は長い間,常磐線の電車区間の終点として東京の通勤圏には入っていたのでしょうが,住宅都市としての発展は市川に遅れをとりました。松戸町が馬橋・高木の2村と合体して「松戸市」になったのは1943年。船橋・館山・木更津につづく「県内7つめの市」ですね。
むしろ松戸は戦中から戦後にかけて江戸川沿いに進出してくる工場を背景とする工業都市としての性格の方が目立っていたかもしれません(江戸川沿いへ工場の進出は市川も同じですが,1955年に編入されるまで,そこは「行徳町」でした)。
松戸が本格的に住宅都市となるのは,1950年代以降,常盤平をはじめとする公団の大規模な住宅団地が新京成沿線の台地上に次々と建設されるようになってからですね。以後,急速に松戸市は「ベッドタウン」としての性格を強めます。

私は市川市の市川地区に住んでいたこともありますが,松戸との結びつきを実感したことはありません。バス交通がずいぶんと細ってしまった現在でも市川駅と松戸駅の間に京成バスが頻繁に運転されていますから,沿線の局地的なつながりは強いかもしれません。でも,私自身の経験もそうですが市川駅と松戸駅とを乗り通す乗客はそう多くはないと思います。
上記の通り,行政機関の従属関係を除けば,市川と松戸との結びつきは現状ではかなり薄い,あっても局地的なものに限られるように思います。

蛇足ながら,
総武線沿線で育った私にとって,常磐線沿線は同じ千葉県でも“別の県”のように感じていました。房総半島の先端や銚子方面以上に。
[3740] 2002年 10月 10日(木)01:55:57ニジェガロージェッツ さん
[3714]ロシアネタの続き
[3717]雑魚さん。[3733]Issieさん。詳細なフォロー有難うございます。

ロシアの重複区名について、ロシアのHP、[www.mojgorod.ru] で区(rajon,okrug)を有する都市を全てあたり、区名を列挙する作業を夜帰宅してから始め、[3714]にまとめ上げた頃には夜中3時近くになってしまいました。もっと解説的なことも書いておきたかったのですが時間も時間でしたので碌に誤りの確認もせず、書き込みをしてしまいました。(今日の仕事中の眠たかった事・・)Issieさんのご指摘通りPとRを間違うというロシア語常習者特有の間違いをしていました。(あと、HとN,CとSをよく間違うのですが・・)
あとロシア文字からのローマ字への翻字法ですが、私の場合ロシアの友人と電子メールをやり取りする際、お互いに「イー」と「イ・クラートコエ(短い・イ)」を区別するため前者を I 、後者は J で表わすようにしています。また「ウィ」は Y で、「ユー」と「ヤー」はそれぞれ Yu と Ya に翻字していますが、「イェー」と「エー」は混同することが少ないのでともに E としています。
それと、ロシアの地方自治制度上の rajon(ラヨン)と okrug(オークルク)の違いですが、モスクワ市のオークルクは別格でソ連時代にあった32のラヨンを10のオークルクに統合したもので、それぞれ60~130万人の人口を擁しています。ですが、それ以外の地方都市における両者の違いについては正直なところ判りません。大体において人口7~30万ぐらいの規模です。
また rajon を敢えてカタカナで書く場合、以前は私もIssieさんと同じく「ライオン」としていましたが、発音に沿って書けばアーカッチ、オーカッチの違いなく「ラヨン」と発音するようで、岩波ロシア語辞典にもそのように注記しています。それにしてもフランス語に同じ単語があったとは驚きです。因みにロシア語では「デパートの売り場」は otdel です。

さて、雑魚さんがお感じのようにすでにソ連崩壊から10年以上も経ちますが、こと区名に関しては未だに「ガチガチのソ連」が健在です。
ご指摘のように「十月(十月革命)」「ソビエト」「メーデー」「プロレタリア」などは典型的なイデオロギー関連の用語ですが、それ以外にもソ連創設期に活躍した人名を冠するものが多く、以下、

レーニン     ロシア革命の指導者、ソ連の創設者。1924年脳梗塞で死去。
キーロフ     革命家。1934年暗殺。
フルンゼ     革命家、軍人。1925年手術の失敗で死去。
ジェルジンスキー 革命家、KGBの創設者。1926年死去。
カリーニン    共産党活動家。1946年死去。
オルジョニキーゼ 革命家。1937年スターリンと衝突し自殺。
スヴェルドロフ  共産党活動家。1919年急死。
ヴォロシーロフ  軍人、ソ連初の元帥。1969年死去。
クイビシェフ   革命家。
ロモノーソフ   18世紀の学者、詩人。

などです。また、「自動車工場」や「トラクター工場」など、いかにも労働者本位(建前だ!)のお国柄が伺えそうです。
余談ですが、ニジニノヴゴロドに住んでいた時「自動車工場(アフタザヴォーツカヤ)」と言う名のウオッカが売られており、私も料理酒がわりに買っていました。確かに自動車工場はニジニノヴゴロドのシンボル的存在ですが、飲料につけるような名称には思えず、感覚的に違和感を覚えましたが(まるで神戸・灘の清酒に「造船工場」と銘うつようなもの)、当のニジェガローツィ連中にとっては極あたりまえの名称だそうで、何の違和感もないようです。
こんな感覚ですから、イデオロギー色の強い区名などは全く気にもしないのではないのでしょうか。第一、ロシアでは住所に区名を書きません。市名の次には通り名(町名)、次に住居番号です。このためかどうか解りませんが通り名はよく歴史的旧称にもどされたのを見かけます。私見ながら近い将来もこのままの区名で押し通すのでは?と思っています。ニジニノヴゴロド市モスクワ区のHPに以前この区の名称が「スターリン区」だったと紹介されていましたが、さすがにスターリン批判の時代に改称されたようです。

市名についてはソ連時代に改称させられた都市名の多くが旧称に戻されました。
ご参考までにソ連崩壊前後にロシアで旧称にもどされた都市名を列挙します。(これも数え上げればキリがないのですが、とりあえず主なもの)

レニングラード    →  サンクトペテルブルグ
カリーニン      →  トヴェーリ
ゴーリキー      →  ニジニノヴゴロド
アンドロポフ     →  ルィビンスク
ブレジネフ      →  ナベレージヌィエ チェルヌィ
クイビシェフ     →  サマーラ(サマーラ州)
クイビシェフ     →  ボルガル(タタールスタン共和国)
オルジョニキーゼ   →  ヴラジカフカス
スヴェルドロフスク  →  エカテリンブルグ

州都の都市名が変わり、州名も変わったのは
        ( )内は現地での発音にそって書いてみました。
クイビシェフ州(クィブィシェフスカヤ オーブラスチ)→ サマーラ州(サマールスカヤ オーブラスチ)
カリーニン州(カリーニンスカヤ オーブラスチ)   → トヴェーリ州(トヴィルスカーヤ オーブラスチ)
ゴーリキー州(ゴーリカフスカヤ オーブラスチ)   → ニジニノヴゴロド州(ニジェガローツカヤ オーブラスチ)

州都の都市名が変わったにも拘らず州名の変わっていないのは
レニングラード州(リニングラーツカヤ オーブラスチ)
スヴェルドロフスク州(スヴィルドローフスカヤ オーブラスチ)

州都の都市名、州名ともに変わらないのは
キーロフ [歴史的旧称ヴャートカ]、キーロフ州(キーロフスカヤ オーブラスチ)
ウリヤノフスク[同、シンビルスク]、ウリヤノフスク州(ウリヤーノフスカヤ オーブラスチ)
カリーニングラード[同、ケーニヒスベルグ(ドイツ領)]、カリニングラード州(カリニングラーツカヤ オーブラスチ)

その他、イデオロギー色の強そうな都市名
トリヤッチ[ウリヤノフスク州、歴史的旧称スタヴロポリ]・・イタリア共産党員の名、旧称は北カフカス地方の大都市スタヴロポリと紛らわしい。
エンゲリス[サラトフ州、歴史的旧称ポクロフスク]・・旧ヴォルガ・ドイツ人自治州(戦時中に解体)の州都

[3717]
>モスクワのレニングラード駅(現在は改称?)

Issieさんの仰るとおりレニングラード駅(リニングラーツキー ヴァグザール)のままです。
モスクワ地下鉄の駅名はかなり変わりましたが。

>一つの駅が複数方面の路線を集約するという事は基本的に無いのでしょうか。

詳しくは判りませんがモスクワの場合、方面としては「基本的に無い」と思います。ただ、似たような方向に行く列車でも別々の駅から発車していました。たとえば、同じニジニノヴゴロド行きの列車でも「ヤールマルカ号」はカザン駅(カザンスキー ヴァグザール)から、「ニジェガロージェッツ号」はクルスク駅(クールスキー ヴァグザール)の出発でした。

[3733]
>「カリ―ニングラード」は「ケーニヒスブルク」に戻るんでしょうか。

私は「戻らない」と思います。ソ連崩壊当時にカリ―ニングラード市民に市名についてのアンケートを取ったのが日本の新聞記事に出ていましたが、かなりの高率(92パーセントぐらいだったか?)で「ケーニヒスベルク」に改称すべきとの意見だったように記憶しています。が当時、ロシアの飛び地となったカリーニングラード州そのものがドイツに売却されるのでは?との噂が広まり、当局の神経を逆撫でしたことがありました。その辺りの警戒もあるのでは。
[5137] 2002年 11月 20日(水)21:46:52YSK さん
群馬の謎に迫る(足利市は栃木県ですが・・・)
[5127]実は小学生さん
>その掛川城も東海大地震でドカドカーッって崩れてしまわないか
>最近、とても不安です・・・。
そうですか。逆に考えれば、そういったことが起こると惜しいと感じられるほど素晴らしいお城なのでしょうね。是非行ってみたいですね。
それはそうと、太田市はある意味では「城下町」です。それは・・・、富士重工業の「企業城下町」。町の経済のかなりの部分が、この自動車メーカーの主要工場が立地することにより潤っています。「太田市スバル町」なんて町名もできてしまいました。
みなさん、もっとスバル車買ってくださいね~。

>ところで、群馬県で思うことをいくつか挙げます。鉄道ネタですが。

>◎両毛線ってなんであんなにくねくねしてるの?
作られた当時の目的のためですね。1889(明治22)年に両毛線は全通したのですが(山手線が一周完成するのより早かったのです)、両毛線の役割は、当時日本の主要輸出品であった生糸や絹織物を横浜港へ効率よく運ぶことでした。ですので、伊勢崎、桐生、足利、佐野などの、機業(織物を織る産業のことです)の盛んな都市を結ぶ格好になりました。群馬県の冬の風物詩「上毛かるた」の「ま」の札を紹介いたします。

繭と生糸は日本一(最近斜陽化の一途ですが)

>◎東武伊勢崎線、館林-太田間は足利へ北上、また南下していて、なんかやだ・・・
>東武小泉線の方がまっすぐで好き!
そうですね。私も、特急りょうもう号で北千住や浅草に向かうとき、足利を通るのが遠回りであるように感じることがあります。
これは、やはり両毛地域の諸都市を結んでいくという発想があったためでしょうね。いまでこそ太田市と足利市は似たような人口規模ですが、足利市(隣の桐生市も)の市制施行は1921(大正10)年と早く、東武線は1925年までには完成しますが、この当時足利や桐生はこの地域ではずば抜けた中心性を持つ都市だったのです。
また、小泉線ですが、こちらは太田と小泉に勃興した軍需産業との関連がありそうですね。現在の大泉町には東京三洋電機の大工場がありますが、かつては太田市の富士重工業の工場敷地などとともに、「中島飛行機」という、軍用の飛行機を作る工場でした(その中島飛行機は戦後解体され、今の富士重工業に発展したのです)。そういった工業地帯を結ぶ動脈として作られたのではないかと私は考えますね。

>◎東武小泉線は東小泉で分かれてるけどなんで?
熊谷市から北の妻沼町まで、「東武熊谷線」という電車があったのを知ってますか。この路線と小泉線の支線を結び、利根川を渡る新線を作る計画があったのです。このことについては、雑魚さんをはじめ鉄な方々の方がお詳しいと思いますので、詳細は省きますが、結局実現を見ることはなく、熊谷線は廃止されてしまいました。利根川には橋げたまで完成していたのです。今は完全に撤去されてしまいましたが。なお、西小泉駅より利根川に向かって、路線とすべく整備された線路があったそうなのですが、今では「いずみ緑道」という散策ルートに変わっています。

>◎大泉って小泉と大川の合成地名だと思うけど、小泉町でもよかったんじゃない?
>大川って村だし。それに東武小泉線もあるし、駅名も全部小泉ってついてるし。
確かに町の名前が「大泉」で、駅名は「小泉」とは、紛らわしいですよね。とはいえ、町であろうと村であろうと自治体に違いないのだから、村だから名前を残せないというのはちょっと飛躍したご意見ではないでしょうか?大泉町発足の時の様子を私は知る由もありませんが、両町村が合併するにあたり、対等合併という意味を含めて、今の名前を選択したのでしょう。現在の大泉町は人口4万を超え、製造業の発達により財政力も豊かで、県内唯一の交付税を受けない自治体です。また、都市化も進み、小泉町と大川村がどのあたりで境を接していたのかは、今では全く想像できません。

>◎前橋と高崎って合併しないの?でも岡山と倉敷と同じように合併しなさそう。
私も前橋と高崎は合併しないと思うし、この2都市が並立して県央地域を作る姿こそが群馬の地域性なのだと思っています。
前橋と高崎については、拙書き込み[3396][3365][3357][2768]で書いていますので、こちらを参照してくださいね。
[6535] 2002年 12月 16日(月)18:50:09Issie さん
倉敷
[6516] 雑魚 さん
[6519] 白桃 さん
>倉敷市・・・川崎製鉄となっておりますが、少し?です。

そうですねぇ。倉敷本体と水島は分けて考えた方がいいかもしれません。
そして倉敷といえば,「倉敷紡績(クラボウ)」「倉敷レーヨン(クラレ)」の城下町と言ってよかったのでは? 大原美術館がその象徴ですよね。

余談:
クラボウの創業者の大原家の社会事業を見ると,その昔“カルピス劇場(世界名作劇場)”の1978年作品として放送された「ペリーヌ物語」と,その原作の E.マロ『アン・ファミーユ(家なき娘)』を連想します。“空想的社会主義”を子供向けにわかりやすく説明してくれるような作品でした。
実際,アニメーション・スタッフは,作品後半の舞台となる紡績工場(北フランス・ピカルディ地方という設定)のモデルとして倉敷紡績の工場を取材したそうです。
このお話に登場する「パンダボアーヌ紡績工場」のある「マロクール村」は,まさしく企業城下町そのものなのですが,経営者のビルフラン・パンダボアーヌ氏(主人公ペリーヌの祖父)が地元の政界にかかわっている様子はアニメーションにも原作にも見受けられません。
ユゴーの『レ・ミゼラブル』で同じく企業城下町の「モンフェルメイユ・シュル・メール」を育て上げた企業主のマドレーヌ氏(実は主人公のジャン・ヴァルジャン)は周囲に推されて市長に就任しているんですけどね。
…いや,これは小説でのお話。

さらに余談:
マロの作品では『アン・ファミーユ(家なき娘)』よりも『家なき子(サン・ファミーユ)』の方がはるかに知られていますが,『アン・ファミーユ』が1880年代の作品なのに対して『家なき子』は1860年代の作品(だったかな)。
この20年の差は大きくて,産業革命初期の『家なき子』では当時の炭鉱の様子が詳しく描写されているのですが全体的にはまだ牧歌的です。ところが『アン・ファミーユ』の時代になると“女工哀史”の世界が垣間見えてくるのですね。アニメーションではオブラートに包まれていましたが,原作ではかなり直截的な描写も出てきます。早くも「社会主義」を必要とする段階に到達しているのですね。
物語そのものは『家なき子』の方が断然面白いのですが,周辺状況は『アン・ファミーユ』の方が面白い。そしてこのマイナーな作品を掘り出し,その原作に(当時は予想もできなかった)旧ユーゴスラビアの民族問題なんかもそこはかとなく盛り込んだりしてストーリーを膨らませたアニメーション・スタッフには感心します。
[7555] 2003年 1月 11日(土)00:18:01TN さん
三芳町を語る(やや長め)
[7513]YSKさん
>三芳町の地図を見ながらこの文章を書いていますが、、上富地区、北永井地区、そして東の藤久保地区と続く短冊状の地割に・・・
毎度我が故郷に注目して頂きまして、有難うございます。「短冊状の地割」に目を付けるところなど、さすが「地域マニア」を自認されるだけありますね。
http://www.pref.saitama.jp/A02/BH00/santome/santome2.htm(航空写真あり)

>役場南東の川越街道沿いに事業所が集積していますが、いわゆる工業団地・流通団地のような性格の場所なのでしょうか?
ご推察されますとおり、小規模ながら工業団地を形成しております。(川越・狭山、草加・八潮の工業団地には遠く及びません)
三芳町は、15歳以上人口の町外への通勤・通学流出が人口総数の4割、そのうちの5割が東京へ(人口総数の2割)という東京のベッドタウン的性格と上記工業団地等による生産流通機能を持つ町です。よって、昼夜間人口比率も比較的高いです。(YSKさんのご専門ですね)
有名どころを挙げますと
・大日本印刷
・銀座木村屋総本店(木村屋パン)
・T&K TOKA(旧東華色素)
・大崎電気
といった大工場があり、その他中小工場、物流倉庫などです。やや離れた役場北部にある、角田鉄工、上富の昭和鋼機所沢工場なども比較的大きな工場です。これらの工場は、昭和30年代の高度経済成長の時代のなかで、三芳村(当時)が取り残されまいと1959(昭和34)年に制定した「工場誘致条例」によるもので、その間順調に工場が増加したのですが、1963(昭和38)年には一挙に16もの工場誘致が決定したそうです。
三芳町がなんとか交付税不交付団体でいられるのは、これらの事業所からの税収によるところが大きかったのです。過去形で書きましたが、現在の社会情勢等により税収が落ち込んでいることもあり安穏としていられないのも現状です。財政力指数は年々下降し、まもなく1.0を割りそうな感じです。そして、交付税が不交付といえども、実際には一部を地方債(借金)で賄っているのが現状です。

ところで、端から見ると裕福に見える三芳町ですが
・小さめの区画整理事業(みよし台・竹間沢東)
・公共下水道の普及率を高めたこと
・新庁舎・文化会館建設(建設費 新庁舎45億円 文化会館18億円)
上記事業は完了し一定の基盤は整いましたが、
・幹線道路の歩道未整備
・住宅街の道路は狭隘
・県道沿いの商業集積は貧弱
・都市公園面積も小さい
ということで、町民の不満は結構あります。
新庁舎・文化会館建設はバブル期の遺産的計画なので、今もって批判があるのも事実です。
また、虫食い住宅地の間に残る畑地を区画整理し市街化する、といった事も藤久保地内では始まっておりますが、このご時世ですので進捗は鈍化しております。この畑は環境面で言えば残しておいた方が良いですが、季節風の強い冬季の砂塵の飛散や肥料散布時の臭気による苦情などもあるので、一概には論じることのできない部分ではあります。

念のため載せておきます。
項目富士見市上福岡市大井町三芳町
面積19.70km26.81km27.86km215.30km2
人口*103,157人54,367人45,270人35,128人
高齢人口比率11.8%15.7%10.0%11.5%
世帯数*40,055世帯22,640世帯16,710世帯12,587世帯
人口密度*1km2当たり5,236.3人7983.4人5,759.5人2,296.0人
財政力指数0.6200.7040.7571.004
昼夜間人口比率◆64.34%72.52%77.74%98.83%
人口1人当たり公園面積2.31m21.40m21.29m20.40m2
下水道普及率85.4%97.0%82.0%94.2%

*平成13年3月末現在 ◆平成7年国勢調査
出典:富士見市・上福岡市・大井町・三芳町合併協議会HP2市2町タウンデータ より調整
こちらもまた、鋭い洞察をされておりますので、ご参考にどうぞ。[3461]でるでる さん

>ある程度の伐採はあったとしても、周囲の雑木林の景観を生かし、敷地内に緑を豊富にするなどの工夫が必要ということでしょうか?

いまいちイメージが湧きにくいと思いますが、これを手助けするものとしてワイドミリオン全埼玉1:10,000地図を推奨致します。このシリーズはかなり正確に樹林地を表記してますので、機会があったらご覧になってみて下さい。役場関連施設はこの地区の雑木林を大きく伐採して造成されたことが解るかと思います。
なお、現地は申し訳程度に樹木が残されています。景観に配慮するという観点ならば、もう少し低層(2~3階)にし、意匠を凝らせば、雑木に隠れて周囲とマッチしていたかもしれませんですね。

>「環境を保全したほうが、破壊するより得」と思わせるような施策が必要ですね。

この町は、川越街道を境に西部のいわゆる旧住民と東部の新住民に大雑把に二分されますが、新住民居住の東部に平地林が僅かしか残されていない事も、いまいち保存に対する理解が得られにくい要因かと考えます。ですので、

>所沢市のくぬぎ山地域の緑地保全・再生のための基本方針がまとまったという報道がされました。
>樹木の伐採を厳しく規制する、産業廃棄物処理施設跡地における樹林の再生を進める、都市森林公園への指定を検討する・・・

「くぬぎ山」がクローズアップされたことを好機と捉え、これら行政の取り組みだけでなく住民側が進んでヤマの落ち葉掃き・下草刈り・間伐・植林などの体験を通じて保存・再生に努めるとか、グリーンレンジャーなどの案内員を置いて観察会をするとか、そういったことからこつこつ始めるしかないのかな、という気がしております。

「くぬぎ山」は川越・狭山・所沢・三芳に跨る1平方キロ強の平地林ですが、希少種オオタカなども生息しているという場所でして、その内部は昼なお暗く、富士の樹海のごとく迷子になりそうな、一人で行くには勇気のいる場所です(汗)。
[8788] 2003年 2月 6日(木)01:42:56【1】ペーロケ[utt] さん
周防岩國
[8738]雑魚さま
1929年の麻里布~岩国間開通時の「岩国」駅って、
今の西岩国なんでしょうか?
昔は、現在の岩国小学校のあたりまで電車が走っていたようなことを
聞いたことがあります。
よく見れば、西岩国から不自然な直線道路が伸びてますよね??

岩国市岩国周辺は、駅としては後発かもしれませんが、
吉川藩7万石の城下町として栄えました。
吉川元春の子、広家が出雲から岩国に転封された当時、
近隣に広い平野が少なく、麻里布や川下の三角州はもちろん、
山手町の白鷺八幡宮あたりまで瀬戸内海の入り江で、
今の門前川、今津川あたりには、
遠浅の干潟が広がっていたような風景が想像できます。
その錦川の河口部を干拓して平地を確保し、
その干拓地にはレンコンが植えられました。
明治期までは、岩国地区は城下町としての繁栄が見られる一方で、
麻里布地区は蓮田が広がっており、町はほとんど発達していませんでした。
現在でも麻里布より山側の室の木でも蓮田が見られるあたり、
当時の名残がみられます。
しかし、大正、昭和初期の相次ぐ巨大工場の立地を契機に、
いつしか海岸部の麻里布地区が、元祖である岩国地区を追い越したようです。

昭和20年の広島原爆投下時には、40キロ離れた広島より、きのこ雲が見えたそうです。
そして、岩国も終戦前日の8月14日に大空襲を受けました。この岩国大空襲により
麻里布地区は一面の焼け野原となりましたが、
その後は麻里布地区を中心に、目覚しい発展を遂げております。

しかし、岩国市の発展を阻害しているモノが二つあります。
一つは、ご存知のとおり米軍基地。
市内でも一等地、三角州の2/3を占領し、川下地区の治安悪化にも貢献しています。
あと一つは、室の木、山手町あたりで麻里布と西岩国を区分する小高い「山」
今でこそ団地になっておりますが、この山がなければ、
麻里布と岩国が一体となった市街地形成も可能で、
交通の便や工業の発展を考えれば、福山市程度の規模になっているかもしれません。
逆に、この山があるおかげで、近代的な麻里布地区より隔絶され、
未だに城下町のたたずまいを残しているのかもしれませんが。。。

しかし、道路整備が進んでいる山口県にあって、他の5大都市に比べて
岩国の道路整備の遅れが目立つのは、基地の影響もありますが、
前にここに書いたとおり、長州征伐で唯一、
幕府方に付いたという歴史的経緯の影響でしょうか??

岩国出身の有名人といえば、
佐々木小次郎(巌流島の戦いで有名な)
広兼憲史(部長 島耕作の作者)
宇野千代(女流作家)
松岡充(SOPHIAのボーカル)などなど。。。
山口県からは7人も総理を輩出しているのに、う~ん、政治家が出てこないですね。

分水界から最寄りの徳山湾まで僅か数km、錦川水系の奥深さが感じされます。
いえいえ、法華津坂付近の、肱川、四万十川水系の分水嶺が宇和海に接近している
あたりに比べれば、もうちょい距離がありますよ!!

分水嶺からの周南市(+下松市)方面は、神戸に似た細長い地形が特徴的ですね。

#しかし、題名が「考える」シリーズより、ヒロオさまかと思いました(笑)
[9563] 2003年 2月 21日(金)10:24:02BANDALGOM[地域研究家] さん
「常磐線沿線」より
[9524]uttさん
それと都会では、市町村単位よりも、「~沿線」といった言い方の方が便利ですね。
こうゆう言い方は、関東でもよくしますよね??
川崎に住む友達も「川崎」といわずに、「小田急沿線に住んでます」と自己紹介してました。
う~ん、少なくとも千葉県北西部ではこういう言い方はしないですね。
「柏」「松戸」「船橋」「市川」「浦安」と、市町村単位です。
まあ、千葉県が都会かと言われればそれまでですが(苦笑)。

川崎や横浜の場合、何本もの路線で都内と結ばれ、かつ「川崎」「横浜」では東海道線・京急線沿線のイメージが強いですから、東急沿線、小田急沿線の人たちが「川崎」「横浜」より「沿線」を使うのでしょう。
中野区や杉並区も中央線沿線のイメージが強いから、西武沿線、京王沿線の人たちは「沿線」を使うと思いますね。
また東急沿線、小田急沿線はそれだけで人の見る目が違いますから、「沿線」を使うと思います。
大田区の東急沿線だと、町工場のイメージも強いですし。


[9526]Issieさん
その結果,一関市は9番目,釜石市は11番目の市として扱われ,コード番号もそのように振られています。
両市の「合体新設」は市町村コード導入よりもずっと前で,最近の北上市の場合はそのような措置が採られていないのですが,両市のように後に回されるケースもあるかもしれません。
昭和の大合併の時の扱いが、コード番号設定にそのまま反映されたという格好ですが、コード番号導入後には新設合併でどちらか一方の名称を引き継いだ場合に関する限り、順番が変わっている例は見受けられませんし、新・静岡市はそのまま1番目の市ということになるのではないでしょうか。
[9585] 2003年 2月 21日(金)20:23:07ペーロケ[utt] さん
ああ、足利
[9575]YSKさま
地元では、正式名称である「足利市駅」よりは「東武駅」と言ったほうが話が通じます。
東武駅ですか。面白いですね。
松山では、松山駅と松山市駅がありますが、松山市駅のほうは「市駅」と呼びます。
いえ、呼ぶだけでなく、道路の看板までも、中心地方面を「県庁・市駅」と記述します。
他の「市駅」がある都市では、どうなのでしょうか??

みなさんも、このコース、辿ってみては、いかがですか?
足利市は、祖父が昔、小さな繊維工場を経営していて、
何回か連れていってもらった経験があります。
近所に小高い山があって、よくそこで従兄弟と遊んだものです。
あれからだいぶ経って、もう祖父も亡くなりましたけど、去年訪れる機会があって行きました。
既に工場もなくなり、おまけに区画整理によって周囲は昔の面影がありませんでしたけれども、
13年ぶりに会う親戚の人の優しさは相変わらずで、従兄弟も昔の面影を残したまま
成長していて、なんだか懐かしかったです。また機会があれば行ってみたいです。
[9594] 2003年 2月 21日(金)23:09:59YSK さん
足利トリコット団地
[9585]uttさん
レスありがとうございます。uttさんも、足利にゆかりのある方だったのですね。感激です。

そうですよね。松山では「市駅」という言い方をしてましたね。
一昨年秋の職場の旅行先は、土日を利用しての、松山。
短い滞在期間でしたが、空港について、夕方の宴会の前までの間、多くの人が疲れてホテルにいたり、道後にいったりしている中、私は1人内子に行ってましたね。
昨年夏は、大分県佐伯から高知県宿毛へフェリーで移動した後、宇和島、卯之町を経て、面河渓へと向かう旅をしてました。

話が横道にそれましたが、足利には、日本で最初の繊維工業を対象とした工業団地である「足利トリコット団地」がありました。渡良瀬川の南、山辺地区にあり、戦後間もなく、まだ足利の繊維作業がとても元気だった頃には、多くの繊維関連の工場が立地したようです。

現在は、それらの多くが撤退し、徐々に商業関連の土地利用に取って代わられました。また、足利市民プラザなどの公共施設も立地しています。国道293号線の沿線はロードサイド型の店舗が百花繚乱状態で、中でも最大のショッピングセンター「コムファースト(アピタ)」周辺は、休日ともなると車で溢れかえり、たいへんな繁忙振りです。

既に工場もなくなり、おまけに区画整理によって周囲は昔の面影がありませんでしたけれども、
このあたりと、「近くに小高い山がる」、などから、この足利トリコット団地だったのでは?と思ったりしてみました。
私も、物心ついた頃、現在のアピタのあるあたりが全くの空き地になっていて、閑散としていたことが思い出されます。
[9607] 2003年 2月 22日(土)01:10:55ペーロケ[utt] さん
足利の思い出
[9594]YSKさま
渡良瀬川の南、山辺地区にあり・・・この足利トリコット団地だったのでは?
いえ、残念ながら違います。
町名まではわかりませんけど、確か祖父の家は渡良瀬川の北で、市街地よりやや東です。
周囲は昔ながらの集落、田んぼ、そして両毛線がゴトゴトと走っておりました。
決して尼崎の阪神沿線のような工業地帯とは呼べませんが、足利の街自体が、工業団地立地以前より
繊維業が盛んだったのではと、当時の様子が偲ばれるような程度の環境でした。
今は区画整理で整然と住宅が建ち並び、田んぼも明らかに少なくなったような気がします。
祖父の工場は、小さな町工場でした。当時よく覚えているのは、
Tシャツを作っていて、手作業でプリントする工程です。
まず、真っ白なTシャツに、型を上から乗せ、その上に塗料を塗り、刷毛で均し、
乾燥させ、次に違う色の型を乗せて・・・といった手作業の繰り返しでした。
いわゆる、プリントごっこの原理ですけど、当時は不思議で仕方なかったです。
今では、おそらくこんな手間のかかる塗装の仕方をしていないのでしょうけど。。。

小高い山と言いましたけど、実は祖父が眠るお寺の裏山です。標高差で言えば、30m程度でしょうか。
花見のシーズンでは夜桜のためにライトアップされていて、非常に美しかったです。
その山に上って、関東平野が一望できそうな錯覚はありましたが、
当時、甲山から大阪平野を見慣れていた私にとって、関東平野の広さはそれだけで衝撃的で、
海が見えないことに、かえって不安さえ感じておりました。

あと、足利でカルチャーショックを受けたものもいくつかあります。
当時は当たり前のように使っていた「しんどい」が通じなかったことで、
初めて「しんどい」って方言なんだって実感しました。
今では「しんどい」は全国区になり、どこでも通じるのでしょうけど。。。
それと、番組名は分かりませんが「ヤーレンソーラン北海道」といったフレーズが何故か覚えています。
これは当時関西圏内では放送されていませんでしたけど、従兄弟たちの間では大ブレークしてました。
逆に、当時関西で流行っていた「4時ですよーだ」など、彼らはもちろん知る由もなかったのですけど。

「コムファースト(アピタ)」周辺は、休日ともなると車で溢れかえり、たいへんな繁忙振りです。
確かスケート場がありましたよね??今もあるのかな?
一回連れて行ってもらった記憶があります。
[9763] 2003年 2月 25日(火)00:25:55かつ さん
工業地帯と工業地域の定義
以前から北九州工業地帯は,全国に占める割合の低下等で,最近は「北九州工業地帯」ではなく「北九州工業地域」と呼ぶ場合もあるということは聞いたことがありましたが,「工業地帯」から「工業地域」への格下げ(?)は何かの定義のもとになされているのでしょうか?
「日本国勢図会」のCD-ROMでも「三大工業地帯」(京浜・中京・阪神)となって,北九州は除外されていました。
工業地帯・工業地域名は教科書や参考書,国勢図会にも出てくることから単なる地域の通称ではないような気がしますが,何をもってその名称がつけられ,その示す範囲はどうなっているのでしょうか?
国勢図会によると,例えば京浜工業地帯の出荷額の場合,京浜工業地帯=東京都・神奈川県の全域と定義されています。

ちなみに中学地理の教科書等には三大工業地帯のほかに
京葉工業地域
北関東工業地域(関東内陸工業地域)
鹿島臨海工業地域
東海工業地域
北陸工業地域
瀬戸内工業地域
水島臨海工業地域
詳しい参考書になるとこれ以外に大分臨海,仙台臨海,中央高地,道央などが載っています。
[9765] 2003年 2月 25日(火)00:38:38まがみ さん
Re: 工業地帯と工業地域の定義
[9763]かつ さん
「工業地帯」から「工業地域」への格下げ(?)は何かの定義のもとになされているのでしょうか?
私が中学校のときには、
工業地帯京浜・中京・阪神・北九州の4つで、比較的古くからあり、
わりと工場の立地範囲が密集しているようなところ
工業地域多くが最近になってからできたもので、
一地点に密集しているのではなく、広い範囲にまたがって工場が点在しているようなところ
というように教わったような(その先生の認識だったのでしょうか?)気がします。
でも、これをもって「工業地帯」「工業地域」の定義とは言えないでしょうね。

#全然答えにもなっていませんが…
[9810] 2003年 2月 25日(火)19:47:57かつ さん
続・工業地帯と工業地域
[9765]まがみさん
ありがとうございます。なるほど!私もそれに近い認識でいました…。
と言いたいのですが,小中学生のころは,それよりもっと短絡的で「地帯」は規模が大きい。「地域」はそれに準ずるもの。といった感じで理解していたと思います。なので北九州は規模が小さくなってきた(まがみさん説で言えば密集している箇所がはっきりしなくなった?)ので「地域」になったのかなぁ??という安易な考えなのです。
それにしても「地帯」から「地域」に呼び名が変わるということは,やはりどこかの誰かが決めていると思うのですが…それとも単なる慣例的な呼び名にすぎないのでしょうか?
[14858] 2003年 5月 7日(水)18:40:46【1】三丁目 さん
太白さんからの戴き物(その1)
[14050]太白さん
○苫東の無念:特に、今この場所がどうなっているのか気になります。
以下、我が地理アドバイザーが、一言もの申したいそうです。
というのも、私がコメントした「苫東は原野のまま」ではちょっと大雑把すぎる、との指摘がありました。私も仕事の関係で走り回っていた地域ですから、言われれば、ああそうだったなぁ、とイメージが沸いてくるので、せっかく書いてくれた友人の丁寧な原文に、若干の加除修正を加え(もちろん本人の了解を得ましたが)ご紹介したいと思います。それで。

苫東工業地帯は大きく3つのエリアに分けると説明しやすい、と友人は申しております。(行政的には6つに分かれ、臨空柏原地区、臨空東地区、臨海臨港地区、臨海東地区、臨海北地区、臨海西地区、となりますが、以下は原文を尊重します。)

1つめは苫小牧市街地に最も近い勇払北部の地域で、ここにはいすヾ自動車が早くから工場進出しています。

2つめは、苫小牧東港付近の浜厚真地区で、北海道電力の苫東厚真発電所と共同石油備蓄基地が早くから進出しており、近年はリサイクル施設や、サニックスという廃プラ燃料発電所も建設されています。また、東港にはフェリーターミナルができて流通拠点になりつつあり、海洋レジャーの普及から、マリーナ構想もあるとも聞いています。

3つめは、早来町遠浅に近い北部の柏原地区で、新千歳空港に近いという利便性から臨空工業団地として、自動車部品工場や、ハイテク関連の工場が進出しており、最も工業団地らしい体裁を見せています。

全体としては、重厚長大産業を意識した臨海部の広大な用地は、ほとんど空地のままで、内陸の一部地区だけが、臨空工業団地としてそこそこの発展をしている、といったところではないでしょうか。

なお、今の風景は、元々の原野が開発に失敗したためそのまま残っている、という印象がありますが、苫東構想以前には、既に開拓された土地だった部分もあります。だから、必ずしも手付かずの原野が、以前の姿のまま残っている、というわけではないようです。申し訳ありませんが、どのあたりが買収された土地で、どのくらいの割合か、等の詳細については、苫小牧市立図書館で調べる必要があるものですから、この程度の記述にとどめさせて下さい。

太白さん、重ね重ね、ありがとうございました。頂いた塩をかじりながら、書き込み日数を長らえているところです。[14732]uttさんには申し訳ないのですが、用意している胆振・日高関係は、書込めるまでにもう少し時間を頂けますか?そのかわり、4週間ほどの間に熟成?してくるはずですので。
[14938] 2003年 5月 8日(木)18:56:16【2】三丁目 さん
苫東の感想
[14905]太白さん
苫東については、「全体としては原野」なのでしょうが、それなりの工場等の進出もあるようですね。
拙稿[14858]で、補足してよかったぁと思いました。私には分かりきっていた地域なものですから、原野とは言え、そこそこ工場はあるのよという自分の認識を前提に、大雑把なお返事をしてしまいましたが、もしかして、工場等が進出していることは、意外と知られていないのでしょうか?たしかに、失敗例として名前はよくあがりますが、面積が広いだけに工場がまばらに立地しているためであって、集まっているところでは「それなりに」工業地帯を形成しています。
ちなみに、私はあの勇払原野が、いかにも原野らしい風景に感じられるから、とても好きなのです。
[35649] 2004年 12月 10日(金)16:46:46じゃごたろ さん
エバラ
こんにちは、じゃごたろです。

羽田空港の話題が出たついでというわけでもありませんが。

私は現在の職業柄、「荏原製作所」という企業があることは知っていました。しかし直接の担当ではないこともあり、どこの企業なのか、とか気にはしていませんでした。ところが、ある日出張で羽田空港に向かう際に、モノレールの中からふと外を見ると、荏原製作所の大きな工場が見えてきたのです。ただその時思ったことといえば、「こんな東京のいい所に工場があるんだ」といった程度のものでした。

その後、こちらの落書き帳にお世話になり、皆さんの書き込みを読んでいると、かつて東京には「荏原郡」があったというではありませんか。そこでようやく「荏原郡」と「荏原製作所」が結びつき、地名を冠した企業名であることを知ることになりました。

「エバラ焼肉のたれ」の「エバラ」は・・・、関係ないでしょうね。
[35650] 2004年 12月 10日(金)17:55:56N-H さん
「東京のいい所の工場」
[35649]じゃごたろさん
ようやく「荏原郡」と「荏原製作所」が結びつき、地名を冠した企業名であることを知ることになりました。
荏原製作所の沿革を見ると、確かに社名は地名の荏原郡に由来しています。
しかし設立当時に工場のあった場所は現在の羽田ではなく、東京府荏原郡品川町南品川だったとのこと。羽田移転時の現在の場所の住所は東京市蒲田区羽田でした。

「エバラ焼肉のたれ」の「エバラ」は・・・、関係ないでしょうね。
こっちの本社は横浜にあります。雑居ビルなんですよね。同じビルに私の子供が通ってた幼児教室みたいなのが同居してたのでよく知ってるんです。
社名は創業者の名前じゃないかと想像してますが、根拠はありません。

こんな東京のいい所に工場がある
確かに荏原製作所の羽田の工場は都内にあるわりには立派で大きいですね。
以前は東京都区内でもかなり大きな工場が多く立地していましたが、その多くは郊外へ移転したりしました。
私がよく覚えているのは日立製作所の亀戸工場で、総武線の車中からいかにも工場といった建物が良く見えたものです。跡地が現在の亀戸中央公園です。
さて、そんな中、都心に近いところでがんばっている比較的大きな工場にはどんなものがあるでしょう。
よく言われるのは印刷工場で、千代田区飯田橋付近に集中しています。ただし、とても「大きな工場」とはいえないような中小工場ばかり。国鉄の貨物駅がここにあって、そこから原料の紙を運んでいたように記憶していますが、その貨物駅も今はありません。
私が車窓からみていつも「こんなところに」と思うのが、新宿区にあるロッテの新宿工場。
新大久保の駅に程近く、本当にここでガムなんかを製造してるのでしょうかね。

都心からかなり離れたところになると、目だったところでは葛飾区の金町の西に三菱ガス化学と三菱製紙の大きな工場がありました。
ただし、三菱製紙のほうは工場は閉鎖になったようで、ついこのあいだまで活躍していたJR貨物の引込み線も廃線になったようです。

一方引込み線が健在なのは北区の王子5丁目にある十条コンテック。ただここは工場というより単なる倉庫みたいな感じです。
[35659] 2004年 12月 10日(金)23:03:00猫使い さん
ポンプもVVVF制御です。
都心にある工場ということでは、[35650]でN-H さんが述べているとおり印刷工場でしょう。
市ヶ谷の大日本印刷の工場はかなりの規模です。ここの市谷鷹匠町のほとんど、市谷左内町、そして市谷加賀町1の大半を同社の工場群が占めています
大崎のソニーの工場も大きいですね。

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