[7452]にて、富士市が編入合併ではなく対等合併であったことを指摘し、その後の都市構造の変遷をレスると公言しておきながら、やはり実際に行ったことがない場所について的確に表現することは無理だと思いレスを断念し、
[7452]を削除してしまったのですが、
[7465] すしさん が意見を募集していたことにレスがつかないようでしたので、やはり微力ながらこの点について書いてみようかなと思い直しました。
以下の内容は、片柳勉(2002)『市町村合併と都市地域構造』古今書院 のなかで述べられていることに準拠します。私が実際に見て感じたものではありません。予めご了承いただきたいと思います。
まず、富士市の沿革につきましては、
[7456]あんどれさん が詳しく述べられているとおりです。
<この地域が合併に至った経緯>
1950年代後半から、同一の社会・経済基盤を持つ地域であり、1つになって一体的な地域開発を行っていくことが望ましいとする声が、商工業団体から出始める。しかしながら、旧富士市と吉原市との確執から遅々として進まなかった。この合併話が前進した大きな要因は、1964年の工業整備特別地域への指定(東駿河湾地区)で、これにより再び合併への機運が高まった2市1町は、翌年に合併協議会を組織し、1966年11月に新・富士市が発足した。
<新市名・新市庁舎の市について>
新市の都市計画の方向性についても、旧富士と吉原との確執が大きく影響した。新市名については、旧富士、吉原双方とも自市名を新市名に採用するよう主張したが、鷹岡町に調整を依頼し、最終的に「富士」に落ち着き、吉原は譲歩をした。その一方で、新市庁舎については旧富士と吉原の中間を流れる潤井川左岸の吉原よりとし、新市庁舎の位置では旧富士が吉原に譲歩する形で決着した。
<中心市街地の成長の度合い>
このことについては、
[7465]すしさん の解説にある「新市街地の形成」は重要なキーワードであるようです。
>富士駅、吉原駅、旧吉原市街地、これらから同じくらいの距離のところに現在の
>富士市役所があり、その周りには、文化センターなどの施設もあります。このあ
>たりはきれいで広い道路があり、ここ数年開発されどんどん変わっています。
潤井川左岸、吉原の中心市街地の西側のこの地域が、新・富士市の新しい市街地として集中的な資本投下が行われたようです。これは、旧富士と吉原(と鷹岡)の中心地を有機的に結びつけて、多極的な中心地構造を解消することが企図され、合わせて既存市街地の再開発や、市内の工業開発をも推進しました。この新市街地の形成により旧市街地の中心性は相対的に低下したものの、旧富士、吉原の両市街地はこの新しい市街地を解して連接するに至った。93年には拠点都市地域に指定され、新富士駅周辺の再開発事業が新規に追加され、より分散的な中心地構造へと移り変わりつつある。
以上整理しますと、旧富士・吉原両市(及び鷹岡町)の対等合併により成立した富士市は、既存中心地間に新市街地を形成することにより既存中心地間の連接を目指す一方、既存市街地の再開発や市内における工業開発を進めてきた。その結果、旧富士・吉原(・鷹岡)を中心とした都市構造は、合併後の都市計画による開発の結果、分散的な都市地域構造へと変化しつつある、とまとめられそうです。