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ニジェガロージェッツさんの記事が10件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[42980]2005年7月13日
ニジェガロージェッツ
[42913]2005年7月9日
ニジェガロージェッツ
[42899]2005年7月8日
ニジェガロージェッツ
[42841]2005年7月6日
ニジェガロージェッツ
[42682]2005年6月30日
ニジェガロージェッツ
[42057]2005年6月8日
ニジェガロージェッツ
[41818]2005年6月1日
ニジェガロージェッツ
[41681]2005年5月28日
ニジェガロージェッツ
[41649]2005年5月27日
ニジェガロージェッツ
[41400]2005年5月20日
ニジェガロージェッツ

[42980] 2005年 7月 13日(水)00:01:48ニジェガロージェッツ さん
神戸市兵庫区に残る「幽霊村」
[42975] 星野彼方 さん
宣言通り、土曜日に踏切の確認をしました。久しぶりに西明石~新大阪間で快速電車前面かぶりつきを堪能いたしました。

確認作業お疲れ様でした。大変な作業だったようで頭が下がります。
実は小生も、この日曜日に「山ヶ坪第一踏切」の現場を確認して参りました。[42899]を投稿した際に、旧知の場所であるにも拘らず、
地図上で松風町4丁目と5丁目の境にあるここだと思います。
と、敢えて確証を持っていない様に表現を濁していましたが、これは現地周辺ではJR鷹取工場の廃止や、新駅設置計画などの影響で、若干状況が変わっているかも知れないと思ったからです。
改めて実際に見てみると、踏切には「山ヶ坪一」と書かれており、昔と同じ歩行者用の踏切ですが、以前はこの踏切を横断する長さ(踏切の反対側までの距離)は、山陽本線だけでなく鷹取工場への引込線も跨いでいたので、かなり長く、実際には二段構えの踏切になっていました。
今ではこの「二段構え」のうち、北側(鷹取工場への引込線)の踏切は撤去されており、今の踏切名が「山ヶ坪第一」となっていることから、もしかしたら撤去された北半分の踏切は「山ヶ坪第二」だったかも知れないです。あくまで小生の推測ですが。

田辺村、森村に続いて打出村も登場し、村踏切三兄弟というかんじです。
踏切名では今でも「村」が残っているのは面白いですね。
話をたもっちさんの[42833]「字名の“村”」コレクションに戻しますが、Yahooの郵便番号検索を見ると神戸市の旧市街地の兵庫区には、「東尻池村」と「御崎村」が大字名として残っています。どちらも旧林田区の範囲ですが、一部の国有地や鉄道敷地の一角が、昔のまま町名改正されずに残ってしまったようです。
「村」は付きませんが、同様の例として同じ兵庫区に「吉田新田」と「兵庫運河」が地図にも載らない「幽霊住所地名」として存在しており、地元の「神戸の町名」にうるさい人々の間では結構有名な話です。

神戸市兵庫区東尻池村と御崎村。愛比売命さん、どないですか??
[42913] 2005年 7月 9日(土)00:39:32ニジェガロージェッツ さん
「市区町村プロフィール」にある「施行日」欄より神戸市の区
「市区町村プロフィール」にある「施行日」についてのそれぞれの見解が話題になっていますが、小生もこのページの存在を知った3年前より気になっていることがあります。

それは地元神戸市の区の「施行日欄」にある日付ですが、ここに問題の箇所を引用すると

兵庫区1931.9.1
長田区1931.9.1
となっています。
これは、はっきり言ってしまえば「間違い」です。

神戸市に区政が実施され、当時の市域に区を設けたのは1931(昭和6)年9月1日ですが、当時の区は東から順に、灘区、葺合区、神戸区、湊東区、湊区、湊西区、林田区、須磨区の8区です。

つまり、この時点では兵庫区も長田区も存在していません。

神戸市に兵庫区が出来たのは、1933(昭和8)年1月1日。これは、当時の湊西区を単純に改名しただけでした。
一方、長田区の成立は1945(昭和20)年5月1日。林田区の大部分(一部が兵庫区と須磨区に移管)と須磨区の一部(おおよそ旧西代村の範囲)を合せての誕生でした。

但し、この「間違い」に気付きながらも、敢えて今日まで黙殺していたのは、小生なりに作成者であるグリグリさんの見解を尊重したからに他なりません。

つまり、グリグリさんほどしっかりとした考察をお持ちのお方が、敢えてこのような「間違い」を犯したのではなく、現在ある兵庫区と長田区の基となる行政組織は、1931年9月1日にそれぞれ湊西区と林田区という形で存在したとご理解なされた上で、両区の「施行日」欄に1931.9.1と打ったのだと小生は感じたからです。

ホームページの運営、特にデータを網羅的に並べるのには、データを解釈する上で、管理人の統一された見解というものが不可欠だと思います。
一方で、市町村制度が始まって以来、明治から平成の今日まで全国津々浦々で行われた合併などの行政組織の再編は、それぞれ複雑な地元の諸事情が絡み合い、それらを個人ホームページのデータに反映するには、実際問題として不可能です。
例えば、クリちゃんさんから[42876]にて静岡市の場合についての疑問を提示されていますが、ではIssieさんよりご紹介のあった[1346]姫路の場合、1946年に周辺の飾磨市・広畑町・網干町・大津村・勝原村・余部村・白浜町と対等合併した旧・姫路市の場合も施行日が1889.4.1では「間違い」となります。

このようなケースは静岡と姫路の場合だけではなく、それこそ全国各地にあります。
それを全国の行政組織の施行日データを網羅する際に、「間違い」なく反映出来るかと問えば、先ほど「実際問題として不可能です」と申し上げましたが、仮に出来るとしても、検証作業だけでも膨大となり、また解釈の尺度を考えても各地の複雑な事象を、A市の場合は「吸収合併」、B市の場合は「対等合併」などと個人の立場で判断せざるを得ず、実際問題として小生はそこまで管理人さんに負担を掛けるべきではないと考えます。

本当に好きでなければ出来ないでしょうが、全国の諸データを網羅するホームページの運営の難しさは、理屈抜きでやってみないと分からないですよ。
[42899] 2005年 7月 8日(金)02:16:30ニジェガロージェッツ さん
踏切レス
[42859][42882] 星野彼方 さん
田辺村踏切の位置の確認有難うございます。

拙稿[42841]にある
明治18(1885)年測量の2万分の1仮製地形図の復刻版を見ると、東海道本線の北に位置する田辺村集落より南へ伸びるかなりはっきりとした街路が、東海道本線を横切っています。
という箇所と、お教え頂いた踏切の位置を住吉川との距離で比べたところ、ほぼ一致しました。

[42855] 2005 年 7 月 6 日 (水) 12:59:05 たもっち さん
田辺村の中心部へ向かう道との交点だから田辺村踏切というのだと考えれば、これ以上ない明快な説明になると思います。
との仮説が、裏付けられた格好ですね。


[42883] 小松原ラガー さん
ただそこから先は三宮はおろか恐らく鷹取~須磨間(須磨駅の手前)までなかったかと思います。
JR線で三ノ宮以西で初めての踏切、言い換えれば(和田岬線を除く)山陽本線最東の踏切は、 鷹取~須磨間のほぼ中間、須磨区松風町にあります。地図上で松風町4丁目と5丁目の境にあるここだと思います。(近いうちに現地確認しておきます)

東西に細長い神戸の旧市街地を貫く東海道・山陽本線には、もともと至る所に踏切があり、事故も日常茶飯事だったと聞きます。神戸市民の悲願だった高架工事は大正15年8月に始まり、東海道本線灘駅から山陽本線鷹取駅までの高架が完成したのは昭和6年10月のことで、ようやく当時の神戸市街地部分から踏切が無くなりました。余談ですが、高架化以前の三ノ宮駅は現在の元町駅のところにありました。

#小松原ラガーさん、星野彼方さんと「神戸組」が増えましたね。喜ばしい限りです。これからも宜しくお願い致します。
遅くなりましたがご挨拶まで。
[42841] 2005年 7月 6日(水)00:01:29【1】ニジェガロージェッツ さん
東灘区本山町田辺
[42833] たもっち さん
神戸市東灘区本山にあった田辺村についてですが、明治22(1889)年まで存在した村名です。
東灘区役所が昭和51年に発行した「東灘区25年」という冊子によれば、昭和46(1971)年6月1日と昭和48(1973)年6月1日に田辺の市街地部分に新住居表示が実施され、現在「本山町田辺」という地名は山域のみに残存していますが、もともとは現在の本山中町4丁目、本山北町3丁目と6丁目、岡本1丁目と5丁目のそれぞれ各一部に跨っていました。丁度、JR摂津本山駅、阪急岡本駅の東側に隣接する南北に細長い地域です。
市町村制度が始まった明治22年に周辺の田中、野寄、岡本、小路、北畑、中野、森を合せた8か村で菟原郡本山村を形成し、明治29(1896)年の菟原郡廃止で武庫郡本山村となり、昭和25(1950)年10月の本山・本庄2村の東灘区編入まで「本山村大字田辺」でした。

JR神戸線田辺村踏切
東海道本線の大阪―神戸間の旅客営業運転開始が明治7(1874)年のことで、まぎれもなく「田辺村」を鉄道が走っていました。
当時この場所での踏切の有無は存じませんが、明治18(1885)年測量の2万分の1仮製地形図の復刻版を見ると、東海道本線の北に位置する田辺村集落より南へ伸びるかなりはっきりとした街路が、東海道本線を横切っています。
おそらくその名残が今でも踏切名として残っているのでしょう。

本題から逸れますが、本山町田辺の国勢調査人口データを提示しておきます。
言うまでもありませんが、1975年以降は人口が激減しているのは、新住居表示実施に伴い市街地部分が除外されたためです。
世帯数人口
19504461,934
19554571,941
19605552,187
19655762,087
19706282,024
19751336
19801762
19851965
19901760
19952173
20002163

【訂正】人口データを追加
[42682] 2005年 6月 30日(木)01:07:37ニジェガロージェッツ さん
非常にどうでも良い地名推理
[42667] 白桃さん 備中高松と四国高松
[42673] 打吹さん 仙台と川内

地名を利用した面白いトラベルミステリーのお話、有難うございます。
私が印象に残っている・・というか忘れられないものに、テレビドラマの「十津川警部シリーズ」の一つ、「シベリア鉄道殺人事件」があります。
東京・新宿での殺人事件の背景に、日本の商社の裏組織が関与するロシアの核兵器技術の中東某国への密輸計画があるとにらんだ十津川警部は、組織を追ってウラジオストク発のシベリア鉄道に乗り、沿線各地で様々な攻防を繰り広げ、ロシア人核技術者グループの密出国を阻止しようとする物語でした。

西村京太郎氏の原作では、物語が完結するのは旧ソ連・ポーランド国境にあるベラルーシのブレスト駅でしたが、テレビドラマでは、ソ連解体と時代の変化もあって、結末のロケーションが全く異なっていました。

テレビ版では、犯行グループは偽造パスポートでモスクワ近郊の目立たない空港から第三国に出国するものと断定し、犯行グループの一人に揺さぶりを掛けてその出国日時を聞き出そうとしたところ、事前に裏切りを察知したロシアン・マフィアに狙撃されて、ターゲットは「22日2時に・・・」とだけ言い残して絶命。

しかし、2時に出国する飛行機はどこにも無く、時間が解っていながらも場所が特定できずに苛立つ捜査陣は、やがてターゲットが言い残したのは「22日2時に・・・」ではなく、「22日、ニジニ・・・」言ったのではと気付き、犯行グループが全員、ニジニ・ノヴゴロドの飛行場で御用となる結末でした。
[42057] 2005年 6月 8日(水)00:11:00【1】ニジェガロージェッツ さん
裏富士、裏六甲、子供
「裏日本」という呼称についての見解が話題になっていますが、YSKさんが[42038]にて主張された一般論
(1)「裏日本」はマイナーな地域ではないのはもちろんのこと、そもそもマイナスイメージによって命名されたものではないこと。
(2)「裏」ということば自体がそもそもマイナスイメージを内包するものではなかったこと。
に賛同します。

この議論から思い出したことがひとつ。

[27622]愛比売命 さん
富士山なども気になるところですって書いたら、山梨の人に怒られそうですが。「甲斐から見る富士山が一番だ」と、某大河ドラマでも出たような気がします。

はい、間違いなく出ていました。
1988年放送のNHK大河ドラマ「武田信玄」でのひとコマでした。
今川義元治下の駿河国にて、今川義元、北条氏康、武田信玄が会合し、「三国同盟」が結ばれる場面でしたが、駿河からの富士の眺めを自慢する義元に対し、氏康は「近すぎていかん」と言い、更に義元が信玄に対して、「甲斐から眺める裏富士もさぞ美しかろう・・・」などと話題を振ったところ、
「わが甲斐では誰一人として『裏富士』などと呼ぶものは居らん。それもそのはず、駿河から見る富士は尻丸出しでござる。」
と言って反論し、一同大笑いとなるシーンでした。

これは、おそらく現代の感覚で「裏」がマイナスのイメージを前提としての脚本でしょうか。


ところで、[27622]愛比売命さんの記事にもありますが、神戸の六甲山では南斜面(神戸市街地側斜面)を「表六甲」、北斜面(北区側斜面)を「裏六甲」と呼んでいます。
実際に六甲有料道路にて、「表六甲ドライブウエイ」「裏六甲ドライブウエイ」が存在します。もちろん、この場合「裏」にネガティブな意味合いは全くありません。
但し、私見ながらこの「裏六甲」については、六甲山域の範囲で呼ばれていることで、それ以外の、例えば北区の住宅地について「裏六甲に住んでいる」とは一般には言われていないと思います。

[31428]みやこ♂[みやこ] さん
兵庫県 地獄谷 じごくだに 「裏六甲」でいいのかしらん?
はい、まさしく裏六甲です。上級者向けコースですが、地獄谷西尾根、地獄谷(沢登り)、地獄谷東尾根ともにハイキングコースです。小生も学生時代(20年以上前)にはよく歩いたコースです。


[42053]愛比売命 さん
あからさまに差別を助長することや誰が見ても卑猥な言葉などは絶対にしてはいけませんが、それに少しでもつながる可能性のある言葉までもを「全否定」って、なんだか腫れ物でも触るかのようで味気ないですね。この過剰なバッシングのおかげで、話せる語彙が少なくなって、日本語が薄っぺらな言葉になってしまわないか心配です。

全く同感です。
極端な例に当たるかも知れませんが、「子供」という表記さえ、差別的な表現として教育現場では用いることが問題視されるようです。
「子供」の「供」の字は、「お供」の字で、神仏のお供えや大人の付属物のような印象を与えることから、子供への人権侵害にあたるという解釈から、「子ども」と表記することが望ましいのだそうです。
しかし、これこそ的外れな解釈で、「子ども」という訳のわからないかな混じり表記の強制こそ「過剰なバッシング」以外の何物でもないと思います。
#「供」の字は小学校の高学年で習う漢字だそうで、この字を習うまでは「子ども」と書かざるを得ないのは仕方ないことかもしれませんが・・・。


【記事訂正】
記事検索すると「子ども」と表記されている皆様が意外に多く、「落書き帳」にて無用の議論を起こすことを避けるため、一部文章を変更しました。
[41818] 2005年 6月 1日(水)23:32:18ニジェガロージェッツ さん
旧淡路町の飛び地と再合併
[41812] ケン(地理好き) さん
昭和の大合併により一度は一緒になり、後に分町し、平成の大合併で再度合流した例として、兵庫県には淡路市の例があります。

[5211]拙稿、[39331]逆太郎 さん、[39392]EMMさんからの記事に、旧淡路町からの東浦町の分町に際し生じた淡路町の飛び地問題も含めて詳述されています。ご参考まで。

ところで、旧飛び地の郵便番号は

大字本体(東浦町)飛び地(淡路町)現在(淡路市)
釜口656-2334656-2371656-2334
仮屋656-2331656-2361656-2331
楠本656-2301656-2341656-2301
久留麻656-2311656-2351656-2311

となっていました。旧淡路町は656-2400がベース、旧東浦町656-2300がベースとなっていたので、東浦町内に点在した飛び地はいずれも東浦町の656-23ですが、末尾二桁で本体と区別されていたのが興味深いところです。
再合併による淡路市(旧淡路、東浦、津名、一宮、北淡の5町)の成立により飛び地は解消され、結果旧飛び地の郵便番号も無くなったようです。
[41681] 2005年 5月 28日(土)11:05:48ニジェガロージェッツ さん
Re:遠距離恋愛の経験もありますが
[41674] いっちゃん さん
ちなみにタイトルの距離は直線で約885キロでした。
この計測は、市役所経度緯度情報 都市間直線距離・方位角自動計算 いちごねっとを利用しました。結構面白いですよ。

これは結構使えます! 面白い情報ありがとうございました。

注意として、「北緯東経地域に使用できます 楕円回転体定義を除いた都市間の直線距離計算です」とありますが、この計算法は、地球を全周40000キロの球体として仮定しているようですね。(地球の裏側との距離を測ると計算結果が20000キロと出ました)
実際の地球では赤道の全周が40075.161キロ、子午線の全周が40008.006キロですから、地球の裏側との距離を計測したとしても、この程度であれば誤差の範囲でしょう。
なお、南緯や西経の地域でも、マイナスで入力すると計算可能のようです。

ちなみに小生のタイトルの距離は直線で約6932キロでした。
[41649] 2005年 5月 27日(金)01:43:41ニジェガロージェッツ さん
取揚島の謎、再び
[41633] hmt さん
岡山県が、漁業権に絡む“領海”を守り抜き、赤穂市への編入から取揚島を除外させた
という趣旨の記事は、既に県境の島であった取揚島の「岡山県部分」に関することです。

拙稿[41400]への詳細かつ丁寧なフォロー有難うございます。
少々言葉足らずで、でるでるさん[41610]に若干の誤解を生じたかも知れなかったのですが、仰るとおり、昭和38年の岡山県日生町福浦地区の兵庫県移管に際して取揚島が除外されたのは、島の「岡山県部分」に関してのことを述べたに過ぎません。

[41400]のタイトルに「取揚島の謎」とした「謎」については、そもそもこの島に「兵庫県部分」が存在するか否かの1点に尽きます。
もともと、播磨・備前2国の海上の境界として、本土側の岬である綱崎突端(福浦地区東端)と取揚島とが目印にされていたのは容易に想像がつきます。そして両国の国境がそのまま兵庫・岡山2県の県境として引き継がれた・・・。
この島が県境である以上、島は両県により折半されたと見るのがごく自然ですが、果たして如何なのか?
仮に海上の境界線は取揚島の中心線を通るとしても、島そのものは面積0.01km2の無人島です。
このような「境界石」としての目印以外の役割がありそうも無い島を、敢えて両国(両県)で折半する必要が生じたのか否か。
もしかしたら、県境上の島として地図上でもそのように描かれているのだけれども、島そのものの帰属は岡山県として認識されていたのかも知れない。

そこで気になるのが、第四管区海上保安本部の一覧表にて2県にまたがる島に数えられなかったことや、角川書店「日本地名大辞典」の兵庫県版(地名編、地誌編)に取揚島に関する記事が無いことです。
海上保安本部の一覧表からこの島が欠落しているのについては、小生もhmtさんと同じく、単なる数え落しだとも感じましたが、「日本地名大辞典」の岡山県版のみに記載があることが興味深いところです。
実は小生も同様の角川書店「兵庫県地名大辞典」を持っています。「落書き帳」に兵庫県についての記事を投稿する際には、必ず裏づけのためにこれを参照しています。
(#冷蔵庫の裏に子猫が入らないように障害物としてのみ、この分厚い大辞典を利用している訳ではありません・・・笑)
[41400]を投稿した際に調べましたが、やはりこれにも取揚島に関する記事が無く、この島に「兵庫県部分」の存在の確証が得られなかったものですから、「兵庫県部分」をぼかした記事として投稿しました。

角川:日本地名大辞典の岡山県を見ると、(中略)地誌編には、行政区域としての岡山県日生町福浦が、“兵庫県赤穂市の南方海上にある取揚島の一部に残り、県境をなす。”と記されて

はっきりと「一部」と書かれているところから見ると、「兵庫県部分」の存在が疑うべくも無いようですが・・・。
[41400] 2005年 5月 20日(金)01:50:50ニジェガロージェッツ さん
取揚島の謎
[41370] hmt さん
表自体に含まれていない赤穂付近の「取揚島」(兵庫・岡山県境)を含めて、「2県にまたがる島」は8つということになります。

[15470] KMKZ さん
取揚島は、兵庫・岡山の県境になりますから、海上保安庁の島の一覧表で、兵庫県の「2県に跨る島」の数がゼロになっているのは記載漏れでしょうか。これでは7島という数も信用していいのか悩みます。本当は6島しかないのかも。

[41356]でるでるさんよりアナウンスのありました、地名コレクション「2県にまたがる島」拝見致しました。
兵庫県赤穂市の沖合いに浮かぶ小さな無人島「取揚島」ですが、地図上では確かに兵庫・岡山県境が赤穂市福浦地区の海面で大きく東に迫り出し、取揚島を分断しており、「2県にまたがる島」と言えます。
このことは、でるでるさんが[15406]にて『日本の島ガイド~シマダス』(財)日本離島センター刊、より調べられた結果にも反映されています。
一方で、KMKZさんが[15470]にて海上保安庁の島の一覧表より調べられた結果、兵庫県の「2県に跨る島」の数がゼロになっていることについては、この島が岡山県にのみ属していると解釈できます。

この島はもともと岡山県に属していた福浦地区のもので、この地区(旧・岡山県和気郡福河村)が一旦は1955年に岡山県日生町に編入されたものの、生活圏の関係から、後の1963年に兵庫県赤穂市に編入された際に、その編入区域からは除外されています

原因は、この地区の兵庫県への越境編入を岡山県側が容易には認めず、結果的には陸上部分は渋々兵庫県への移管に同意するものの、漁業権の絡む海上部分の移管は頑として認めず、兵庫県側がそれで妥協したことによるものです。

このことは、2002年10月に奈良県桜井市での第3回市町村合併講演会「兵庫県の事例に見る市町村合併の課題」にて、「昭和の大合併の遺恨」として、詳しく経緯が述べられています。
これによれば、このイレギュラーな妥協の結果、取揚島の鼻先に赤穂火力発電所を建設した際、その排水を目の前の海に流せず、わざわざ6キロも先までパイプラインを敷設して、赤穂御崎の東まで迂回した排水設備を造るなどの苦労話として語られています。


【追記】でるでるさんへ
Поздравляю Дэрудэру-сан с 28-ым днём рождения !!!


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