[41610] でるでる さん
実は、この二子島(2島)の更に北側にある島(島名?)にも県境らしきものが見えまして・・・(汗)
この島も含めると「2県にまたがる島」は9つということに?ムムム・・・
なるほど! 県境が3島を串刺しにしているとすれば、「ふたご」ではなく、「だんご3兄弟」島とでも命名しましょうか。
取揚島に県境が設定された理由はそういうことだったのですね!
ニジェガロージェッツ さんの記事
[41400]を、少し誤解されているのではないかと思われるので、横から口を挟ませていただきます。
この島はもともと岡山県に属していたのもので(中略)、後の1963年に兵庫県赤穂市に編入された際に、その編入区域からは除外されています。
の最初の部分を正確に書けば、“この島 の一部 は もともと岡山県に属していたのもので…”となります。
明治の町村制施行時に寒河(そうご)村と合併して福河村(合成村名)になった岡山県福浦村。
地図で今昔にも、“兵庫県内に備前福河を名乗る駅があるとは”という記事があり、福浦峠の東側(旧・福浦村の地域)が、昭和合併の機運に乗じて、兵庫県赤穂市に「越県合併」したことが紹介されています。
取揚島については、特に“取り上げ”られてはいないのですが、昭和23年(1948)の地勢図が示されており、昭和の合併前から県境が通っていたことが明らかです。
要するに、
[41400]で紹介された、
岡山県が、漁業権に絡む“領海”を守り抜き、赤穂市への編入から取揚島を除外させた
という趣旨の記事は、既に県境の島であった取揚島の「岡山県部分」に関することです。
この数10mサイズの取揚島は、おそらく播磨・備前時代から両国の(海上)権益がぶつかる所で、国境となっており、それが飾磨県→兵庫県と岡山県との県境に引き継がれました。昭和の時代になり、“陸の論理”では「越県合併」が実現しても、“海の論理”は 兵庫県への移管を認めず、その結果、「2県にまたがる島」が、現在まで存続している。そういうことなのですね。
角川:日本地名大辞典の岡山県を見ると、取揚島の項目には、
日生町と兵庫県赤穂市との境界をなす。周囲0.3km、面積0.01km2の無人島。
島の西方で、日生町の漁業者によってノリの養殖が行なわれている。
とありました。ノリの養殖が、赤穂発電所の温排水を拒否した理由だったのですね。
同じ辞典の地誌編には、行政区域としての岡山県日生町福浦が、“兵庫県赤穂市の南方海上にある取揚島の一部に残り、県境をなす。”と記されていますが、この辞典の兵庫県(地名編、地誌編)には、取揚島に関する記事は見当たりません。赤穂の防波堤から300mほどのこの島を、播州赤穂側でどのように利用している(又は 利用していた)のかは、気になるところです。
ひなせ観光ガイドを見ると、「日生町本土」と「鹿久居島」「頭島」等の日生諸島が記されたマップの右端に、とても小さな取揚島が“飛び地”状態でポツンと存在し、マップを見る人に「取揚島の謎」を訴えています。
#日生諸島の主島は、面積は小さいけれども
頭島です。
ここに県境があるとなると、
第四管区海上保安本部の一覧表で、2県にまたがる島に数えられなかったことが謎として残ります。
上記のように日本地名大辞典では、周囲が0.3km。地形図で見るとそれよりやや小さい感じだが、それでも、「海域にある自然陸地(周囲≧0.1km)」には該当しそうなのですが…
やはり、数え落しかな?
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[41368] 牛山牛太郎 さん の「大野島」となると、「海域」でないから、海上保安庁が対象外としたのは納得できます。
瀬戸内海を西に進んで、岡山県と香川県との県境がある「いしま」。
[30617]hmt
岡山藩領の胸上村と天領の直島とが領有権・漁業権を争い、元禄15年に幕府による国境裁定で分割が確定したという由緒正しい「県境の島」です。
読みが同じ「いしま」で、漢字表記が岡山県玉野市石島・香川県香川郡直島町井島と異なるのは珍しいことです。幕府の評定所において、双方の主張で用いられた文字がそのまま残ったと言われています。1702年の幕府評定所の裁定は、石島山頂を通る境界線を定め、面積は直島側と胸上側とが七分三分に分けられました。直島側は現在までずっと無人島のままですが、備前胸上村は、この裁定を受けて早速植民を開始し、半農半漁の集落ができて300年間の歳月を重ねています。
直島の西、同じく岡山県と香川県との県境がある大槌島。
[28633] 今川焼 さんが、樽流しのエピソードと共に1732年の境界論争を紹介されている島ですが、
その姿から、ケンペルが「江戸参府紀行」に「海のピラミッド」と記しています。
取揚島・「いしま」・大槌島の3ケースに共通することは、「2県にまたがる島」は、漁業権の主張から派生した産物ということです。
“海の論理”からすれば、「海域こそが主体」であり、大槌島のピークを境界とすることは、「平地を主体」とする陸の人々が山のピークを境界としていることと、何ら変らない。「2県にまたがる島」を珍重したりする行為は、「2県にまたがる峰」を珍しがるようなものだと思っているのかもしれません。
そして3つの事例共に、備前側の人たちが積極的な姿勢を示していることが注目されます。「樽流し」のように、思惑が外れることもあるようですが。
農地のない離島の産業的価値としては、漁業以外にも、採草や採石があります。
これらの権益をめぐる紛争が明治政府に持ち込まれ、内務省の裁定で「2県にまたがる島」が確定したとされるのが、現在は広島県大竹市と山口県由宇町の境界になっている「甲島」です。もっとも「芸藩通誌」にも「安芸周防の界とし、各其半を領す」とあるように、江戸時代からの国境ですが、紛争が完全には解決していなかったのでしょう。
住民?は、放牧されている黒毛和牛(
[40018]がんす横丁まま さん)で、
県境を気にせずに草を食べているようです。
もちろん、漁場としての価値もあり、周辺海域はイワシ底引き網や一本釣りの好漁場とか。
周防側が、岩国でなく由宇である(
[24084]参照)理由は、距離ではなく、江戸時代からここを利用していた人たちの本拠だからでしょう。
領土紛争は、とかく感情論になりやすい面もありますが、やはり重視されるべきは、産業経済活動における活用の実績と展望。
”鳶ノ子島(とびのこじま)”の表記も追加しておきます。
“鳶ノ小島とも。”となっておりますが…