都道府県市区町村
落書き帳

トップ > 落書き帳 >

メンバー紹介

>
hmtさんの記事が5件見つかりました

… スポンサーリンク …



[96080] 2018年 5月 23日(水)19:02:53hmt さん
関西(かんせい)の読み方(1)呉音から漢音へ
1
思いがけず話題になった「関西」の読み方。
私も関係ありそうな話題を、思いつくままに 幾つか記してみます。

「関西」には「近畿」など類似する概念の用語もありますが、言うまでもなく「関西」は「関東」と対比される広域地名として認識されます。関西国際空港などの新しい用例もありますが、近畿より限定された範囲、例えば独自の歴史をもつ都市圏や風土などが背景にある地域という印象を受けます。

机上の『大辞林』により見出し語「かんさい」【関西】を確認。関西大学などの派生語も掲載されています。
ところが、「かんせい」を引くと、寛政・慣性など多数の言葉が出ますが「かんせい」【関西】は出ません。「かんせいがくいんだいがく」【関西学院大学】まで進み、ようやく単独項目で登場。

2
日本語における漢字の常識。「西」の読みは 漢音「セイ」 呉音「サイ」 訓読み「にし」。

この中で「訓読み」とされる「にし」は、「西」という漢字の意味する「やまとことば」。言わば翻訳です。

3
日本への本格的な漢字文化流入は「呉音」を通じて始まりました。
「西」という漢字と共に入ってきたのは「サイ」という「呉音」だったのです。

これは、統一帝国の隋・唐が華北に成立する前の「南北朝時代」に長江下流域の国から伝えられた読み方でした。
建康(建業)【南京】に都を置いた王朝は三国時代の呉を含めて6つあったので「六朝時代」とも呼びます。
呉音の「呉」は王朝名ではなく 地域名と理解してください。

5世紀に「倭の五王」と接触した本格的な記録を残しているのは、南朝の宋王朝でした。
【10-13世紀の北宋・南宋とは別です。】

『宋書倭国伝』 に記録された「倭王武の上表文」(478年)。百済などからの渡来人の専門家を雇っていたにせよ、この時代になると、日本も立派な漢文による外交文書を作成できる段階に達していたことを示しています。
日本国内でも、「呉音」という形で華南の言葉に親しむようになりました。

仏教が公式に日本に伝わった6世紀。この頃になると、衰微した南朝に代り、文化流入は百済経由となっています。
このようにして、日本への本格的中国文化流入は、内容的には仏教が中心になりましたが、媒体としてはそれ以前と同様に「呉音」を媒体として行なわれました。

4
ここで、日本を取り巻く国際情勢が一変します。
中国が 長い分裂時代を脱して、華北に統一帝国の隋・唐が成立したのです。
日本からも推古朝の遣隋使(607)を経て、遣唐使(630-)によって直接外交関係を結ぶことになりました。

これまで「呉音」によって漢字文化に接してきた日本も、長安を首都とする統一中国帝国が「正統的な読み方」としている「漢音」と向き合うことになります。

長安【西安】がある渭水盆地は、秦・前漢の時代にも帝国の首都であり、「関中」と呼ばれる地域です。
「関西学院」から始めたこの記事として見過ごせない地名。東の函谷関と西の隴関との中間にある平野部。

5
さて、「西」という漢字を「セイ」と読む「漢音」について。

百済と組んで唐に反抗した白村江の戦(663)。それでも どうにか 生き残ることができた敗戦日本。

そして 百済滅亡の結果、百済の人々が逃れて多数来日。日本の「漢音文化」に貢献することになりました。
『日本書紀』(720)は、初期の「漢音文化」が日本にもたらした代表的成果と思われます。

しかし、遣唐使が学んだ「漢音」は、正統的中国語の発音に拘っており、日常語として定着していた「呉音」を完全に置き換えるものではなかったようです。

現代語として普及している「漢音」には、江戸時代の研究に基づく日本語音としての漢音や、明治の文明開化時代の必要から生れた和製漢語などの成果が盛り込まれ、初期のものから変質しているようです。

6
冒頭に記したように、大辞林では「かんせい【関西】」が見出し語になっていませんでした。

どうやら、現代日本語において 「かんせい」という読みは「固有名詞の一部」として存続しているが、広域地名としての“かんせい【関西】”という「漢音読み」は 事実上消滅している。
このように受け止めました。

ところが、大修館新漢和辞典の【関西】を見たら、読みが「カンセイ/カンサイ」と漢音優位で、「1 函谷関よりも西の地…」という説明文が付されていました。さすが、漢和辞典。

7
落書き帳過去記事における「関西 かんせい」の使用例を調べたところ、結果は僅かに4件でした。

関西学院大学の前身は 1889年設立。当時の日本では、東京を「とうけい」というように漢音読みにすることが多く【[75459]参照】、「かんせい」学院と読む校名も、このような歴史によるものと説明されています。出典

落書き帳に現れている他の事例である国有化前の 関西(かんせい)鉄道[61246]も、まさに漢音読み全盛であった同時代に誕生した社名です。急行用の「早風」、短距離用の「池月」など、優雅な形式名称の蒸気機関車に付けられていた「KANSEI」の社名を、写真で見た記憶があります。

8
「呉」と「漢」とは王朝名ではなく、中国の地域名と理解してください。
「呉」は長江下流域の水田地帯、「漢」は黄河中流域の畑作地帯というイメージで、「南船北馬」という四字熟語で知られているような異なる風土に、それぞれの文化が育まれてきました。
中国の南部と北部にある二つの地域の中で、気候に恵まれた華南と遊牧民族からの脅威と刺激を受けやすい華北。
歴史は華北に生れた強い王朝が覇権を握り、それが衰えて外敵を防ぎきれなくなると南部に避難して文化を守る。
そのようなパターンを繰り返しているようです。

9
参考までに、呉音から漢音へというページを紹介しておきます。
多数の文字について、呉音と漢音の違いの具体例が示されており、参考になります。
[95754] 2018年 5月 8日(火)17:01:15【1】hmt さん
Re:歩いて行ける!「三県境」
落書き帳で取り上げられたテーマの一つである都道府県境。私も関心を持ち、hmtマガジンを作っています。

落書き帳オフ会関連でも 2008年【青森/秋田県境確定記念】、2009年【岡山/香川県境・石島/井島の探検】、2010年【栃木/群馬/埼玉三県境訪問】と続いた過去があります。そして 2016年は【熊本/大分 県境の宿】。

そこで、今回 久しぶりに復活した「三県境」の話題にも反応して、「明治前期の毛武三国境付近の地図」を紹介することにします。

本題の前に、futsunoおじ さんがまとめた 全国の県境の基礎データを紹介しておきます。
2004年:三県境(その1)(その2)
2010年:三県境点のまとめ[第7回オフ会記念版](その1)(その2)
いずれも、hmtマガジン・都道府県境に収録してあります。

地名コレクションにも 同じく futsunoおじさんによる 大作・『県境の交通路』があります。
その 附録:三県境点 には番号が付与され、Mapionへの地図リンクがあります。
栃木/群馬/埼玉三県境は 11番です。地図11

なお、hmtマガジンには 特集渡良瀬遊水地-4県が集まる境界地域があり、「鶴の嘴の先端」[76876]に位置する「THE 三県境」を対象とする記事も多数収録しています。
筑波山オフ会2010 翌日の探訪ルートは、グリグリさんの作品です。

前置きが長くなりましたが、「栃木/群馬/埼玉 三県境」の前身は、言うまでもなく「下野/上野/武蔵 三国境」、つまり毛武三国境【2つの毛野国(両毛)と武蔵国】です。

本題である 毛武三国境の地図に入ります。
リンク先は、明治前期(●明治10年代)に作成された「迅速測図」【[65097]参照、フランス式彩色の施された原図】に基いて 独立行政法人・農業環境技術研究所が作成した 歴史的農業環境閲覧システム[65091]です。

地図の位置情報は、地理院地図の「THE 三県境点」の値を利用しています。
zoom値も揃えたので、昔の川の流路と 現代の県境 とを 同じ縮尺で対比することができます。

明治の地図で北東部・下野国と西部・上野国との境界は、基本的に渡良瀬川の線です。それは[95752]で引用された群馬県板倉町のページにあるように、「海老瀬の七曲り」と呼ばれた曲流部で、1910年の大洪水後の工事により新河道に改修(1918)されました。

現在はコンクリートで固められた渡良瀬貯水池(谷中湖)によりすっかり様子が変っていますが、「七曲り」の痕跡は現代の地図で谷中湖西岸の県境線に示されています。「海老瀬」の地名は谷中湖西北端にも見えますが、鶴の嘴の先端をクリックしても、「板倉町大字海老瀬」の名が現れます。

明治の地図で海老瀬の七曲りに戻ると、川の中央に境界線が通っており、大きな曲流の左岸(東側)に下都賀郡下宮村と記されています。その左、「17,36」と記された地点が、地理院地図で「大字海老瀬」を確認した鶴の嘴の先端です。

この地点で西から合流する川の中央にも境界線が引かれています。これが西側の上野国と南側の武蔵国との国境線ですが、これを遡ると境界線は西から来る川【現・谷田川】に入らず、【旧合ノ川を遡り】南の利根川に入っています。

川俣での「会の川締切り」(1594)以後、「新川通開削」(1621)までの間、上記の旧「合の川」は利根川の主流格の存在であったと思われ、これが上武国境となり、ひいては群馬埼玉県境に引き継がれたものと考えています。[77081]

このように、明治前期の地図では広域地名は「県名」でなく、「国名」が使われています。

私は hmtマガジン 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探るの前書きで
明治19年式戸籍の書式[62667]に使用例がありますが、「府県」が地名化した決定打は、明治32年の改正府県制ではないかと思われます。
と書きました。

この法改正により、「府県」は「国の出先機関」である 単なる「行政機構」から脱皮して、(首長はまだ官選でしたが)直接選挙で選ばれた議員による議会と法人格とを具えた「自治体」の性格を強め、地理的にも「○○県」と呼ばれるに足る独自の領域を確保するに至ったのではないでしょうか[62889]

毛武三国境から「三県境」への変化。それは 20世紀になり、明治も遠くなってきた時代と思われます。
このサイトの主テーマである明治以降の地方制度。
同じ「県」という名で呼ばれていても、制度が変れば実体が変る。
「三県境」の話題から明治の地図と現代の地図とを対比しつつ、時代の変化は避けられないことを実感した hmtでした。
[95744] 2018年 5月 5日(土)14:15:45hmt さん
水戸
[95743] 白桃さん の問い合わせに関連し、グリグリさんの手間を少し省く目的で、調査してみました。
落書き帳の過去記事から得られた情報だけですが、メモしておきます。

出典:明治22年3月31日施行の茨城県町村区域名称
[76874] むっくんさん 「市制町村制施行時の府令県令(ver.5)」にリンクされた『茨城県令達類纂、上』収載の 県令甲第十二号による

【23コマ】東茨城郡水戸 旧町村欄に 水戸上市、水戸下市、常磐村の内【数個の字を列挙】、【以下3村の内が列挙されているが引用省略】

【24コマ】東茨城郡常磐村 旧町村欄に常磐村(の内)【数個の字を列挙】

【25コマ】東茨城郡(の末尾) ○大貫町 【旧町村欄は空白】
ここに記された東茨城郡大貫町と、変遷情報詳細に記録されている 大貫村 との関係など、私には理解不能です。
とりあえず調査結果だけを報告しておきます。
[95696] 2018年 4月 18日(水)11:25:43hmt さん
このままでは、「丹波」ブランドを丹波市に独占されてしまう!
[95695] 稚拙 さん には「ヤフーのサイトをリンクするのもなんなので」とありましたが、昨日配信のYahoo!ニュース を見ると、篠山市が抱いている危機感【この記事のタイトル】>「丹波篠山」への市名変更意欲 がよくわかります。

----------(記事抜粋)----------
かつては、兵庫県と京都府にまたがって丹波国が存在していました。
時代が変わった今でも「丹波栗」や「丹波黒豆」など丹波の冠がついた特産品が販売されていて、日本全国に通じるブランドとなっているのです。 
ところが、この丹波を使うことである問題が。
実は、2004年篠山市の隣に丹波市が誕生しました。
ふるさと納税では篠山市も丹波市も「丹波ブランド」の食材を返礼品にしていますが、名前のややこしさが原因なのか、篠山市への納税額は、丹波市の半分以下だということです。
「このままでは丹波ブランドが奪われる」と危機感を募らせた地元の商工会などは、市名を「丹波篠山市」に変更するよう市に要望書を提出。
4月17日に篠山市から発表された 市名変更に伴う影響などの調査結果
丹波篠山のブランド低下による経済的損失が23億3000万円、市名変更による経済の波及効果額が28億7000万円以上  合わせて52億円以上の経済効果
----------(記事抜粋終)----------

神戸新聞記事にあった「現在の混乱状態が続くと、丹波篠山産の優位性が低下し」に関して
何がどうして「混乱状態」なのか、今ひとつ記事からはわかりにくいです。

千年以上も使われてきた広域地名「丹波」に基づくブランドが、21世紀に誕生した「丹波市」に起因する限定解釈を引き起こしている現状。
これを「このままでは丹波ブランドが奪われる」と感じて「混乱状態」と表現した篠山市の気持ち。
私にはよく理解できます。

本来は広域地名である旧国名。これを、一部の地域を表す市名として独占・僭称した事例。
楠原祐介『こうして新地名は誕生した!』(ベスト新書2008)第4章 大増殖した「旧国名僭称」型新市名 にまとめられています。

丹波篠山市への改名問題についての過去記事 もご覧ください。
[95690] 2018年 4月 16日(月)11:42:08hmt さん
Re:白桃@in東北スーパータウン
毎年、春になると一目千本桜を見に千葉県浦安市から飛んでくる
と紹介された渡り鳥でも、気象の変化を読みきれず、渡りの時を間違える結果になってしまったのですね。

平成30年一目千本桜開花状況によると、今年の満開は4月5日から8日でしたが、4月12日午後からの強風で一気に散ってしまったとあります。

過去10年間の開花状況と比較すると、開花日 3/31、満開日 4/5、散り始め 4/9の何れについても、最も早い日付が記録されたようです。


… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳

パソコン表示スマホ表示