[80406] 般若堂そんぴん さん
東北で「し」と「す」は区別しないか?
これを検討するには,最低3つの問題を区別しなくてはならないように思います。
1つは,実際にどのように発音しているのか,という「音声学」的な視点。
2つめは,それらの音声を全体の体系の中でどのように捉え,単語の区別に利用しているか,という「音韻学」的な視点。
3つめに,それらの音声または音韻を文字体系の中でどのように表記するか,という「正書法」の問題。
実際にどのように発音しているかという点については,巷間よく言われる「東北では「し」と「す」が区別されない」というステレオタイプとは違って,同じ東北内(のみならず新潟県下越や北関東も含めて)でもかなりの幅やバリエーションがあるように思われます。
本当に「し」と「す」の母音をほぼ同じく発音する地方もあれば,「し」が単語の中のどの位置にあるかによって微妙に母音の発音が変わってくる場合もあるかもしれません。一般的に多く見られるのは「し」の母音を“中舌化”して「ウ」に近づけて発音する(ロシア語の ы や,中国語の si(四) や zi (子)の母音が近いかもしれません)というものですが,共通語(標準語)を含めた“東日本方言”では元々「ウ」を唇の丸めを伴わずに中舌化して発音している(トルコ語で言えば u よりも“上に点のない i ”に近い)ので,「し」の母音も中舌化してしまえば“よその方言話者”には区別がつかなくなってしまうのですね。
でも,「し」と「す」の母音を実際に“違って発音”していれば,「音声」としては別の音です。そしてそれを“聞き分け”,それによって単語の区別がなされるのであれば「音韻」としても別の音です。逆に違って聞こえてもあえて区別はせず,状況の有無にかかわらず自由に入れ替わることができるのであれば,「音声」としては別でも「音韻」としては“同じ音のバリアント(変種)”と理解されます。
それらの音を文字でどのように表記するかというのは,さらに別の問題です。そしてこれは社会的な慣習(さらに公式化された制度)の問題ですから,そこには“特別な学習”が必要です。その学習は必ずしも学校教育による必要はないのですが,それでも現代社会では学校教育により,そこでは「標準化された“国語”」の学習が行われるのが普通です。そして,そこで“学習”するのは「標準語」の“標準化された単語”の対する“標準語による表記”です。
ここでは「方言の発音をどのように文字表記するか」ということは学習,あるいはそれ以前に“関心”の対象外なのですね。それでも,たとえばイタリアのように各地域言語(方言)についてある程度標準的な表記体系が普及していたり,旧ソ連におけるチュルク(トルコ)系諸語のように個別の表記体系と文法を固定化して“各共和国”ごとの公用語にしてしまった例もありますが,中央集権的な近代日本の教育政策や文化状況ではそのような動きは小さいようです。
確かに,19世紀生まれの祖母(故人)はカナ表記においても「し」と「す」の区別があいまいでした.
ずっと以前に話題にした記憶があるのですが,私の母方(“チャーザァ村”の)祖母も,同じく19世紀末の生まれですが,カナ表記上で「ゆ」と「よ」の区別が曖昧で両者の混同がよくありました。
林家こん平がよく言っているように越後方言では語頭の「い」と「え」の区別が曖昧なのですが,それとともに新潟県中越地方から長野県北信地方北部(奥信濃)にかけての信濃川/千曲川中流域では「ゆ」と「よ」の区別も曖昧で,年配の方の中には「雪」を「よき」のように発音している例が今でも見られます(長く東京で暮らして某教育系国立大学の教授をされていた方ですが)。
「国語教育」を十分に身に着けていれば当然にカナを“正しく”表記できるはずです。私の祖母を含めて“正しい”書き分けができていないのは,それが不十分であった結果でしょう。何より,学校で教わるのはあくまでも「標準語の表記」であって,自分たちが実際に口にしている言語(方言)の表記ではありませんから。
方言のステレオタイプの1つに,東京の下町では「し」と「ひ」の区別がない,というのがありますね。
さすがに現在ではそのようなステレオタイプな発音をする人は非常に少なくなっているでしょうが,区別の曖昧さは残っているようで,たとえば布団は「しく」ものか,「ひく」ものか,悩む東京人は少なくないようです。車に「しかれる」のか,「ひかれる」のか。
…で,どっちが“正し”かったんでしたっけ?
そして,東京とは逆のパターンですが,岐阜県の「七宗町」(ひちそう/しちそう)の問題も出てくるのでしょうね。
奥羽方言を表記することができるか
もう20年ほど前に最初の発表をされて以来,忘れた頃に間欠的に話題になっていますが,山浦玄嗣 さんというお医者さんが岩手県気仙方言(ケセン語)の文字化に取り組んでおられます。20年前には独自のローマ字表記体系を発表されましたが,最近は「日本語読者」用にカナ表記のケセン語版聖書抜粋を文庫化されいますね。
東北音のカナ表記では,たとえば宮沢賢治(「風の又三郎」など)や井上ひさし(「吉里吉里人」など)が有名ですが,私にはあまり成功しているようには思えません。伊奈かっぺいの津軽方言詩なんかもいいかもしれませんが,東北諸方言の中でも津軽方言は音の変異(独自の発展・進化)が大きいのでしょうかね。
方言(地域言語)の文字化という点で一歩進んでいるのは,やはり琉球語圏の首里・那覇方言だと思われます。
首里方言には,かつて「おもろさうし」に見られるような本土とは違った独自のカナ表記体系ができあがっていました。ただし,それは「おもろ」のような韻文や王府発行の辞令などの一部文書に使用が限定されていたため(公式の正文は漢文であり,私的領域でも本土の和文があるから),琉球処分によって首里王府が廃止されたのと一緒に廃れ,近代語の表記体系として発展するチャンスを失いました。
代わって,口頭語の首里・那覇方言(ウチナーグチ)を表記するために表音的なカナ表記が独自に発展していますね。ただ,繰り返すように“標準化された文字表記体系”はあくまでも「標準語」のものですから,ウチナーグチの統一された表記体系は確立していません。
それ以上に,伝統的な“本来のウチナーグチ”と,現実に那覇の街角で話されている言葉(ウチナーヤマトグチ)との乖離も小さくないようですね。