[79717] 伊豆之国 さん 幻の銀座線「萬世橋駅」
[79721] Issie さん 省線万世橋駅
子供の頃に住んでいたのが 牛込区納戸町
[41218]でした。
現在、都営地下鉄大江戸線が走る大久保通りですが、当時は飯田橋まで同じルートの路面を走っていた「東京市電」13番系統の上り方面行先が「万世橋」でした。
下り方面の行先は
「角筈」 で、こちらは大久保車庫専用軌道区間手前の抜弁天までが大江戸線ルートになっています。
戦後の「都電」時代も 13番でしたが、行先は少し先の秋葉原東口で、更に水天宮
[10805]まで延長されました(1958)。1970年に廃止された時の終点は岩本町だったようです。
多少の変遷はありますが、万世橋近辺は 神田川の水運、馬車鉄道→路面電車、高架鉄道、都市計画道路、地下鉄道と、時代に応じた路線が集中する都内交通の要地でした。
以下、
現代の地図 を見ながら、神田川の両岸に亘る交通結節点につき、少し語ります。
鉄道の駅としては、日本鉄道時代の明治23年(1890)に設置された「秋葉原貨物停車場」
[34120][67094]が最初ですが、現在の高架線電車駅はずっと後の 1925年です。
路面の軌道としては、1882年開業の東京馬車鉄道→1903年東京電車鉄道の万世橋停留場がありますが、1903年に 東京市街鉄道が 神田川の南に作った停留場が、電車唱歌
[33135]に ♪乗りかえしげき須田町や♪ と歌われている 一大ジャンクションでした。
「万世橋」という名は、解体された「筋違御門」の石垣に使われていた石材を利用して明治6年(1873)に作られた2連アーチ橋として登場します。当時の東京府知事・大久保一翁の命名は「万世(よろずよ)橋」で
[51807]、従来の見附門付属の木橋と違う永久橋であることを誇示したものでしょう。
これが音読みされるようになったのは、似たような意味の「永代橋」(隅田川)が音読みされていた為かもしれませんが、何故か「バンセイ」でなく「マンセイ」なのですね。新潟の
萬代橋【2004年重要文化財指定】は、「よろずよばし」から「バンダイばし」に転訛したようです。
場所は 現在よりも少し上流 昌平橋との間ですが、広幅の幹線道路ではなく、西洋式の架橋技術のテストという意味合いが大きかったのではないかと推察します。常磐橋(1877)
[33433]や日本橋(1911)
[63949]に先立つ存在です。
幹線道路の昌平橋が洪水で流出した後、現在の万世橋付近に代替の木橋が架けられ、これが明治36年に鉄橋に変った時に
「万世橋」を名乗った とあります。そして「元万世橋」になった石橋(めがね橋)は、明治39年に解体されたとか。
万世橋駅は、明治45年(1912)4月1日に、中央線【1906年甲武鉄道国有化
[61304]】の始発駅として開業しました。
これは、神田川の南岸、リンクした地図の中心マークです。南側の駅前広場に面して、ルネッサンス式の立派な赤煉瓦造の駅舎がありました。
幻の万世橋停車場へ行く に掲載されている写真で見ることができます。東京駅を思わせる姿であるのも道理、後に東京駅を手掛ける辰野金吾の設計で、お手本はアムステルダム中央駅とのこと。
けれども、万世橋駅の栄光の時代は、ほんの僅かでした。万世橋駅衰退の原因として、1914年に東京駅が開業し、東京駅への電車線開通(1919)により中間駅になったことが挙げられている資料もありますが、そうとは言えないでしょう。上野駅も 1925年の都心高架線全通で中間駅になりましたが、その後も北に行く列車の始発駅の地位を長く保ったからです。
大正14年4月『汽車時間表』【JTB時刻表第1号】によると、中央本線列車の始発駅は飯田町で、万世橋は主として東京-中野(一部は吉祥寺、国分寺)間を運行する電車の中間駅になっています。
このように、万世橋駅が列車始発駅の地位を失った決定的な原因は、大正12年(1923)の関東大震災による 豪華な駅舎の焼失であったと思われます。
昭和初期の震災復興にあたっては、万世橋駅付近の道路も変りました。神田駅から直進して万世橋駅前を通り昌平橋に向っていた電車道は、現在のように神田駅を出ると少し東側に振れて、万世橋から御成道へとつながる現在の中央通りになりました。小川町から万世橋駅前の広瀬中佐銅像のある(旧)須田町交叉点に向かっていた電車道も、少し南に振れて現在の靖国通りになりました。これにより電車道の交わる須田町交叉点は、少し南東の現在位置に移動しました。要するに、万世橋駅は関東大震災により駅舎を失っただけでなく、市内電車の一大ジャンクションに面するという道路立地からも少し外れてしまったわけです。
国有鉄道の市内高架線は、神田川を渡る区間の工事中に関東大震災が起り、予定よりも少し遅れたものの、1925年には完成し、東京駅と上野駅の間が省線【注1】電車で結ばれました。秋葉原駅も旅客扱いをするようになり【注2】、立地が近接する万世橋駅の存在意義は、ますます小さくなりました。
【注1】1920年に鉄道院が鉄道省になり、国有鉄道線は「省線」と呼ばれるようになりました。
【注2】秋葉ヶ原の停車場に「あきはばら」の駅名標が出現。鉄道省の役人には田舎漢多しと見えたり。
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1927年開業の浅草-上野間から南に線路を伸ばしてきた東京地下鉄道が、神田川の下に開削工法のトンネルを作り、一時的に北岸の万世橋仮駅が使われたのは、1930~1931年のこと
[79717]。
万世橋も、この時に鉄筋コンクリートと石材とを併用した現在の橋に架け替えられました。
最初は地上線だった貨物の秋葉原駅も 1932年迄にはすべて高架線に移り、同時に総武線の両国-御茶ノ水間が延長され、3層立体構造の駅になりました。
昭和通り側の入口から総武線プラットフォームに通じるエスカレーターは、少し前の時代の鉄道駅では珍しい施設でした。
震災によりターミナル駅としての役目を終えた万世橋駅は、東京駅の神田寄り高架下にあり震災被害を受けた鉄道博物館の再建に利用されることになり、1936年に博物館用の新館も作られ、移転開業。
万世橋駅廃止は、戦時中の1943年11月1日でした。同日付で鉄道省→運輸通信省。入場無料だった鉄道博物館が有料になったのも、同じ頃と思います。
戦後は日本交通公社を経て交通文化振興財団の運営になり、自動車や飛行機(アンリ・ファルマン機
[57213])の展示もある「交通博物館」として親しまれていましたが、大宮に鉄道博物館が開業する前年(2006)に閉館されたことは、記憶に新しいことです。
言うまでもなく、今回話題にした地域の元々の地名は「神田」です。
「須田町」や「万世橋」が神田を代表する地名となった時代もあり、神保町など独自の分野で知られる地域もありますが、現代の世界に通用する地名は、何と言っても「AKIHABARA」です。
つくばエクスプレスのターミナルになったこの地名こそ、交通路を通じて発達してきたこの地域を語るにふさわしいものになりそうです。