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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[19892]2003年9月14日
hmt
[28294]2004年5月15日
hmt
[61533]2007年10月6日
hmt

[19892] 2003年 9月 14日(日)12:56:16hmt さん
「東邦」と名古屋
[19860]太白さん
「東邦」というのはどこから来た名称なのでしょうか?(中略)名古屋近辺を指している気もしますが…
「東邦」は文字通り「東の邦」すなわち日本のことで、会社・学校名として全国的に使われています。但し“名古屋近辺”では特にこのブランドに人気があるように思われます。gooで調べたら「東邦and名古屋」のヒット件数は「名古屋」全体に対して0.48%で、同じことを東京について試みた比率の約2倍でした。

名古屋における「東邦」を語る上で欠かすことができないのは松永安左ヱ門氏の「東邦電力」です。彼は福沢桃介氏と共に九州電燈鉄道を興した後、これを関西電気に合併、更に名古屋瓦斯を合併後ガス事業を東邦瓦斯として分離、電気事業は東邦電力と社名変更しました(1922年)。戦前の5大電力時代に覇権を争いました。その事業は現中部電力に引き継がれています。

東邦高校の前身「東邦商業学校」の設立認可は1923年であり、東邦瓦斯設立や東邦電力への改名の翌年です。関係がありそうな気がしますがわかりません。

東邦瓦斯の名称について http://ouendankantoku.hp.infoseek.co.jp/gas.htm
松永安左ヱ門年譜 http://homepage1.nifty.com/HAKUSEN/matunaga2/matunaga2.htm
[28294] 2004年 5月 15日(土)17:14:16【1】hmt さん
よみかき・そろばん
[28245]EMMさん
なんでも、水系単位で電力会社が決まっているそうです。
[28251]かすみさん
電力会社の再編成(1951年5月)において「1水系の水力発電開発は、1社に任せて総合的な開発を期待する」
発電・送電設備が主たる消費地に直結するものは、その主たる消費地の会社が受け持つ
木曽水系については(関西電力)東海支社が管理

電力会社ごとに 水系単位で開発する という方式は、ずっと昔から実行されてきたようです。
松村博「日本百名橋」36 電力王の夢を架けた桃介橋(鹿島出版会,1998)には、次のように書かれています。
読書発電所は福沢諭吉の女婿で、電力王といわれた福沢桃介が設立した大同電力㈱によって建設された。福沢桃介は一河川一会社主義を主張し、大正7年には木曾川の電源開発に着手し、(中略)各発電所を建設、読書発電所はその総決算ともいえるものであった。

「大同電力」は木曽川水系の水力を開発して関西への送電線も持つ電力会社でした。発電所は長野県、岐阜県に所在しても、消費地の関西地方に直結する電力だから、戦後の再編成で関西電力(東海支社)になったわけです。
戦前に「日本電力」が開発した富山県の黒部川水系が関西電力(北陸支社)になり、戦後 関西電力の手で「クロヨン」が完成したのも、ほぼ同じ事情です。「日本電力」は、黒部峡谷の“日電歩道”に名を残しています。
この2社は卸売り主体でしたが、関西地方における需要家を握っていたのは現在の関西電力の前身の中核「宇治川電気」です。その卸売りが小売に手を広げて大混乱…という話は地理から脱線しすぎるのでよします。

宇治川電気の名は、鉄道ファンの方はご承知かもしれません。現山陽電鉄の前身を兼営していました。
電力と電鉄の兼営は戦前は多数あり、すべて戦時体制で分離されました。現在では関西電力大町トンネルの無軌条電車が唯一の兼営事例でしょう。

戦前には、「東京電灯」と上記の関西3社、それに名古屋で勢力のあった「東邦電力」[19892]を五大電力と呼んでいましたが、その他 各地に多数の電力会社が存在し、[28234]で紹介した入り乱れた周波数地図となる原因になっていました。
戦争の時代になると統制が強まり、1942年には国策会社日本発送電と 9配電会社による電力国家管理となりました。
戦後の 1951年に「電力の鬼」松永安左ヱ門[19892]が、反対論を押し切って電力再編成( 9社による分割民営化)を強行し、現在 (沖縄電力を加えて 10社) の体制になりました。

閑話休題 (それはさておき)
読書発電所という名前には、ちょっと関心をそそられます。

筑摩県筑摩郡読書村 (よみかきむら) は、明治4年の合併の際に江戸時代からの與川 (よがわ)・三留野 (みどの)・柿其 (かきぞれ) 3村の頭文字を取って合成した村名でした。「豊科」[908]と同様の命名法ですね。
現在は長野県(1876年)木曽郡(1878年西筑摩郡から1968年木曽郡に名称変更)南木曽町(なぎそまち)読書(1961年合併)。中央本線の駅名も1968年に三留野から南木曽に変りました。三留野は中山道の宿場町で、次の妻籠宿も南木曽町です。

1923年運用開始の読書発電所は、1994年12月、近代化遺産として国の重要文化財に指定されています。現在稼働中の発電設備が重要文化財に指定されたのは、日本最初のことでした。指定の対象は、発電所本館、水槽、水圧鉄管、柿其水路橋と南木曽町所有の桃介橋です。

その桃介橋に自分の名を残した福沢桃介は福沢諭吉の養子で女婿ですが、教育者の養父に反発して、「そろばん」の方の道に進みました。株相場で儲けた資金を使って電力事業等の実業界で活躍したのです。松永安左ヱ門とはよきライバル関係だったと言えるでしょう。
関西電力HPの経歴 http://www.kepco.co.jp/tokai/kisogawa/momosuke/momosuke.htm からは省かれていますが、川上貞奴とのロマンスは有名でした。
せっかく地名の話題に戻したのに、最後にまた脱線。

【1】長野県西筑摩郡読書村は南木曽町に合併する直前の村名だったので、明治4年の筑摩県に遡って修正しました。
それにしても県名、郡名が変っているものですね。「曽」の字体変更まで加えればもっとあるわけで…。
[61533] 2007年 10月 6日(土)20:17:14hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(15) 市内電車と行楽電車
東京は、大都市内の公共交通機関として最初の馬車鉄道を誕生させ、試験的ながら 1890年に電車の運転[61516]もあり、企業計画も早くから進みました。しかし、民営を許すか市営にするかなどの方針で当局の意見が決まらず、政争もからんで特許が大幅に遅れました。

東京がモタモタしている間に、官民一体で推進した 京都[61516]は、電車の営業線で先を越しました。
狭軌民営でスタートした会社は、1912年から標準軌の市営電車との競争になり、経営が苦しくなって 1918年に市営に統合されました。市営電車は、1957年度 77kmをピークに 1978年全廃。

次いで市内電車が走った名古屋(1898)も狭軌民営でしたが、1922年に市営化。1960年度 107km。1974年廃止。

大阪は最初から市営の方針で標準軌。1903年に開業した築港線は、魚釣り電車と呼ばれたくらいで、市内電車というよりも、当時としては郊外電車的な性格かもしれません。二階建て電車も存在。1954年度111km。1969年には他の大都市に先駆けて市内電車全廃。

東京では、「軌道」の元祖になった東京馬車鉄道が 東京電車鉄道、通称「電鉄」という名で電化を計画。これに対して、新線建設の三派は合併して 東京市街鉄道「街鉄」に一本化。両社共にやっと特許を得て、大阪と同じ 1903年に電車が営業開始しました。翌年には 東京電気鉄道「外濠線」も開業。
3年前の 電車唱歌で巡る100年前の東京 は、この3社鼎立の時代です。軌間は馬車鉄道から引き継いだ1372mmに統一。
1906年には3会社統合して東京鉄道となり、1911年に買収されて東京市営になりました。1943年、東京都営。

路線長は民営時代の末期に 95km、昭和になった頃 163kmと延び、1941年に「王子電車」と「城東電車」[39140] を買収して 200kmを越えました。
しかし、発祥の地であった銀座通りの路線も 1967年に廃止され、1972年からは旧・王子電車の路線だった荒川線を残すのみになっています。
「市内電車」というより路面区間が少ない「郊外電車」に近い路線だったために残された都電荒川線ですが、一応「鉄道」とは一線を画した軌道として、存在し続けています。

残る六大都市のうち、横浜市内電車の軌間は東京と同じ 1372mm。1904年に民営でスタート。1921年市営。1956年度 52km。1972年度廃止。
神戸市も1910年に標準軌民営でスタート。1917年市営。1946年度 36km。1970年度廃止。

電車は、大都市内だけでなく、特殊な交通需要の或る地方交通の分野でも利用され始めました。
その一つである、参詣・行楽鉄道のうち、東京にも近い川崎大師へは、1899年に六郷橋-大師(現・川崎大師)間を大師電気鉄道が開業しました。欧米の標準軌間である 1435mmを日本で最初に採用した路線です。

翌 1900年に馬車鉄道を電化した小田原電気鉄道は、官設鉄道の国府津から小田原を経て箱根湯本までを結んでいました。最初は馬車ゲージでしたが、1435mmに改軌。この会社は電力事業も営んでいたので、関東進出を図る日本電力[28294]に買収され、子会社の箱根登山鉄道になりました。電力と鉄道の分離により五島慶太の手に。現在は箱根湯本までの区間は狭軌に変わり、小田急の延長線の形になっています。

大分-別府間の豊州電気鉄道(後の大分交通別大線)も、同じ 1900年開業。狭軌新設軌道。これも九州水力電気という会社の直営になった時代があります。
江ノ島・鎌倉も東京近くの参詣・行楽地で、江ノ島電気鉄道は、1902年の藤沢-片瀬から、1904年極楽寺へと進んだ狭軌の新設軌道でした。一時は横浜電気→東京電燈の子会社でしたが、やがて別系統に。

1903年、東京の「電鉄」と「街鉄」、それに大阪の「市電」が開業した同じ年、参宮鉄道の山田(伊勢市)から二見への電車が走り出し、やがて宇治の内宮方面へも通じます。この電車は、会社名がいろいろ変遷していますが、1939年に 東邦電力[19892]から分離されるまでは電力系です。分離後の名は 「神都交通」→三重交通神都線で、1961年廃止。
[29157] 今川焼 さんが挙げている“神都・伊勢”の実例です。

1904年になると、地方都市では初めての市内電車「土佐電気鉄道」が高知市内で開通します。[61516]では書き落としていましたが、この「とでん」は横浜より先でした。
高知は別格として、1909年には和歌山、岩国、呉に電車ができます。岩国は、1890年に東京上野公園で日本最初の電車運転を実現した東京電燈技師長・藤岡市助の故郷です。

福岡では、1910年開業した、福沢桃介と松永安左エ門が組んだ東邦電力による「福博電気軌道」と、翌年開業した地元設立の「博多電気軌道」との2社が誕生。後者は、別大線でも登場した九州水力電気の支配下になり、競合した結果、ようやく 1934年に「福博電車」に一本化されたそうです。
九州における東邦電力と九州水力電気との争いについては、かつて周波数がらみの話題で、[28405] TGRS さんの記事がありました。

東京の3社合併(1906)を別とすると、同一の市内で2社が争った例は、福岡のほかに京都[61516]があり、市内電車第1号の歴史を持つ会社が市営に敗れて統合されました。また、道後温泉への客を争った松山の事例[61378]にも触れました。

現在、市内電車が運行中の都市における最初の開業年を見ると、岡山・広島が1912年、長崎1915年、熊本1911年、鹿児島1914年。函館(馬車鉄道1897)の電化は1913年、札幌は(最初馬力で)1918年電化。富山 1913年、豊橋 1925年で、廃止された岐阜が 1911年と、1910年代前期に集中していました。


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